ヒンズー教       


 ヒンズー教とはインドの宗教という意味でヒンズー教という宗教は存在しないともいわれます。。ヒンズーという名称はペルシャ語の「インダス川流域で対岸に住む人々」という意味で、大英帝国がインド土着宗教全体を呼んだ名称だそうです。それはともかくインドの宗教という意味で、広くは仏教もジャイナ教も含まれるようですが、普通にはバラモン教の延長にあるもの(バラモン教との違いは民衆の怨嗟の的、バラモンの権力権威であり、腐敗の象徴、礼拝の儀式制度の価値を否定したことでしょう。)を指していうようです。しかし、ヒンズー教はアーリア民族とインダス文明の担い手だった先住民族との混血だといっていいでしょう。ヒンズー教は仏教が繁栄の頂点に立ち、腐敗もが顕著になり始めた四世紀頃に成立したといわれます。バラモン階級が仏教に対抗するために様々な土着宗教を取り込んでいった、インドの様々な宗教の総体(ついには仏教さえ、その思想ごと取り込んでしまった)といっていいかもしれません。その理論化がヴェーダンタ哲学であり、その中心的思想である不二一元論です。それが、19世紀に出現したラーマクリシュナヴィヴェーカーナンダの唱えた万教同根(いわば一元多神論です)へつながっていきます。共通の精神ははバラモンの聖典であるヴェーダの信奉でしょう。インド思想共通の特徴はウパニシャット(奥義書、ヴェーダンタ=ヴェーダの末尾ともいう)哲学の宇宙の根本原理・宇宙精神(ヒンズー教ではブラフマン、唯物論では地水火風という物質的実在原理、仏教では仏性あるいは法、ジャイナ教では全知性などという違いがある)と個の精神(アートマン)との関係をどう考えるかですが、ヒンズー教においてはブラフマンに創造神としての地位を与えているのが特徴でしょう。つまり、世界とはブラフマンの自作自演であるということでしょう。エホバのように自分で作ったものをいびるような悪趣味で無いところがいいところでしょう。自分の分身ともいえるアートマンをいびる自虐的悪趣味はありますが、その悪趣味もブラフマンの遊びととらえているようです。
 仏教やジャイナ教に対抗してバラモンたちが立ち上げ、ヒンズー教を作り上げた思想が六派哲学ヴェーダーンタ学派、ミーマーンサー学派サーンキャ学派ヨーガ学派ニャーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派)といわれるもので、正統バラモン教と認められているということです。以下、それらを紹介します。

  ヴェーダンタ学派

 シャンカラ
 八世紀頃最初のヒンズー寺院を建てたといわれるシャンカラは仏教と同じように現実世界、差別相の世界は虚妄に過ぎないとします。しかし、虚妄の世界を作り出すのは「認識作用」ではなく「無明」だと考えます。自我(アートマン)は、仏教においては点滅連続する認識に過ぎないのですが、シャンカラはバラモンの伝統に従って、ブラフマンと同一としました。そして精神原理としてのブラフマンとアートマンのみが実在であると考えました。物質世界の実在性は否定しました、これが不二一元論といわれるものです。
 シャンカラは「無明」という原理について説明していなかったということですが、当然唯一の実在ですからブラフマン・アートマンに付属する原理でしょう。しかし「一切の差別相を超越し知(精神)のみである」 と形容される絶対者に、妄想を押しつける「無始の無明」を付加します。また「差別相」は「未開展の名称・形態」という霊的質料因のようなものから開展したものということですが、それも絶対者の属性ということになります。仏教における唯一の実在を認識者「心」とすると、それを置き換えて「神的絶対者」にした発想です。「知(精神)」とは「知的精神的霊力」という意味でしょうか。おそらく「無明」も「未開展の未詳・形態」も、展開する差別相を産み出す「未展開の名称・形態」も霊的な知的精神的霊的存在であるということでしょう。その世界に、「無明」という原理からアートマンを生むということかもしれません。 つまり「無明」はアートマンを生み出す霊的原理です。だから生まれたばかりのアートマンは無明・無知なのです。無知でなければ世界に登場する意味がありません。「無明」には感情や欲望など情念の原理という意味あいもなければならないと思います。「知」は真理を求める霊力であり、その真理とは「真の実在はアートマンすなわちブラフマンである」ということなのでしょう。差別相の実在性を否定するところは仏教的無の精神に通じるもので、「無明」は潜在的印象と認識の自証作用をつなげるもの、自我の誕生、因縁・縁起の発生する理由の説明になっています。シャンカラが「無明」について説明しなかったのはそのためかもしれません。シャンカラの思想は仏教思想をブラフマン・アートマン思想に翻案したようなものです。仮面の仏教徒といわれるゆえんです。

