奉加帳
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山道への鳥居は、何カ所もある。ここは旧村名”東宮口”からの山道。 | 左の黒い樹木は、山梨の樹である。 小さな渋い梨を実らせた。子供の頃には食べた。 |
この鳥居をくぐる。 2003年度に、門民総出で整備をした。 |
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そこを過ぎ、しばらく歩くと、”御滝”に到達する。 | この看板まで、車で入ることができる。 | この看板の奥に、”御滝”がある。 | ||||||
そこからは山道となっていて、歩いて登らなくては、頂上にゆけない。 | 大きな樹木の根が地表に出ている。そこをゆっくりと登る。 |
先の鳥居から1300m程であるが、標高差は随分とある。 | ||||||
これが由緒のある”御滝”だ。 ここしばらく、水が流れては居なかった。 今年、2004年、水源からここまでの間の脇に漏れる水を止めて流れるようにした。 村民の念願の”御滝”である。 何枚もお示ししたが、・・・、村民にとっては意味深い。 ここで先ず一休み。 |
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周辺には、自然倒木がそのまま朽ち果てようとしている。 ”御滝”から少し山道をあがると、このような小川が流れている。 これが滝に繋がっている。 |
これに、村民には意味が有るのである。 不思議なものである。 思い入れが籠もると、意味が・・・、味わいが深くなる。村民の「独善的な願い」ではあるが、しかし、『山』の水源は、環境問題のキーワードにさえなりつつある。 町からこれを汲み取って、お茶にすれば、さぞかし美味しかろう。・・・。そう思う。 |
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さて、一休みしたら目的の「本宮までの参道の旅」である。 先の鳥居から、およそ400m程来たことになるだろうか?! 参道は、つづら折れになっていて、標高差は随分とある。 獣道に近い参道だ。繰り返し、右へ左へ折れ曲がる。 |
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参道と言っても、”道”とはいえないような路。 岩を踏み、はみ出した樹木の根を跨ぐ。 思い出したように、そっと吹く風はひんやりと涼しい。 子供の頃には、元旦の早朝、幼い妹と父と母とで、提灯をもって朝日を拝むために登った。 その頃には、 同じような村民が多かった。行き交う人の賑わいがあった。 もう亡くなった親父も、そうだ、今の小生よりも若かったと言うことだ。 |
このような路の下には、自然倒木が横たわって朽ちようとしている。 ここは神社林。 しかし、この辺りでもう一度休みたくなる。 |
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半分ほど登ったかな?この辺りに・・・ | 20年ほど前に開設した林道が来ているので、 | ここまで、別道から車で来ることも可能だ。 | ||||||
しばらく、登る。 | 風は涼しい。 | ・・・・が、ゆっくりと登らないと・・・、 | ||||||
息が切れる。 この辺に、下山村からの林道が来ている。↑ 本宮に居たる道は、ここまで別の道を車で来ることも可能になった。 30m程上がると、石灯籠がある。(上段右) この灯籠は、伊勢神宮の向けて一対立っている。 今は周辺の樹木で、伊勢までは望めない。 参道は、まだ、続く。 フッ。 息が切れる。 |
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さぁ、到着しました。 今では、村民もこの参道を歩くことはまれである。 しかし、林道を利用して、できるだけ近くまで車でやってくる。 毎月2回、当番に当たるとここまで、境内の清掃にやってくる。 |
奉加帳 道閲長親は、大永7年12月(1527)に野火により焼失した松平郷宮口の六所神社再興のために、嫡男祐泉(松平宗家6代信忠)とともに献金し、また、松平氏一族にも奉加を呼びかけた。 この奉加帳には年次の記載がないが、「大永7年12月中旬回禄、自爾造営未終而送年月」。という文意から、大永7年末の焼失以降1〜3年の間に出されたものと思われる。 ・・・・「松平町誌」より |
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