貴方は番目のお客様です。ようこそ! |
|
西暦 | 天 皇 | 年号 | 改元 | 干 | 支 | 神社仏閣関連 | 社 会 の 状 況 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1800 | 光格 | 寛政 | 12 | 庚 | 申 | 京都愛宕山消亡。 | 寺部領内の矢作川堤、大水による破損のため尾張藩へ普請を願い出る(豊田市史)。 3/赤坂代官所、格下げされ、中泉代官所赤坂出張陣屋と改称。 7/野村立栄のもとに、 12月大阪四天王寺雷で焼失。富士山女人登山許可。伊能忠敬、蝦夷地を測量。十辺舎一九「東海道中膝栗毛」を著す。 幕府、高田屋嘉平衛に択捉航海の針路を試みさす。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1801 | 享和 | 1 | 辛 | 酉 | 九久平町の高徳寺山門左に地蔵菩薩 | 4/九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門左に地蔵菩薩(丸彫り立像)。 百姓町人にみだりに名字帯刀を許すことを禁ずる。 本居宣長、学問普及のために上京し、多大の成果を収めて帰る。9/18発病29日没。伊能忠敬に沿岸測量命ずる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1802 | 享和 | 2 | 壬 | 戌 | 畿内名古屋地震(M6.5)。諸国洪水。 | 6/29矢作川洪水。民家浸水二階に及び田畑一面水腐、助船で翌日までに立ち退き(藩史)。 8/7矢作川洪水で挙母町大川通堤の切れたところから人家浸水。田畑水腐、籾50石を水害村に与える(藩史)。 名古屋城下と瀬戸、赤津、下品野に窯方御蔵会所をおく。 この頃より、西枇杷島祭り始まる。山車祭り。 2/幕府、蝦夷奉行を置く。江戸大火。連日風邪激しく火災多い。2〜4月諸国に風邪流行。6月江戸周辺長雨。箱根温泉流失。十辺者一九「東海道中膝栗毛」。伊能忠敬、陸奥、出羽、越後を測量。 「蝦夷地図式」(北海道大学蔵)では、現在とほぼ同じ形の地図となった。北海道には、先住民・アイヌの人々が暮らしていた。松前藩が彼らを支配。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナポレオン戦争1802-1815 | 封建的な専制君主制を倒すために行われたフランス革命の理念のもとにヨーロッパ統一を果たすべく、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン等の対仏同盟との戦いを続けたナポレオン。1815年、第二パリ条約の締結により戦争は終結し,ナポレオンは失脚。ナポレオン時代に整備された国民軍制度に、他国も倣い、軍隊の規模は拡大傾向に。(戦争開始年は諸説あり) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1803 | 享和 | 3 | 癸 | 亥 | 江戸降雨なく強風。10月伊豆大島噴火 | 8/16洪水、挙母村破堤(郡誌)。 熱田奉行津金文右衛門等により、熱田前新田が完成。伊能忠敬、尾張・三河を測量。尾張藩内の豪商農に商方会所・農方会所を作らす。 津軽新田の開拓始まる。麻疹で死者多し。伊能忠敬、東海、中山、北陸方面測量。 アメリカ船、長崎に来航、通商求むも、幕府応じず | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1804 | 文化 | 1 | 甲 | 子 | 6月出羽大地震 | 8/28矢作川洪水(2丈余)。低地の家屋は1丈1尺余浸水。助船で高所に移し救粥を下された(藩史)。仁木・岩津・西蔵前野村で矢作堤防400間破堤(矢作川)。9/17満水、このとき矢作橋東方50間破堤(矢作川)。11/28風水災害で、8,073石損耗。損耗が5年分収納の3分以上の場合1万石につき3斗5升がは入り、籾10,000俵備蓄するように勘定奉行から御達(藩史)。 これ以降、知多の白木綿販路が拡大して行く。この年、本居大平、吉田(豊橋)で講義。慈雲没「十善法語」「梵学津梁」。 9/ロシア使節ニコライ・レザノフ、長崎に来航(1792年アダム・ラックスマンに次いで、二度目)。貿易要求。幕府は、二度ともこれを拒否する。ロシアは、実力行使をはじめる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナポレオン戴冠。 フォイエルバッハ(〜1872)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1805 | 文化 | 2 | 乙 | 丑 | 6〜7月江戸旱魃。 | 本居宣長の実子、和歌山の本居大平(おおひら)吉田(豊橋)で国学の講義。 5/百姓の武芸稽古を禁ずる。