大坂城
おおさかじょう

■所在地:大阪府大阪市中央区大阪城1 ■立地:平地 ■別称:金城、錦城 ■築城年:1583年、1620年
■築城者:
豊臣秀吉、徳川秀忠 ■遺構等:復興天守、櫓、石垣、堀

大坂城天守
六番櫓と南外堀 大手口
千貫櫓(左)と多門櫓(右) 大手門
天守南面 金明水井戸屋形
京橋門の肥後石 桜門の蛸石
天守西面 天守北面
極楽橋と天守 乾櫓
■歴史
 1496年に本願寺8世蓮如が建てた大坂御坊(後の石山本願寺)は顕如の代に隆盛を極め、本願寺に指導された一向一揆は戦国大名にとって大きな脅威となった。 1570年には天下統一を狙う織田信長との間で10年に及ぶ石山合戦が始まった。
 1580年に和議が成ると大坂は信長が手にしたが、1582年の本能寺の変で信長が自害し、羽柴秀吉が後継者となると本願寺跡の大坂城に入城した。
 1583年、秀吉は京都に近く水陸の交通の要衝である大坂を拠点と定め本格的に築城に着手した。
 1585年には本丸が完成し、秀吉が死去するまでに二の丸、総構堀が建設された。そして秀吉の死後、三の丸が完成した。
 城は3重の堀に囲まれ、黒漆塗り下見板張に金箔瓦で飾った5重7階の豪華な天守はかつての主君信長の安土城を上回る巨大さで、天下の主宰者が信長から秀吉に代わったことを印象付けるものだった。
 秀吉の死後は子の秀頼が伏見城から大坂城へ移り居城したが、1600年の関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が天下の実権を握ると、秀頼は摂津・河内・和泉65万石余の一大名に落とされた。
 やがて家康が秀頼に豊臣家の国替えや江戸参内を要求すると、豊臣方はこれらをはねつけ、両者の緊張は高まった。豊臣恩顧の大名や浪人たちが大坂城へ集結し10万を超える軍勢となった。家康は1614年に20万の大軍で大坂城を包囲し、大坂冬の陣が始まった。しかし家康は大坂城を攻略することができず双方疲弊し講和を取り交わしたが、その際に惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまった。
 秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年に再び両軍は激突し(大坂夏の陣)、大坂城は炎上、豊臣氏は滅亡した。
 大坂城は1619年に幕府直轄領に編入された。翌1620年から、2代将軍徳川秀忠の命令によって大坂城の再建が始められた。徳川大坂城は豊臣大坂城の縄張りを利用しつつも盛り土によって完全に埋没させ、石垣や堀も全て新築された。1630年頃に完成した大坂城は堀や石垣は豊臣大坂城よりも遥かに規模が大きく、天守は豊臣大坂城よりも20mも高い白亜の巨大天守となり、秀吉の築いた大坂城の痕跡は完全に姿を消した。
 幕府の威信を示した大坂城だったが、1665年に落雷によって天守を焼失し、以後は幕府によって天守の再建はされなかった。本丸御殿といくつかの櫓は火災などの被害を受けず幕末を迎えたが、旧幕府軍と新政府軍の鳥羽・伏見の戦い後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。
 現在の大坂城(大阪城)は1931年に徳川大坂城の石垣の上に、豊臣大坂城の姿を模して建設されたものである。

●現状(2012年8月)

 神戸に旅行した帰り道に時間があったので、念願の大阪城へ寄ることができました。
 江戸城も巨大で凄い城だと思いましたが、大阪城は石垣も高く、復興天守もあるために、より巨大に感じました。
 天守は豊臣天守を参考に復興されたものですが、巨大な徳川天守の大きさで築かれているのでもの凄く巨大な天守であり、復興天守も含めれば日本最大の高さです。個人的な好みで言えば、築城技術が進んだために洗練された層塔型天守よりも、古い時代の望楼型天守の方が破風が大きくかっこいいと思っていますので、この大阪城の姿はとても気に入っています。黒壁・白壁の違いはありますが、これだけ巨大な天守になると、黒い天守よりも白亜の天守の方が似合うかなと思います。
 いつものごとく、家族が同行したのは天守までで、その後は家族を待たせて単独行動です。その場合、こういった巨大な城郭はずっと走り回ることになるので本当に大変です。


◆場所