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下宮の境内には、大杉が聳えている。
相当の老木で、大昔に落雷が二度あって、根本には幹の芯のところが枯れて空洞もある。
大杉の右側に拝殿がある。
拝殿の軒である。 |
拝殿の入り口
拝殿の正面。
左側には、巫女舞の為の建造物。ここには”ご神的”で金的を射た方が奉納した額が掛かっている。
昔は、”ご神的”が行われた。地域各地から弓の腕に自信のある方々が集って、一日中かかって弓の競技が行われた。
”ご神的”の最後は、直径およそ10cm程の金色の的をねらって、弓を構えた。
子供の頃、射られた矢を取る「矢取り」役は、村の少年が行うことになっていた。 |
拝殿の入り口の龍の彫り物である。
来るたびに、心の中を覗かれているような気がするのは、小生だけであろうか??
拝殿は、大正年間に改築された。
軒下には、四方に獅子の彫り物が施されている。
右の写真の奥の方に、秋葉神社の社がある。
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計画の開始時間には、すでに参加した村人たちによって、すでに境内は清掃されていた。
落ち葉などを集めて、たき火に暖をとって、談笑している。 |
さて、時間が来た。
先ず、幟立てから始まる。
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毎回の例祭には、この幟が立てられる。
幟の竿は、村有林の山から伐りだしたモノである。
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昭和53年、幟は岡崎市の専門店に注文して更新した。
以前のものは、幅と長さがもう少し大きかった。特注しないと以前と同じサイズでは製造不可能であった。
当時の、氏子総代は、自分以外に、・・・・・??、確か本田義一氏・高木好美氏・杉山新吉氏・高木精一氏(皆、今は懐かしき物故者)だった。
小生が一番若かった。氏神様を崇敬すると言うことはどのようなことか。 些細なことから学ぶことができた。人間、その場で言葉で告げられないと解らないことが多い。
さて、幟立てが終わると、『山の神』に詣でる。
そこは、下宮よりも上にある。
朝日が昇って、照らしている。 |
2 山の神詣で |
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杉本家の前の橋を渡って、山に入ってゆく。
竹藪を抜けて、およそ50m歩くとそこに辿り着く。
ご神体は、丸い石である。
信仰の対象は、こう言う”丸い石”のことが多い。 |
これが、”オシャグチ様”である。
古老で、古い歴史に詳しい本田義一(俗称:ヨシヤン)氏に、若い頃いろいろと話を聞かされたが、すっかり忘れてしまった。今思えば、残念である。 |
ヨシヤンは、村一番の文化人であった。粋人であった。若い頃はバイオリンを弾いたと話して聞かせてくださった。
晩年は、俳諧ですばらしい才の輝きを見せた。
「こんな句を作ったよ!」と、小生には披露してくださった。その道では、少々名の知れた方であった。
最初は、”オシャグチ”様参り。昔は、高木精一(俗称:セイヤン)氏(物故者)・代は変わって高木清重(俗称:キークン)氏の屋敷裏にあった。大木の根元に祀られていた。
一時期、「分散している諸神を集中しよう!」と、この地に移された。
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”オシャグチ様”の次に、水神様をお参りする。
おきまりのコースである。
”オシャグチ様”から、やはり、50mほど山中を歩く。急傾斜(左写真)を歩く。
”水神様”のところに辿り着いたところである。
この山の麓に水車があった。 |
○ 水神様 |
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木製の社である。
残念ながら、”フラッシュカード”の故障で、ここの数枚の画像が取り出せない。
また、後日ご紹介させて頂きます。 m(_ _)m |
”水神様”は、今年中に石材製のものに換えられる。杉本幹夫(俗称:ミキチャ)氏が、寄贈されるという申し出があった。
一端、山を下って南に竹藪の中を進み、再び木立のあいだを登ると、下の石の祠に出会う。 |
”山の神”は、この大木の根元に鎮座する。
作法は、皆、知らない。・・・が、気持ちは謹んで・心持ちは神妙である。 |
○ 山の神 |
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○ 山の神 もう一カ所の山の神に向かう。 |
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ここから150m程歩く。 |
一端は平地を・・・。 |
毎年・・・、はぁ! 歩く。息が切れる。 |
毎年・・・、はぁッ! 出迎えてくれる草木。 |
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大木の根が、たくましく・・・、何故か美しく見えるのだ。
こんなことを、息を切らせながら思いつつ、山の中腹の平地に辿り着く。(左下)
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時の流れをつくずく感じる。小生、子供の頃には写真のお二人は血気盛んな青年。
小生は、上の写真のお二人から、川魚の採り方を学んだり、蝉を捕って見せてもらったり、或いは、ビックリするほど壮大な青年期の夢を聞かされて、大きな感化を受けて育った。(俗称:きみちゃ・そしてイッチャ:元JA組合長)
これらの風景を含めて、この自然な風土をこよなく愛(いと)しく想う今日この頃である。
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さて、供え物をして・・・・・。
次は、「地蔵院」である。山を下りる。 |
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2 地蔵院 |
歴史参考:
1468年応仁2年:地蔵院、六所神社山上の神宮寺である寺屋敷の宝寿院(妙昌寺住職曰く:芳樹院殿)を,外宮の近くへ移して光室長運智蔵が開かれた。本堂は茅葺きの寄せ棟造りであり、濡縁も向拝もなく珍しく禅宗寺院の旧態を残していた。曹洞宗の梁山妙昌寺系。
永らく無住の寺となった。
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必ず、大切にしまっておいた「聖徳太子の図」と言われる掛け軸を正面中央に掛けて、全員で般若心経を称える。
一番の年配者が、導師を勤めることになっている。
時代は流れる。
もう、何人の”導師”の後ろでお参りしたことになろうか?? |
左の写真は、郷倉の扉である。
時代の重みがある。外装は修繕して新しく見えるが、入り口の戸は昔の村人の嘆きや歓びを観ている。いろんな時代があって、そこで、今があるのである。 |
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3 秋葉神社祭 |
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秋葉神社の社は、六所神社の東に鎮座している。
準備が整った。宮司様がお手水にてお清め。
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お供え物が準備してある。右の写真は矢竹だ。
村のここにだけ自生している。
頃合いを見て、皆がたき火の場所から集合する。
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お供えをする。
氏子総代の執り行う作法は、結構立派である。
立ち居振る舞いまで、他所に比して恥じることはない。
なかなか堂に入っているのだ。
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式典の開始。白装束が氏子総代者。
二年の期間勤める。
俗称:リョウちゃん・エイチャ・スークン・ゆっくん。
考えればおかしいが、子供の頃からの呼び名は爺さんになっても変わらない。
村では、職場での肩書きも、過去の失敗も、実績も皆おしなべて、一切関係なく平等に子供の時のまんま呼び合って、付き合いも変わらないでいる。
これは代参者の報告の儀式。
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上の写真は、秋葉社の裏にある樫の大木である。
大木の根は、何処かしら魅せられる。
これで、予定のことは済んだ。
宮司様は、厳かに社の扉を閉じて降りるところである。
寒い日でも、必ずこの場所で行う。
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4 祈 年 祭 |
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