9/ロシア使節レザノフの要求を拒否。紀伊の医師、華岡青洲初めて麻酔剤による乳ガンの手術。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1806 | 文化 | 3 | 丙 | 寅 | 6月江戸と近国大雨。 | 花園・中根・吉原の3か村の用水を巡って、花園・中根間で論争起こる(花園区有文書)。 熱田では、旅籠に飯守女をおくことが公認される。(遊郭化の進行) 武士などは、役人の目を避けて熱田で遊ぶ者が多く、大須界隈から熱田にかけての地域は遊興を求める人々によって賑わう。 1/文化の撫恤(ぶじゅつ)令。沿岸諸藩に防備を命じる。3月江戸・芝の大火(丙寅の大火)。10/江戸町人らに御用金を課す。大阪町人に買い米命じる。1月歌麿没(54)。 ロシア使節ニコライ・レザノフの部下が、樺太のクシュンコタンに砲弾を撃ち込む。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1807 | 文化 | 4 | 丁 | 卯 | 7/25領分三州挙母町大風雨、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 3/幡豆郡矢曽根村の松崎元栄(48)、妻と19才の息子元春らを伴って名古屋の野村立栄に入門。翌年9月まで。元春は、1846年西尾藩医となる。9/尾張藩の年貢米俵、江戸売り払いの便宜のため、四斗俵普及。 九州に渡り磁器焼製法を習得した加藤民吉、帰る。藩の染め付け御用達となる。尾張藩、木綿の直買を禁ず。刈谷領泉田村で騒動。 2/西蝦夷を直轄とする。4/ロシア船、樺太・択捉島に来航。5/ロシア船、利尻島に侵入、幕府船を焼く。 ロシア使節ニコライ・レザノフの部下が、エトロフ島を襲撃。食糧を奪い海賊行為を行う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1808 | 文化 | 5 | 戊 | 辰 | 六所神社上宮南に、石灯籠。九久平町の吉祥院に地蔵菩薩 | 1/坂上町朝日山の六所神社上宮南に、石灯籠『奉献燈篭御神燈。伊勢神宮遙拝所』。 3/22九久平町寺前15の吉祥院山門左に地蔵菩薩(丸彫立像)『大源周明和尚』。7/25大風雨、、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 8/八幡祭で永代橋落ち500人死亡。 4/間宮林蔵樺太探検。アイヌ人の助けを借りる。トナカイやオロッコ(現:ウィルタ人=魚の革・アザラシの皮を着用)・スメレンクル(現:ニブラ人)の報告。5/上方洪水。摂津・河内水害。 7/13間宮林蔵二度目の樺太測量。 8/フェートン号事件。江戸町人5人を町方御用達に登用。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1809 | 文化 | 6 | 己 | 巳 | 江戸近国50年来の大雪(2尺余り) | 6月江戸近国長雨・洪水・米価高等。諸国強風。 5/間宮林蔵、アイヌの船を使って北上し、樺太が島であることを確認(間宮海峡)。最北端に数戸の民家を確認。6/26間宮アイヌの助けを得てロシア・デレンに赴く。サンタン人の集落あり。7/11間宮デレン(数百人の様々な民族による商取引・交易の街)に到着。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
進化論・チャールズ・ダーウイン(1809〜1882)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1810 | 文化 | 7 | 庚 | 午 | 江戸降雨なく烈風・8月風雨・冬大雪 | 豊田市羽明(はあす)、法恩寺再建。(「松平町誌」) 一宮地方で、綛(かせ)糸仲買設置反対運動。 2/相模・安房海岸に砲台築造。12/大阪富商14名に御用金を課す。 江戸烈風ふき火災。8月風雨のため死者多し。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1811 | 文化 | 8 | 辛 | 未 | 伊能忠敬、九久平に泊<市郷土資料館だより>より | 2/一宮地方で、綛糸(かせいと)仲買株設置反対運動。 3/測量家伊能忠敬一行、名古屋から飯田街道筋を通り四郷村から南下して挙母城下を訪れた。この時四郷村で泊。村々で、机や燭台を用意させ、村人に寝ずの番をさせるなど受入に気を配った。(菅原家文書「測量御用ニ付書物控」文化8年3月)。
