秋祭り 貴方は
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◎ 9月22日:神迎え   ◎ 23日:宮口祭り:大祭・神送り
 愛知県豊田市には、宮口という地名が二つある。我が村は、通称「宮口(みやぐち)」であるが、地名辞典によれば、江戸時代には”みやくち”と称され、西の宮口(みやぐち)村と区別していた。
 後になって、当地を『東宮口
(ひがしみやぐち)』と称した。
前日の準備、そして神迎えの式典が行われた。

当日は、各分担の役割に従って、最後の準備。



右は、公孫樹の大木である。まだ、葉は青い。

 舞台の横に聳えている。

 
氏子総代は、毎年4名が分担する。祭りの一切を取り仕切る。
 当日は最終的な点検である。

 前日,ご神体が上宮からこの御輿に乗ってここに鎮座した。

 祭りの式典前のひととき。



接待係、会場係、手水係など・・、村の全員が役割を分担する。
宮司様は、前日の神迎え式から継続 台所係は、朝から準備に余念がない。 会場係は、細部の打ち合わせ中
唐櫃(からびつ) 唐櫃(からびつ)の中身のチェック 受付


お手水係と最終打ち合わせ


 参加者に合わせて、祭典の手順打ち合わせ
宮司様は、他から3名をお願いし、打ち合わせ 子供御輿も、勢揃い おばぁちゃんから離れない子もいる
現地で、手順を確認する宮司様達 お手水係のセッティングは終わった・・ 来客も訪れてきた
上の左写真は、来賓達の控え室風景。中央は、献ぺいし様の沐浴後の身支度。

右は、若衆の御輿の出番を待つ風景



主催の宮司様は、準備が終わって気持ちの集中。10:00外では、全員が待つ
唐櫃(からびつ)が担がれてくる お手水にて浄める いよいよ開始となる
村中が集合する



通称『ヨッチャ』も、歳を取った。

自分の靴だが、年のせいで、だぶついている。

杖も必要となった。
二年後の平成18年逝去(右)
 祭礼の次第     <六所神社例祭所役>    '10.9.19 AM 10:00 の記録
 1  宮司以下祭員・献幣使参進 (先導者:荻野)
    手水 → 参進
 2  宮司以下祭員・献幣使および氏子崇敬者 祓所につく
 修祓  ア 祓主(青木)  イ 大麻(梅村)  ウ 塩湯(荻野)
 4  着座  宮司以下祭員・献幣使および氏子崇敬者 所定の座につく 典礼(青木)
 5  宮司一拝
 宮司 御扉を開く  警蹕(けいひつ):青木
 7  祭員 神饌を供す
  ア 奏楽 イ 神饌案・薦(青木・梅村) ウ 陪膳(青木) エ 膳部
(総代浦野) オ 手長(梅村・荻野)
 8  宮司 祝詞を奏す 
 祭員 本庁幣を献ず    ア 随員(加納)    イ 祭員(青木)
10  献幣使 祭詞を奏す 
 11  楽を奏す   豊栄舞 ・・ 巫女4名
 12  宮司 玉串を奉りて拝礼    ア 案鋪設(荻野)  イ 玉串(梅村)
 13  献幣使 玉串を奉りて拝礼    ア 玉串(加納)
 14  参列者 玉串を奉りて拝礼    ア 案鋪設(荻野)  イ 玉串(梅村・荻野)
 15  祭員 本庁幣・神饌を撤す    ア 玉串案撤去(梅村・荻野)  イ 奏楽  ウ 7の所役と同じ  エ 神饌案撤去(青木・梅村)  祝詞座移動(梅村)    ※ 『神輿』拝殿より祭文殿に進入
 16  出御神輿奉遷の儀   ア 警蹕(けいひつ):青木  イ 大麻(梅村)
 17  神幸の列を立てる    ア 召立(総代・深津)  イ 諸員威儀物を受け渡御の列次を整える
 18  神幸の儀     ア 大麻(荻野)  イ 奏楽(CD・本田)
 19  入御神殿奉遷の儀   ア 警蹕青木)  イ 大麻(梅村)
 20  宮司 御扉を閉ず  警蹕(けいひつ):青木    ※ 『神輿』拝殿へ
 21  宮司一拝
 22  各員退出
 注:大河原宮司祭礼前の打ち合わせ時に、関係者と氏子総代に配布し伝達・確認した資料による