  ミーマンサー学派

 この派は宗教的義務について聖典ヴェーダの解釈を目的とします。特に祭祀の解釈が中心だというのです。紀元前八百年頃に成立したブラーフマナ(祭儀書)の精神(神々への恭順な祭祀者ではなく、神々を駆使する呪術者)を受け継ぎ、梵我一序を唱う思想を批判しています。その主張を特徴づける議論は次のようなものです。「ベーダ経典を学習せよという命令は、ヴェーダの意味を理解するのが目的であるのか」「そうではない、ヴェーダを学習することの結果として意味の理解が生じるのである。なぜなら目的が無くても、ベーダを学習していさえすれば自然に意味の理解が生じるのであるから。同じように、すなわち神を知ることや解脱すること、天国へ行くことが祭祀の目的ではなく。祭祀をすることの功徳として天国があるのだということです。ベーダの存在する理由も人々を天国へ導くためではないということになります。「ヴェーダは人格的主体(主宰神)が作ったものではなく、人が作ったものでもない」ただ「人間から生じた」のみです。彼らにとって神は祭祀の操り人形です。主宰神も人間も認めないとはどうにも理解困難な考え方ですが、ヴェーダも祭祀から生まれたとでもいいたいのでしょうか。その精神は原始的呪術師的だといえます。そしてヴェーダには「祭祀をし、ベーダの学習する資格のある人が(明確には書かれていないが)定められている」としています。それがバラモンという祭祀階級であるということです。自己正当化のようでもありますが「解脱とは、常住の、無常の安楽の顕現である」といっているように、呪術師の自己陶酔、悦楽という感もします。

  サーンキャ哲学

 現代、先進諸国に大きな広がりを見せているヨーガの行法はヒンズー教そのもののように思われていますが、アーリア人より前にいた原住民の宗教的行為だったと考えられているようです。紀元前三千年から千五百年間くらい、アーリア民族に侵略されるまで栄えたインダス文明です。ヨーガの行法がバラモン教で行われるようになったのは仏教成立以前だと考えられているようです。その修行体験から、仏教成立の少し後らしいのですが、発生したのが世界でも珍しいといわれる二元論的多元論サーンキャ哲学なのです。この哲学を愛好し研究したのが「サーンキャ学派」でしょう。この学派は正統バラモン教に入れられていますが、思想自体は独特で非ヒンズー的、非バラモン的、無神論的二元論で異端だと思います。本来非バラモン的であるこの思想がバラモンを支配するようになったことの意味は非常に大きいと思います。おそらくヒンズー教の中心的修行方法になったというだけではなく、その哲学も多くの学派があったといいますから、バラモンの間で結構ファンが多かったのでしょう。この哲学を改変して主宰神の存在を認めるようにしたのがヨーガ学派(有神論的サーンキャ学派、サーンキャ・ヨーガ、古典ヨーガ)です。

 「諸感官よりも意が上にある。意よりも覚は上にある。覚より大自我は上にある。大自我よりも非顕現は上にある。非顕現よりも真我は上にある。真我よりも上には何ものもない。彼は極限である。至上の境地である」(カタ・ウパニシャット三・10ー十一佐保田鶴治著の「ヨーガ根本経典」より、)
 佐保田鶴治著の「ヨーガ根本経典」によると、サーンキャ哲学では「世界の究極的原理は真我(プルシャ、神我、精神的原理)と自性(プラクリティ、非精神的原理)である」といいます。しかし「この両者は永遠に相容れず、融合し合うことのない独立の原理である」といいます。これが二元論です。「自性は世界で唯一の根源的実在であるが、真我は生き物の数だけある」といいます。これが多元論です。この二つの原理があるとき遭遇して、自性が世界を展開するのだといいますからじつに不思議な思想です真我と自性の遭遇で何が起こるかといえば、自性が真我というエリートに、自分自身、自己の本性を悟らせようという、お節介な決意をし様々なドラマを展開するするわけです。

