仏教の思想  中観派  ヨーガーチャーラ(瑜伽行派、唯識)派 サウトラーンティカ派(経量部) ヴァイヴァーシカ(異なって説く人々)派 仏教思想の総括  
   『永遠』と『自己』の関係において、唯物論はある意味で単純ですが、観念論者の思想は心の多様性に合わせて実に多種多様です。それぞれの考え方、心のありようを見ていきたいと思います。特に仏教は唯物論と正反対の唯心論として際だった特徴を持っています。
 仏教思想の中心は「空ですが、大衆化した頃には、重点とする視点の違いによって四つの派がありました。視点の違いは機根(仏法的素質、能力とでもいうべきもの)の違いから来るものです。①中観派「一切が空であること、一切のものは刹那生滅のものである」という視点に立ちます。②ヨーガ行派(唯識)は「外界の諸対象が空であること、一切のものは苦しみである」という視点に立ちます。サウトラーンティカ派(経量部)は「外界の諸対象は推知されうるものであること、一切のものは個別的存在である」という視点に立ちます。④ヴァイバーシカ派は「外界の諸対象は現に知覚されるものであるとこと、一切のものは空である」という視点に立ちます。 つまり人生の快楽よりも苦しみに目を向けているのです。これが仏教的魂のありようだといっていいでしょう。
 このように「空」と現実とのかかわりついてはさまざまな考え方があります。
 仏教は『非刹那生滅常住なるもの(永遠絶対不滅なもの、例えば主宰神)』『刹那生滅するもの(現実世界)』という二元的な考え方を否定します。主宰神が一人一人のこと、一つ一つの物事、この現実にかかわるとしたら、刹那生滅することになり矛盾してしまうと批判します。また、二元論では「主宰神」が「現実世界」と関わることによって、世界は永遠性を持つことになり、(生物を成長させる能力にも永遠性を与えることになり)永遠の昔から成長に成長を続けて、無限に成長し続けるではないかとも論じています。あるいは現在に関わりながら過去や未来にも同時に関わることになりおかしいではないかともいいます。『主宰神』が個別にかかわるということは『刹那生滅』にとらわれることであり「永遠不滅」という本性と矛盾するから、ありえないということでしょう。言い方を変えれば、キリスト教の神のようにあっちこっちの人を同時に見張るような芸当はできないといっているわけでしょう。いや、キリスト教の神は選んだ人しか見ないのだったかもいしれませんが、そういうあっちを選びこっちをのけ者にするなどということは『非刹那生滅常住』という本性に違反することだというわけです。また、もし二元論者のいうように、存在には存在の自然の本性があって、それが『主宰神』と協力するとしたら、すべての原因である『主宰神』のほかに原因があるとい矛盾を犯すことになる。だから『主宰神、非刹那生滅常住』は過去現在未来を生成する刹那生滅である今ここの現実にかかわることはない、つまり主宰神などいないといいたいのでしょう。
 仏教者の論理の正当性はともかく、『神』を無限無偏在万有万能と見ては二元論は成り立たないでしょう。『無限無偏在万有万能』と『有限世界』を互いの外側、他者と見ているということで、それは『神』の絶対性と矛盾すると思います。絶対をいうなら有限は無限に、刹那生滅は非刹那生滅常住に内包されると考えるべきでしょう。仏教は唯心論ですから「刹那生滅」と「非刹那生滅常住」という二元論を否定する意図で論じているのですが、『絶対なるもの』が『世界』を創造し、人間を創造し、その個々を見張り、懲罰や褒賞を与えるという考えは馬鹿馬鹿しいということはいえます。この点は、これから新しい時代の思想、生命的世界観へ向かうものにとって、重要なことだと思います。  
 仏教の心は、つまり神による現世利益の否定なのです。供物をささげ、祈りをささげれば神が報いをくれるというような考え方を否定しているのでしょう。これもひとつの、腐敗したバラモンに対するアンチテーゼです。仏教者にとって『永遠』は『心』であり、その本質は「空」であり、『心の中の心・個々の魂・自我』がなしうることは『刹那生滅の心・世界』からの解脱しかないということです。
 
 
 