式典が終わると、御輿にご神体を乗せて境内を一周する。



このときには、古来から決まった序列がある。槍も杖も鉾も御旗もそれに従う。
 上(シゲチャ)下の(キミチャ・ヨシミチャン)は、今は旗持ち係。その昔は村の中堅であった。
 若衆・年頭などを歴任し、馬祭りでは境内を馬と共に走った。平等に加齢する。今は老人。
 市議会議員や周辺の村から区長が参加。
写真上のヨシミチャンは、H20.2逝去。



終わってから、『ナオライ』の宴となる。

下写真左の髭の若者
当時、消防団長だった大橋秀介氏はH20.8急逝。


最後に、御輿に乗ってご神体は送られて、上宮まで宮司様の背に負われて行く。

 途中まで、全員が見送る。

随分と永い間、続けられている。
何代も続けてきた行事だ。

お送りして、皆、還るところだ。

お送りするときの緊張感はない。

☆ 補足 宮口まつり  「献馬大将」
より  豊田市教育委員会 発行 




 六所神社の宮口まつりの献馬は、正保2年(1645)8月28日に茅原村源五右衛門、大津村藤右衛門、下屋敷村彦太夫、提立(ソダメ:木偏に是)村の六太夫が委任され、宮本と話し合った結果、翌年8月のお祭りから行うことに決まった。

(写真)図と共に献馬の経緯が書かれている。
                            
☆ 管理人の疑問?! ・・ 確信 ☆
 昔、この一帯は「東加茂郡」であった。隣は”西加茂郡”。三河から伊豆にかけて「加茂」という地名が多く残っているが、これは加茂社が勧請されたり、加茂社の神領があったことに因んでいる。
 賀茂族の一族がこの地域に移り住んだという史実もある。伊尹親王は藤原兼通
(925〜977)の兄弟である。
 藤原兼通の子孫(本田姓となる)は、後に賀茂神社に宮司として仕え、これより本田姓を名のった。家紋は”立葵”であった。
(本田から後に本多姓が枝分かれする)
        
LINK  巨石信仰ー6 伊尹(ゆきよし)親王
 賀茂神社の祭りに”走馬”が今でも行われている。賀茂神社の紋は「双葉葵」である。
 徳川家の祖先、松平親氏公は賀茂神社を崇拝していたと言うことで、後に家紋を”葵”にしたと言われている。
 「徳阿弥と称する時宗の遊形僧の身となり三河に入り、加茂郡松平郷の松平太郎左右衛門(信重)の娘婿になって跡目を継いだのが親氏という。・・・・・『新編岡崎市史 中世 2』 
新岡崎市史編さん委員会1989年。
 
親氏(ちかうじ)公は、婿養子に入って、村のしきたりに従いながら、天下を我がものにしようとの夢を抱いたのかも知れない。
 親氏の時代以前から、ここ山里には村があったことは間違いない。以前に信仰していた氏神様は、今、”隠居神”・蜂ケ峰神として鎮座している。  
LINK  蜂ケ峰祭

  
 祭礼の御輿渡りには、氏子惣代、神寶(かみたから)、楽(がく)、巫女(みこ)、御輿(みこし)、神馬、神官、祭主(領主)、總代(そうだい)、献馬が下宮を一巡した。 その後神事、神楽が行われ、余興として空砲(火縄銃)が音を立てたり「棒の手」が行われた。



注1:
 氏子惣代は、”各大字一名、字名を記したる小旗を持ち、二列にして麻上下を着用す”
注2:
 
神寶(かみたから)は、”東宮口の少童之を勤めむ 二列”



注3:巫女(みこ)は、”六人二列”



10 六所神社の宮口まつりの献馬 

六所神社の宮口まつりの献馬は、正保2年(1645)8月28日に茅原村源五右衛門、大津村藤右衛門、下屋敷村彦太夫、ソダメ(木偏に是)立村の六太夫が委任され、宮本と話し合った結果、翌年8月のお祭りから行うことに決まった。(写真)
 最初の年は14疋であったが、年々増加し、寛文10年
(1670)には24疋となった。
 この年から、松平郷高月院を鼻馬とし、大給が二の切目、仁王が三の切目、ソダメ、柵沢
(ませのさわ)、鍋田(なべた)、下平(しもだいら)梁山(やなやま)、下佐切(しもさぎり)、林添(はやしぞれ)日明(ひあかり)を四の切目として、ソダメをおさえ馬とした。

注4:
 總代
(そうだい)は、”四名 正保2年8月祭典に四名の委員を選び祭事処理せり、其の例今に至れる・・”

      起倒流「棒の手」の演技 2005年

         『郷社六所神社図記』  :   『棒の手』ご紹介