|
|
|
前日の準備、そして神迎えの式典が行われた。
当日は、各分担の役割に従って、最後の準備。
右は、公孫樹の大木である。まだ、葉は青い。
舞台の横に聳えている。
|
|
氏子総代は、毎年4名が分担する。祭りの一切を取り仕切る。
当日は最終的な点検である。
前日,ご神体が上宮からこの御輿に乗ってここに鎮座した。
祭りの式典前のひととき。
接待係、会場係、手水係など・・、村の全員が役割を分担する。 |
|
|
|
宮司様は、前日の神迎え式から継続 |
台所係は、朝から準備に余念がない。 |
会場係は、細部の打ち合わせ中 |
|
|
|
唐櫃(からびつ) |
唐櫃(からびつ)の中身のチェック |
受付 |
|
お手水係と最終打ち合わせ |
参加者に合わせて、祭典の手順打ち合わせ |
|
|
|
宮司様は、他から3名をお願いし、打ち合わせ |
子供御輿も、勢揃い |
おばぁちゃんから離れない子もいる |
|
|
|
現地で、手順を確認する宮司様達 |
お手水係のセッティングは終わった・・ |
来客も訪れてきた |
|
|
|
|
上の左写真は、来賓達の控え室風景。中央は、献ぺいし様の沐浴後の身支度。
右は、若衆の御輿の出番を待つ風景
主催の宮司様は、準備が終わって気持ちの集中。10:00外では、全員が待つ |
|
|
|
唐櫃(からびつ)が担がれてくる |
お手水にて浄める |
いよいよ開始となる |
|
|
|
|
|
|
村中が集合する
通称『ヨッチャ』も、歳を取った。
自分の靴だが、年のせいで、だぶついている。
杖も必要となった。
二年後の平成18年逝去(右) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
祭礼の次第 <六所神社例祭所役> '10.9.19 AM 10:00 の記録 |
1 |
宮司以下祭員・献幣使参進 (先導者:荻野)
手水 → 参進 |
2 |
宮司以下祭員・献幣使および氏子崇敬者 祓所につく |
3 |
修祓 ア 祓主(青木) イ 大麻(梅村) ウ 塩湯(荻野) |
4 |
着座 宮司以下祭員・献幣使および氏子崇敬者 所定の座につく 典礼(青木) |
5 |
宮司一拝 |
6 |
宮司 御扉を開く 警蹕(けいひつ):青木 |
7 |
祭員 神饌を供す
ア 奏楽 イ 神饌案・薦(青木・梅村) ウ 陪膳(青木) エ 膳部(総代浦野) オ 手長(梅村・荻野) |
8 |
宮司 祝詞を奏す |
9 |
祭員 本庁幣を献ず ア 随員(加納) イ 祭員(青木) |
10 |
献幣使 祭詞を奏す |
11 |
楽を奏す 豊栄舞 ・・ 巫女4名 |
12 |
宮司 玉串を奉りて拝礼 ア 案鋪設(荻野) イ 玉串(梅村) |
13 |
献幣使 玉串を奉りて拝礼 ア 玉串(加納) |
14 |
参列者 玉串を奉りて拝礼 ア 案鋪設(荻野) イ 玉串(梅村・荻野) |
15 |
祭員 本庁幣・神饌を撤す ア 玉串案撤去(梅村・荻野) イ 奏楽 ウ 7の所役と同じ エ 神饌案撤去(青木・梅村) 祝詞座移動(梅村) ※ 『神輿』拝殿より祭文殿に進入 |
16 |
出御神輿奉遷の儀 ア 警蹕(けいひつ):青木 イ 大麻(梅村) |
17 |
神幸の列を立てる ア 召立(総代・深津) イ 諸員威儀物を受け渡御の列次を整える |
18 |
神幸の儀 ア 大麻(荻野) イ 奏楽(CD・本田) |
19 |
入御神殿奉遷の儀 ア 警蹕(青木) イ 大麻(梅村) |
20 |
宮司 御扉を閉ず 警蹕(けいひつ):青木 ※ 『神輿』拝殿へ |
21 |
宮司一拝 |
22 |
各員退出 |
注:大河原宮司祭礼前の打ち合わせ時に、関係者と氏子総代に配布し伝達・確認した資料による |
|
|
|
|
式典が終わると、御輿にご神体を乗せて境内を一周する。
|
このときには、古来から決まった序列がある。槍も杖も鉾も御旗もそれに従う。 |
|
上(シゲチャ)下の(キミチャ・ヨシミチャン)は、今は旗持ち係。その昔は村の中堅であった。
