和歌山城
わかやまじょう

■所在地:和歌山県和歌山市一番丁 ■立地:平山城  ■別称:伏虎城、竹垣城 ■築城年:1585年
■築城者:
羽柴秀長 ■遺構等:復興天守、石垣、堀、櫓、門

復興天守閣
天守二の門 本丸から眺めた天守
天守閣から眺めた天守曲輪 城山の麓をめぐる石垣
本丸から二の丸へ下る石垣 復元された御橋廊下
切石を使った石垣 二の丸跡
岡口門 二の丸北側の堀
■歴史

 豊臣秀吉が1585年に紀州を平定し、副将として参陣した弟の秀長に紀伊・和泉の2ヶ国を加増した。秀長は若山と呼ばれたこの地の「吹上の峰」に築城し、和歌山と改められた。
桑山重晴に3万石を与え城代に据え、秀長死後も桑山しが城代を継いだ。
 1600年に関ヶ原の戦いの戦功によって浅野幸長が37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。幸長は城の大改修を行い、本丸(現天守曲輪)と二の丸(現本丸)が築かれた。
 1619年に徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立した。城も御三家の居城にふさわしいものとするため拡張・整備が行われた。その後、城下町の整備をし、総構えの外堀を計画したが、大規模な拡張が続いたために幕府より謀反の嫌疑をかけられ、工事は中止された。
 和歌山城は火災の被害が多く、1655年に家臣の屋敷より出火し、西の丸・二の丸に延焼した。1813年には大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。1846年には天守曲輪に落雷があり、大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時は武家諸法度により天守再建は禁止されていたが、御三家への特別な計らいにより許可され、1850年に大小天守等が再建された。
 その後、明治維新を迎えて廃城となったが、1935年には、天守など11棟が国宝に指定された。しかし、1945年7月9日のアメリカ軍による空襲により天守などの指定建造物11棟すべてが焼失した。
 現在の天守は1958年に鉄筋コンクリートにより外観復興されたものである。


●現状(2009年8月)

 和歌山城は和歌山市の中央にあり、小高い山が遠くからでもよく見えます。
 城の敷地は広大ですが、他の大きな城のように敷地内にビルや大きな建物がないうえに、中心部には緑が多く、市街地にある城とは思えない雰囲気があります。
 城は長年にわたり整備・拡張が行われたために、城内の石垣は古いタイプの野面積から隙間のない亀甲積まで、いろんなタイプがあって面白い光景です。早くに整備された城の主要部分ほど古いタイプの石垣で、巨石を美しく積んでいる他の徳川の城と比べると、ずいぶん古い感じがします。
 天守は思ったよりも小ぶりな感じですが、小天守や多門櫓で結ばれた櫓があり、見栄えがします。
 天守曲輪の東には、天守曲輪と同じぐらいの高さの本丸がありますが、現在は水道施設があり中へは入れません。本丸跡から城山を北へ下りていくと二の丸があり、二の丸と西の丸の間の堀を渡る御橋廊下が復元されています。城の北から東にかけては広い堀があり、特に東側は堀の幅が広く70メートルを超える部分もあります。城の東側は御蔵丸といわれるところですが、小さな動物園になっています。
 城の南側の駐車場への入口は不明門跡ですが、ここの脇の櫓台の石垣は高くて巨大で、まるで天守台のようです。


◆場所