この小高い丘に水を送り、水田にしようと大正3年、竹陽(ちくよう)耕地整理事業を県知事に申請して昭和3年から始まり昭和4年6月に竹陽用水が完成した。矢作川の水が、枝下用水に入り竹字神田(シンテン)を水源地として竹下部落の50馬力の揚水機で狸山に送られ、少ない水を有効利用する策として三和に20馬力の揚水機を新設して落ち水を円形分水桝まで揚水し、四角の穴から田園の面積に応じた水量を配分するように工夫されている。上から見ると二重の桝となっており、まず内側の桝にポンプ揚水された水が噴出し、内側の桝の壁に設けられた穴を通して外側に桝に流れる。外側の桝にも四角穴が開けられていて平面分水路に流れるようになっていた。昭和50年代に入ると揚水機は、廃止され枝下用水の水が導入された。平面分水施設は今現在も使用されている。
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