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花園大学教授(国際禅学研究所副所長) 芳澤勝弘氏に、江戸時代の禅僧白隠禅師のお話を聞く。
<2006年放映,2007年1月2日に再放送された。>
これもご縁?!かな。 偶然、二度ともTVで録画して鑑賞した。二度とも共感し、とても参考になった。
そこで、思い切ってここにご紹介させて頂くことにした。
途中で、管理人なりの感想を述べさせて頂くことをお許しいただきます。
もちろん、私は僧侶では無い。仏教の門外漢である。
だが、しかし、特段に畏(かしこ)まらなくても良いと思っている。
多くの人は、産科学を学ばないでも子供生んでいる。
教育学を学ばなくとも、我が子の教育をしてきたではないか?!
それで良いのだったのだ!
想えば、人類、ヒトは一番大事なものには免許制を設定していない。
それは、子供を作ること。産むこと。育児すること。食物を生産する農業。・・・。
家庭料理には「調理師」の免許は問わない。すべてに”仁”、”愛”、”義”、”誠”、”廉”、”信”がある(なければならない)のだ。
これが,実は、人間社会成立のとても重要なところだ。お解りいただけるだろうか??
弁護士や教師、医師・・・・。すべて免許の有無が関所である。
免許取得試験には”仁”、”愛”、”義”、”誠”、”廉”、”信”は無くとも合格することができる。
形式に拘(こだわ)ったり、とやかくと肩書きを優先しやすい世の中である。・・・・・・が、
自分なりの感想を追加させて頂くことをお許し願うものです。
・・・ <苦縁讃> |
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床の間の掛け軸は、「白隠禅師」の達磨像であった。 |
直指人心
(じきしにんしん)
見性成仏
(けんしょうじょうぶつ)とあった。
人間の心の根源を見届けて、仏になりなさい
・・・・の意である。
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京都市上大久の西の端、西の京・円町に近い川沿いに、民家に囲まれて 法輪寺(だるま寺)がある。江戸時代中期・享保年間の創建と伝えられている。
ダルマ寺と庶民に親しまれる所以は、寺には「七転び八起」で知られるおよそ8000体があり、境内の至る所で達磨に出会える。
達磨大師は、インドから中国に渡り面壁不ネンの坐禅の末、手も足も無い姿となって弟子に法を伝えた末、禅宗の開祖となった。
我が国でも達磨の姿を造ったり、絵を描いたりする永い伝統がある。 |
管理人注:「人間の心の根源を 云々」と言うは、結局、「己自身を懼(おそ)れることなく見定めること」ではなかろうか??
とかく、「直指(じきし)」直視(ちょくし)できない場合が多いモノだ。何だかんだと自分に甘い。知らぬ間に言い訳を考えている。
その上、つい、責任転嫁して逃れようと考えている。「あの人(夫・妻・親・兄弟・友)のせいで、いま、私はこうなっている。」と。
(確か、達磨大師は、それを諫めて「報冤行だぞ!」といっている。苦から逃げようしして「いわれのない冤罪だ!」と、思わないことだ・・・・と。また、
「それを受け入れなさい。」と、”随縁行”をお示しされた。 ・・・ 理入四行の二つ。)
そのような内は、自分の中に確固として鎮座する”仏”に気付かない。
他力になりきれないモノである。だが、これはそんなに簡単ではない。
否々、これは難しい!
私たちは、我慢と卑下慢の両極端を往復しながら、右往左往して生きている。物事が在るがままには観えないのだ。 ・・・ 苦縁讃 |
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◇ 芳澤勝弘氏:花園大学教授(国際禅学研究所副所長)のこと
'09年現在 花園大学 国際禅研究所 教授 |
42年前、京都の大学にきて何処かに下宿を探した。
在所の和尚のゆかりのある寺と言うことで、氏はこの達磨寺を紹介された。
そこで、氏は、”京都”と言うことで、「お寺に下宿することも良いな。」と思って、この寺に下宿することに決めた。 |
ところが・・・
実際は下宿人ではなく、寺の小僧であった。
毎朝、庭や廊下の掃除、お経を終えてから朝ご飯を頂戴する生活であった。
お経の内容は、般若心経・白隠禅師「坐禅和讃」・四弘誓願(しぐせいがん)という四つの誓いの言葉を唱えてから、朝食であった。
氏は、ここで初めて『白隠』と言う禅僧を知った。
今でも、般若心経・白隠禅師「坐禅和讃」・四弘誓願を諳(そら)んじて言うことができる。
大学は、経済学部。氏は、「だいぶ経過してから、その経験が生きてきたと思う。」と、述べた。
氏は、10年ほど前に、白隠禅師の書かれたものの全集(14巻)を出版すると言うことになって、一層白隠禅師のことを知るようになった。
白隠が書いた書物を読むことによって、描かれた絵のメッセージが分かるようになった。「絵だけを見ていては分からない部分がある。そう言うものは、白隠禅師のお書きになった文書を通して理解できるようになった。」と述べた。
白隠禅師の絵と書は、氏が調査したものが2000点、「更に、海外に行っているものを含めると数千点はあると思う。」と・・・・。 |
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◇ 白隠禅師のこと |
白隠 慧鶴 注:・・・白隠と仙高ヘ、江戸時代の臨済宗を代表する名僧
誕生 |
1685 |
貞享2年 |
駿河国原宿の問屋長沢家の三男 |
志し |
1696頃 |
元禄9年 |
11歳。地獄の苦しみを詳述した説法を聞く。以降地獄への恐怖心がおさまらず。 |
出家 |
1701頃 |
元禄14年 |
15歳。松蔭寺で出家。慧鶴(えかく)と名付けられる。慕っていた住職の単嶺和尚に先立たれてから、一時、「法華経」の仏の教えに疑問を抱き書画に耽(ふけ)る。 |