6/幕府の役人は、千島列島を測量していたロシア艦長ゴローニンを、国後島で捕らえられる。 平田篤胤「古道大意」。式亭三馬「浮世床」。江戸大火。 佐久間象山(1811〜1864)生まれる。〈吉田松陰の師〉 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1812 | 文化 | 9 | 壬 | 申 | 5/28昼頃より大雨、満水。近年に無き高水なり(矢作川)。 8/ロシア船、国後島で高田屋嘉兵衛を捕らえる。 間宮林蔵、13巻の樺太測量の報告書を幕府に提出。樺太は半島ではなく大きな島であった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1813 | 文化 | 10 | 癸 | 酉 | 11/尾張の督乗丸、遠州灘で遭難。船頭重吉ら500日間漂流する。 5/ロシア船を高田屋嘉兵衛送還。9/ロシア艦長ゴローウニンと交換。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キェルケゴール(〜1855)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1814 | 文化 | 11 | 甲 | 戌 | 寛永寺本坊焼ける。瀧沢馬琴、南総里見八犬伝なる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1815 | 文化 | 12 | 乙 | 亥 | 5月阿蘇山噴火。 | 5/26洪水(水量1丈4尺余)。破堤288間・水門破損。人家浸水。田畑水腐(藩史)。6/7矢作川堤、新村から高落にかけて決壊(西尾市史)。 杉田玄白「蘭学事始」成る。 この年、新城の田中春庵、京都の小森玄良塾(蘭学)に三河最初の門人として入門。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1816 | 文化 | 13 | 丙 | 子 | 畿内・東海風雨・洪水 | 7/31〜8/4大雨・洪水。挙母村破堤(郡誌)。その他各所にて破堤(西尾市史)。 10/信州中馬が三河馬稼の駄賃荷制限を要求し、津具村などで紛争がおきる。11/吉田魚町魚問屋、領内の独占権得る。12/都築弥厚(弥四郎)明治用水開発に着手(明治用水百年史)。 2/武家屋敷内の賭博勝負禁止令の厳守命じる。4〜8月江戸疫病発生。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1817 | 文化 | 14 | 丁 | 丑 | 坂上町の観音堂念仏塔 | 坂上町丸塚60-1の観音堂に念仏塔(平石)右側に、徳本上人の名号石、『春彼岸寺正月念仏講中造之』。 9/イギリス船、浦賀に来航。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1818 | 仁孝 | 文政 | 1 | 戊 | 寅 | 豊松町神明社に石灯籠 | 10/豊松町宮前神明社に石灯籠『奉納御寶前』。 2/幕府、鎌倉で大砲試射。5/英人ゴルドン、浦賀に来航し貿易を要求。幕府これを拒否。伊能忠敬没(74)。『妙好人伝』(〜1852)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクス(〜1883)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1819 | 文政 | 2 | 己 | 卯 | 伊勢・美濃・近江地震(M7.3) | 伊勢・美濃・近江地震(M7.3) 米価下落。一茶「おらが春」できる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1820 | 文政 | 3 | 庚 | 辰 | 1/尾張藩、米切手の取扱を規定する。8/幕府評定所、信州中馬と三州馬稼ぎの争論に裁許を下す。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1821 | 文政 | 4 | 辛 | 巳 | 滝脇町西洞31の長松院に供養塔 | 8/7洪水、挙母村破堤(郡誌)。 10/16滝脇町西洞31の長松院に供養塔『玉雲全明大和尚』。 2月江戸に風邪流行・御目見以下3.5万人に施薬。飢餓民30万人に銭を与える。9/伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」を完成。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1822 | 文政 | 5 | 壬 | 午 | 林添町寺脇・晴暗寺に、供養塔 | 松平是心寺再建。 (「松平町誌」) 林添町寺脇・晴暗寺に、供養塔角柱。7/25洪水、挙母城下潰家25戸、死者2人怪我35人(郡誌)。 3/小田原藩主大久保忠真、二宮尊徳を登用。5/樋口好古「尾張徇行記」の編纂を完了。 この年、名古屋の書店永楽屋、本居宣長の「古事記伝」全巻の出版を完了。 江戸大火。西国でコレラ大流行。イギリス船、浦賀に来る。