帝都双月魔術陣の初回〆切の直前、「明示」のモデルである明治時代の建物を移築、復元して展示してある施設、愛知県犬山市の明治村に行ってきました。多少始点が偏るかとは思いますが、ガイドマップの番号順にリポートします。非公開施設は飛ばしてあります。タイトル後のカッコの中は建築(製造)年代で、リンクがあるところには画像があります。
今は明治村正門として使われている赤レンガに白い花崗岩を組み合わせ、扉は細い鉄の棒で組んである門です。
文明開花を代表する食べ物といえばこれ、牛鍋です。ここは食堂も兼ねていて、2階で実際に牛鍋を食べることができます。
師範学校としてたてられた後、小学校校舎として移築されたという建物の一部です。当時の教育関係資料の展示、教室の再現などがされています。
白いアーチの連続(アーケード)が綺麗な建物です。現在ここでは当時の衣装(もちろんレプリカでしょうが)を着ての撮影が出来るようになっています。
現在の迎賓館である赤坂離宮にあった哨舎です。白く塗られた外壁に銅ぶき屋根の小さな建物です。
1階部分がレンガ造、2階以上が木造という構造です。上部を軽くして地震対策としたらしいです。現在1階は子供の遊戯スペースになっており、2階の礼拝堂が再現されています。
学習院の敷地内にあった官舎です。公的なことに使用する洋室と、プライベートに使う和室を組み合わせた和洋折衷型の造りです。
西郷隆盛の弟、従道(つぐみち:本来「従」は旧字体)が接客用としてたてた洋館です。内部の調度が再現されています。
中島譲吉が建てたが空き家となっていたのを明治23年頃森鴎外が、36年から39年ぐらいまで夏目漱石が借家として利用していた建物で、こちらは純和風の作りです。「我が輩は猫である」が執筆されたのがこの家だということです。
皇居にある二重橋にあった電燈です。
鉄骨トラス構造を採用した工場です。内部には御料車なども展示されています。
洋風建築の庁舎です。内部は民族資料館として使われています。当時の薬売りの道具などもありました。
一階が雨天体操場、二階が講堂となっている建物です。実は現在の建築基準法だと木造の高さ限度を越えるため、補強がしてあるぐらい大きなものです。現在建物内では射的や輪投げといった遊びが体験できます。
H型であった建物の中央部分のみを移築。平屋ですが、階段教室のある部分のみが一回り大きくなっています。当時の学生の像も飾られています。
和風の建築技術を使って洋風建築を再現したという作りの建物だそうです。現在内部はギャラリーなどとして使われています。
島崎藤村の小説「ある女の生涯」に登場する蜂谷医院のモデルとなった医院だそうです。当時の診察室の様子などが見られます。
名古屋で油類の販売をしていた店舗兼住宅です。日本建築ですが、三階がある(過去には認められていなかった)ことや、石を使っていることなど、明治らしさも出ている住宅だということです。
余談になりますが、ここでは案内係の方に詳しく説明していただきました。3畳しかない上に、ハシゴで登るしかない女中部屋や、二階、三階にある茶室などいろいろ面白いものでした。
京都市内で酒造りをしていた建物です。現在は飲み物やオデンなども販売されています。
外見は土蔵造りに洋風の意匠を取り入れ、内部はほぼ洋風の建物です。現在内部は喫茶室として使われています。
東京と横浜で電話事業が23年にはじまってから徐々に全国に広まって明治31年に営業開始した札幌の建物です。内部には当時の電話から、現在のものまで展示してあります。当時の電話機での体験も出来るのですが、現在調整中でしたし、交換手と通話する人間の3人が必要です。
車体に蒸気動力と客車を備えて自走できる車両です。平底でなくて両頭のレールも展示されています。
実は木造ですが、レンガタイルを貼って仕上げたという構造だそうです。
日本で始めて京都で走った市電の、明治43年から44年製造の車両が明治村で走っています。