修行 |
1705頃 |
宝永2年 |
20歳。美濃の瑞雲寺において、虫干しの手伝い中に偶然出くわした『禅関策進』の「引錘自刺(いんすいじし)」の故事に発奮し、以後猛烈な修行の日々。 |
破却 |
1707 |
宝永4年
富士噴火 |
22歳。松山の正宗寺で大愚宗築(だいぐそうちく1584〜1669)の破格な中に徳がにじみ出るような書に接し、それまでに収集してきた書画類をことごとく破却。 |
大悟体験 |
1709 |
宝永6年 |
24歳。越後高田の英厳寺(えいげんじ)で、坐禅のあとで悟りの体験を得る。 |
荒行 |
信州飯山の質素な庵・正受庵で道鏡慧端(どうきょうえたん)・正受(しょうじゅ)老人を訪ね、再び「法華経」と出会う。8ヶ月峻烈な修行。体調を崩す。 |
病 |
1710頃 |
宝永7年 |
この頃、洛東白川の隠者白幽子(はくゆうし)を訪ね、授けられた内観法という特殊な療法によって病を完治。 「夜船閑話(やせんかんな)」より |
帰 郷 |
1717 |
享保2年 |
父の病などから故郷に戻る。荒廃した松蔭寺の住職になる。 |
白 隠 |
1718 |
享保3年 |
34歳。京都の妙心寺の第一座となり、自らを白隠慧鶴と号す。 |
大悟体験 |
1737頃 |
元文2年 |
大悟体験以降、もっぱら経典を講義しながら多くの著作。 |
遠羅天釜
おらてがま |
1747 |
延享4年 |
63歳。原の松蔭寺で、「法華経」を味読して、老尼のために平易な仮名法語 |
至道庵 |
1759 |
宝暦9年 |
75歳。萬年山・至道庵(至道無難禅師創建:白隠の師:正受の剃髪したところ)寂れて売り払われると聞き65両で留めさせる。 |
講 和 |
1766 |
明和3年 |
82歳。
2月江戸・小石川の至道(白隠の師:正受の剃髪したところ)庵に入る。180日逗留。 |
遷 化 |
1768 |
明和5年 |
84歳。舎利を、松蔭寺・無量寺・龍澤寺に分ける。 |
引用:「禅画の見方・味わい方 A」 大法輪 八波浩一氏 出光美術館学芸課長代理 より 及び「至道無難禅師集」 公田連太郎 より |
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白隠は、1685年に現在の
駿河・沼津市の「原(はら)」と言うところで誕生された。(自画像)
白陰慧鶴(1685〜1768)
生涯,地方の小さな寺・原の「松蔭寺」で、で住職を務めた。・・この部分はNHK「日曜美術館」より 2009.4
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禅師は、幼少の頃、寺で地獄の絵を見て戦慄を覚えて、僧になることを決めたと言うことである。
白隠の生まれは問屋を営んでいて、東海道を行き来する商品を扱って居た。地獄絵を見て怖がるのが普通の子供であるのだが、白隠は後にこの体験がきっかけとなって宗教家として結びついていった。
小さい頃から宗教的な感受性に富んでいたと思われる。
全国を行脚して、30歳の時に原の松蔭寺(しょういんじ)に入る。
42歳の時に、大悟した。
四弘誓願(しぐせいがん)を実践することが大事である。
衆生無辺(しゅじょうむへん)誓願度(ど) |
生きとし生けるものを,皆救おう |
煩悩無尽(ぼんのうむじん)誓願断(だん) |
尽きる事なき煩悩を断とう |
法門無量(ほうもんむりょう)誓願学(がく) |
量り知れぬ真理を学得せん |
仏道無上(ぶつどうむじょう)誓願成(じょう) |
無上の仏道を、必ず成就していこう |
注:第二句以下は宗派により次のように相違がある。 ・・「法華経人生論」 松原泰道より
煩悩無数(無辺)誓願断
法門無辺(無尽)誓願知
無上菩提誓願証(無上の菩提:佛の純粋なさとり:を証<さと>らん) |
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これは永久の課題である。実践は難しい。後半生の大部分を、各地を廻って説法したり文書や絵を残された。
”妙心寺では,一番低い位の禅僧であった。しかし、にもかかわらず「500年に一度の名僧」と語り継がれている。禅僧が、自己流で描いた絵を「禅画」と呼ぶ。白隠は、その先駆けとして知られている。”・・この部分はNHK「日曜美術館」より。2009.4
白隠を敬(うやま)う言葉が伝わっている・・・ |
駿河には
過ぎたるものが 二つあり
富士の御山と 原の白隠 |
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松
蔭
寺
に
伝わ
る
自
画
像 |
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この絵の上には、「千仏場中群魔隊裏」・・即ち、”千仏に嫌われ群魔に憎まれる”・・・それでも構わないと言っている。激しい闘志が伝わってくる。
各地で修行した白陰は、当時、地方の農民が疲弊したのを当たりにしていた。重い年貢を課す幕府や藩の権力に憤りを感じていた。当時の松蔭寺も、幕府の介入を余儀なくされ弱体化していたことにも、不満を抱いていた。禅の道を究めることで、その危機を乗り越えようとした。
現住職の宮本圓明氏は「迎合しないで、自分の納得するまで禅の道をやり通す。それでなければ本当の道は開けない。そう思われたと思う。」と述べている。 |
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◇ 書画の遺したもの |
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白隠の作の中で、最も大きな達磨像である。
「直指 人心 見性成仏 じきしにんしん けんしょうじょうぶつ」
→誰もが持っている心の根源にある仏性を見極めて仏に成れ!