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1823 | 文政 | 6 | 癸 | 未 | 林添町寺脇12-1晴暗寺に六地蔵 | 8/17矢作川大水(岡崎市史)。 10/林添町寺脇12-1晴暗寺に六地蔵(舟型立像)『圓容心誉近善臣禮』。 4/新城、菅沼家家臣池田寛親、小栗重吉の漂流談「船長日記」を著す。勝海舟生まれる。 ドイツシーボルト来朝。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフレッド・ウォーレス生まれる(〜1913)。後に東南アジアの島々を航海して、生物の多様性に驚き、母国イギリスに送っていた。やがて、ダーウィンよりも先に”進化説”を直感する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1824 | 文政 | 7 | 甲 | 申 | 大内町三本松松平乗元の墓に石灯籠。信光寺に手洗石 | 2/古鼠の川舟業と小渡村との川下げ紛争和議(古井家文書)。6/矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 4/大内町三本松松平乗元の墓に、石灯籠。一対。信光寺に手洗石(角型)。 江戸女芸者を禁ず。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1825 | 文政 | 8 | 乙 | 酉 | 4/14矢作川堤防破堤。上青野村等で切れる。(西尾市史)青野・安藤・福桶・高畑・三ツ木在家の諸村浸水(矢作川)。 7/西浅井村羽佐坂で破堤(西尾市史)。 初代歌川豊国没(57)。雷電為右衛門没(59)。初代清元没(49) 2/異国船打払令発布。沿岸の警備を強化。 岩倉具視生まれる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1826 | 文政 | 9 | 丙 | 戌 | 5/22矢作川洪水(岡崎市史)。 6/今村渡しの船建造。建造費の3分の1は藩から(今区有文書)。 1/尾張藩、瀬戸村に焼き物御蔵所をつくる。3/水谷豊文、宮宿にシーボルトを迎え植物標本の鑑定を願う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルンハルト・リーマン(1826〜1866)生まれる。素数に隠された意味をより強く印象づける人物が登場した。(ドイツ・ゲッティンゲン) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1827 | 文政 | 10 | 丁 | 亥 | 越後地震 | 5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 8/碧海郡和泉村の旗本代官都築弥厚、その子弥四郎の名で加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。 頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。小林一茶没(65)。ジョン万次郎生まれる(1827〜1898)。 薩摩藩、調所広郷(ずしょひろさと)が、藩政改革に乗り出す。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1828 | 文政 | 11 | 戊 | 子 | 全国的水害 | 5/9矢作川大洪水(岡崎市史)。6/1矢作川洪水(1丈8尺)破堤数カ所、水門破壊。人家浸水、田畑水腐(藩史)。7/1矢作橋30間落ち、青木・仁木・八町・上青野・矢作・天王上堤等切れる。矢作村では流家死人在り(矢作川)。 伊豆田方山崩れ・新山湧出。6月全国的水害(653万石)。8月九州大雨。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9/9 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ、生まれる(〜1910.11.9)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1829 | 文政 | 12 | 己 | 丑 | 江戸強風。 | 12/中島郡苅安賀村で減免を求めて騒動。菅江真澄没。 江戸強風中大火(己丑きちゅうの大火)死者900人余。松平定信没(72)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1830 | 天保 | 1 | 庚 | 寅 | 7月京都大地震。 | お陰参り流行。板山の獅子芝居:半田市神代町・八幡神社。獅子頭はこの頃につくられた。県指定無形民俗文化財。 金沢不作。吉田松陰(長州藩士)生まれる(1830〜1857)。大久保利通(薩摩藩士)生まれる。シーボルト事件。 大塩平八郎38歳、与力(与力としては最高の地位:諸御用調役)を辞職し、養子の格之助に引き継ぐ。 