日本の細菌学の先駆者、北里柴三郎が建てた研究所の一部を移築したもの。現在は医学館として、主に細菌学に関する展示が行われています。顕微鏡に導く光を安定させるため、変化の多い南側ではなく、北側に部屋が面しています。
江戸時代からの豪商の別宅や下屋敷の多い場所にあった建物で、これもその流れを引いています。
明治の政治の実力者が一線を引いた後に建てた家でしたが、実際には政界実力者が頻繁に出入りしていたそうです
それまでの茶室の閉じた空間に比べ、開放的に作られた茶室だそうです。
日本で現存する最古の洋式燈台。横にこい霧の際に爆音で注意を促す霧砲も展示されていました。
明治初期、イギリス式で作られた燈台に付属する官舎で、当時は管理も外国人が担当していたため洋風で建てられてそうです。現在内部は燈台のレンズ等が展示されています。
3方をベランダとした矩形の構造。柱の意匠を直接太い物から削り出すなど、古い作りが見られる物だそうです。当時のモーニングや自転車の展示もあります。
部屋からベランダに出る開口部を多く設け、広く使うように意識した構造だということです。別館の一階には使用人の和室がありますが、どの部屋ともつながらず独立していているということです。
宗教大学の正面にあった車寄のみをあずまや風に移築したものです。
明治初期には体操が主であったのが、武道が奨励されるようになって建てられた武道場。柔道、剣道、弓道場が一体となっていて、木造ながら大スパンを持った建物です。
中庭を囲んで建てられていた建物群の一棟を移築したもの。病室の様子や当時の看護婦の制服、救急箱等の医療用具も展示されています。
名古屋にあった兵舎を移築したもの。当時の様子が再現されています。軍服の展示もされています
こちらも軍の施設ながら、兵舎よりも和風の作りになっています。ただ配置等は西洋の病院の典型的なものということです。内部には大正時代に作られた国産初のX線装置も展示されています。
シアトルで日系移民のための教会として住居を改造したものだそうです。大量生産の木材を組み合わせる2×4工法のはしりだということです。
ブラジル日系移民でコーヒー栽培農家の住居です。現地の材料を使い、気候もブラジルを想定した物ですが内部の工法には日本式のものが使われているそうです。当時の道具や移民船の模型が展示されています。
ハワイに作られた日系移民の為の教会が改築され集会所になり、その後は倉庫としても使われていたそうです。内部には移民関係の資料が展示されています。
日本で初の複線用鉄橋です。開業当時の橋は木製だったのですが、これは鋼材を輸入していては間に合わないという理由からだったそうで、この橋も輸入品だそうです。
明治20年代に全国で展開した私有鉄道の一つ、尾西鉄道の第一号機関車で、輸入品です。
開業当時の機関車修復所で、当時の鉄骨は全て輸入品でした。その後拡張工事がされたのですが、その部分の鉄骨には「明治15年東京鉄道局鋳造」の文字が見られ、国産化もされていたようです。現在内部は様々な器械が展示されています。
イギリス製の12号と、アメリカ製の9号が実際に運行されています。端部では転輪台での方向転換も見ることができます。
工業化を図るため外国人技師を招いて指導にあたっていた施設の一部として、ガラス器などの日用品を製作していました。現在内部はガラス細工品などの販売所になっています。
近代的郵便局として造られ、模範的な存在として知られていたそうです。内部には郵政事業関係の展示があるほか、実際に郵便局としても機能していて投函された郵便物には記念スタンプを押して届けられます。
東京にあった理髪店ですが、二階には石川啄木と母親、妻子が暮らしていたそうです。基本は江戸から続く町屋の形式ですが、店構え等はハイカラな物になっています。
小泉八雲が避暑に使っていた魚屋の建物を移築したもの。現在は駄菓子などの販売をしています。