80歳を超えてから描いたものとは思えない
大胆な顔。
大きな目。
鼻の穴。
背景を黒く塗って、衣の朱色が際(きわ)だっている。最晩年の作。
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「白隠以外には「地獄」大菩薩と書いた人は居ない。」・・・と述べておられた。 |
地獄大菩薩に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るの意である。子供の頃におびえた地獄とは異なる。
人間の心の一側面が「地獄」である。心には表裏一体になった地獄が存在することを示している。
一見、不気味な文字・書体だ。
脇に 七面大明神 と書いてある。 神も一体になっている。
民間の人々にどうしたら信仰を教えることができるか?・・・・と、土着の民間信仰をしている人々に、方便として多様な神をも用いたと思われる。 |
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管理人注: いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 「歎異抄 二」より
・・を、思い出した。
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「地獄画」に、子供の頃の白隠禅師は驚愕(きょうがく)した。それが、白隠をして僧にならしめたという。
世の中、地獄のような光景が、毎日のように報道されている。
我が身の来(こ)し方をふり返ると、まるで「地獄」のような状況下で、苦しみ藻掻(もが)いたときがあった。
だが、「地獄」の渦中に置かれているときには、『今、自分は「地獄」にいる!』と、思わないようである。・・・・。良くしたモンだ。
状況を知ったときに、『大変だ!』と、驚いていては、そこから脱却する力が湧いてこない。
事が済んでから、それをふり返って知ることになるようだ。大怪我をしたときには、失神してその苦しみから守られることになる。
一つの「地獄」を目の当たりにして、一つ学ぶ。
そんなことを繰り返し繰り返して、この世にも「地獄」も「極楽」もあることを認識する。
豊かな国・日本。何でもありである。
”地獄”に置かれながら、その「地獄」が見えない若者も結構多い。 ・・・と思う。しっかりと見ている若者も実は居るが・・・。 |
・・・・ ・・・・・苦縁讃 |
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3 白隠の書 その2「定」 個人蔵 |
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注1: 至善(しいぜん:しぜんの慣用読み)→ 最高の宇宙の根源である真理のこと。
解説者は、「しいぜん」と読まれた。 |
定 じょう
在止至善
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至善(しいぜん)に止(とど)まるに在り
知止而後有定
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止(とど)まることを知って、
後に定まることあり。
「大学」の冒頭に出てくる言葉である。
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注2:神・儒教・仏教の三教が一体となっている。
儒教より引用 |
至善(しいぜん)とは、宇宙の根源である最高の真理のこと。
・・・・・禅が求めることは基本的に同じである、との考えをここに示された。 |
管理人注: こころは、コロコロとうつろい、定まらない。「定」は、理想の心境である。
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16世紀の初め中国の硬骨の偉人といわれた崔銑(さいせん)が残した
「崔後渠集(さいこうきょしゅう)」という語録に出てくることば: 「六然(ろくぜん)」がある。
勝海舟もこのことばを好んだ。
自処超然(じしょちょぜん) 処人藹然(しょじんあいぜん)
有事斬然(ゆうじざんぜん) 無事澄然(ぶじちょうぜん)
得意澹然(とくいたんぜん) 失意泰然(しついたいぜん) Link 聖徳太子と十七条の憲法 |
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布袋(ほてい)は、中国に生まれた実在の僧である。お腹が出て大きな袋を持ちだらしない姿格好。
寺に居ないで繁華街(京都ならば祇園・東京ならば六本木など)に出て、誰かれと無く人々にお金を無心し袋に入れたといわれている。
しかし、時々、ふっと不思議な言葉を呟(つぶや)く。この不思議な言葉がことごとく的中し予言的であった。
布袋が死んでから、後の人が遺された文(漢詩)を読んでみると、「自分は弥勒菩薩(みろくぼさつ)の生まれ変わりである」と、書いてあった。その後、僧は人々に信仰されるようになった。禅宗では、よく信仰された。
白隠も多くの布袋画を描いた。
「ふきといふも 草の名」 と書いてある。
何のことであろうか??・・・・・調べてみると
次の、後ろの歌詞が省略されているのである。
<茗荷(みょうが)といふも草の名
富貴(ふき)自在徳ありて
冥加(みょうが)あらせたまへや> |
