二俣城
ふたまたじょう

■所在地:静岡県浜松市二俣町 ■立地:山頂 ■別称: ■築城年:1503年
■築城者:
二俣昌長 ■遺構等:曲輪、石垣、堀切

天守台
本丸と天守台 本丸北東の虎口

■歴史
 初めは今川氏に属していたが、今川氏没落後は徳川家康に属した。1572年、武田勝頼に攻められ城主の中根正照はろう城戦に持ち込んだが、勝頼は天竜川から水を汲み上げる井楼を見つけると上流から大量の筏を流して破壊し、城の水源を絶った。そのため正照は家康の許可を得て城を明け渡した。1575年に長篠の合戦で武田勝頼が大敗すると二俣城の奪還戦が始まり、城将の依田信蕃は兵糧が尽きても抵抗を続けたが、勝頼の命令で開城した。
 1590年に家康が関東移封となると、豊臣秀吉配下の浜松城主堀尾吉晴の弟・宗光が城主となり石垣や天守を備えた城郭として整備した。
 この城は1579年に家康の嫡男・信康が織田信長の命令で切腹したことで有名である。徳川家臣団の悲しみは相当なもので、大久保彦左衛門は「これほどの主君はもう二度と現れないだろう。上下の者は皆、声を挙げて泣き悲しんだ。」と三河物語に記している。家康自身も生涯、信康の死を残念に思っていたという。

●現状(1998年9月)

 全体的には中世の山城に近い雰囲気を残しつつも、石垣や天守台など、とても見ごたえがある。二俣城といえば、書籍などに必ず載っている天守台の写真を思い浮かべる人も多いと思う。あの何か寂しげな天守台はとても印象深い。それを実際に見たときは感動した。ここが徳川家最大の悲劇の舞台かとしみじみ思い、主郭から望む天竜川に武田氏との攻防を思い、とても歴史を感じる城址である。


◆場所