若衆・年頭などを歴任し、馬祭りでは境内を馬と共に走った。平等に加齢する。今は老人。 |
市議会議員や周辺の村から区長が参加。 |
|
|
|
|
写真上のヨシミチャンは、H20.2逝去。
終わってから、『ナオライ』の宴となる。
下写真左の髭の若者
当時、消防団長だった大橋秀介氏はH20.8急逝。
最後に、御輿に乗ってご神体は送られて、上宮まで宮司様の背に負われて行く。
途中まで、全員が見送る。
随分と永い間、続けられている。
何代も続けてきた行事だ。 |
お送りして、皆、還るところだ。
お送りするときの緊張感はない。
|
☆ 補足 宮口まつり 「献馬大将」より 豊田市教育委員会 発行 |
|
六所神社の宮口まつりの献馬は、正保2年(1645)8月28日に茅原村源五右衛門、大津村藤右衛門、下屋敷村彦太夫、提立(ソダメ:木偏に是)村の六太夫が委任され、宮本と話し合った結果、翌年8月のお祭りから行うことに決まった。
(写真)図と共に献馬の経緯が書かれている。 |
|
☆ 管理人の疑問?! ・・ 確信 ☆ |
昔、この一帯は「東加茂郡」であった。隣は”西加茂郡”。三河から伊豆にかけて「加茂」という地名が多く残っているが、これは加茂社が勧請されたり、加茂社の神領があったことに因んでいる。
賀茂族の一族がこの地域に移り住んだという史実もある。伊尹親王は藤原兼通(925〜977)の兄弟である。
藤原兼通の子孫(本田姓となる)は、後に賀茂神社に宮司として仕え、これより本田姓を名のった。家紋は”立葵”であった。(本田から後に本多姓が枝分かれする)
LINK 巨石信仰ー6 伊尹(ゆきよし)親王
賀茂神社の祭りに”走馬”が今でも行われている。賀茂神社の紋は「双葉葵」である。
徳川家の祖先、松平親氏公は賀茂神社を崇拝していたと言うことで、後に家紋を”葵”にしたと言われている。
「徳阿弥と称する時宗の遊形僧の身となり三河に入り、加茂郡松平郷の松平太郎左右衛門(信重)の娘婿になって跡目を継いだのが親氏という。・・・・・『新編岡崎市史 中世 2』 新岡崎市史編さん委員会1989年。
親氏(ちかうじ)公は、婿養子に入って、村のしきたりに従いながら、天下を我がものにしようとの夢を抱いたのかも知れない。
親氏の時代以前から、ここ山里には村があったことは間違いない。以前に信仰していた氏神様は、今、”隠居神”・蜂ケ峰神として鎮座している。 LINK 蜂ケ峰祭 |
|
|
祭礼の御輿渡りには、氏子惣代、神寶(かみたから)、楽(がく)、巫女(みこ)、御輿(みこし)、神馬、神官、祭主(領主)、總代(そうだい)、献馬が下宮を一巡した。 その後神事、神楽が行われ、余興として空砲(火縄銃)が音を立てたり「棒の手」が行われた。 |
1
|
2
|
3
|
注1:
氏子惣代は、”各大字一名、字名を記したる小旗を持ち、二列にして麻上下を着用す” |
注2:
神寶(かみたから)は、”東宮口の少童之を勤めむ 二列” |
|
4
|
5
|
6
|
注3:巫女(みこ)は、”六人二列” |
|
|
|
8
|
9
|
10 六所神社の宮口まつりの献馬
六所神社の宮口まつりの献馬は、正保2年(1645)8月28日に茅原村源五右衛門、大津村藤右衛門、下屋敷村彦太夫、ソダメ(木偏に是)立村の六太夫が委任され、宮本と話し合った結果、翌年8月のお祭りから行うことに決まった。(写真)
最初の年は14疋であったが、年々増加し、寛文10年(1670)には24疋となった。
この年から、松平郷高月院を鼻馬とし、大給が二の切目、仁王が三の切目、ソダメ、柵沢(ませのさわ)、鍋田(なべた)、下平(しもだいら)梁山(やなやま)、下佐切(しもさぎり)、林添(はやしぞれ)日明(ひあかり)を四の切目として、ソダメをおさえ馬とした。 |
|
注4:
總代(そうだい)は、”四名 正保2年8月祭典に四名の委員を選び祭事処理せり、其の例今に至れる・・”
起倒流「棒の手」の演技 2005年 |
『郷社六所神社図記』 : 『棒の手』ご紹介 |
|
|