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これは、俗謡:琴の詩の最初の歌詞であった。 |
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5 布袋図 その2・・・・一寸変わった絵。白隠ご自身でもある。長い紙を丸くして、そこに何か書いてある。 |
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清洲で一枚の襦袢(じゅばん)を作った
その重さは七斤(ななきん)であった
と言う意味。 |
右:在青洲 ざいせいしゅう
作一領 さくいちりょう |
左:字が天地逆。
そして良く見れば、紙の裏から書いてある。
布杉重 ふさん重きこと
七斤 しち斤(きん) |
注:重量の単位。1斤は普通160匁で、600グラムに当る。しかし、古来量るべき品目によって目方を異にし、舶来品は120匁を用い、また、180匁(大和目)、200匁(大目)、210匁(沈香目)、230匁(白目)、250匁(山目)など種々ある。 ・・・ 広辞苑 |
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その謂われは:ある僧がジョウシュウ和尚に質問をした。そのとき、
・・「万法は一に帰する (一切の存在は一つの原理に帰着する。・・・の意)
「では、一なる原理は何処に帰着するのか?」 と、質問を繰り返した。
・・・・実は、この白隠の画は、これに対する白隠禅師の答えが描いてあるのである。
この絵は、それに対する白隠の答えであった。白隠は”布袋”でもあったのだ。
『私は生まれたときには裸一貫(約4kg)。 生まれたまま、天然の襦袢(皮膚)をつけて生まれたのだ。』
と、・・・・・・・。
禅問答のやりとりが、ここに書いてあったのだ。
白隠は、ここに自分の答えを示したのである。
また、この絵の面白いところは、白隠禅師の自画像の周囲の帯状の物である。
片方には字が天地逆。反対文字になっている。
紙の短冊をひねってつけると、
メビウスの輪ができる。 表が裏・裏が表になる、・・・・ と言うことを示している。
ドイツのメビウスの輪を、100年前に白隠が絵によって示したのであったのだ
よく観れば、この絵は 「万法 即一」 を、白隠が画にして示したものだと思われる。
メビウスの輪のように、すべて、根源は同じであるという意味を示していたのだ。
「在る」と「無い。」 「始まり」と「終わり」。・・・の対立概念は、
結局一つ帰着すると言うことの表現方法であったのである。
”善”も”悪”も、表裏一体であるという善の心をここで表現しているとも言える。
管理人注: 裸一貫で生まれた頃には、釈迦もイエスも玄奘三蔵も・・・・、私たちも同じだった。自然に排泄し、空腹になれば泣いたであろう。
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童心の童(わらべ)はまるで輝ける”いのち”そのものであった。 しかし、長じるにしたがって、漏れなくヒトには諸欲が出てくる。
名誉欲・権力欲・支配欲・・・・地位やお金が欲しくなる。他人と比較して、相手に負けたくなくなる。そんな中で、心はコロコロともがき苦しむことになる。
どうしたら、この苦しみから逃れられるであろうか??・・・・。
本当の道はどこに存在するのであろうか??
・・・・などと、真理を求めて一心に努力するヒトがいる。
苦しみの中に居て、それを知らないまま人生を過ごす者も居る。
ジタバタと、喘いでいるうちに、一層、苦しみの深みに入り込む人も居る。
決して、聖人や賢人たちは、煩悩がなかったわけではない。
☆ 「本音とタテマエ」・・・・という言葉がある。
聖人や賢人たちにも、「本音とタテマエ」は在るはずである。・・・・が、「本音とタテマエ」の距離が無限に近くなるほど「聖者」と言うのではないか?!と思う。 こういう人ほど人望が高い。
タテマエを旨く人に訴えて、多くの”人気”を得ているモノも、結構多いが、しかし、実は、衆目を欺くことは不可能である。
何故だろうか?
他人の落ち度は良く観えるが、己を振り返ることは難しいのである。
人は、ヒトになって二本足歩行をするようになってから、高い鼻が邪魔をして・・・・、自分自身の足元(あしもと)が観えにくくなったようである。
まことに皮肉な事実だ?! |
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ところで、・・・・
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中心に富士山。富士に雲が左右にかかる。 |
♪おふじさん ♪ 当時の俗謡だと思う。 |
画面下に二人の旅人。 |
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『おふじさん
霞(かすみ)の小袖(こそで)ぬがしゃんせ
雪のはだへが
見度(みと)ふござんす』 |
富士を女性のおふじさんに見立てている。・・・。
「当時の俗謡だと思う。」と、解説された。
富士山に霞がかかっている。その、霞を小袖に見立てて、富士山そのものを女性になぞらえている。
「小袖の下の白い肌が見たいですよ!」と、
呼びかけているものである。
表面的には、宗教的な意味がないように思われるが、ところが、この絵には深い意味が含まれている。
富士山をしっかりと見たい!!