 中観派
 中観派とは仏教の中で中道を説くものという意味ようです。仏教者は唯物世界をそれとして存在する確かなものと見ることを否定します。中観派はその点を重視します。『空』とはイデアのような『実在・普遍』を否定することでしょう。「諸事物が統覚機能によって分別されるときには、諸事物の本体(自性)は決定的に知り得ない。それ故にそれらの事物は不可説であり、無自性であると説示された」P65と仏陀が説いたことと(偽説のようですが)いいます。外的世界は普遍的な法則を持つものではないということは、現実世界は世俗的立場、世俗的な心が作り出す幻のようなものと言いたいのでしょう。つまり認識とは魂に蓄積された印象(記憶という概念はインドにはなかったのだろうか?)、夢想や幻想の類であるというのでしょう。どうも彼らは時間的発生をも、心の性質による因縁・縁起で世界を理解しようとしていたように思われます。そして実在の認識などというものも存在しないのであり、世界は見るものの立場によって変わるという、量子論のようなことを言っているようです。そして外的世界を否定する四種の観行によって「一切の潜在的印象が生滅し、ニルヴァーナが成立する」と考えるということのようです。四種の観行とは①一切のものは刹那消滅のものである、②一切のものは苦しみである、③一切のものは個別的存在である、④一切のものは空である、という四つの観念の修習(自己催眠のようなことをするのでしょう)です。

  ヨーガーチャーラ(瑜伽行派、唯識)派
 唯識派は、中観派が認識作用(統覚機能とか潜在的印象など)について検討していないことを批判して、凡庸(梵語では中庸、中道と同じ語のようです)の徒と呼んだようです。中観派が「一切空」の行に専念するのに対して、ヨーガーチャーラ(詰問という意味にとられるようです。思考によって真理と結ぶということかもしれません)派の仏教者はヨーガ修行とともに、心の認識作用について深く考えるところに特徴があるようです。中観派では言及されていない外的世界の出所をはっきりさせようとしています。
 彼らの思想によると、アートマン・魂(本当は仏教思想において認識者、魂は否定されていますが、便宜的にこう表現しました)とは認識作用(統覚など知的機能も含まれるのでしょう)だというのです。奇妙なのは、魂は認識者ではあるが、認識主観と認識対象、知覚は別なものではないとしていることです。対象となる現実在があって魂がそれを認識するというのではなく、認識のみが存在して対象は存在しないといっているようです。「認識はすでに起こった過去をとらえることはできない。なぜならそれはすでに消滅しているから。認識は常に認識作用の今現在の瞬間である。過去でも未来でもない今の瞬間にどんな対象もない。だから認識作用自体に認識対象も存在しているに違いない」といったところでしょう。それを自証作用といいます。対象は永遠無始の潜在的印象(現実の形や色を把握する元になるもの、原風景ということでしょう)の力によって擬似的に対象として出現するに過ぎないということです。中観派では心の性質が作り出すものに過ぎなかったかの感があった潜在的印象が永遠無始の根を持つことになっています。認識と認識対象が分かれて見えるが、それは潜在的印象の多様性によるもだといいます。それも潜在的印象の能力によるもので、世間(現実生活)をする人の理解に即して現れているというのです。それがなぜかは、それはそういうもの(心の本性)であるとしかいえない、絶対不可思議であるとしているわけです。潜在的印象と認識の自証作用という認識の構造、つまりそれが心の法則だということでしょう。おそらく自証作用の発生、つまり魂の発生も、説明されていませんが、そのように自動的に起こるということでしょう。そして解脱のために認識作用である魂を潜在的印象の力から断絶するヨーガ修行をすべきであるといいます。その解脱の意志も識別作用のうちにあるということでしょう。

 仏教は唯心論ですが、西洋思想にも唯心論といわれるものがあります。しかし、純粋な唯心論ではないようです。西洋哲学的には唯神論も唯心論と見なされているようですが、精神的絶対的実在の絶対支配を認めるブラフマン的唯神論、唯一神論と言っていいでしょう。むしろ精神論といってもいいと思います。その嚆矢はプロティノスだといわれます。彼によると世界はすべて「全一者」の心の働きであり、現象だということです。この思想がキリスト教神学につながっていったのは当然です。ヘーゲルの「世界精神」や「絶対理念」もこの延長に過ぎないといえます。
現代世界では、特に欧米流のサイコセラピーの現場において様々な精神世界の探求が行われているが、根本精神は唯一神的だといえるでしょう。仏教思想、なかでも唯識思想は世界で唯一の純粋な唯心論だといえるでしょう。

