毎年、7月18日は蜂ケ峯祭が行われる。このときに村の班長とその他の役員が数人参加して、下宮で郷倉の中の資料を出して半日虫干しを行うのである。ここは、豊田市坂上町:旧・松平町字東宮口。
今年は、管理人がその役の一端を担うご縁に恵まれた。
虫干しをしながら、多くの資料の中から眼に付いたものは、3冊の古文書であった。
その一つは、以下に示す『郷社六所神社図記』であった。残念だが、記述された年代は判らない。
これは、豊田市から発行された資料に一部紹介されていたので、「おやっ?!」と、眼に付いた。
そのほかには、『六所大明神由緒(社掌:酒井高吉監修・明治35年1月)』及び『郷社六所神社由緒 三河八代記(梁山妙昌寺寶物由緒之写』であった。
後日、これらもご紹介させていただきたいと思っている。 ・・ 管理人:本田哲康(同神社氏子) |
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表紙:布張り・糸綴じ
神社の郷倉に保存されている、各種宝物の中に「郷社六所神社図記」がある。年に一度虫干しと点検が行われる。 |
第1ページ
「稜威リョウイ」とは、きわだった神霊の威光のこと。みいつ。▽日本では、天皇の権威をあがめていったことば。
(「漢字源」より)
右の図:
一番手前の家を、今でも”トリイの家”と称す。昔は、下駄屋を営んでいたという。また、宿屋もしていたそうな・・。 |
村の一の鳥居から六所山を望んだ図。 |
みたらしの瀧 |
本社 吉木の宮
六所神社
添え書き:
「安政五年の建築にして明治42年修繕を加ふ」 |
上左より、焙烙山、奥(の)院、本社、六所山。
中段:下の宮、地蔵院。その周辺に数棟の家がある。
ここに「宝庫」と書いてある。もう一つの字は判読できない。
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これが、御滝である。
本宮に登る入り口付近にある。
当時は、天然倒木の朽ちた樹木を滝口に使っていた様子である。ここで、禊ぎ。 |
安政五年(1858)に三河奥殿藩第八代藩主乗謨により修復されている。
その時の本宮の姿であることがわかる。
この絵では、灯籠が3対在る。
敷石は現在とは異なる。
また、灯籠は現在塀の内側になっており、膝の高さほどに、高くなっている。 |
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攝社(せっしゃ)
奥の院・蜂峯神社 |
集録者は、田中長領とある。 |
「謂われについては諸説があるので次に記す」・・とあった。
○「世良田大郎三郎 幼童の時に足利氏に忌まれたので (その)害を避け薙髪志徳阿弥と号して陸奥に下り、一宮塩竈明神を信仰した。年齢30歳ほどになって三河にまで来て松平郷に入る・・・」(汐尻)と。
○ 羽川於義著「六所祭神記(岡崎・明大寺)」によれば、六所とは無縁である。」と述べてある。・・・と。
また、。 |
「塩竈名勝考」・羽田野栄木翁著「神社私考」・「妙昌寺記」など、から関係の部分を抜粋して示している。
「六所山には六体の地蔵菩薩を安置していた(「妙昌寺記」)が、永禄年間に明大寺に分社する時に三体を分けたと・・(しかし)明大寺は明治の初めの頃、神官の某が三体とも川に流して捨て・・??(てしまった)といい」と、書かれている。
諸説は、実に様々である。
著者の踏査の跡がうかがわれる。
注:羽田野敬雄(栄木)は平田篤胤(あつたね)門下の国学者として知られ、「羽田八幡宮文庫」をおこし、その蔵書は一万巻以上におよび天下の学徒四方より集り、翁の教えをうけ、明治維新の大業にも大いにつくすところがあり、それらの蔵書は現在、豊橋中央図書館に納められている。 |
○勧請(かんじょう)は、永享7年(1435年)
当村の記録と「妙昌寺伝」によれば、徳川親氏の年代であるが、諸説があり定説がない。
しばらく待って識者の調査を望みたい。」・・・ とある。
正保2年は1645年である。
意訳:「この年まで、祭りは九月九日であったが、この年より8月19日に改め、更に明治6年9月17日~20日までの間としたが、また、9月19日に改めた。」
○ 氏子
「村記によると元は二百余の村であったが、今は大字にして47カ村。左記の字名が氏子である。」としてこの当時の字名が記載されている。 |
現在は、格子戸がはまっている。
祭神は
大巳貴命
(おほなむちのみこと)
日本武尊
大巳貴命は、出雲大社と同じ祭神である。大巳貴命は又の名を大國主命。
時代と権力の変遷跡を伺うことができる。 今、村人は「隠居神」と呼んでいる。
その奥には、「蛇神」が祀られている。
***
加茂族と共に、この地に移り住んだ神だとも思う??!
