作成日 25/5/2021
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向島山(コウトウザン) 浄照寺(1296年建立) |
(1)由緒 (豊田市教育委員会発行「豊田市の寺社建築 Ⅱ」、豊田市史22より)
昔、村を管理した若林小左衛門の住まいは、この浄照寺の地であった。開祖は存澄で、1296年(永仁4年)ここに天台宗のお寺を構えたことから始まる。その後、1504年(永正元年)正宗の時、浄土真宗(親鸞を祖とする宗派)に改宗したとされている。1470年頃、本願寺8世の蓮如上人が三河各地を布教したことにより各寺院が改宗をしている。
江戸時代に無住の時代があったが、渡邊家家臣の渡邊宗哲(浄照寺第7世)が入寺し再興に努め、さらには第16世の渡邊徹鑒が本堂の再建に努め、明治18年本堂(右上写真)を起工し明治31年に落慶した。
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また平成23年には、本堂の耐震性も高める改修が完了し、隣には創建後約420年になる北ノ御所を2年半をかけて移築した(第20世渡邊真)。法要の日には、祝舞や稚児行列も執り行われた。
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(2)建築物の特徴 (豊田市教育委員会発行「豊田市の寺社建築 Ⅱ」より)
本堂の内部は、金箔を少なくし地味ではあるが欅の良さを引き立たせた造りが特徴である。また欄間には迫力ある渡り竜が飾られている。内陣には、本願寺顕如(第11世)から下付されたとされる阿弥陀如来立像が安置されている。庫裡は、1860年(万延元年)に建立された切妻造棧瓦葺でありやや反りを持つ破風を飾り、土間部分の豪放な野梁組と草庵風の奥の間が建築的に価値がある。
昔の山門は本堂の正面に面していたが、1926年(大正15年)の竜巻で倒壊し、2013年(平成25年)新たに本堂の正面に再建し教如上人四百回忌 山門・手水舎落慶法要が執り行われた。 |
真宗大谷派(12世教如)のお寺であり大晦日の夜は除夜の鐘をつく人の列が長く出来る。昔の鐘は戦争中供出したため、今の釣り鐘は昭和21年12月からのもの。
(3)親鸞聖人ご命日:毎月28日
(4)第20世住職継承奉告法要(02/11/6)
住職就任記念コンサート(11/5)も催された。
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(5)国の有形文化財に登録(9/2005)
浄照寺の本堂・庫裡・書院が国の「登録有形文化財建築物」として登録された。同制度は、建築後50年を経過した建造物を対象に、①国土の歴史的景観に寄与しているもの②造形の規範になっているもの③再現することが容易でないものの3点が基準となっており、②に該当し「伝統的な形式を踏襲しつつ、細部や彫り物に近代の影響がうかがえる」というのが登録の理由である。
(6)北ノ御所(5/7/2011)
教如が秀吉により退隠させられてから東本願寺を創設するまで住んだとされる桃山時代の数寄屋風書院である。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康と反豊臣の教如は何度か会談しており、その中で本願寺の東西分派を決めた歴史的な会談場所が、この北ノ御所であった可能性は高いと言う。建築的には、優美な反りを持つ入り母屋銅板ぶきで、四方を廊下が巡り八畳六間からなる。会見の間とされる主室の一の間(写真)には二重棚付き違い棚に筆返しが付いており、金箔の襖絵は質素な中にも華やかさを感じさせてくれる。その襖絵奥の部屋には茶室がある。創建後約420年の間に3度の移築と修理で原形が変わって来てはいるが、「質素で上品な雰囲気」は、桃山時代の文化財として価値がある。
(7)市指定名木 (「豊田の名木」より)
昔は「お寺の大松」と呼ばれた大木が4本あったが、虫害と宅地化により今1本だけが残っている。推定樹齢は230年以上で、幹周約4m・樹高は約30mと大きく真っ直ぐにそびえ立ち傘状に枝を張っている。 |
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