富士山に意味があった。 |
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達磨は何処にも書かれていないこの絵に、ダルマを見たい!見届けたい!と言う、切なる心が見えるのである。 |
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7 「富士大名行列図」 九州大分県 (自性寺 蔵) |
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「富士大名行列図」には、中央に富士。下に多くの人間163人。馬13頭。
白隠禅師の代表的な富士の絵だ。(拡大して示されて、解説された。)
最初に馬に乗った侍。後ろに6人の鉄砲、馬。6人の弓。馬。8人の毛槍隊。その後ろに2名の荷物担ぎ。馬。警護の侍9人。次いで、四人の担ぐ御駕籠。・・・と続く。
参勤交代の様を書いてある。画面は、白隠の生まれた故郷の辺りである。 |
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参勤交代の様を書いてある。白隠の生まれた故郷の辺りである。 |
馬に乗った侍。後ろに6人の鉄砲、馬。6人の弓。馬。 |
8人の毛槍隊。その後ろに2名の荷物担ぎ。馬。
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警護の侍9人。次いで、四人の担ぐ御駕籠。 |
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河(富士川か?)には、荷物を持った人。と、船が集結して船橋を渡して板を置き、行列を渡そうと準備中。
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川向こうには、先駆隊がおり、岩山の細い道を上る人。
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岩山の左の民家は宿場町、現在の「岩淵」。
その左は動物の牙のような山。横には真っ黒い雲。怪しい雰囲気。 |
左端の黒いところに、次のような漢字が書いてある。
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全体を見れば、富士山を中心にして富士の裾野を歩く大名行列を描いている様に見える。
実は絵の中に大変深い意味を含んだ宗教画である。
左端の黒いところに、次のような漢字が書いてある。
これを、訓読すれば・・・ |
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老胡(ろうこ・達磨のこと)の真面目(しんめんもく)を写し得て
杳(はるか)か<に>自性堂上の人に寄す
旧◇(ろう)端午の時を信ぜずんば
◇(すう)羊に鞭起(べんき)して木人に問え |
達磨さんの本当の姿を書きました
自性寺の和尚にお送りしますよ。
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誰が見ても富士山と行列絵である!?
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達磨は何処にも書かれていないではないか?! そこで、別のもう一枚の達磨の絵を見ると・・・、
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誰が見ても、立派な、達磨像である。 しかし、絵の上に次のように書いてある。
晩年の作。衣の線には”心”を記号化している。 |
『このつらを
祖師(そし)の面(おもて)と見るならば
鼠をとらぬ猫と知るべし』・・・と。 |
「この絵を、禅宗の祖師(達磨)の顔と見るならば、その人間は役立たずだ!」と言う意味である。 |
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白隠禅師は、一方では、富士山を描いて『達磨を描いた』と言い、
一方では、達磨の絵を描いて『達磨と見るな!』と言っているのである。
ダルマとは何か???以下のように解説された。 |
☆ ダルマについて |
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達磨は禅宗の開祖と言われている。
インドでダルマという言葉は、「法」と訳される。
もう少し突っ込んで解釈すると、ダルマは、心法のこと。
心法とは、私たちの精神作用が物事を認識する精神作用も「心」というが、
認識する存在そのものを含めたものをも『ダルマ』という。 |
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禅門の興りと達磨の真髄 日本精神通義 日本の「こころ」を活学する 安岡正篤 より抜粋 |
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元来、禅という言葉は梵語のDhyanaを音訳した「禅那(ぜんな)」の訳語であって、静慮、瞑想の意味である。もちろん単に概念的に静思する意味ではなくて、人生の真相を徹見し、煩悩を解脱して涅槃に住(じゅう)せんとする業を意味するのである。
中国において初めて禅宗を伝来したものは俗にかの有名な菩提達磨(だるま)であるように言われているが、いわゆる禅宗という宗教形式はもっと以後にできたので、禅の必要はまた彼よりも前に、すでに中国に伝えられていた。一例をあげれば、覚賢(かくけん):仏陀跋陀羅(ぶっだばとらBuddhabhadra)がそうである。
覚賢(かくけん)は、五世紀の初め、中国の僧の請いに応じて北インドから渡来した僧で、傑僧で、当時、江北はいわゆる五胡十六国の時代であった。
かれは山東から長安にのぼったが、この長安には有名な羅什三蔵(らじゅうさんぞう)が秦主・姚興(ようこう)の手厚い保護の下に、食前方丈と数あまたの佳人を擁して豪奢な生活をしておりました。
羅什の教学上の功績は実に偉大なものに相違ないが、その人格行為の上から見れば、むしろすこぶる心得ぬ点が多い。
