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☆ 桜花会・・・ 4月11日のことだった。
 毎年の恒例となっていた。

 六所山の麓にある『六所苑』が主催して、桜の時期に催される。

 近隣の集落からも多数参加して、楽しいひとときである。

 この年は、亡父の三回忌の日でもあった。
 焼き肉が定番であるが、タレが独特の味で、美味である。

 桜の花は咲いていた。

 話に花が咲いた。

 めいめいがかたまって、それぞれに炭火を囲んで、酒とビール。
 いつしか、夜となって。なお、話が弾む。

 見れば、世代交代の寂しさもある。

 我々は、老年組。
 チビリチビリと昔の話や既にもう無くなった村人の思い出話となる。

 息子達の世代は、向こうで、いっそう声高に歓声が上がっている。
 主婦達ももちろん参加だ。

 『六所苑』の初代店長の頃から続けられていた。

☆ ウグイスが啼いた
 
・・・・
3月31日早朝、5時半頃だった。 今年の”初啼き”かな? 『ケキョ ケキョ』二度だけ啼いた。
うぐいす【鶯】ウグヒス
 スズメ目ヒタキ科ウグイス亜科の鳥。大きさはスズメぐらい。背面褐緑色、下面白く、白色の眉斑がある。低山帯から高山帯の低木林に至るまで繁殖し、冬は低地に移り、市街地にも現れる。
 さえずりの声が殊によい。別名、春鳥・春告
(はるつげ)鳥・花見鳥・歌詠(うたよみ)鳥・経読(きょうよみ)鳥・匂鳥・人来(ひとく)鳥・百千(ももち)鳥など。  春 。
       万葉集20「
春立たばまづ我が宿に鶯は鳴け    広辞苑より
 村の中程
 もう少し我が家に近づく。

 この辺りが中央通りと言ったところ・・・。

 村の一番下の家から、六所山を望む。 
 この辺りは標高300m位。
 あの高い山が六所山約606mの標高。
 この道は、ほ場整備された後にできた農道である。
 ほ場整備後、随分と村の景色は変わった

 今日で、定年退職。

 ウグイスの声で眼が覚めた。

 まだ、薄暗かった。
        ******************
 これは秋の写真だ。
 村の、里山の風景。
  今年になって、村で二件の葬儀があった。
 老人は静かに逝き。
 若者は町に出て、帰ってこない。
 村の小学校は、合併するという。
 過疎化を食い止めるには、この”自然”を貴重な資源として再確認することからだ。
 鶯は啼いて、そう訴えたような気がした。


大祓式    12月31日   Link   六所神社の主な行事など へ                                        
全員でナオライをして、御神酒を頂く。
 大 祓 詞おおはらえことば 

 
高天原(たかまのはら)に神留坐(かむずまりま)す皇(すめら)が親神漏岐神漏美命(むつかむろぎかむろみのみこ)以(も)ちて八百万神等(やおよよずのかみたち)を神集(かみつど)へに集賜(つどへたま)(イ)神議(かむはか)りに議賜(はかりたま)ひて我(あ)が皇御孫命(すめまみこと)は豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を安国(やすくに)と平(たいら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよさしまつ)りき。

 此
(か)く依奉(よさしまつ)りし国内(くぬち)に荒振(あらぶる)神等(かみたち)をば神問(かむと)(ワ)しに問賜(とわしたま)ひ神掃(かむはら)ひ(イ)に掃賜(はらいたま)ひて語問(ことと)ひ(イ)し磐根樹根立草(いわねきねたちくさ)の片葉(かきは)をも語止(ことやめ)て天(あめの磐座放いわくらはなち)(あめ)の八重雲(やえぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別(ちわき)て天降(あまくだ)し依奉(よさしまつ)りき。

