更新日 25/5/2021
1. ルーツ
天喜2年(1054年)の開発で村名が若林となり、18戸の産土(うぶすな)神として八幡宮を勧請し奉り、社殿が逢妻川の付近に建てて祀られた。最初の村は、若林小左衛門(わかばやしこざえもん)が管理しておりその*名前が由来とも言われる(**昔は一面丘で青々とした若い松林であったことからとも言われ詳細は不明である)。その後花園村、高岡村とかわり今日に至る。
「交流館資料」 「神社由緒沿革」等より
*名前:平安時代になると国司は有力農民に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、その田地は農民の名をつけて名田(みょうでん)といいその有力農民を田堵(たと)といった。荘園では田堵(たと)と呼ばれた有力農民達に名田を割り当てて名主(みょうしゅ)と呼んだ。
**「愛知県碧海郡高岡村沿革史」35頁、「高岡村誌」11頁参照
2. 朝市(昭和51年頃から始まったと言われる)
5、0の付く日(ゴトウの市)に境内でにぎやかに行われます。中世の市というのは神仏が来臨する場であり、交易の安全性を保障するという観念が広く浸透していた。もともと寺社は、あの世とこの世の境界であり、人間と神仏が最も接触しやすい時間帯(昼は人間が活動し夜は神仏の活動する時間)を選び開かれた。
また物を交換するという行為は、(職人が物をつくるのは魂を分与するという意味があり)物に込められた魂を交換するというふうにも考えられていた。 |
3.盆踊り大会
高岡音頭などを踊って毎年盛大に行われる行事です。踊りの輪が幾重にも出来、その回りには夕涼みの方の輪もいっぱいありました。これは同志会(2022年解散)の方々はじめ地元関係者のみなさんのご協力によるものです。
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4.例大祭
平成22年までは大きな幟のポールを早朝から区会議員らの手によって3方向のバランスを取りながら立てることから始まったが、平成23年に木製からアルミ製のポールに変わりその苦労話も昔話となった。
御神木から始まる大祭神事が、関係者により執り行われ、はやし保存会のみなさんによるチャラボコや地元の子らによる巫女舞・子供神輿が奉納される(歌舞伎芝居、浄瑠璃、三河万歳、御万燈なども昔は奉納されていたという)。
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木製の幟ポール時代 |
アルミ製ポール完成祈願 |
わが国では、夏祭り(疫病退散祈願)と秋祭り(五穀豊穣祈願)があり、主食が米ゆえ豊穣を祈り収穫を感謝することが社会生活の基本であった。 また、神輿や山車をかつぐことは、初心に帰ろうという行為であり自己の神性を取り戻し神の恵みを仰いで、神々のご加護により生きる喜びを感じる意味もある。
今も中根町で続いている猩猩(ショウジョウ)が、戦後若林でも復活したことがあった。猩猩(写真右上の赤い物)は中国の伝説の獣で形は人に似て人語を解し酒好きという。人の1.5倍くらいの大きさで、さすられると魔除けになり親孝行の子をほめ頭をなでると無尽蔵に知恵の泉を与えたという。
昔は、お餅を奉納した時代もあったという。現在、境内の2箇所で行われる餅投げは、大人も子供も大変楽しみにしているイベントです。
「祭」の語源としては「たてまつる」とか「(降臨するのを)待つ(り)」などがあり、「ワッショイ」の語源もいろいろな説があるが、 ワッショイとは、 「和を背負う(しょう):(皆で)和をもって平和を担ぐ」とか「和一処:皆がひとつになって力を合わせる、ひとつの目的を達成すること」というのが納得しやすい。
境内には写真のよう大勢の人が待ちわびたかのように伝統の餅投げに集まります。13俵近くの投げ餅(約3万個)が作られております。
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