高遠城
たかとおじょう

■所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2299 ■立地:丘陵 ■別称:兜山城 ■築城年:1547年
■築城者:
武田信玄 ■遺構等:曲輪、石垣、堀、土塁、説明板、復元櫓・門

桜の名所・高遠城
一番人気の撮影スポット。PLフィルタ必須です。 小ぶりで色の濃い、高遠コヒガンサクラ
二の丸 二の丸東側の空堀
本丸に復元された太鼓櫓 勘助曲輪から見た本丸
三の丸 藩校・進徳館
■歴史
 諏訪氏一門の高遠頼継の居城があったとされるが、諏訪の領有を巡って武田信玄と対立し、1545年に攻め落とされた。1547年に高遠城は信濃への進出拠点として、山本勘助や秋山信友によって大規模に改築されたという。
 1562年に信玄の子・勝頼が諏訪氏を継承し、高遠城主となった。

 武田氏が織田・徳川氏と対立するようになると、高遠城は織田・徳川に対する重要な軍事拠点となるが、1575年に長篠の合戦に敗退すると領国の動揺を招き、勝頼は1581年に韮崎へ拠点を移した。同時に異母弟の仁科盛信を高遠城主とした。
 1582年2月、織田信長は甲州征伐を開始し、長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城の守備兵は3千であったが、盛信は降伏勧告を退けて戦い、盛信は討ち死にし、城は1日で落城した。
 その後、織田配下の毛利長秀が城主となるが、3ヶ月後に本能寺の変が起こると武田家の旧臣・木曾義昌によって攻め落とされた。以後、徳川家康と木曾義昌の攻防が続いたが、家康によって木曾義昌は高遠城を追われて深志城に撤退した。
 家康は保科正直を城主としたが、1590年に家康が関東移封された後は毛利秀頼、京極高知が城代を務め、1600年の関ヶ原の戦い後、保科正光が2万5千石で入城した。その後、正之、鳥居忠春、忠則と続き、1691年に内藤清枚が入城すると、以後内藤氏の居城として明治まで続いた。
 城は武田信玄築城時の縄張りを残し、江戸時代には長塀や二重櫓が築かれ、近世城郭として改修された。

●現状(2012年4月)

 いつか必ず行きたいと思っていたのですが、毎年、新聞に桜が満開の高遠城址の写真が載ると「凄い人だろうなぁ。」と思って躊躇していました。しかし、職場の城好きの方から早朝に着くようにすれば大丈夫だという経験談をいただいたため、一応、ネットで臨時駐車場の場所を調べておいて、朝の3時頃に出発。すると順調過ぎるほど順調で、3時間弱で伊那に到着。朝マックを調達して、渋滞にはまらないように先手を打って少し離れた臨時駐車場へ向かいましたが、城へ向かう車がほとんど走っていないのに気づき、まだ混んでいないのだろうと思って城へ向かったら、渋滞もなく城址まで行けてしまいました。
 本丸のすぐ西の勘助曲輪が駐車場となっていまして、10時から観光バス専用になるからそれまでに出て行かないといけないと言われましたが、2時間半もあるので充分です。
 さすがに桜シーズンなので結構な人混みでしたが、姫路城や彦根城のような立派な城の方が混んでます。桜シーズンでなければ、訪れるのはおそらく城好きだけでしょうか。
 城址としては戦国の城なので格別に規模が大きいわけではないですが、武田の城らしく、曲輪を分断する巨大な空堀が迫力あります。本丸には、本来の場所とは違うと思いますが太鼓櫓も復元されていました。土塁も一部ありますが、それほど高く残っていません。
 堀の底も散策路となっており、池に橋と桜が逆さに映る場所は一番の撮影ポイントで、多くのカメラマンで順番待ちになっているほどでした。せっかくなので私も場所が空くまで待ってから撮影。素敵な写真が撮れました。ただし、普通に撮っても水面が光って景色が映らないので、PLフィルターは必須です。
 高遠城の桜はタカトオコヒガン桜という品種だそうで、少し小ぶりの花ですが、ピンク色がやや濃く、正真正銘のサクラ色をした大変きれいな桜です。満開には2日ほど早かったのですが、天下第一と言われる念願の高遠の桜を見たことは、2012年一番の思い出となりました。


◆場所