この地区は、明治40年頃までは松林が生い茂り、人が住んで農業するには非常に不便な地形だったそうです。明治40年頃から入植者の人たちによる開拓農家ができ、農業をするには水が必要であったことから、大正3年に竹陽用水(俗称:狸山用水)の工事を、愛知県知事に申請して15年かけて(昭和4年に)完成しました。この工事は、大変な苦労を伴うものでしたが、今ではみごとな水田が広がっております。
この長年の願いが叶ったのを記念して、「恵澤永傳(けいたくえいでん)(めぐみを永く伝える意味)」の碑が、建てられました。この碑には、当時の地形の様子やどのように努力してこの地に水を引き開墾したかが書かれています。
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