姫路城
ひめじじょう

■所在地:兵庫県姫路市本町 ■立地:独立丘上 ■別称:白鷺城 ■築城年:1580年、1601年
■築城者:
羽柴秀吉、池田輝政 ■遺構等:大天守、東小天守、乾小天守、西小天守、櫓、門、石垣、他

世界遺産でもある国宝姫路城
2014年に天守の修復を終えた白亜の天守。感動的な美しさ!
姫路駅から常に正面に天守が見えている 三の丸から見たワの櫓とカの櫓
入城口を過ぎるとすぐにある菱の門 菱の門をくぐると右手に乾小天守、西小天守、大天守が美しい角度で良く見える
秀吉時代からあるという三国堀 いの門(上)、ろの門(下)。大軍が通れないような小ぶりで低い門が多い はの門手前の坂も有名な撮影ポイント
にの門の下までくると、天守がかなり近くに見える への門(上)、との一門(下)
特別公開中だった大天守東の折廻り櫓 折廻り櫓2階内部
本丸正面から見た大天守と西小天守。現存天守では最大 地階にあるトイレ。狭くて暗くて、すごい人
1階内部 4階の石打棚
6階(最上階)。外の眺めは素晴らしい イの渡櫓から見た台所と乾小天守
東小天守と乾小天守を結ぶロの渡櫓 乾小天守内部
帯郭櫓。雰囲気と見た目で腹切丸と呼ばれている りの二渡櫓
西の丸の渡櫓。長い廊下沿いに部屋が並んでいる 西の丸の渡櫓から見た天守。夕日に照らされて美しい

■歴史
 初期の築城としては、赤松則村説と黒田重隆説がある。
 本格的な城郭としては、1580年に黒田孝高(官兵衛)が羽柴秀吉に城を明け渡し、秀吉が西国攻略拠点として整備した。秀吉は3層の天守を築いている。
 その後、1600年の関ヶ原の合戦で東軍に属した池田輝政が1601年に播磨52万石を拝領して姫路城に入り、8年の歳月をかけて現在の姫路城を築いた。姫路城の天守は秀吉の建てた大坂城よりも大きく、豊臣家が一大名に落ちたことの象徴づけることとなった。
 池田氏の後に入城した本多忠正は長男忠刻と千姫のために西の丸を整備し、ほぼ現在の姫路城の姿となった。近年の調査によると、秀吉の姫路城を完全に潰したのではなく、ある程度は土台にして築城されているらしい。

●現状(2005年11月)

 最近、息子が電車に夢中で「新幹線に乗りたい。」とうるさいので、どうせ新幹線に乗るならと思い切って姫路城まで行くことにした。切符を買うときに幼児の運賃を尋ねたら「膝上なら無料ですけど」というので、「じゃあ、大人2枚」と言ったら露骨に嫌な顔されてしまった。近年稀に見る露骨な嫌な顔である。腹が立つよりも逆に「そこまで嫌な顔しなくてもいいのに。」と笑えてしまった。
 姫路城は20年ぶりに訪れるが、世界遺産ということで、城の外には以前はなかったお土産屋さんやお食事処がたくさん建ち並んでおり、ものすごい観光客であった。ちなみに20年前の写真を見たら、自分以外の人はほとんど写っていない。
 城の内部はさすがに変わっておらず安心した。前回はリの二渡櫓が修復中だったが、今回は化粧櫓が修復中で残念で外観の写真が撮れずに残念だった。樹木も育って若干視界が悪くなっているところもあり、月日の流れを感じた。
 行くまで知らなかったが、年に2回の特別公開期間で、折廻り櫓や小天守の内部に入ることができてラッキーだった。
 結構、若い女の子グループやカップルもいて、ミニスカートの子なんてどうするんだろうと思ってたら、やはり、天守の中ではスカートの子は一人も見かけなかった。中には、城が好きでデートの場に選んだのに、彼女がスカートで泣く泣く断念というのもいただろう。ものがものだけに、エレベーターを付けることはできないのであろう。
 息子は、名古屋城よりも姫路城の方が気に入ったようだが、次は松本城へ行きたいといっている。

●再訪(2014年8月)
 2014年の8月に夏休みの家族旅行で高知・岡山と巡り、帰る途中に入城時間に間に合わないことを承知で修復を終えたばかりの姫路城に寄り道しました。
 夕方で小雨が降る中でしたが、真っ白な姫路城は感動的な美しさでした。はじめは家族は車で待っていると言ったので自分一人で近くまで見に行ったのですが、あまりの美しさに家族を呼びに戻りました。
 歴史建造物は当時の様子で修復すると、きれいになり過ぎて歴史感が薄れると批判的な人がいますが、歴史建造物は後世の観光客のために建てられたわけではないし、見かけが古いから歴史的価値があるわけでもありません。過去に何度も修復を繰り返して現代まで残ってきたのだし、どうせまた古くなってしまうのですから、当時の姿と両方見る機会ができてとてもお徳だと思います。
◆場所