 此
(か)く依奉(よさしまつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を安国(やすくに)と定奉(さだめまつり)て下(した)つ磐根(いわね)に宮柱太敷立(みやばしらふとしきたて高天原(たかまのはら)に千木高知(ちぎたかし)りて皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みず)の御殿仕奉(みあらかつかえまつ)りて天(あめ)の御蔭日(みかげひ)の御蔭(みかげ)と穏坐(かくりま)して安国(やすくに)と平(たいら)けく知食(しろしめ)さむ国中(くぬち)に成出(なりいで)む天(あめ)の益人等(ますひとらが過犯(あやまちおか)しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごとは天(あま)つ罪国(つみくに)つ罪許許太久(つみここだく)の罪出(つみい)でむ。

 此
(か)く出(い)でば天(あま)つ宮事以(みやごともち)て天(あま)つ金木(かなぎ)を本打切(もとうちき)り末打断(すえうちた)ちて千座 (ちくら)の置座(おきくら)に置足(おきたら)(ワ)して天(あま)つ菅麻(すがそ)を本刈断末刈切(もとかりたちすえかりき)りて八針(やはり)に取辟(とりさ)きて天(あま)つ祝詞(のりとの太祝詞言(ふとのりとごと)を宣(の)れ。

 此
(か)く宣(の)らば天(あま)つ神(かみ)は天(あめ)の磐門(いわと)を押披(おしひら)きて天(あめ)の八重雲(やえぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別(ちわき)て聞食(きこしめ)さむ。国(くに)つ神(かみ)は高山(たかやま)の末短山(すえひきやま)の末(すえ)に上坐(のぼりま)して高山(たかやま)の伊褒理短山(いぼりひきやま)の伊褒理(いぼり)を掻別(かきわ)けて聞食(きこしめ)さむ。

 此
(か)く聞食(きこしめ)してば罪(つみ)と云(い)(う)(つみ)は在(あ)らじと科戸(しなど)の風(かぜ)の天(あめ)の八重雲(やえぐも)を吹放(ふきはな)つ事(こと)の如(ごと)く朝(あした)の御霧(みぎり)(ゆうべ)の御霧(みぎり)を朝風夕風(あさかぜゆうかぜ)の吹払(ふきはら)ふ事(こと)の如(ごと)く、大津辺(おおつべ)に居(お)る大船(おおふねを舳解放(へときはなち艫解放(ともときはな)ちて大海原(おおうなばら)に押放(おしはな)つ事(こと)の如(ごと)く、彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を焼鎌(やきがま)の敏鎌以(とがまも)ちて打払(うちはら)(う)(こと)の如(ごと)く、遺(もこ)る罪は在(あ)らじとと祓(はら)え給(たま)(い)(きよめ)(たま)(う)事を高山(たかやま)の末短山(すえひきやま)の末(すえ)より佐久那太理(さくなだり)に落多岐(おちたぎ)つ速川(はやかわ)の瀬(せ)に坐(ま)す瀬織津比売(せおりつひめ)と云(い)(う)(かみ)大海原(おおうなばら)に持出(もちい)でなむ。

 此
(か)く持出(もちい)でなば荒潮(あらしお)の潮の八百道(やおじ)の八潮道(やしおじ)の潮の八百会(やおあい)いに坐(ま)す速開都比売(はやあきつひめ)と云(い)ふ神持加加呑(かみもちかかの)みてむ。

 此
(か)く加加呑(かかの)みてば気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と云(い)(う)(かみ)根国(ねのくに)底国(そこのくに)に気吹(いぶき)(はな)ちてむ。

 此
(か)く気吹(いぶき)(はな)ちてば根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐(ま)す速佐須良比売(はやさすらひめ)と云(い)(う)神持佐須良(かみもちさすら)(イ)(うしな)(イ)てむ。