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意訳: 「六所神社は宮口村の祀る最も古い社だと思う。里人の依頼受け図記を作るに当たって、その六所を訪ねた。各所それぞれ祭神が異なっているのを知った。私は唯、見聞したことをそのまま絵図に表して記録し、あえて個人的な判断を加えないで著し、後日識者の参考になればと思う。」
○ 祭神
猿田彦神
事勝國勝長狹神
岐 神 |
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○ 祭典・・判行式
種蒔祭 |
期日と「御輿渡り」 |
式典の行列図 |
塩水打ち |
参加した字名 |
※ 判行式
「領主と役人列席し判行堂において参詣の人々それぞれの席にすわり、 領主が神爾を取り上げて参詣人の額に捺したが、今はない」と、。「『判行堂は、今の拝殿だ』と、説明されるが、・・・。別の説もあるので、後で記す」と在った。
※ 種蒔祭
「昔から正月6日に行ったが・・・」
村に『判行前』という地名がある。 |
「昔は、1月6日と3月6日の二度行っていたが、近頃になって隔年に1月6日或いは3月6日とした。この時に、糯(もち)米を”稲穂”と称して神前に供え、・・」
祭りの回数と、期日。お供え物の品。
興味深いのは、「糯米(もちごめ)」は、隣部落「正作(仁王と真垣内:まながいと)」の間の部落の住人3名が納めることになっていた。 粂三他二名。(明治5年まで) |
○ 御輿渡りの様子が示されている。
先駆は、当村の麻の上下を着用し青竹の杖をついて先導した。 |
その後ろには、2名の白丁を着た「塩水打ち」。
清めの水である。
その後を、各大字の代表が字名を書いた小旗を持って二列に続いた。(右)
上下は麻製の着衣。
元は二百余りの村が参加したそうであるが、この書を編纂する頃には47カ所の村。
東宮口、真垣内(まながいと)、南篠平(ささだいら)、日明(ひあかり)、所石(ところいし)大楠(おおぐす)、築山(やなやま)、提立(そだめ)、下屋敷、杉木(すぎのき)、仁王(におう)、正作(しょうさく)、羽明(はあす)、二口(ふたくち)、大津、茅原(ちわら)、大田(だいた)、 |
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下河内(しもごうち)、大給、九久平、曲(まがり)、鍋田、中、中垣内(なかがいと)、桂野、川向(かわむき)、七売(なのうり)、瀧脇、長沢、松平、岩倉、六ツ木(むつぎ)、赤原(あかばら)、西野、白瀬、<ここまでが松平> |
下平(しもだいら)、岩谷(いわや)、平折(ひろり)、○原田、栃本、國谷(くにや上・中・下)、佐切(さぎり上・下)、上脇(かみわき)、國閑(かいご)<ここまで盛岡> |
花沢(はなざわ)、名牛(なぎゅう) |
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秋祭り |
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神寶 |
楽 |
巫女(みこ) |
御輿 |
神馬 |
神寶は、当時、当村の子供たちが白丁を着用して務めたようである。
現在は、村の老人たち。 |
楽は8人。今も杉の木村の人々に依頼している。彼らには、楽に技術が先祖代々受け継がれている。 |
巫女は、聖女が6人。そして、警護の役。
現在、少子化に悩んでいる。 |
祭りの前日、吉木山(六所山)の本宮より、宮司の背に負われて、村の休石(やすみいし)辺りまでお下りになる。そこからこの御輿で、下宮にお運びする。 |
昭和の初期には、神馬を近くの農家にお借りして、祭りに備えて事前に村にて飼育した。
祭りの後にお返しした。
今、今は居ない。 |
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神官 |
祭主・領主 |
総代:4名 |
献馬 |
献馬の順序 |
今、神官は数名。
今も、氏子総代は4名である。
しかし、絵の白丁の4名は、『神さん係り』と言う村役。氏子総代ではない。 |
