六所神社の行事など
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・本宮    六所への参道・お滝     里の歴史など       


☆ 1年間の主な祭典・神事 ☆
1月1日 歳旦祭 中祭 7月18日 蜂ケ峰神社祭 Link 虫干し・神社図記 中祭
2月11日 祈年祭、秋葉神社祭、山の神祭Link 大祭 8月1日 月次祭 小祭
3月1日 月次祭 小祭 9月1日 二百十日祭、熱田祭 中祭
4月1日 同・責任役員就退任報告祭 中祭 9月23日 例祭・神迎え神事、前夜祭Link 大祭
5月1日 月次祭 小祭 10月1日 月次祭 小祭
6月1日 月次祭 小祭 11月23日 新嘗祭 Link 大祭
6月30日 夏越(なごし)の大祓式 12月31日 大晦日の大祓・除夜祭・
御焚上式
 Link→ ”村”について Link→  里の歴史
Link→  参道入口&御滝 Link→ 上宮・本宮のこと
Link→  参道から上宮へ Link→  蜂ケ峰祭と蛇神
Link→祈年祭、秋葉神社祭、山の神祭 Link→例祭・神迎え神事、前夜祭
Link→ 新嘗祭と五平餅 Link→  虫干し 『郷社六所神社図記』



大祓式    12月31日                                              
 全員が、大祓の詞を合唱することになっている。 そして、人型の紙に吐息を吹きかけて、厄払い。  人型の紙を係が集めて、・・・・
 その後、大祓の祝詞が・・・・・。

 全員でナオライをして、御神酒を頂く。

 大 祓 詞おおはらえことば 
                    
 ☆ あらまし
 
人は「みたまふり」によって良く勇気を鼓舞し、生活を打開向上せしめ、「みたましずめ」によってよく優情や叡智を養って、人生をまっとうし、神ながら(惟神、神随)に進めるのであります。抽象的思惟のまだ発達しない、そして本来、あまり抽象的思惟を重んじていなかった古代日本人はこの「鎮魂」にも外国宗教の同様な事例に較べますと、ずっと具象的でありまして、剣や鏡や玉や比禮(ひれ)を用いました。
 しかるに、現実の人間生活はなかなか神ながらに参りません。
イ 自然に起こる災い
ロ 忌まわしい汚れ
ハ 知らず知らずに行われる過ち
ニ 心弱くあるいは邪に走って犯す罪 ・・などの「まがごと」に満ちております。
 光明を求め清浄を愛する日本国民はこれに絶えずして、しかも懺悔
(ざんげ)というような陰気なことでなく、あくまでも積極的にかつ具体的に、その身を洗い浄める行為「禊(みそぎ)」を行い、さらには神の威徳によってこのような諸々の「まがごと」を一掃し解脱しようとする「祓(はらい)を行うことになりました。この「みそぎ」「はらい」の始まりである有名な話は、黄泉(よみ)の穢(きたな)い国から引き返してきた「いざなぎの命」が竺紫日向橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはら)にいでましてなされたことであります。
 後に仏教の自力難行道の聖道門、他力易行道の浄土門のわが国に起こる素質は、早くもこの「みそぎ」「はらい」に窺
(うかが)われるではありませんか。
 大祓によりますと、すべての天津神・国津神がいずれもこれを司られますが、中でも特に山川の瀬にいますという「瀬織津比
(せおりつひめ)」がすべて海に流し出したまえば、、大海原の波の間にいますという「速開都比(はやあきつひめ)」がこれを引き受けて呑み込み、それをば蒸発するところ、息吹き戸にいます「いぶきどの神」が根の国、底の国、すなわち本原の世界に発散してしまって、最後にその本原世界、無の世界にいます「速佐須良比(はやさすらいひめ)」がこれを融合消化してしまうことになっております。実に晴れ晴れしたものではありませんか。
 しかもこの祓いは人の一身ばかりではなく、
「すめまのみこと皇御孫之命の朝廷
(みかど)を始めて、天下四方国(あめのしたよものくに)には罪という罪はあらじ」
 と、祓い猿のであります。
    「日本精神通義  ー日本の「こころ」を活学するー」 より

                    
 ☆ 大祓いの言葉

 高天原(たかまのはら)に神留坐(かむずまりま)す皇(すめら)が親神漏岐神漏美命(むつかむろぎかむろみのみこ)以(も)ちて八百万神等(やおよよずのかみたち)を神集(かみつど)へに集賜(つどへたま)(イ)神議(かむはか)りに議賜(はかりたま)ひて我(あ)が皇御孫命(すめまみこと)は豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を安国(やすくに)と平(たいら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよさしまつ)りき。