「くれはざ」と読む、芝居小屋です。回り舞台などもあります。当時は芝居だけでなく、落語や浪曲、漫才なども演じられ、さらに政治演説などにも使われたそうで、当時のマスコミの役割であったということです。
日本では蒸風呂の「風呂」と湯に身体を沈める「湯屋」の区別があったが、これは湯屋。密閉の必要がある「風呂」は次第に廃れたということです。ここの男湯には二階があり、休憩や飲食も出来るようになっていました。
フランシスコ・ザビエルを記念して建てられた教会で、設計をフランスで行ない、組み立てを日本人が行なったもの正面の薔薇窓(写真は外してあるオリジナル)が特徴的です。
明治5年に公布された「監獄則並図式」に基づき建設された各地の監獄で、40年に建てられた金沢監獄の唯一の門がこれです。監視塔等の入り口も内側にしかないという造りになっています。
日露戦争前のたった3ヵ月で急遽建てられた、鋳鉄の組立式の高さ7m程度の燈台。光源にはアセチレンランプを使用していました。
山形県に、それまでの木製橋に替えて建設された石造アーチ橋です。二つ並んだアーチが水面に映り、眼鏡にみえるというものです。
隅田川の「五大橋」の最後の一つとして建設された鉄橋。この時点でもまだ鋼材は大量生産が出来なかったのか、輸入品になっていました。関東大震災では五大橋のうちで唯一生き残り、避難路となったということです。現在移築されているのは日本橋側の25メートルです。
キリスト教が解禁となっても今だに影響を受けていて、外見は普通の農家のようになっている建物です。内部は「交差リブヴォールト」という形式の天井など、ゴシック様式の建築によく見られるものになっています
大正10年に起工し、昭和2年に竣工したルネッサンス様式を基本とした建物。明治村に移築されたのは正面左側の角部分の外壁です。
皇居の眼鏡橋の手摺部分の左右に6基ある電燈。最初はガス灯にする予定だったのがドイツ人技術者オーベンの進言で電燈に変更されたそうです。明治村に移設されたのは、電燈を新たに鋳造したものと交換した時に払い下げられたもの。
明治6年太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館が明治23年の内閣制度制定と共に改称されたもの。収められたのは旧徳川幕府の蔵書を中心に明治政府による古文書、洋書を加えたというものである。
東京駅前に建てられた派出所で、鉄筋コンクリート造に化粧レンガを貼る当時最新の工法が用いられた。東京駅本体と合うようにデザインされている。
監獄令に基づいて建設されたが、房周りは江戸時代以来の形式となっている。食事やトイレも同じ房内になるが、風通しは非常によい。
中央に置かれた監視所から放射状に監房を配置することで一ヵ所から見渡せるようにした構造の、中央部分と一棟だけを移築したもの。現在ここに置かれている監視所は金沢監獄ではなく網走のものになっている。
三権分立で行政から独立することになった裁判所で、京都に建てられた木造建築物。和洋折衷型であるが、かなり和式の影響が強い。裁判官達の人形で裁判の様子が再現されている。
和風瓦葺きの蔵で、約16m×33mという大きさ。幅3.6mの庇が片側全面についている。現在は蔵の内部を酒造関係の展示に使っている。
明治時代には写真技術は誰にでも扱えるものではなく、花形職業であった。当時大変だったのは人工照明がままならない状況での光源をどうするかで、この建物のように屋根の片面をガラス張りにして布で調整するということも行われたいた。
電気事業は始めのうちは必要となる場所の近くに発電所を作っていたのだが、高圧電流を扱うことでロスが減らせるようになると大発電所からの高圧電流を減圧する変電所に置き換わっていった。この建物では巨大なトランスを入れるための内部の空間を明治村創始者の記念館としている。
フランク・ロイド・ライトの設計による旧帝国ホテルの中央玄関部分を移築したもの。痛みの激しい一部は新素材に置き換えられている。内部にはポーツマス条約が調印されたテーブルも置かれている。