葛飾北斎「富嶽三十六景」 一茶 蘭学・国学の興り。 千葉周作・剣術。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1831 | 天保 | 2 | 辛 | 卯 | 鹿児島凶作。百姓町人の過分な葬儀などを禁ずる。10/イギリス船、東蝦夷に来航。良寛(74)・十返舎一九(69)没。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アメリカ(1787)、フランス(1791)に次いで、ベルギー王国憲法制定。 ビーグル号・ダーウィンを乗せて航海。ガラパゴス島のゾウガメの特徴を分析して、「全ての生き物は神によって作られた」のではなく、進化して生まれた説を唱えることとなる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1832 | 天保 | 3 | 壬 | 辰 | 天保の飢餓始まる | 大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対。『大給主 松平石見守源乗利之立』。 5/幕府役人平岡彦兵衛、加茂・碧海両郡の新開拓見込み地を検分。9/18大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。12/設楽郡中設楽村などの商人仲間31人、柿、楮(こうぞ)、たばこなどの仕入れについて議定する。これより同郡月村など6カ村(振草七郷)と争論がはじまる。 天保の飢餓始まる。鼠小僧次郎吉死刑。頼山陽没(53)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1833 | 天保 | 4 | 癸 | 巳 | 天保の大飢餓(長雨・冷害〜39)。美濃西・大垣(M6)、10月越後出羽地震 | 九久平陣屋、倹約と頼母子(たのもしこう))加入を領民に命令。(「松平町誌」) 2/東海道二川宿・白須賀宿の助郷村、負担軽減を求め道中奉行に訴える。12/27田原藩、格高制を実施し、藩士の俸禄を豊凶により増減させる。この年、加茂郡九久平村周辺23カ村薪問屋の割木買いたたきに抗議する。鈴木朖、尾張藩校明倫堂教授並となり初めて明倫堂で国学を講ず。設楽郡稲橋村で古橋暉児が中心となり、杉の植樹開始。 8月関東奥羽大風雨。10月越後出羽大地震。各地一揆。大阪に捨て子養育を命ず。天保の大飢餓(長雨・冷害〜39)。木戸孝允生まれる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1834 | 天保 | 5 | 甲 | 午 | 王滝町覚庵16の妙昌寺に地蔵菩薩 | 4/王滝町覚庵16の妙昌寺に地蔵菩薩(舟型立像)。 4/21田原藩、幕府による渥美郡海岸新田開発計画の中止を嘆願。9月に認められる。9/田原藩、大蔵永常を招き、藩産物取締役に任ず。 2月江戸大火。7月大阪堂島新地大火。冬米価下がる。3/水野忠邦、老中となる(〜43)。近藤勇(浪人)生まれる。福沢諭吉(中津藩士)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1835 | 天保 | 6 | 乙 | 未 | 6月関東奥羽大地震。 | 7/5大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。11/田原藩、報民倉(救荒備蓄倉庫)を設置。 3月金沢大火。6月地震以来各地に一揆。 名古屋の植松茂岳、尾張藩に仕官し、やがて明倫堂で鈴木朖の後の国学教育の中心となる。 井上馨(長州藩士)生まれる。坂本龍馬(土佐藩郷士)次男として生まれる。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1836 | 天保 | 7 | 丙 | 申 | 鴨(かも)の騒動・大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石 諸国凶作で米価高騰。 伊豆地震(M5〜6)。 8月諸国洪水 |
3/大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石(角型)『松平石見守乗利造立之』 1/寺津八幡宮神宮渡辺政香「参河志」を著す。 8/13暴風雨、三河一帯に被害。米価高騰、物価高騰米の買い占めによる生活困難。 9/16鴨の騒動
