あいづわかまつじょう |
■所在地:福島県会津若松市追手町1-1 ■立地:丘陵 ■別称:鶴ヶ城、黒川城、若松城 ■築城年:1592年、1639年
■築城者:蒲生氏郷、加藤明成 ■遺構等:復元天守、櫓、門、石垣、土塁、堀 |
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| 外観復元天守 |
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外観復元天守 |
走長屋と天守(復元) |
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廊下橋門の枡形 |
石垣へ上るための階段 |
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天守から見た本丸 |
走長屋、鉄門、南走長屋、干飯櫓(復元) |
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鉄門(復元) |
本丸東側の堀と石垣 |
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廊下橋 |
西出丸南側の堀 |
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飯盛山から見た会津若松城 |
城から見た飯盛山と磐梯山 |
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■歴史 |
1384年に蘆名直盛が館を築いたのが始まりとされている。後に黒川城と呼ばれ、代々蘆名氏の居城となった。
1589年には、豊臣秀吉から戦を禁じられていた伊達政宗が禁を無視して蘆名義広を攻め、義広は城を追われて佐竹氏のもとに逃れ蘆名氏は滅亡した。
政宗は黒川城に入ったが、1590年の小田原征伐に遅参したため会津を召し上げられた。代わりに伊勢松坂から蒲生氏郷が黒川城に入った。
氏郷は1592年から城を近世城郭に改造し城下町を整備するとともに、町の名を黒川から「若松」へと改めた。
1593年には望楼型の7重の天守が竣工し、金箔瓦が使われるなど豊臣政権の東北の拠点にふさわしい城郭となった。
1598年に氏郷の子・秀行は家中騒動のために宇都宮に移封され、越後の上杉景勝が120万石で入封した。しかし、1600年の関ヶ原の戦で西軍に加担したために景勝を出羽国米沢30万石に移封した。
1601年には蒲生秀行が再び入城したが、1611年の会津地震により石垣や櫓が崩壊し天守も傾いた。
1627年、伊予松山より加藤嘉明が入封し、1639年には子の明成が西出丸、北出丸などの造築を行い、7重の天守も5重に建て替えられ現在の城の姿となった。
1643年、加藤明成は改易され、出羽国山形より2代将軍徳川秀忠の子・保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで保科氏(後に松平に改名)の居城となった。
1868年の戊辰戦争では旧幕府軍と新政府軍の戦いの舞台となり、会津勢が籠城する城は1か月の間持ちこたえ、落城することなく開城となった。しかし、新政府軍の砲撃により天守を含む多くの建造物は傷みが激しく1874年(明治7年)には、兵営所設営のために全ての建物は取り壊された。
現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復興されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」となっている。
なお、破却前に市内の阿弥陀寺に移築されていた本丸御三階櫓が現存している。 |
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●現状(2016年8月) |
一度は行ってみたいと思いながら、遠方のために行く機会がありませんでしたが、家族旅行で会津旅行へ行った際に訪城することができました。
ちょうどお盆休みの時期だったので観光客が多かったですが、国内どこに行っても大勢見かける中国人観光客をほとんど見かけず、原発事故の風評被害というものを実感しました。
天守を見た時に違和感を感じ、なんだろうと思ってよく見ると屋根瓦が赤いことに気づきました。自宅にある書籍で見慣れた写真は灰色の瓦だったはず。いつの間にと思ったら、明治の解体以前は赤い瓦で、平成23年に復元されたそうです。
天守の中は資料館になっていますが、人が多いために大渋滞。例によって家族は別行動であったためにゆっくり見る時間もなく、素通りしました。天守はそれほどの高さはないはずですが、すっきりした層塔型の天守であるため、結構高く見えます。
天守の他に、天守から続く走長屋、南走長屋、鉄門、干飯櫓が復元されています。南走長屋と干飯櫓は平成になってからの復元なので、当時の建築法で木造復元されています。
縄張りは、本丸、北出丸、二の丸、西出丸と、それを囲む石垣や土塁、水堀が残っており、非常に見応えがあります。本丸を囲む各曲輪は馬出し状になっており、防御力の高さがうかがえます。
地形的にも緩やかな丘の上に築城されているため、周囲の水堀と石垣の高低差がかなりあって大迫力です。
歴史好き、幕末好きとしては絶対に外せない会津の旅は、本当に良い思い出になりました。
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◆場所 |
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