 此
(か)く佐須良比(さすらひ)(うしな)(イ)てば罪(つみ)と云(い)(う)罪は在(あ)らじと祓(はら)え給(たま)(い)(きよめ)(たま)(う)事を天(あま)つ神国(かみくに)つ神八百万神等(かみやおよろおずのかみたち)と共(もと)もに聞食(きこしめ)せと白(もう)す。
[八百万神等(やおよよずのかみたち)]・・・・とある。
「古事記」の一部を思い出した。  さて、ところで、・・・

歴史家 松本健一氏(麗澤大学国際経済学部教授。 1946年生まれ。68年東京大学経済学部卒業。京都精華大学教授を経て現職。評論・評伝・小説など多方面で活躍。著書:『砂の文明・石の文明・泥の文明』)は、世界の文明を以下の三つに分けている。
> >  @ 砂の文明 → イスラムの本質「ネットワークする力」
> >  A 石の文明 → 欧米の本質「外に進出する力」
> >  B 泥の文明 → アジアなど:「内に蓄積する力」

面白い話ですね。
       日本人のこころの中に、一神教の思想は芽生えにくい。・・・・という。
 松本健一氏は、宇宙進化論の松井孝典氏との対談で、『泥』からいろんな神が生まれる思想が根底にある。と、述べていました。


2004年1月元旦   歳旦祭・・新年の式                        
 2004年がこの村にも来た。

 大晦日に大払式。そして、一月元旦の歳旦祭。

 皆、健康でお互いに歳を取って、顔にシワが増し

て来た。

 村の皆が、幼い頃からの馴染みである。

 神社を巡って、村の行事は毎年変わりなく繰り返さ

れるが、それぞれの家族と、こころの中身は共に変化

してゆく。

 時代は明らかに変化している。





 新年の祭礼の御神酒を頂きしばしの談笑。  地蔵院に参拝して、それぞれ家庭に帰る。




初雪だぁ !  12月20日  
 珍しい初雪。我が家の前隣。柿の木。  村の神社(下宮)。村中がどんよりと雪景色。
 村の芝居舞台。(歴史は古い)このむこうの山に
我が家の墓があり、親父は眠っている。
 裏山を見ると、勿論、雪!
 まるで、子どもみたいに心が弾んだ!
 村の子どもに、雪合戦を挑まれた。  家の下も、勿論、雪。


・・・・六所神社・・・・

 村人の心の支えは、何と言っても六所神社です。みんなの共通のバックボーンといっても過言ではない。
 
 
新嘗祭 ☆

☆ 新嘗祭 ☆  8:00 下宮集合
○各戸・・新米7合持参。
○村内の4カ所に分散した
 地の神に捧げもの。
  二班に分かれて、参拝する。
○一部は残って下宮を清掃する。
△そうこうする内に、
  女房達が持参した米を炊いて
  御幣餅(五平餅)を作る。
○男衆は、幟を立てて、釜を設える。
   そして新嘗祭の神事。
△村の健康な住民は、
  全員が集まって、会食する。
 この上なく、愉しい一時だ。
 今年も健康で、ここに参集した。飲んだり笑って日頃の何でもないことなどを、話し合う。・・・、これが愉しいのだ。
 『宮口村中 安政六年』の釜を、毎年今でも使っている。
 凶作続きの年が続いた頃、この下宮の”郷蔵”から備蓄していた米を出して、炊き出しをしたに違いない。
 村の夫婦が中心となって、御幣餅(五平餅)を作る。
 漬け物は、各家の味を持ち寄る。
 酒が、ビールが出て、みんなで語り合う。
 我が村の”新嘗祭”。

 食べ物が不自由なく食べられると言うことは、奇跡に近いほど、歴史は飢餓の時代の連続であった。

今は昔のことである。しかし、当時の釜を、今、なお使っている。






     
里の歴史
1377年
(永和3年)
創建:1377年(永和3年)8月19日松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)、吉木山(又は芳樹山と記す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
 ご本殿を芳樹
(よしき)の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。

 

☆ 年貢免除の嘆願書だ。(1736年10月)                                  
         



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