国定忠治は、私財を投じて飢民救済したので、赤城山麓では一人の餓死者も出なかったと羽倉簡堂(忠治を取り締まる立場の者)が記録している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1837 | 天保 | 8 | 家慶 | 丁 | 酉 | 10/尾張藩で給地の租税増大のため、給地百姓から蔵入百姓に転ずる者増加。 2/19大塩の乱(大塩平八郎・陽明学者:「洗心洞」塾長46才)。平八郎、蔵書をすべて売却してできた六百六十八両(現在の価値に換算して8千万ー一億三千万円を、一万人の人々に配布。建議書を発送して、翌日挙兵。門人と農民たちに加え檄文に反応した農民たちで300人ほど参加。大阪の腐敗政治を告発した文書を送ったが、江戸には届かなかった。(「民を救うということ」 藪田貫より) 6/生田万(よろず)の乱(越後:今の新潟県・柏崎)。<大塩の乱は、瞬く間に全国に広がった。> 浦賀に貿易交渉のために、アメリカ船モリソン号。日本は「異国船打払令」により打ち払い・退去する事件。 大阪米価・物価高騰して餓死者多数。 佐賀藩、鍋島直正は、農民に小作料を10年間猶予したり、町人の地主がもっていた土地を一端藩の所有とし、それを農業を行う農民や小作人に分け与えた。陶磁器・有田焼や蝋の専売で利益。また、長崎でオランダと事実上直接貿易を行う。 板垣退助(土佐藩士)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1838 | 天保 | 9 | 戊 | 戌 | 坂上町茶臼下の神明宮に石灯籠一対 | (「松平町誌」)坂上町茶臼下の神明宮に石灯籠一対『奉献御寶前』。 1/幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。6/13大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。 4月江戸大火。5/江戸、奢侈禁止令。5月佐渡・三河・駿河・甲斐・越後で一揆。山県有朋(長州藩士)生まれる。大隈重信(肥前藩士)生まれる。長州藩、村田C風の元で藩政改革始まる。特産品の蝋の専売制をゆるめて農民の支持を得ながら、下関に一種の貿易会社を設けて、藩財政の立て直しを図り、庶民への教育にも力を入れた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1839 | 天保 | 10 | 己 | 亥 | 豊年踊り流行。5/14蛮社の獄、渡辺華山・高野長英投獄。渡辺華山2年後に自害。高杉晋作生まれる。10/奢侈禁止令。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1840 | 天保 | 11 | 庚 | 子 | 九久平横手の九久平小学校西に念仏塔(自然石)。徳本上人(注)の名号石 | 6/28菅生川出水、青木川切り込み(郡誌)。8/25大雨、大平橋流失(岡崎市史)。 9/九久平横手の九久平小学校西に念仏塔(自然石)。徳本上人(注)の名号石(現在、「徳本饅頭」なる菓子を商う老舗の店がある。昔在った場所から移転して営業)。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中国、アヘン戦争(〜42)・・イギリスと清との間の戦争。これが中国へ列強が進出するきっかけとなる。インドをはじめ植民地化を広げ、綿製品のアジア進出をもくろんでいたイギリスだが、清が鎖国政策をとっていたため、貿易不均衡の解消を目的に、自国の製品をインドへ、インドからアヘンを密輸入、清から茶を輸入する三角貿易を進める。アヘンの輸入をめぐりイギリスと清は開戦。1842年、戦勝国イギリスは典型的な不均衡条約とも言える南京条約を締結。欧米列強によるアジア侵略の本格化を許すきっかけとなった戦争と言える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1841 | 天保 | 12 | 辛 | 丑 | 天保の改革 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。 坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔 |
9/坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔(平石)。 加茂郡羽明村(豊松町)名主河合金右衛門、九久平・足助間の水路(巴川)開さくを幕府に出願。 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。 伊藤博文(〜1909)生まれる。10/渡辺華山自刃・没(49)。5/水野忠邦による天保の改革はじまる(1841〜43)。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1842 | 天保 | 13 | 壬 | 寅 | 石楠町下林・公民館南西に地蔵菩薩 | 3/石楠町下林・公民館南西に地蔵菩薩(舟型立像)。 3/尾張藩、藩内株仲間を解散。木綿製品統制を目的に国産会所を設立。5/18挙母矢作川洪水、水量1丈尺、破堤し田畑損害(藩史)(郡誌)。 