これは奥殿城主か? |
正保2年(1645年)以降4名が務めているという。
これは今も変わらない。 |
「正保3年(1646年)以降行うこととなった」・・・とある。茅原、大津、下屋敷、提立村の4名に委任して献馬を依頼したと記されている。
これは、「提立村奮起」によると、正保二年麻疹(はしか)が流行した時に六所神社に祈ったら、その霊験あらたかだった事によるものであるという。
寛文10年は(1670年)「提立(そだめ)奮記」が書かれた様子で、これには、上記のように書いてある。「その年、馬が14疋なり。」とある。
慶安二年(1649)馬を疋回し、それより年々増加して寛文10年(1670)には馬数24疋となれり・・」その年より馬出し4切りに定め・・云々」。 |
「松平郷 高月院を鼻馬とし大給が二の切り目。仁王が三の切り目、提立・棚沢(?)・鍋田・下平・築山・上佐切・林添・日明は四の切り目そして「押さえ馬」として提立・・・云々。」」と、記述してある。
1858年、将軍が死亡した歳には献馬を控え、以後は、松平組合・提立組合の二組に切り目を付けたとある。これによって、仁王・提立の歴史的関連を示唆しているように推定でき興味深い。
注: 安政五年は1858年である。 |
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余 興 |
棒の手 |
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余興で、空砲が撃たれた。
これは、昭和18年生まれの小生も、若衆時代に祭りに望んで、年頭の家で沐浴をし、若衆全員が前夜合宿して精進し、当日は御輿・そして空砲を撃った記憶がある。 |
「棒の手」は、現在大楠(石南)の部落に流派として継承されているが、この図では『各字から若者』が参加した様子である。
当時は、皆、その心得があったと推定できる。 |
図記編纂の頃には、その棒の手に参加する若者たちは、本物の武器を用いた様子である。
意味深い。 |
これに従って、陣笠・陣羽織を用いたと記されている。
右の「沿革」に曰く、
六所神社は、「提立(そだめ)奮記」によると、この部落の古社と言う所に初めて祠(ほこら)を建て、その後日明村の炮烙山に移し、次に蜂峯神社に合祀し、その後現在の吉木山に移し奉る云々」とある。
提立(そだめ)村→日明村・・・・やがて現吉木山との、現六所神社移動の言い伝えがあるという。 |
○ 「沿革」を推察
永和3年(1377)に、松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)が、加茂の地に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀してから、念願の地に安置するまでの間、地元権力者との融和の期間が必要だったのかもしれない。
・・・管理人はそのように推測する。 |
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神社造営と焼失。
永享7年創建(提立(そだめ)奮記)
文明6年(1785)再建。
永正17年(1520)修繕。
大永7年(1527)焼失。
奉加帳文書提出。
文禄年間に、明大寺町に六所明神を分社勧請。
棟札によると、その後、吉木宮造営数回に及んだ。 |
左記の記述年代は以下のようである。
元和3年(1617)。
寛永15年(1638)
慶安3年(1650)
寛文7年(1667)
天和3年(1683)
貞京4年(1687)
寛保2年(1742)
安永8年(1779)
安政5年(1858)
・・と記してあった。
何故だろうか??
当時の社会を(下記)ちょっと見てみたい。 |
前頁の、
寛保2年は1742年。
永正3年(1506)には、備前長船が寄進されている。
天正9年(1581)には武田信玄から贈られた寶劔が・・・。
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現存しているものが少ない。
過去にどのような事情があったことか??