 此
(か)く依奉(よさしまつ)りし国内(くぬち)に荒振(あらぶる)神等(かみたち)をば神問(かむと)(ワ)しに問賜(とわしたま)ひ神掃(かむはら)(イ)に掃賜(はらいたま)ひて語問(ことと)(イ)し磐根樹根立草(いわねきねたちくさ)の片葉(かきは)をも語止(ことやめ)て天(あめの磐座放いわくらはなち)(あめ)の八重雲(やえぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別(ちわき)て天降(あまくだ)し依奉(よさしまつ)りき。

 此
(か)く依奉(よさしまつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を安国(やすくに)と定奉(さだめまつり)て下(した)つ磐根(いわね)に宮柱太敷立(みやばしらふとしきたて高天原(たかまのはら)に千木高知(ちぎたかし)りて皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みず)の御殿仕奉(みあらかつかえまつ)りて天(あめ)の御蔭日(みかげひ)の御蔭(みかげ)と穏坐(かくりま)して安国(やすくに)と平(たいら)けく知食(しろしめ)さむ国中(くぬち)に成出(なりいで)む天(あめ)の益人等(ますひとらが過犯(あやまちおか)しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごとは天(あま)つ罪国(つみくに)つ罪許許太久(つみここだく)の罪出(つみい)でむ。

 此
(か)く出(い)でば天(あま)つ宮事以(みやごともち)て天(あま)つ金木(かなぎ)を本打切(もとうちき)り末打断(すえうちた)ちて千座 (ちくら)の置座(おきくら)に置足(おきたら)(ワ)して天(あま)つ菅麻(すがそ)を本刈断末刈切(もとかりたちすえかりき)りて八針(やはり)に取辟(とりさ)きて天(あま)つ祝詞(のりとの太祝詞言(ふとのりとごと)を宣(の)れ。

 此
(か)く宣(の)らば天(あま)つ神(かみ)は天(あめ)の磐門(いわと)を押披(おしひら)きて天(あめ)の八重雲(やえぐも)を伊頭(いつの千別(ちわき)に千別(ちわき)て聞食(きこしめ)さむ。国(くに)つ神(かみ)は高山(たかやま)の末短山(すえひきやま)の末(すえ)に上坐(のぼりま)して高山(たかやま)の伊褒理短山(いぼりひきやま)の伊褒理(いぼり)を掻別(かきわ)けて聞食(きこしめ)さむ。

 此
(か)く聞食(きこしめ)してば罪(つみ)と云(い)(う)(つみ)は在(あ)らじと科戸(しなど)の風(かぜ)の天(あめ)の八重雲(やえぐも)を吹放(ふきはな)つ事(こと)の如(ごと)く朝(あした)の御霧(みぎり)(ゆうべ)の御霧(みぎり)を朝風夕風(あさかぜゆうかぜ)の吹払(ふきはら)ふ事(こと)の如(ごと)く、大津辺(おおつべ)に居(お)る大船(おおふねを舳解放(へときはなち艫解放(ともときはな)ちて大海原(おおうなばら)に押放(おしはな)つ事(こと)の如(ごと)く、彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を焼鎌(やきがま)の敏鎌以(とがまも)ちて打払(うちはら)(う)(こと)の如(ごと)く、遺(もこ)る罪は在(あ)らじとと祓(はら)え給(たま)(い)(きよめ)(たま)(う)事を高山(たかやま)の末短山(すえひきやま)の末(すえ)より佐久那太理(さくなだり)に落多岐(おちたぎ)つ速川(はやかわ)の瀬(せ)に坐(ま)す瀬織津比売(せおりつひめ)と云(い)(う)(かみ)大海原(おおうなばら)に持出(もちい)でなむ。

 此
(か)く持出(もちい)でなば荒潮(あらしお)の潮の八百道(やおじ)の八潮道(やしおじ)の潮の八百会(やおあい)いに坐(ま)す速開都比売(はやあきつひめ)と云(い)ふ神持加加呑(かみもちかかの)みてむ。

 此
(か)く加加呑(かかの)みてば気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と云(い)(う)(かみ)根国(ねのくに)底国(そこのくに)に気吹(いぶき)(はな)ちてむ。

 此
(か)く気吹(いぶき)(はな)ちてば根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐(ま)す速佐須良比売(はやさすらひめ)と云(い)(う)神持佐須良(かみもちさすら)(イ)(うしな)(イ)てむ。

