創建について詳細は不明だが、14世紀後半ごろ先中城按司が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築いたと言われる。
琉球国王尚巴志は勝連城を拠点とする勝連按司を牽制するために家臣で築城の名手といわれた護佐丸に中城城の改築を命じ、1440年に護佐丸を城主として移した。
15世紀前半に勝連城主の茂知附按司が暴君であったために阿麻和利に謀殺され、阿麻和利が勝連城主となって力を蓄えた。
1458年、護佐丸は阿麻和利を警戒して兵馬を整えたが、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きありと王に讒言したため、尚泰久王は阿麻和利を総大将として中城城を攻めた。護佐丸は寄せ手が王府軍だと知ると抵抗せずに城内で自害した。
アメリカのペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れた際に立ち寄り、建築技術の高さに驚嘆し、この城に関する報告文を書いている。
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