うえだじょう |
■所在地:長野県上田市二の丸2 ■立地:平地 ■別称:尼ヶ淵城 ■築城年:1583年
■築城者:真田昌幸 ■遺構等:石垣、櫓、堀、復元櫓門、土塁 |
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| 南櫓(現存)と東虎口櫓門(復元) |
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西櫓(現存) |
北櫓(現存) |
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西櫓と南櫓 |
本丸 |
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本丸堀 |
本丸堀 |
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二の丸 |
百阮x跡 |
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■歴史 |
1582年に織田信長が本能寺の変で横死すると、越後の上杉景勝、相模の北条氏直、三河の徳川家康が織田氏旧領を巡って争った(天正壬午の乱)。家康は真田氏の沼田領と北条氏の佐久郡の交換を条件に氏直と和睦した。
1583年頃に真田昌幸は上田城を築き北条氏と争っていたが、1585年に家康から沼田領の北条氏への引き渡しを求められるとこれを拒否し、家康から離反して上杉に通じた。そのため、家康は上田城攻めを行った(第一次上田合戦)。真田勢2,000に対して家康は7,000の軍勢で攻めたが、昌幸はこれを撃退した。
そして1600年に家康が上杉征伐の兵を起こすと昌幸は家康に従ったが、石田三成が挙兵すると昌幸は離反して次男の信繁とともに上田城へ帰った。家康家臣の本多忠勝の娘を妻としていた長男の信之はそのまま家康に従った。
家康は三成と対決するために東海道を西に向かい、子の秀忠が別働隊38,000を率いて中山道を西へ進んだ。秀忠は真田氏2,500が立てこもる上田城を通過するときに昌幸と戦闘状態になった。秀忠は城を攻略できず膠着状態が続いたが、そのために秀忠は関ヶ原の戦いに遅参することになった。
関ケ原の戦い後、昌幸と信繁は死罪を命じられたが、信之と本多忠勝の助命嘆願により高野山へ流罪となり、上田城は徹底的に破壊された。旧領を賜った信之は上田城の三の丸に屋敷を構えて藩政を執った。
1622年に信之は松代城へ移ると仙石忠政が入り、上田城を修築して居城とした。このとき、ほぼ現在の上田城の形となった。1706年に仙石政明が但馬出石へ移ると松平忠周が入り、以後、松平氏の居城として明治まで続いた。
明治以降、建物は破却や移築が行われ、西櫓と石垣を残すのみとなったが、1949年に北櫓と南櫓が元の位置に移築復元された。さらに1994年には東虎口櫓門と塀が木造復元された。
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●現状(2015年10月) |
家族旅行で信州を訪れた際に寄りました。当時は大河ドラマの真田丸が放映される前年でしたが、すでに話題になっていたため、観光客も多くて駐車場に入るのにかなり待ちました。
南側の駐車場に止めると、築城当時の尼ヶ淵(今はないですが)から望む城の姿が目に入ります。
城内には、現存の西櫓、移築されていたものが戻された北櫓、南櫓、木造で復元された東虎口櫓門など建物が多くあり、とても見応えがあります。また、本丸の周囲には土塁も残っており、水をたたえた堀も残っています。さらに、城の北側には運動場や野球場がありますが、ここがかつての百阮xや広堀にあたり、土地が低くなっているために、堀であった名残りを感じることができます。
時間の都合で訪れることはできませんでしたが、城のすぐ東にある上田高校は城主の御殿跡で、門や堀が残っています。
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◆場所 |
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