岡山城
じょう

■所在地:岡山県岡山市北区丸の内2-3-1  ■立地:平地  ■別称:烏城 ■築城年:1573年
■築城者:
宇喜多直家  ■遺構等:復興天守、櫓、石垣、門、堀

外観復元の天守
藩主の庭園である後楽園 天然の堀である旭川
廊下門(復元) 不明門(復元)
要害門(復元) 不明門(復元)
月見櫓(現存) 外側から見た月見櫓(現存)
■歴史
 南北朝時代に名和氏の一族上神高直が築いた石山城があったとされる。
 1570年、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配し、1573年にそれまでの居城である亀山城から石山城に入城し、城の改築と城下町の整備を行った。
 直家の子・秀家は、豊臣秀吉の下で57万4千石の大大名となる。これにふさわしい城とするため、1590年から8年間にわたる大改修が行われた。秀家は岡山に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸に、二之丸を西之丸に取り込んだ。こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。現在の天守の姿は秀家が建てた天守の姿である。
 1600年、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は敗走し、薩摩の島津氏に匿われた。岡山城には代わって小早川秀秋が52万石の領主として入城した。秀秋は城の拡張を行ったが、2年後の1602年に急死し、小早川家は断絶した。秀家は1603年に身柄を家康に引き渡され、その後、八丈島へ流刑となった。
 備前28万石は姫路城主・池田輝政の次男忠継に与えられたが、1613年に岡山城へ入城した忠継は1615年に死去した。代わりに忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封した。
 1632年、忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封した。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後に鳥取城主となっていた。池田氏の時代にも城の整備は続けられ、以後、幕末まで池田氏の居城となった。
 1869年の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は兵部省管轄となった。1873年の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。
 1890年に旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、その後、本丸付近を残して堀などは埋め立てられ、市街化された。
 天守は1945年に空襲で焼け、1966年に鉄筋コンクリートで外観復元された。

●現状(2011年7月)

 家族旅行で愛媛の松山へ向かう途中、せっかく近くを通るので寄り道をしました。暑い時期なので、後楽園内を通過して岡山城までどれぐらい歩くのだろうと心配していましたが、金沢の兼六園のような広大な敷地ではなかったので助かりました。
 城は川に面して天守がそびえ建ち、迫力ある姿です。天守は名古屋城と同じく空襲で焼けた後に鉄筋コンクリートで外観復元されたもので、中は展示室になっています。ただ、城の大きさに比べて展示スペースは小さく、城の中は狭く感じます。
 烏城の別称のとおりの黒塗りの天守で、秀吉の身内大名らしく金箔瓦が使われています。秀吉の大坂城もこのように黒塗りで金箔瓦の城だったのでしょう。
 本丸付近では月見櫓が現存のみで、他は復元建築です。月見櫓は内側からはよく見えますが、外側からは木に隠れてよく見えません。本丸には、池田氏の改修で埋められた宇喜多氏の時代の石垣も発掘されて展示されています。


◆場所