けだし、残念である。
鰐口(わにくち)を、松平家の女中が寄進している。
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左右の写真は、武田信玄から贈られた寶劔。
刀身の根本に、”南無妙法蓮華経”と、微かに読み取れる。 |
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LINK 地域の歴史 ~ 1000 |
◇ |
1367 |
貞治 |
6 |
高月院建立 |
高月院、足助次郎重宗の子、重政(寛立上人)が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立。 2/高麗、倭寇禁止を要求。 |
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◇ |
1377 |
永和 |
3 |
松平太郎左衛門親氏、吉木山(現・六所山)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。 |
8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山(又は芳樹山と称す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ケ峰神社となった。注:社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。「寂静寺」親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。 '8/菊池武朝、北朝軍に大敗。高麗、倭寇禁止を要求。 |
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◇ |
1506 |
永正 |
3 |
親忠に続く、長親、信忠の代まで家督をめぐる内訌。
古瀬間城、この頃以前に築城。 |
古瀬間城:志賀町城山、この頃、加茂郡(豊田)に進出を目論む松平氏は、岩津城主長沢松平源七郎勝宗の庶子弥三郎宗忠をして、南古瀬間村に出張り、村長(むらおさ)鈴木左京亮重政ともども、新城街道を押さえ、高橋荘攻略の拠点として築城『竜田院文書』。 今川方伊勢長氏、客将伊勢宗瑞(北条早雲)と共に三河に侵入牧野氏の今橋城(後の吉田城・豊橋)を陥落させ、西三河に侵入、松平一族と戦う。(数年に及ぶ)長親、今川勢を退けるが、岩津宗家が滅ぶなど、松平一族は多くの犠牲を払った。こんな中で、名実共に松平総領家となった安城家でさえ長親・信忠の代には家督をめぐる内訌があった。本願寺の強大な三河教団が形成されていて、戦国大名に対抗する程の勢いであった。今川氏の侵入を撃退し検断不入といって、警察権や裁判権を持つという特権を得ても居た。後に、家康が弾圧を試みて、一向一揆に発展する。 7/北陸に一向一揆 |
◇ |
1581 |
天正 |
8 |
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家康、武田勝頼との攻防の末、高天神城を陥落し、遠江から武田勢を一掃する。 前田利家、能登に封じられる。 |
1582 |
天正 |
9 |
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岡崎市細川町の松明院、大給松平氏の菩提寺として建立された高祖寺、松明院としてここに移転。 3/天目山の戦い。武田氏滅亡。5/備中高松城水攻め(羽柴秀吉)。6/2本能寺の変。織田信長(49才)、明智光秀に殺される。6/秀吉、光秀を山城国山崎で破る(山崎の戦い)。6/27織田氏の諸将、清洲城で信長の継嗣・遺領処分を合議する。織田信長、尾張・伊勢・伊賀を領有する。7豊臣秀吉の検地始まる。前田利家、本能寺の変以後柴田勝家と羽柴秀吉の対立で、最終的に秀吉側に着く。 |
◇ |
1616 |
元和 |
2 |
家康、太政大臣就任。没(75才) |
4/家康没(75才)。7/徳川義直、、駿府より初めて名古屋に入国。武士も移住する(駿府越え)。成瀬之成、足助1.5万石を領す。水野忠清、上野小幡1万石より刈谷に移り2万石を領す。10/人身売買・タバコ栽培の禁。 家康、太政大臣就任。修験者:木喰、金峯山の山上蔵王堂を再興。 |
1617 |
元和 |
3 |
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西尾藩主本多康俊、近江膳所3万石へ転封。松平成重、下野板橋より西尾に移り2万石を領す。 この年、成瀬正成犬山城主となる。 日光東照宮建立(家康、東照大権現の神号受ける。)。狩野探幽、幕府の絵師となる。3/吉原遊郭開設許可。 英人コックス・朝鮮使来朝。 |
1618 |
元和 |
4 |
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松平家信、形原1万石を領し、形原藩成立。 |
◇ |
1637 |
寛永 |
14 |
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1/25尾張藩百姓の他国日傭稼ぎを禁ずる。10/島原の乱。このときに、女子供を含めて4万人が惨殺された。天草四郎は豊臣秀頼の子であるという説が伝わって(豊臣家の子孫説は、歴史的に証明できる資料も多々ある)、春日局(父は、明智光秀の甥)の指令であったという。明智光秀は、豊臣家に滅ぼされた過去がある。(本能寺の変1582) |
1638 |
寛永 |
15 |
ガリレオ(74才)研究の集大成を「新科学対話」として著す。
島原の乱終結 |
1/深溝藩主板倉重昌、島原の乱の征討大将として原城を攻撃、戦死する。下野山川藩主太田資宗、西尾に移り3.5万石を領す。伊保藩主丹羽氏信、美濃岩村2万石に転封。以後、幕領。沢庵(1573~1645)東海寺の開山となる。 |
◇ |
1649 |
慶安 |
2 |
江戸大地震 |
岡崎領内で検地実施。刈谷藩主松平忠房、福知山4.5万石へ転封。熱田新田完成。 松平定政、伊勢長島より刈谷に移り2万石を領す。慶安の御触書を発布。 |
1650 |
慶安 |
3 |
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木津用水完成。犬山祭り始まる。犬山市針綱神社。13台の山車の上でからくり人形。 |
1651 |
慶安 |
4 |
鳳来山東照宮竣工 |