  サウトラーンティカ派(経量部)
 唯識の人々には現実は夢のように実体感の乏しいものに感じられるのでしょうが、この経量部の人々は現実感の強い人々だと思われます。唯識派はあらゆる認識は、「私」という実体のないものを認識するのと同じ無根拠のものだと考えるのですが、経量部の人々は事物の認識は「植物の芽が出るのは種があるからだが、土や水がなければならない。そのように外界の事物との関わりによるものである」とごく常識的に考えるのです。つまり物質と心の二元論と言っていいでしょう。対象の認識は推理によってもたらされると考えているようです。唯物論との違いはもちろん仏教ですから心的実在を肯定し、重要視するところです。彼らは認識を「外部の対象と感覚器官、認識力、感情、潜在的観念、煩悩」というような構造で見ているようです。
 彼らは唯物的なまでに合理的で、神はもちろん如来や菩薩などのような精神的原理の介入を認めないという小乗仏教と共通の意識、それを明確に表現しています。世界に如来が現れようと菩薩が現れようと世の中の因縁の法則は変わらない。この因縁の法則について研究されるべきことは限りないが、細かいことにとらわれず、この因縁の世界から解脱することが大切だというのでしょう。そのための方法は因縁の法則など真理を知ることにある。それを知るには経典の極意を学ぶことだというわけです。経典を重要視するところから経量部の名があるのでしょう。

  ヴァイヴァーシカ(異なって説く人々)派

 仏教の諸説を、釈迦はそれぞれの人の好みに応じて教えたと考えるヴァイヴァーシカ派は、経量部に近い考え方のようですが、対象の認識は直接知覚によると主張しています。経量部は推理の前提となる対象の把握、知覚機能を見落としていると批判しているわけです。もちろん唯物論者のように肉体的感覚のみを真実としていたわけではありません。推理・思考作用は分別知であり間違いが多いが、知覚は無分別知で直接的に対象の実体を把握できるから真実だとしています。知覚を人によって差異の無いものと考え、「空」という無分別と通じ合うから真実としたところに特徴があるでしょう。現代では知覚の人による違いが明らかになっていますが、彼らの時代には同じだと考えられていたでしょう。。彼らは五つの感覚器官および五つの行動器官(両手両足と真ん中の足!のことでしょう)意(意欲のことか)と統覚機能とで認識の構造と見ていたようです。そして「財富を大いに達成した後で、、、」これを十分に尊重するのがこの世にいるものの最高のつとめだというのです。どうも商売教団の思想のようです。
 
     仏教思想の総括

 思想は感情から生まれるものです。インドの仏教徒に共通な感情は「現実世界のものは一切、刹那に消滅する。それは悲しく苦しいことである。だから永遠不滅の世界に解脱したい」ということでしょう。理屈として「一切は刹那消滅して空になる。「常住永遠なるもの」は何の働きもしない「空」である。つまり一切の本質は空であり、空こそ世界の本質である」ということになるでしょうか。
 世界の始まりとか終わりという思想がないということも、創造神を否定していることの特徴でしょう。世に言う末世というのは末法の誤りで終末思想ではないのです。仏教は「私が無常である」ともいいます。これも必ずしも否定的な姿勢の言葉ではありません。そこに実は仏教の現実主義が逆説的に現れているのです。『永遠』が空であり、『自己』が無常なら、そこには永遠の自己選択しかないのです。生きるとは無常な世界の変化に楽しんだり苦しんだりするものでしょう。そして自分自身の変化にも喜怒哀楽するものです。インドの仏教は中国に伝わり中国化します。中国において仏教的実存は老荘思想と混血して、この無常を、無常にとらわれずに観る(観察的に見聞きし思う)という方法、姿勢に向かったといえるでしょう。

 仏教は無常観を元にして、魂の様々な構造や仕組み、働きを考察して来ました。しかし、今日までの仏教思想に決定的に欠けていることがあります。それは成長発達の思想です。現代人の知性では、人間性の差異・多様性を単に刹那の連続、因縁の違いに帰すことはもはやできません。
 仏教の教えには経験の蓄積による知恵という発想が無かったようです。原初の潜在印象に対しても、それをたどる魂の成長段階というような考え方があっても良かったと思います。魂も年輪のしわを刻めば、世界のすべてを知り尽くし、悟りとともに、平安を望むようになるものではないでしょうか。経験の貧しい魂は感情や欲望に支配され、依頼心が強く、強い保護者を求めるのではないでしょうか。しかし、発達という考えは「一切は刹那生滅するものである」という考え方と矛盾するでしょう。
 仏教的実存とは魂の多様で多次元な様相の、人間主義以外のすべてに対しているということができるかもしれませんが、心の発達という視点はありません。それは現代仏教においても同じです。この点ではあらゆる宗教のみならず、近代ヒューマニズム、人間主義においても同じでした。人間主義以前の人間は、社会を神や仏の法によって正そうとしたのですが、人間主義時代の青春の魂とは、エディプスコンプレックスの、まさに親の支配に対する反逆の魂です。人間主義の登場は人類の魂が思春期・青春期に入ったからではないでしょうか。それは当然親離れの混乱期でしたが、成長を振り返る段階にはいたっていなかったといえます。人類がこれから到達する段階には魂の発達ということは重要な視点になると思います。