 此
(か)佐須良比(さすらひ)(うしな)(イ)てば罪(つみ)と云(い)(う)罪は在(あ)らじと祓(はら)え給(たま)(い)(きよめ)(たま)(う)事を天(あま)つ神国(かみくに)つ神八百万神等(かみやおよろおずのかみたち)と共(もと)もに聞食(きこしめ)せと白(もう)す。
[八百万神等(やおよよずのかみたち)]・・・・とある。
「古事記」の一部を思い出した。  さて、ところで、・・・
歴史家 松本健一氏(麗澤大学国際経済学部教授。 1946年生まれ。68年東京大学経済学部卒業。京都精華大学教授を経て現職。評論・評伝・小説など多方面で活躍。著書:『砂の文明・石の文明・泥の文明』)は、世界の文明を以下の三つに分けている。
> >  @ 砂の文明 → イスラムの本質「ネットワークする力」
> >  A 石の文明 → 欧米の本質「外に進出する力」
> >  B 泥の文明 → アジアなど:「内に蓄積する力」


面白い話ですね。
             日本人のこころの中に、一神教の思想は芽生えにくい。・・・・という。
 松本健一氏は、宇宙進化論の松井孝典氏との対談で、『泥』からいろんな神が生まれる思想が根底にある。と、述べていました。


2004年1月元旦   歳旦祭・・新年の式                        
 2004年がこの村にも来た。

 大晦日に大払式。そして、一月元旦の歳旦祭。

 皆、健康でお互いに歳を取って、顔にシワが増し

て来た。

 村の皆が、幼い頃からの馴染みである。

 神社を巡って、村の行事は毎年変わりなく繰り返さ

れるが、それぞれの家族と、こころの中身は共に変化

してゆく。


 時代は明らかに変化している。


 毎年の行事だが、何気ない話も楽しいものだ。

 親交を暖めて、家に帰る。

 家では、それぞれの家族が待っている。
 新年の祭礼の御神酒を頂きしばしの談笑。  地蔵院に参拝して、それぞれ家庭に帰る。






・・・・六所神社・・・・新嘗祭の様子 <11月の神事>          

 
村人の心の支えは、何と言っても六所神社です。みんなの共通のバックボーンといっても過言ではない。
 氏神様・六所神社は、愛知県三河三霊山の一つに列せられ、鳳来寺山・猿投山と並んで、今も地域一帯には崇敬者が多い。
 氏子を代表して、「氏子総代」が五名が中心となって、毎月一度例祭を行い、そのほかにも大祭が実施される。 想えば、もう、何百年も前から脈々と続いてきたこの文化と里山の風土を、何とか維持し一層豊かな場所にしたいものです。
 里山の自然と、郷の人情のありさまをお伝えできたら幸いです。
 およそ400年前に、岡崎にご神体の一部を移されている。

 ここは外宮。下宮(したみや)。秋祭りの模様をご紹介します。
11月23日 新嘗祭の様子です。
 
   ☆ 霜月(しもつき) → 11月
                       
霜月や日ごとにうとき菊畑     高浜虚子

霜月の水かがやけり咳ばかり   桂 信子

後山へ霜降月の橋を踏む     飯田蛇笏
                       
 十一月は異称で霜月である。この霜月の呼称は古くから見られる。『日本書紀』の「神武天皇紀」に「冬、十(し)(も)(つ)(き)」とある。
 さて、霜月の語源は「霜降り月の約という説がそのまま踏襲されて、異説を見ない」とか、
 「この月に霜いたく冴ゆるによりて、霜月という」などだ。

 ほかに「シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから」とか「十月を上の月と考え、それに対して下月
(しもつき)といったものか」などの説がある。


 では、霜月の元の「霜」の語源は何か。これも例によって諸説がある。
 「草木がシボム(萎)ところから」とか、「シミ(凍)に通ずる」「シはシロ(白)、モはサムイ(寒)の意という」等々である。

 ところで、霜は「降る」か「置く」か。
 古代では、霜は「置く」より「降る」が多い。


旅人の宿りせむ野に霜降らば        
    わが子羽含
(はぐく)め天の鶴群(たづむら)

 ・・・・  
遣唐使の随員の母 万葉集九巻

時代を超えた、子を思う母の情に心を打たれる。


☆ 新嘗祭 ☆
 
      8:00 下宮集合
○ 各戸・・新米7合持参。
○ 村内の4カ所に分散した地の神に捧げもの。
  二班に分かれて、参拝する。
○ 一部は残って下宮を清掃する。
△ そうこうする内に、女房達が持参した米を
  炊いて御幣餅(五平餅)を作る。
○ 男衆は、幟を立てて、釜を設える。
   そして新嘗祭の神事。
△ 村の健康な住民は、全員が集まって、会食
  する。

