たなべじょう |
■所在地:京都府舞鶴市南田辺 ■立地:平地 ■別称:− ■築城年:1580年頃
■築城者:細川藤孝 ■遺構等:復興大手門、模擬櫓、石垣 |
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| 模擬櫓と復興大手門 |
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模擬櫓と復元の堀 |
模擬櫓(展示室) |
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城内の様子 |
城内の様子 |
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城内の様子 |
復元の井戸 |
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■歴史 |
1578年に織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼした細川藤孝(幽斎)は丹後12万石を与えられ一色氏の八幡山城に入った。1580年に宮津城を築いて移ったが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、嫡男忠興を城主とした。
1600年の関ヶ原の戦いで忠興は徳川家康率いる東軍に加勢し、会津の上杉景勝征伐に従った。留守を預かる藤孝は宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い田辺城で籠城した。田辺城はすぐさま15,000人もの西軍に包囲されると、50日にも及ぶ長期戦となった。藤孝は歌人であり古今和歌集の奥義である「古今伝授」を伝える唯一の人物であったため、藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられたといわれている。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。
細川家は関ヶ原の戦い後、豊後中津城6万石に転封となり、信濃飯田城から京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。高知の死後、遺言によって嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が峰山藩1万3千石を領した。
1668年、京極氏は3代高盛の代に豊岡藩へ転封となり、代わって牧野氏が3万5千石で入封すると、田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、明治まで続いた。 |
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●現状(2013年8月) |
島根、鳥取と続いた山陰旅行の帰り道、舞鶴の赤レンガパークへ行く途中で寄り道をして田辺城へ行きました。
城は復興の大手門や模擬櫓、塀などの建造物があり、かなり立派な城址となっています。公園内の地図をみると、必ずしも本来の姿で整備されているわけではなさそうですが、石垣は結構残っています。
残念なことに、下調べが足りなかったことと、例によって家族を車に残して駆け足で訪城したため、天守台石垣を見逃してしまいました。とても暑い日で、公園内を隅々まで回らなかったことが悔やまれます。
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◆場所 |
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