7/刈谷藩主松平定政、家光の死に殉じ出家。旗本救済、所領返還を願い出て除封される。稲垣重綱、越後三条より刈谷に移り2.3万石を領す。 この年、鳳来山東照宮竣工。本殿前の手洗用石造物は、同年9月17日 従五位と記されている。 7/由井正雪の乱。12/末期養子の禁緩和。 |
◇ |
1666 |
寛文 |
6 |
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江戸町人伏見屋又兵衛、矢作川河口に新田開発を出願。竹腰三信、田原湾岸に石塚新田を開く。 |
1667 |
寛文 |
7 |
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岩倉山長慶寺:十一面観音(吉ケ入)この地に移る(開山は、寛永元年)。 田原藩領の収納に干し鰯納がみられる。 |
◇ |
1683 |
天和 |
3 |
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本多忠周、足助藩1万石を領す。赤坂に代官役所設立。 岩手山、たびたび爆発。 |
1684 |
貞享 |
1 |
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9/名古屋城下人口54,118人家数5,986軒とされる。松平紀次、奥殿藩1.6万石を領す。11/芭蕉七部集「冬の日」。 渋川春海、貞享暦を撰す。 |
◇ |
1686 |
貞享 |
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西鶴「好色五人女」。:岩手山2/29~3/半ばにかけて有史以来の大噴火。大火砕流は山麓から北上川にまで及んだ。 |
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1687 |
貞享 |
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1/生類憐れみ令を発布。 ニュートン万有引力の法則発見。 |
◇ LINK 地域の歴史 ~ 1700 |
1742 |
寛保 |
1 |
松平町稲場下の稲荷社に石灯籠、松平太郎左右衛門家墓所に石灯籠。松前方面に大島噴出 |
2/松平町稲場下の稲荷社に石灯籠『奉献 稲荷大明神御寶前』 4/17松平町生ケ塚の松平太郎左右衛門家墓所に石灯籠『奉建石灯籠太郎左右衛門 9代信和以降の墓所』 1/2名古屋大火。日置橋から7Km消失。噴火により人家漂没。魚鳥・蔬菜の売り出し時期を限定する。 本居宣長、伊勢の紙商今井田家と離縁。 |
1743 |
寛保 |
2 |
2/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。洪水・風水害(寛保の洪水) |
2/吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、奥の院改築。 寛保の大洪水:大阪周辺に上陸し中部・関東を経て東北地方に出、三陸沖に抜けた台風。京畿その他洪水死者多し。江戸洪水。隅田川などが溢れ各所で浸水。3,900人が溺死。また、信濃では千曲川が溢れ流域住民が大被害。特に小諸町では、武家、町方合わせて500人が流死した。東国大風水害諸城大破。京都積雪1.8~1.9尺。4/公事方御定書成る。 |
◇ |
1778 |
安永 |
7 |
三原山噴火。京都大雷雨。山崩れ。ロシア船、北辺に来航 |
岡崎城火災。京都山崩れで600人死。6/ロシア船、蝦夷地に来航。松前藩に通商を求める。長崎貿易輸出不振につき俵物の生産を奨励。 |
1779 |
安永 |
8 |
6/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。東国風水害。 |
6/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)東宮口六所神社、奥の院改築。7/23大風雨、破堤(藩史)。8/川端決壊(上郷町史)。8/25村々大雨、矢作川満水。破堤。田畑水腐(藩史)。11/3度々の出水で破堤。田畑損耗。城内浸水。樹木台へ引っ越し。御用番へ堤修繕費等願書進達。(藩史)。 7/碧海郡高棚村 ほか3カ村で助郷反対運動。10/17旗本領碧海郡安城村庄屋中川覚左衛門、救民を願い出て自害する。8月江戸出水。10月桜島噴火・三原山噴火。12/松前藩、ロシア船の通商要求を拒否。 |
1780 |
天明 |
1 |
6月関東洪水。 |
6/大水害(平井本郷教会蔵「平井村阿弥陀堂之伝」)。 8/大阪に鉄座、京・大坂に真鍮座。 |
◇ LINK 地域の歴史 1700 ~ |
1857 |
安政 |
4 |
松平町大西・長福寺墓地に念仏塔。駿河静岡地震(M6.3)。 |
松平町大西・長福寺墓地に念仏塔(角柱)『岡崎宿伝馬町 大阪屋藤吉』 6/13名古屋城下の八百屋商人、下小田井青物問屋を押さえフゴ荷商人を支配する。9/2田原藩建造の洋式船順応丸進水。以後、江戸・田原間を往復。11/13下小田井青物問屋、再興を許可される。 この年、田原藩の様式船順応丸完成し、江戸ー田原間を往復する。 江戸風邪流行。4/幕府、軍艦教授所設立。5/ハリスと下田条約。10/ハリス、通商開始を要求。 |
1858 |
安政 |
5 |
東海その他地震。 |
4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。これは、尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(~59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。 8~9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。 |
1859 |
安政 |
6 |
坂上町的場・豊栄神社南東に馬頭観音 |
宮口・郷倉の竃(現在、五平餅作りに使用)この年に作成・鋳造。 9/20坂上町的場・豊栄神社南東(県道沿い)に馬頭観音(舟形立像)。江戸大火。オランダ船品川に初めて来航。5/神奈川・長崎・箱舘の3港で貿易を開始。7月コレラ流行、米価高騰。10/吉田松陰(松下村塾、荘孟の思想)29才で刑死。 ダーウインの「種の起源」出版。 |
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奉加帳の写しである。実物写真は、別の頁にお示しした。
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祭りが近づくと、御札が立てられて、お達しがされた。
「喧嘩を慎め
賭博をするな!