長安において羅什と会った覚賢はやがてその俗臭紛々たる行為に飽きたらず、袂を払って江南の盧山に立ち去った。そこは羅什輩の俗器ではなくて、真に仏法の大器である慧遠(えおん)法師等が白蓮社(びゃくれんしゃ)をむすんで、その名に相応しい静節を発揮していたのである。
慧遠(えおん)は、陶淵明、陸修静とともに有名な虎渓三笑の伝説に現れる哲人である。慧遠は、当時の俗権と苟合妥協(こうごうだきょう)する長安仏教に対して超然たる別天地を樹立し、「袈裟(けさ)は、朝宗の服に非ず。鉢盂(はつう)は廟廊の器に非ず。
沙門(しゃもん)は塵外の人なり。まさに敬を王者に致すべからず。」という信念のもとに道友相集まって切磋琢磨し、規約を厳にして、いやしくも徳人に非ざるものはいかなる才学顕栄とはいえども敢えて許さず。白蓮社(びゃくれんしゃ)列賢の道風は心ある人士をして真に傾倒惜(お)かざらしめていた。
当時、才学江左(こうさ)に冠たりといわれていた謝霊運ですら、辞を低くしてしきりに社員の列に加わりたいと懇願していたにもかかわらず、ついに慧遠(えおん)の許すところとならなかった。覚賢はここに迎えられて、その優游の地を得、法友とともに「六十華厳」の大翻訳に従事したのであった。
菩提達磨の渡来はそれよりも少なくとも五十年、あるいはかれこれ百年の後、一般には南朝の梁の武帝の普通元年、六世紀の初めとされている。江の南北を通じて仏教が恐るべき勢力を有していた当時、達磨の渡来はたちまちにして朝廷の耳に入り、達磨はついに金陵(南京)において梁の武帝に親しく引見せられるようになった。
梁の武帝は史上有名な仏教信者で、自ら「三宝の奴」と称し、ひたすら「外護(げご)」に努めた天子である。しかし、仏教の外護すなわち信仰を現すものといえ、当時の信仰は要するに供養信仰、利益信仰に過ぎなかった。さまざまな供養をする代価として現世利益を受けようと願うのがその心情である。
南北朝時代はシナ文明の爛熟期である唐代の前駆であって、社会の騒擾(そうじょう)、思想の混乱などのために、著しく一般に不安困憊(こんぱい)の気分が漂っていた。そこに法楽を求める供養信仰が流行し、これに乗じて邪道の跋扈(ばっこ)することは古今東西その揆を一にするものなること、いまさらここに贅言(ぜいげん)するまでもない。
達磨が武帝に謁見すると、武帝は早速尋ね、次のような問答をした。
武帝「朕、即位以来、造寺・写経・度僧いちいち記録することもできぬほどである。
かほどまでに仏法のために尽力しておるのであるが、どんな功徳があるのであろうか」
達磨「どれもこれも無功徳です。」
武帝「そりゃまた何故功徳がないか」
達磨「これらはただ人天(にんてん)の小果、有漏(うろ)の因、影の形に随う如く、有(う)といえども実ではありません。」
武帝「それでは真の功徳とはどんなものであるか。」
達磨「淨智妙円(じょうちみょうえん)、体自空寂(たいじくうじゃく)、如是(にょせ)の功徳は
世俗の観念で求められるものではありません。」
・・・・武帝は達磨大師の厳粛なる喝破にあって狼狽せざるを得なかった。・・・・
武帝「それでは聖諦一義とはどんなものか。」
達磨「不識(ふしき)。」
三宝の奴と称し、王者の身をもってこれほど仏法の外護に任じている自分こそは、まさに聖諦一義を悟れるもの、無量の功徳あるものと思い込んでいた矢先、このように人天の小果、有漏(うろ)の因に傲(おご)る黄金骨を慈悲の鉄槌(てっつい)をもって微塵(みじん)に撃砕してくれた達磨の心は、しかしながらついに武帝には領会(りょうえ)することができなかった。
達磨も武帝ではまだ契合(けいごう)せず、また、このような利益信仰の徒(やから)の下に、ことには帝者の俗権に苟合して在ることを快しとしなかったのであろう。
達磨はそのまま飄然として江北に去り、崇山(すうざん)の少林寺に籠もってしまった。
この頃、宝誌和尚という、日本の一休禅師をもっと散僕(さんぼく)にしたような飄逸な高徳が居た。
高僧伝の語るところによれば、住居も一定せず、飲食も時なく、髪を長く伸ばして、いつも裸足で町を歩いていたという、よほど風変わりな和尚であったらしい。
ある時、武帝はこの和尚に会って”達磨という名僧が来たが、一向に朕とは話が合わなかった”と話した。
すると、宝誌は真面目になって、
「陛下、あなたはいったい達磨とはどういう人で、なんのために来たのかご存じですか。」と聞いた。
武帝「いや、知らない。」
宝誌「それは残念、あの人はね、観音大士です。観音大士が仏心印(ぶっしんいん)を伝えに来たのです。」
武帝「それは大変なことをした。そういう有り難い人とは知らずに逃がしてしまった。」
・・・・武帝は大いに後悔した。そしてすぐさま使いを遣わして迎え取ろうとしたが、その時、宝誌は冷然と答えた。・・・・
宝誌「陛下そんなことをおっしゃっても駄目です。
恐らく全国の人が迎えに行っても、それで回(かえ)るようなかれではありません。」
この一則の話は古来、禅門でも有名なものであるが、その終始を貫いて、いかにも禅家の真骨頂の躍如たるものがうかがわれる。
鳩摩羅什(くまらじゅう)輩であるならば、仏教宣揚を名として、武帝の心を収攬し、世に時めくことも易々たるものであったろう。
けれども仏心印を伝える達磨はすげもなく武帝を喝破して、武帝の驕気と多欲と態色と淫志(いんし)とに痛へん:痛烈に戒めること(石ヘンに乏)した。
しかもその治療が喜ばれないことを見て取ると、彼は飄然と去ったのである。
それをまた飄逸な宝誌が、「観音大士仏心印を伝える」と称揚し、武帝はこれを迎え戻そうとしたとき、断固として「もはや返るまい。」と天子を止めるところは、浮き世の何ものにもとらわれず、悠々として衷(うち)に信ずるところのある風格は、我々には欣羨(きんせん)絶えざる所がある。
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「富士大名行列図」では、富士山も、その前を通る人々もダルマだと言うことである。
画・全体がダルマだと言うことだ。 |
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もう一度、