 この上なく、愉しい一時だ。
 今年も健康で、ここに参集した。飲んだり笑っ
て日頃の何でもないことなどを、話し合う。・・・
・、これが愉しいのだ。


御幣の形をした状態に、焚いた飯を半練りにして串に付ける。新嘗祭の準備中女性達の仕事になる。


 式場の内部の様子。
 神殿の扉はまだ閉められている(左下)。献餞ものを供え、宮司さんの「オ〜」と言う発声と共に、軋む音がして、白い御簾が現れる。
 『宮口村中 安政六年』の釜を、
毎年今でも使っている。
 凶作続きの年が続いた頃、この下宮の”郷蔵”から備蓄していた米を出して、炊き出しをしたに違いない。
 村の夫婦が中心となって、御幣餅(五平餅)を作る。漬け物は、各家の味を持ち寄る。
 酒が、ビールが出て、みんなで語り合う。
 我が村の”新嘗祭”。

 
食べ物が不自由なく食べられると言うことは、奇跡に近いほど、歴史は飢餓の時代の連続であった。

安政六年と言えば、                                     
安政5年
1858
4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。これは、尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(〜59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。 8〜9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。
安政6年
1859
宮口・郷倉の竃(現在、五平餅作りに使用)この年に作成・鋳造。 9/20坂上町的場・豊栄神社南東(県道沿い)に馬頭観音(舟形立像)。    江戸大火。オランダ船品川に初めて来航。5/神奈川・長崎・箱舘の3港で貿易を開始。7月コレラ流行、米価高騰。10/吉田松陰(松下村塾、荘孟の思想)29才で刑死。   ダーウインの「種の起源」出版。
安政7年
1860
5/洪水。小栗新田では堤防流失し一面海となる(挙母市資料)。5/12大風雨。矢作川洪水(1丈9尺)市中浸水(高9尺・低1尺6分)救船で立ち退き。漬家109軒、倒木138本、家屋浸水243軒(藩史)。5/17大風雨。矢作川洪水。挙母村浸水(郡誌)。 11/設楽郡川合村で米商人排斥運動おこる。  関東地方の浮浪人取り締まりをす。高知山藩に一揆(1.8万)。3/桜田門外の変。
今は昔のことである。しかし、当時の釜を、今、なお使っている。





神社の歴史      (歴史などの資料)
1377年
(永和3年)
創建:1377年(永和3年)8月19日松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)、吉木山(又は芳樹山と記す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
 ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神
(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。

 
それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。
その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ケ峰神社となった。
                      
注:社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。

 一山越した隣の村には「高月院」がある。創建の当時は「
寂静寺」と称されていた。

親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。
ちなみにこの時代には、8月菊池武朝が、北朝軍に大敗。高麗、倭寇禁止を要求など。



☆ 年貢免除の嘆願書だ。(1736年10月)
        
                                  
 
1734 中御門 享保 19 前年度より飢餓民救済者に報償/小田原城下・対馬城下火災。
1735 中御門 享保 20 日光・守山に地震 米価下落により最低価格決める。(江戸1両1石4斗) 4/25刈谷藩が領内の総検見を命ずる。この年までに加茂郡大林村・碧海郡尾崎村などで 貢租減免運動おこる。
1736 桜町 元文 1 8/17三州岡崎大雨につき、矢作常水に9尺4寸増水し、田畑21,287石、堤決壊242間、被害多し(矢作川)。10/宮口村、年貢免除の嘆願書。  享保の改革(第三段階=種々の国家制度の充実。制度や儀礼の重視などで安定した幕府体勢の形成。)5/金銀改鋳。米価最低価格引き上げ(昨年より3度目)。米の安売り厳禁。
1737 桜町 元文 2 5月江戸大火
1738 桜町 元文 3 江戸市内宅地でのたばこ禁止。5/磐城平元文一揆。7/尾張藩内の市に市日をたてる。8/関東新田の開墾を勧める。 10/1刈谷藩領の農民、新しい方法による検見に反抗して一揆を起こす。検見中止。藩役人3人処分。
1739 桜町 元文 4 1/尾張藩主徳川宗春、将軍吉宗から隠居蟄居を命ぜられる。5/陸奥・安房・伊豆沿岸に異国船出没。監視と警戒を強める。
1740 桜町 元文 5 三河各地域の文化的交流の成立基盤 洪水、挙母村破堤(郡誌)。  8/佐野知堯(ともたか:宝飯郡下長山村(豊川市)徳宝院住職であったが、還俗して寺子屋師匠として一生を送る。:三河地域の指導者の、菅沼家の代官・庄屋・御用達の太田白雪に師事。三河各地域の文化的交流の成立基盤となった。)により「三河国二葉松」が著わされる。


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