このことをよく守るべし! 奉行」 |
立て札の大きさも定められていたようである。
なお、後半は、神社の宝物の一つ武田信玄公よりの書状である。 |
小幡又兵正栄に、武田信玄が宝劔を一振り贈っている。
これは、今も、神社の或る場所に大切に保管されている。 |
正保2年(1645)麻疹(はしか)流行のこと。
文亀3年(1494)大干ばつ。
その他の霊験が現れることを述べてある。 |
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日清戦争の頃には、毎日戦勝祈願のための登山者が千人を超えるほどで、その人々は日夜を問わず続いたとのことであった。
参詣者は、御札を受けこれを戦地に郵送した。
それに対応するために、神職1名氏子惣代2名が昼夜詰め切り事務に当たったと記されている。 |
○ 雑
下宮のエピソードが書かれている。
一 遙拝所の不動明王は、明治4年以降攝社。熱田神社と尊号し日本武尊を祀ること。
一 判行堂の由緒が今ひとつ判然としないこと。
一 宮口村の伝兵衛・忠六・権六の三名が田を開墾してからこの村は豊かになったこと。 |
また、左記には蜂峯神社の近くに神水井戸という清水の湧き出る場所があり、ここの左右に神木と言われる雌雄の杦(すぎ)の二本の老木があったが、明治24年頃までに枯れてしまったことは残念である。
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吉木山→芳樹山・六所山の名前の謂われ。
徳川親氏公写経のこと。 |
上の図に示されている菩薩像が、右のものである。
とても気品に満ちている。
地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。
また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
古(いにしえ)より、村人たちは、、『子抱き地蔵』様と称して、毎日交代で御前に座り般若心経を詠み拝んでいる。 |
「安阿弥定朝の作」と、左上の頁(No.44)に説明がある。 |
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【宮口村の六地蔵】
写真N0.45に三体の地蔵の図がある。
下に「この三体の地蔵菩薩は元(元は)山上の六所明神本社内に安置せしところなりしを明治維新当時に地蔵院に移せしなり、もと六体なりしを永禄の頃明大寺村へ分社の時三体を分けたりと言う」・・と。
そして酒井家の二人が明大寺の安松院に行って住職に確かめたが、彼は「古老の言うところに従えば確かに明大寺に安置された事は間違いない。しかし、明治維新の際にどこに移したか行方知れずである。」と。「一体は岡崎市の天台宗極楽坊にあるらしい。」との情報を得て確認したが、該当の地蔵ではなく上の「子抱き地蔵」に似ていた。ようであった。 |
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代々神職を務めたという酒井家のことが記述されている。
過去には、この村に酒井一族は五戸あったそうであるが、この書を編纂する頃には3戸に・・・・・、そして現在は1戸になっている。
宮司職は、行っていない。 |
「六所神社図記終」
・・・で終わっている。
残念だが、記述された年代は判らない。
No.33の短刀が寄進された期日が一番新しい。
従って、この図記の作成は、明治40年9月以前ではない。 |
そのほかに、
『六所大明神由緒(社掌:酒井高吉監修・明治35年1月)』があった。
後日、これもご紹介させていただきたいと思う。
(右)→ |