備中高松城
びっちゅうたかまつじょう

■所在地:岡山県岡山市北区高松 ■立地:平地 ■別称: ■築城年:16世紀後半
■築城者:
石川久孝 ■遺構等:曲輪、堀跡、説明板

堀跡と本丸跡 広大な堀跡
本丸
清水宗治首塚 清水宗治自刃の地
秀吉が築いた堰堤(蛙ヶ鼻堤) 高松城水攻め史跡公園
小早川隆景方の砦となった造山古墳 円墳部には土塁が築かれている
■歴史
 松山城主の三村氏の命により、石川久孝が築いたとされる。1575年の備中兵乱で石川氏が毛利氏に滅ぼされた後に清水宗治が城主となり、毛利氏一族の小早川隆景の配下となった。
 1577年に織田信長の命により羽柴秀吉の中国攻めが始まり、1582年に高松城攻めにかかった。高松城は周囲を沼地に囲まれ難攻不落とされており、城攻めは持久戦となった。秀吉は黒田官兵衛の献策により城を囲む堰堤を築き、足守川の水を引き込み水攻めを行った。秀吉はここで信長を招き城攻めの仕上げを行うつもりであったが、本能寺の変が起こり、秀吉は和議の条件として宗治を切腹させ、明智光秀討伐のため引き返した。
 その後は宇喜多秀家の家臣・花房正成が城主となった。1600年の関ヶ原の戦い後は花房職秀が城主となった。城は大坂夏の陣後、廃城となった。

●現状(2014年8月)

 家族旅行で四国・岡山を訪れた際、高速道路のインターチェンジに近くて行きやすかったので、備中松山城へ寄った後、宿に向かう途中で寄りました。
 ちょうど大河ドラマの軍師官兵衛が放送されていた年で、1カ月前に高松城水攻めの回が放送されたばかりだったためか、多くの観光客で賑わっており、駐車場には県外ナンバーの車も多くありました。
 城跡はかなり広く公園となっており、どれほど当時の形状を再現しているのかわかりませんが、堀跡にはハスが植えられており、沼地に囲まれた城の雰囲気を感じることができました。
 本丸には清水宗治の首塚があり、立ち寄らなかったですが近くに胴塚もあります。本丸から周囲を眺めると低地であることが実感され、確かに水攻めされたら本丸以外は水没してしまうだろうなと思いました。
 城址の近くには秀吉が築いた堰堤跡があります。残っている部分は極わずかですが、それでも当時の堰堤がとても大規模なものであったことが想像できます。発掘調査では土俵の跡や、俵に土を詰める際にお墓も掘ってしまったのか、五輪塔や人骨も発掘されたそうです。
 また、城址の3キロほど南西に造山古墳という国内4番目の大きさの前方後円墳があります。古墳好きでもあったので寄ってみると、なんと全国的にも珍しい、上に登れる前方後円墳。さらに説明看板によると、秀吉の高松攻めの際に、高松城の救援に来た毛利方の小早川隆景が砦を築いたそうで、円墳部の上部はその時に削平され平らになっており土塁が残っています。
 歴史の大舞台を訪れ、関連する遺構をめぐると、当時の戦のスケールの大きさを実感します。


◆場所
 秀吉による水攻めの堤跡