この「富士大名行列図」をみると、多くの人間は一新に前に向かって前進し、脇見をしているものは居ないようだ。
ところが、よくこの絵を見直してみると、163人の人々はひたすら前進し、或いは課された仕事に専念している。
だが、よくよく見渡せば、163人の内、二人だけがこの絵の中央の富士山(達磨:心法)を眺めている。
墨染めの衣を着た二人の僧が居る。
一人は、画の右下隅の茶屋で座る旅人。
もう一人は、左上の険しい山道の途上で、笠をかざして阿弥陀にして富士を見ている旅人である。
富士を見る。
このことに意味がある。・・・・仏性をみる。自性を見る。
富士山は霊峰である。霊峰・富士山を見ていることがポイントである。 |
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絵の富士山
(達磨:心法) |
茶屋で座る旅人。富士を見る。このことに意味がある。仏性をみる。自性を見る。 |
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この絵は、白隠が自性寺の和尚に描いたものである。
当に、 「見性 成仏」を示した物である。
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大勢の行列は粛々と前に向かって前進している。
多くの彼らには、富士は眼に入っていない。 |
管理人注:ふり返れば、この世・社会は、そんなモノかも知れない。一人一人の心の中も同様だ。
諸々雑般な日常の事々を成し遂げながら、・・・・、思えば、その間にわずかな時を、「世の中の平和」を・・・、
「○△の多幸」を願い、そして、その次に己をふり返る。・・・・・・?!
否、自分の経済活動や栄進以外は、想いが及ばないかも知れない!
・・・・苦縁讃 |
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9 「辺鄙以知吾(へびいちご)」 |
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*白隠の著書:「辺鄙以知吾(へびいちご)」
この本は、後に発禁処分になっている。
白隠は、「辺鄙以知吾(へびいちご)」を書いている。その中で、白隠は、参勤交代による庶民の窮地を訴えて、これを反対している。
参勤交代には莫大な費用がかかる。
このために年貢を上げる。庶民は食に困って一揆を起こす。・・・・など、庶民の救済のために、白隠は参勤交代に反対の気持ちを示しているのである。
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そこで、この絵は参勤交代を批判している絵かとも思われた。ところが、そうではなかった。
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70歳の頃の作。
「領内の百姓を非道に貪(むさぼ)り、掠(かす)め苦しめ農民から重い年貢を取り立てて贅沢(ぜいたく)をする・・云々」と、権力者への厳しい批判が綴(つづ)られている。
幕府から発禁処分を受けた。
権力に屈せず,自らの悟りによって幕府の過(あやま)ちを正そうとした。 妙心寺藏
・・・NHK「日曜美術館」より 2009.4 |
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管理人注:”ヘビイチゴ”?! 私は、子供の頃野や山の実を良く食べた。梅ももぎって食した。
長じて今、懐かしい思いでこれらを食べてみる事もあるが、・・・・・・・・・。あの時には、結構美味だと思ったモノだ。
”ヘビイチゴ”は、無毒だと言われている。しかし、これを食して高熱にうなされた思い出がある。子供の頃である。母親に『何を食べた?』と、
叱責されたときに、たしかこの”ヘビイチゴ”のせいだと思った記憶がある。
うわごとを言い正気ではなくなった時の苦しみと、薄ぐらい電気の照らす黒い看病する母親の陰のようなシルエットを今も忘れない。
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名文には、行間に多くの文字が含まれている。特にいにしえの文書(もんじょ)にはそれが多いように思う。
このテーマ:『辺鄙以知吾(へびいちご)』に、何か?白隠の隠された意志を感じるのは、私のみであろうか? |
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上には”自性=富士山・聖なる真理”を描き、聖諦(しょうたい)を示し、下には行列の俗諦(ぞくたい)・俗世界の論理・我々の現実・政治経済を描いている。
一枚の絵に聖諦と俗諦を描いて、両方相まって我々の実生活は成り立っている。
下の俗諦を否定してしまうと、現実の存在が無くなってしまうのである。
そんな中にあって、尚、「富士を見なさい。自性を見なさい。」と、言っているのである。
墨染めの富士を見る僧達に、そのように語らせているのである。
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笠をかむり、首に荷物を結わえて富士を見る姿を見ると、昔の日本人達は、直ちに思い出す人が居た。
それは西行であった。富士を見る西行の絵が沢山描かれているが、それを「富士見西行」と言った。
西行風の人物が二人描かれていたのだ。
それで、「仏法の真理・仏法の世界を見届けなさいよ!」と、示した絵なのである。
自性寺の和尚は、白隠禅師のもとで長い間修行した人物であったので、白隠の心が良く理解できたはずであった。
この絵には、老胡の真面目が如実に表されていたのであった。
この絵を、もう少し違う角度から理解するために、・・・・ |
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下に船が二艘。
上に大きな山。
山の中に大きな鷲が描かれている。
実際に伊豆半島の入り口にある山・鷲頭山(わしずやま)である。 |
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見上げてみれば鷲頭山
みおろせばしげ
鹿浜(ししはま)の