 「インド哲学大系」の「サーンキャ哲学」においては、真我は個我(霊魂)と訳され、自性は根本原質とされます。おそらくプルシャとの語源的意味は霊魂でしょう。プラクリティの語源は「作るもの」という意味ということです。プルシャは純粋精神という訳されることもあるようです。
 根本原質は物質ではない、それ自身の意思のようなものを持つ独立した存在であるというところが、同じ二元論でもジャイナ教と違う、霊魂二元論とでもいうべき、おそらくほかのどの宗教にもないこの思想の特異性です。根本原質は自分自身が材料因となって宇宙を作るといいます。「結果は原因の中にはじめから存在する」のです。これは「因中有果論」というおもしろい思想です。「有から有が生起する」という理論です。「自性」という訳はここから来ているのでしょう。この理論からサーンキャ哲学は「無から有が生じることはない」と、仏教の無を否定します。仏教の無に対する無理解があるようです。サーンキャ哲学には「認識」ということに対する感覚の欠如があるようです。またブラフマンを否定する理由も「因中有果論」にあるのです。また「有から無が生じる」ということ、すなわち有るもの(苦楽)が無くなるという考え方も否定するようです。「何ものも無くならない、ただ離れるだけである」というのでしょう。仏教と対極の「無」の完全否定です。
 プラクリティは楽を本質とする純質(照らすものであること)苦を本質とする質(色づけられたものであること)癡=痴(ぼんやり、無関心)を本質とする翳質(エイシツ、覆い隠すものであること)という三つのグナ(構成要素)によって成り立っているといいます。グナはプルシャに対してさまざまな現れ方をするもののようです。その現れ方は、たとえば美しい女性を見て楽しいのは純質が現れるからです。その女性が美しいからではないようです。なぜなら、どんなに美しい女性でも嫉妬に駆られた同性には苦しみですし、好みではない男性には無関心ということになるからです。「覚り」とか「忍耐」という心も材料の展開なのです。そしてプルシャは、それ自身は何者にも侵されることのない独立した存在なのですが、プラクリティの展開するドラマに幻惑されているだけだというわけでしょう。
 プラクリティは自我意識などを形成する、きわめて心理的な(あるいは単に心といってもいいでしょう)エネルギー体だといえますが、生命体や物質をも形成するエネルギー体でもあるわけです。プラクリティ・根本原質とは、言ってみれば現代の科学的唯物論で言う、心の世界も物質的エネルギーによって作られるというのと同じようなものということもできます。ただし、物質を心的なエネルギーの産物と見なし、心(心理的存在)と精神(霊魂)を別のものと見るところが対比的です。さしずめこの宇宙の生命も、その心も物質も、すべて非精神的エネルギー体とでも言うべき根本原質が作り出したものだということでしょう。そして見るものである霊魂は、いつかはこのプラクリティの劇場から抜け出す観客である、純粋で穢れることのない精神であるということになります。ある意味でヨーガの行法とは劇場を去るための作法なのでしょう。まことにサーンキャ哲学とは純粋唯物論と、純粋精神論の合体だということもできるでしょう。

 サーンキャ哲学は自性・プラクリティと純粋精神・プルシャの結合理由を相互依存として説明しています。見せるものと見るものの関係でしょうか。観客である真我は初めのうちは劇中の人物に同一化しているが、やがて真の自己へと目覚めていくものなのです。しかし、真我が自己発見のために自性の見せる世界を必要としているのではなく、自性のほうのお節介なのです。
 おかしなことですが、二つの原理が相互に引き合うものだとするなら意味があるですが、それもないようです。あるいはすべての変化の原因であるプラクリティー、その融合的多様性、変化性と純粋精神の非融合的不変性は、離れればひきつけあい、結合すれば反発するものなのだとすればロマンチックですがそれもありません。解脱して自分が何であるかという認識も失われると、また物質的心理的現象にひきつけられる、などということもありません。両者が遭遇したとき初めて自性は真我というお坊ちゃんに、彼が清浄で絶対的な存在であることを自覚してもらおうという気を起こすのです。彼が自覚したら離れていくのです。まったく奇妙きてれつです。

 この思想はヨーガ行の体験をそのまま写し取ったものでしょう。仏教思想の強い影響を受けているといわれます。さもありなんという感じです。またこれを宇宙論としてみると分かりにくいかもしれませんが、自分の心の中のことと見ると理解しやすいかもしれません。純粋無垢な「私」とさまざまに乱れる「心」、そして大脳というスクリーンに映る「世界像」がそれです。禅的にいえば真空妙法の自己(真我)と無常点滅転倒夢想の自己(自性)です。インド人の思想とは実に心の働きをそのまま宇宙に広げたもののようです。思想というものはすべて心のありようを映したものかもしれませんが、ただインド人には心のありようがそのまま現実世界と考える傾向が強いようです。そのために心や自我は物質的なものと同一視されまがちです。その対極として、て自分の本質に絶対的に純粋清浄、超越的な非物質的精神的存在を見ているというところが特徴のようです。キリスト教徒などエホバの民にとって自分自身とは、りんごをかじる前のアダムとイブ、神の産み出した純真無垢な赤ん坊のような存在かもしれません。中国人や日本人など自然神的民族はといえば、おそらく天気や四季のように変化するもの、空気のような風のような雲のような、本質のないものなのでしょう。
 サーンキャ哲学の思想は、真の自我を絶対的な純粋清浄なものと見る傾向を強調して、独立した別の存在として扱ったという点で、インド人の心のあり方を象徴するもののように思います。

