御滝から参道を本宮へ   

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奉加帳
 道閲長親は、大永7年12月(1527)に野火により焼失した松平郷宮口の六所神社再興のために、嫡男祐泉(松平宗家6代信忠)とともに献金し、また、松平氏一族にも奉加を呼びかけた。
 この奉加帳には年次の記載がないが、
「大永7年12月中旬回禄、自爾造営未終而送年月」。
 という文意から、大永7年末の焼失以降1〜3年の間に出されたものと思われる。
               ・・・・「松平町誌」より 
 ☆


  明治の時代には、天然木を樋(とい)にして、滝の水が流れ落ちていた。

 ☆




  昭和になる頃に自然石を設置したようである。
 御滝の前を通り、参道を少し登ったところに、灯籠が設置されていることがわかる。
 戦時中に、供出した模様である。現在はセメントの台の痕跡のみが遺っている。
 
 山道への鳥居は、何カ所もある。ここは旧村名”東宮口”からの山道。  左の黒い樹木は、山梨の樹である。
 小さな渋い梨を実らせた。子供の頃には食べた。
 この鳥居をくぐる。
 2003年度に、門民総出で整備をした。
 そこを過ぎ、しばらく歩くと、”御滝”に到達する。  この看板まで、車で入ることができる。  この看板の奥に、”御滝”がある。
 そこからは山道となっていて、歩いて登らなくては、頂上にゆけない。  大きな樹木の根が地表に出ている。そこをゆっくりと登る。
 
 先の鳥居から1300m程であるが、標高差は随分とある。
 これが由緒のある”御滝”だ。



 ここしばらく、水が流れては居なかった。
 今年、2004年、水源からここまでの間の脇に漏れる水を止めて流れるようにした。

 村民の念願の”御滝”である。

 何枚もお示ししたが、・・・、村民にとっては意味深い。

 ここで先ず一休み。
 周辺には、自然倒木がそのまま朽ち果てようとしている。







 ”御滝”から少し山道をあがると、このような小川が流れている。


 これが滝に繋がっている。




 これに、村民には意味が有るのである。


 不思議なものである。

 思い入れが籠もると、意味が・・・、味わいが深くなる。村民の「独善的な願い」ではあるが、しかし、『山』の水源は、環境問題のキーワードにさえなりつつある。

 町からこれを汲み取って、お茶にすれば、さぞかし美味しかろう。・・・。そう思う。
 さて、一休みしたら目的の「本宮までの参道の旅」である。
 先の鳥居から、およそ400m程来たことになるだろうか?!



 参道は、つづら折れになっていて、標高差は随分とある。

 獣道に近い参道だ。繰り返し、右へ左へ折れ曲がる。


 参道と言っても、”道”とはいえないような路。

 岩を踏み、はみ出した樹木の根を跨ぐ。

 思い出したように、そっと吹く風はひんやりと涼しい。

 子供の頃には、元旦の早朝、幼い妹と父と母とで、提灯をもって朝日を拝むために登った。

 その頃には、
 同じような村民が多かった。行き交う人の賑わいがあった。
 もう亡くなった親父も、そうだ、今の小生よりも若かったと言うことだ。



 このような路の下には、自然倒木が横たわって朽ちようとしている。

 ここは神社林。



 しかし、この辺りでもう一度休みたくなる。





 半分ほど登ったかな?この辺りに・・・  20年ほど前に開設した林道が来ているので、  ここまで、別道から車で来ることも可能だ。
 しばらく、登る。  風は涼しい。  ・・・・が、ゆっくりと登らないと・・・、
 息が切れる。


 この辺に、下山村からの林道が来ている。↑

 本宮に居たる道は、ここまで別の道を車で来ることも可能になった。

 30m程上がると、石灯籠がある。(上段右)

 この灯籠は、伊勢神宮の向けて一対立っている。
 今は周辺の樹木で、伊勢までは望めない。

 


 参道は、まだ、続く。 フッ。 息が切れる。


 さぁ、到着しました。

 今では、村民もこの参道を歩くことはまれである。

 しかし、林道を利用して、できるだけ近くまで車でやってくる。

毎月2回、当番に当たるとここまで、境内の清掃にやってくる。
奉加帳

道閲長親は、大永7年12月(1527)に野火により焼失した松平郷宮口の六所神社再興のために、嫡男祐泉(松平宗家6代信忠)とともに献金し、また、松平氏一族にも奉加を呼びかけた。

 この奉加帳には年次の記載がないが、
「大永7年12月中旬回禄、自爾造営未終而送年月」。という文意から、大永7年末の焼失以降1〜3年の間に出されたものと思われる。


・・・・「松平町誌」より
  
      
☆ 下記は、その際の全文を現代語訳されたものだ。
 
 「抑(そもそも)当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。就中(なかんずく)松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。然らば則ち法施(芳志)を捧げ神徳護持を蒙(こうむ)り、悉地(本願の成就)を成さん。これに依りて家門繁昌して代々の栄を開き、子孫患い無くして松柏の齢を保たん。爰(ここ)に去る大永7年12月中旬深更に及び、当社不慮に回禄(火災)せしむ。爾(それ)より以降未だ終わらずして年月を経たり。
 神意斗
(はか)り難く、冥感(神明が心を動かす)恐れあり。若し夫れ御一門の御合力の非ず、御一族の御助成無くば、再興成り難し。且(かつ)は先祖謝徳のために、且(かつ)は子孫後栄の為に、随分の奉加を寄せられ、造営の終功を遂げしめ給はば、弥(いよいよ)福貴安全にして鎮所満足を求め給ふ者なり。
      百疋           道閲  花押
    五百疋           祐泉  花押  
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