つり舟 |
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これは、当時の仕事詩であった。
ところで、この絵には鷲が描いてある。
鷲と言えば、仏教では霊鷲山(りょうじゅせん)といい、お釈迦様が説法をなさった山である。聖なる地である。
つまり、この絵の山が単なる山ではなくて、お釈迦様の説法・仏教の教えを象徴しているのである。
このことをわからしめるために、山に鷲を描き込んだと思われる。
先の絵と同じように、この山が聖なるものの象徴であった。
それに対して、下には二槽の釣り船がある。楽しみでつりをしているわけではなく、これは彼らの生活のためであろう。生業としての釣りであった。釣りは、遊びや行楽ではない。庶民の経済活動である。
”見上げれば仏教の真理、 見下ろせば我々の現実の世界。”と言う構造になっている。 |
ここで、思い起こさなくてはならぬのは、四弘誓願(しぐせいがん)である。
衆生無辺誓願度 →生きとし生けるものを救っていこう
煩悩無尽誓願断 →限りない煩悩を尽くしていこう
法門無量誓願学 →仏教のみではなく、
すべてのものを学んで自分のものにしよう。
仏道無上誓願成 →この上ない最上の真理である仏道を成就していこう |
これを集約して、二つの言葉で言い表すと・・・・
『上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)』と言うことになる。 |
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「上に向かっては、永遠に仏教の無上の真理を求め、下に向かっては生きとし生けるもの一切の人々を救い遂げます。」と言う意味を、絵画として、白隠はメッセージを送ったと思われる。
現実生活を完全に否定しないで、俗世界の論理も含めてその全体を、一枚の絵の中に描くことによって、それが『ダルマの真実相』であると、白隠は訴えていたと思われる。
これが、和讃などに出てくる『衆生本来仏なり』と言うことかと思われる。
絵の中に、かなり多重的に詰め込まれている深い意味を、味わうことができる。
「聖俗一如」または「凡聖不二」ということを、物語っている。
毎日働きながら、仏道を学ぶこともできるということを描いている。
禅画を理解するには、本を読み絵の隅々まで良く鑑賞することによって明らかになるものだ。
白隠禅師のお書きになったものを良く読み取ることによって、絵の訴えるものが理解できるようである。
白隠は、多くの著作を残しておられるが、その大部分は70歳を超えてからお書きになったものである。
絵画も、おびただしい数のものは70歳を超えてからの作である。
白隠は、84歳まで、各地を巡りながら非常に多くの作品を遺された。
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以下妙心寺藏 |
「ダルマ:心:真理は、書くことが難しい。出来ない。」
と書いてある |
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現存する最も初期の達磨蔵である。細い線と太い線を使い分けて、ダルマを丁寧に表そうとしている。絵の上に不思議なことばが書かれている。それは「画き成す可(べ)からず」。本当のダルマは画き表すことは出来ないという意味である。
「それは、仏法・真理・或いは心の心理を言っているのではないか?」と、吉澤勝弘氏。 NHK「日曜美術館」より 2009.4 |
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依然、顔の描写にとらわれ、肖像画の域を脱していない印象である。 |
50代の禅画。「これまで数千の達磨を画いてきたが今もってなお 達磨の真の姿を描くことが出来ない。」白陰は格闘していた。 |
67歳の絵。迷いのない極太の線で画かれている。迷いのない極太の線が、画面を走る。描写がごく単純化されている。 |
67歳の時の画
初期の物には、胸の三つの点はない。
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衣の太い線が、”心”を暗示している。
仏法の心法を象徴して画いている。 |
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「すたすた坊主像」。これは、白陰が自らの生き方を表した禅画である。「すたすた坊主像」は、人々のお参りを代行していた貧しい坊主のことである。裸(はだか)同然で、街道筋を行き来していたといわれる。
これは、白陰の化身であった。裸一貫になっても、すべてを投げ出して人々を救う。・・・。白陰の不屈の覚悟が伺われる。
「慈悲心の発露というのか・・・、どうしても苦しんでいる人を救ってあげたい。これらの悩みを”真理”に託して解りやすく示されたのであろうと思う。」と、養源院現住職 土井玉峰氏。
それは衆生救済であった。 NHK「日曜美術館」より 2009.4 |
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子供と布袋が傘を差す・・・一見ほのぼのとした画である。
横には,人々を諭すことばが添えられている。「人も傘をさすならば、我らも傘をさそうよ」。・・・・雨が降っても、使用人には傘を許さなかった主人に対し、平等の大切さを説いたものと、地元では伝わっている。
白陰は、人としての道をわかりやすく説く為に禅画を書いたのである。
白陰のこのような活動は,妙心寺本山をも動かすことになった。
晩年の白陰は、妙心寺に招かれて講義をもおこなった。妙心寺”養源院”に、現在もその当時の本堂が遺っている。
地方の小さな寺の住職に過ぎなかった白陰が、本山に講師として招かれるのは異例の大抜擢であった。
白陰は、禅の教えを庶民に伝えた。これが、妙心寺派全体を揺り動かし、気骨ある禅寺は再び蘇ったのであった。
その精神は今に受け継がれている。
NHK「日曜美術館」より 2009.4 |
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