  ヨーガ学派(有神論的サーンキャ学派

 サーンキャ哲学のバラモン化翻案といえる思想です。プルシャの中でプラクリティに影響されない分があるとして、それをブラフマンとしているようです。またプラクリティの完全独立も失われているようです。アートマン(個我)はプラクリティに影響される前は純粋無垢ですが無知だったので、プラクリティに様々な経験を与えられ、やがてブラフマンこそ自己の真実の姿と知り、ブラフマン(最高我)と精神統一することが解脱ということなのでしょう。しかし、ブラフマンを世界創造の原理として見ていないのですから、やはり異質なものというべきでしょう。正統バラモン教として認められたのはヴェーダ聖典の権威を受け入れ、またバラモン階級の階級的優位を容認した、つまりカースト制度を認めたからだということです。
 この学派の中心的経典は「ヨーガ・スートラ」です。その業法の体系は、禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧でなります。心理学的な思想も豊富で仏教によく似ているといわれゆえんです。この経典を元にしてその後のヨーガ思想はヒンズー教発展の礎となり、現代では、、ヒンズー教といえばヨーガと同意語のように思われるようになったのです。
  おもしろいのはこの派の祖とされるヨーガ・スートラ初期の編著者、紀元前二世紀頃のパタンジャリという文法学者は「語はブラフマンに等しい」(語はプラクリティのブラフマン表現?)と考え、ヴェーダを文法的に「四本の角とは、四種類の単語、つまり名詞、動詞、接頭語、不変化詞を表す」というふうに解説したようです。ここから聖句を女性と男性と中性に分けるようになり、シヴァ派のタントリズムへ向かう道筋ができたのでしょう。彼の流れを汲む文法学派は「語は世界原因である」「一切の語の意味は、真理、ブラフマンである」「文法学は解脱の手段である」といいます。「始めに言葉ありき」という聖書の言葉と似ています。

  ニャーヤ(論理)学派、ヴァイシェーシカ派

 この両派はシヴァ神を信奉しますが二大宗教化した後の密教的シヴァ信仰とは違い精神主義的です。
 
ヴァイシェーシカ派は勤勉で、聖典を学び、現象世界を研究します。「苦の消滅のため」最高神の直感を目指して現象世界の成り立ちを実体、性質、運動、普遍、特殊、内属というカテゴリーを使って思索しています。そして「無」は何ら他との関係を必要としない絶対的存在と結論し、「無は人生最高の目的なり」として、禅定を修習することによって苦を消滅させるということです。「無を体験すれば最高神(シヴァ)を識別しなくて苦の消滅は起こる」とします。あまりヴェーダを尊重しているような様子はありません。明らかに仏教に通じる精神です。

 ニャーヤ(論理)学派
は誤った認識が苦の原因ということで、ヴァイシェーシカ派によく似ているといわれるがもっと論理的で、開祖は「揚げ足取り」あだ名されたくらい口がうまくて、論理学を発展させたということです。言葉尻をとらえた反論が多いのでしょう。
 「解脱」に関して注目すべき考え方をしています。
「解脱とは苦しみの断絶である」ということをまず承認します。しかし「常住無常の安楽」は否定します。また、アートマン、すなわち個我が苦しみの原因であるという考え方は否定します。「アートマンを愛するが故に一切が愛しいものとなる」といい、「仏教説のアートマンは各瞬間ごとに別々のものであるから、それは跳躍を繰り返すと、次第に優れた力を得るようには優れた力を実現しないのであって」(経験の積み重ねによる自力でということでしょう)解脱の力を得ることはないといいます。仏教思想の弱点を突いていると思います。
 最高主宰神の論証において「山や海などは創造者がいるから存在する。なぜならそれは何かの創造結果であるから」だから世界の創造者、主宰神は存在するといいます。現代ではもちろんこの論証は論外ですが、この時代でも永遠の変化相だという考え方もあるので、確定できるものではないのです。
 この派はヴェーダを重要視するようで、その論拠は「ヴェーダの作者たちは信頼できるからだ」といいます。それが正しい認識だということでしょうが、論理は自説正当化をし、異論提出したり、相手の矛盾弱点を突くものであっても、真理を証明っするものではありません。ヴェーダの成立に関して「聖典は主宰神に基づいているわけではない」という、祭祀主義者と同様ような考え方をしています。つまりアートマンとは理性であり、認識方法が第一であり、その過程を楽しみ、結果として主宰神があり、解脱があるというのでしょう。その正しい認識方法とは「直接知覚(五感による経験)と推理と類比と信頼すべき人の言葉(ヴェーダということ)」です。思索への嗜好、情熱に生き甲斐を感じる現実的理知主義者なのです。理性的能力に長けていますが、霊的能力や感性的能力は弱いようです。