松山城
まつやまじょう

■所在地:愛媛県松山市丸之内1  ■立地:山城 ■別称:金亀城、勝山城  ■築城年:1603年
■築城者:
加藤嘉明  ■遺構等:天守、櫓、石垣、堀、門

松山城天守(現存)
ロープウェイ乗り場近くにある加藤嘉明像 戸無門(手前・現存)、太鼓櫓(奥・復元)、西続櫓(右・復元)
筒井門(復元) 三の門(現存)
天守(現存)、筋鉄門(復元) 小天守(復元)
小天守から見た一の門(手前)、三の門南櫓(左)、ニの門南櫓(奥)、一の門南櫓(右・いずれも現存) 乾門東続櫓・乾門(左・復元)、乾櫓(中・現存)、野原櫓(右・現存)
本丸の様子 天守の原形といわれる望楼型の野原櫓(現存)
北隅櫓(復元)、南隅櫓(復元) 3の丸周囲の堀
三の丸 ニの丸(現在・二の丸史跡庭園として整備)
■歴史
 羽柴秀吉の配下で、賤ヶ岳の合戦における七本槍の一人として活躍した加藤嘉明は、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康につき、戦功により伊予20万石に加増され築城に着手した。
 1603年には嘉明がこの地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。しかし、1627年に嘉明は松山城完成前に会津藩へ転封となり、代わりに蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が24万石で入封した。
 1634年に忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家は断絶した。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かることとなった。
 1635年に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎えた。

●現状(2011年7月)

 家族旅行で四国の道後温泉へ行ったときに訪れました。家族の目的地は温泉ですが、私の目的地はもちろん松山城です。
 ロープウェイ乗り場からリフトで本丸近くまで行けます。駐車場はどこも満車でしたが、ロープウェイ乗り場を通り過ぎて少し北へ行くと、空いている駐車場がたくさんありました。
 山頂まで行くと、大規模な高石垣や数々の建築物、本丸の天守群は圧巻です。
 残念ながら、多くの建物は1933年の松山城放火事件や戦時中の空襲で焼けてしまいましたが、21の建築物が重要文化財として残っており、焼失した建築物も多くが忠実に木造で復元されています。本丸にある野原櫓は国内唯一現存するの望楼型の櫓で天守の原形と言われています。
 一の門手前で小天守、天守、一の門南櫓に囲まれた絶好の撮影ポイントがあり、地元の女子高生が記念撮影ボランティアをしていました。家族で記念写真を撮ってくれるというのでカメラを預けたら、一眼のデジカメのシャッターの反応の速さにびっくりしてカメラを放り出しそうなぐらいでした。てっきり写真部の生徒かと思ったらそうでもなかったみたいで、構図も思いっきり傾いていましたが、ご愛嬌です。観光客を歓迎してのボランティアなんて素晴らしいですね。
 本丸を後にして再びリフトで下山し、子どもが坊ちゃん列車で道後温泉まで行きたいというので、私は別行動で車で三の丸へ向かいました。ところが三の丸の市民会館で吹奏楽コンクールをやっていたために駐車場を探すのに手間取ってしまい、ぎりぎり二の丸史跡庭園への入館時間が過ぎてしまい残念でした。でも、外から眺めた復元多聞櫓は素晴らしかったです。


◆場所