備中松山城
びっちゅうまつやまじょう

■所在地:岡山県高梁市内山下1  ■立地:山頂 ■別称:高梁城 ■築城年:1240年
■築城者:
秋庭三郎重信 ■遺構等:現存天守、櫓、塀、石垣、土塁、堀

五の平櫓(復元)と天守(現存)
駐車場からは20分程の登山 途中の櫓台
大手門跡 石垣が素晴らしい大手門内側
現存の土塀 二の丸
現存天守 復元された五の平櫓(左)、南御門(中)、六の平櫓(右)
天守北側 天守内部
現存の二重櫓 臥牛山の城址遠景
■歴史
 1240年に秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に築城したのが始まりとされている。1331年頃に高橋宗康が現在の城のある小松山まで城を拡張した。
 1355年には高師秀が入城したが、秋庭三郎重盛に城を追われ、以後、秋庭氏が六代、城主となった。
 その後、城主は上野氏、庄氏、三村氏と代わった。
 1566年に三村家親が宇喜多直家に暗殺され、その子元親も合戦で直家に敗れ、備中に直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出すると元親はいったん城へ退去し、その隙に庄高資が城を占拠した。
 1571年に毛利氏の支援を得た元親が高資を討ち、城を奪還した。しかし、1572年に将軍足利義昭の仲裁で宇喜多氏と毛利氏が和睦すると、元親は毛利氏から離れ織田信長についた。そのために翌年から宇喜多・毛利と三村との戦が続いた(備中兵乱)が、ついに毛利方の小早川隆景に城を落とされ元親は自害した。その後、毛利氏の城となった。この頃には城の中心は小松山に移り、臥牛山全体が要塞化していたとされる。
 1600年の関ヶ原の戦いで西軍の毛利輝元が敗れた後、城は徳川家康に没収され幕府が城番を置いた。
 1617年に池田長幸が城主となり、以後、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と続き明治を迎えた。
 途中、水谷家が断絶し、安藤氏が入るまでの1年近く、忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助が城番をしている。
 1873年に廃城令が公布され山麓の御根小屋(藩庁)は破却された。山頂の山城は新政府によって商家に売却されたが、不便な場所のため取り壊されずに放置された。
 昭和になると保存の機運が高まり、高梁町によって修復された。1994年からは本丸の復元整備が始まり、滅失していた主な建造物が復元された。

●現状(2014年8月)

 四国・岡山旅行の時に、かなりの寄り道でしたが、せっかく岡山まで来たのだからと家族には詳細を告げずに「いつ着くの」と言われながら向かいました。
 お盆なので麓からシャトルバスで鞴峠の駐車場まで。道が狭くてバスがギリギリなので、なかなかスリルある車中でした。
 そして、鞴峠から山頂まで20分程の登山。季節は8月。山から下りてきた人たちは、雨でも降っていたのかと思うほどの汗だくです。山頂に近づくにつれ石垣が目につくようになり、大手門跡に到着すると、まさに要塞ともいうべき大規模な石垣に圧倒されます。これだけ迫力のある石垣はなかなか見られません。
 そこからさらに上ると、現存する土塀のある登城路を経て二の丸に到着し、前方に写真で見慣れた本丸の建物群の姿が見えます。
 岡山市や倉敷市から離れていることもあり、また、行くのが大変なこともあり、それまで訪れた現存天守のある城の中では断トツに観光人が少なく(本丸内に10人程度)、寂しげな古城の雰囲気が素敵です。
 本丸は、現存するのは天守と二重櫓ですが、全てではないですがいくつかの門や櫓が復元されています。
 天守は思ったよりも小さい印象で、中に入ると、近世の大城郭の櫓程度の広さしかないのが実感されます。
 最初は山登りさせられて不満気だった家族も、現存12城の貴重な城であることや、小さいながらも木造の本物の天守に触れ、気を取り直した様子でした。しかし、さすがに麓の史跡も回りたいとは言い出せませんでした。


◆場所