7/天保の薪水給与令(打ち払い令を緩和)。農民風俗倹約令を出す(〜1889年)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1843 | 天保 | 14 | 癸 | 卯 | 2/尾張藩撰「尾張志」を完成する。4/尾張藩、藩切手を発行する。この年の代官所による余業調査の結果、四十数戸の稲橋村のなかで38人が山仕事従事者であった。内、杣そまこびき木挽き2人、炭焼き8人。その他、信州行き諸荷物運送者は2人。四十戸の川手村(稲武)では35人。内、杣職人2人、炭焼き稼ぎ15人、猪鹿猟稼ぎ5人であった。その他、仲馬追い稼ぎ4人がいた。農閑期の稼ぎとは言え山で働く人は多かった。9/4挙母矢作川洪水。堤防破壊(藩史)。 7/大阪町人に御用金を課す。12月江戸大火。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1844 | 仁孝・孝明 | 弘化 | 1 | 甲 | 辰 | 「荷ノ口論争」起こり、馬稼方出馬を取り止める。 (「松平町誌」) 2/「尾張名所図会」刊行される。4/9領分三州挙母矢作川洪水破堤(藩史)。 12月江戸城本丸大奥上棟式。3/フランス船「アルクメール号」、琉球に来航。琉球は、フランスの要求を断る。 7/オランダ国王、幕府に開国を勧告(翌年謝絶)。この年、尾張藩書物奉行深田正韶監修「尾張名所図会」刊行さる。藩に献納。佐賀藩、火術方(かじゅつかた)大規模な溶鉱炉・鍛冶屋設置により軍需改革に重きを置く。 1850年には金属を溶かす反射炉を建築。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニーチェ(〜1900)生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1845 | 弘化 | 2 | 乙 | 巳 | 2/加茂郡21か村の馬稼ぎと足助町問屋が通行料(荷口銭)徴収で争い、馬方ストライキをする。 江戸 青山・高輪・三田大火。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1846 | 弘化 | 3 | 丙 | 午 | 九久平町石橋、小野田新八宅西・馬頭観音。6月諸国長雨江戸水害。7月京都水害 | 九久平町石橋、小野田新八宅西・馬頭観音(舟形立像)。元春は、西尾藩医となる。9/2上伊保村大井土橋完成(保見町細川家文書)。 1月江戸大火(町数290)。4/イギリス船、フランス船、琉球に来航。 この年、宇田川榕庵(ようあん178〜1846)没。Cellを細胞と訳した学者。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1847 | 弘化 | 4 | 丁 | 未 | 九久平町岩谷山・弘法堂に地蔵菩薩。信濃・越後大地震死者数万人 | 7/31九久平町岩谷山・弘法堂に地蔵菩薩丸彫り立像。 信濃・越後大地震死者数万人:別名・善光寺地震 浅草に一揆。天然痘流行。 中江兆民生まれる(〜1901)。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1848 | 孝明 | 嘉永 | 1 | 戊 | 申 | 東海畿内大雨矢作橋等損壊。 「安全寺」西辻馬頭観音 |
等光寺、この年に現地に移築。4/坂上町天下峯「安全寺」西辻馬頭観音(舟形立像)。8/8〜9大風雨洪水(岡崎市史)。 この年、吉田藩、省略仕法開始。 幕府名古屋藩に5万両。江戸大名小路火災。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プロイセン王国、立憲君主制の憲法制定。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1849 | 嘉永 | 2 | 己 | 酉 | 8/17奥殿藩;領主・松平石見守 従五位源朝臣建立之乗利=松平 乗利(1811〜1854 のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代・・・松平六所神社本宮・下宮に不動尊一宇寄進(同集落郷倉の棟札)。 12/伊藤圭介、尾張で最初の牛痘種痘を実施。 佐賀藩楢林蘭法により種痘・領内に種痘奨励。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1850 | 嘉永 | 3 | 庚 | 戌 | 九久平宮ノ根15の神明宮に石灯籠 |
桂野用水路起工。(「松平町誌」) 7/21夜、大風雨満水。細川・仁木・岩津・西蔵前・八丁被害。7/22小間村・浅井村・田貫村の堤防破壊。(西尾市史)。8/6領分三州挙母矢作川洪水。水量1丈尺、八幡渡場堤破損人家浸水(藩史)。8/7矢作川九分水となり天白堤200間切れ、その他13カ所破堤。(西尾市史)。8/8挙母城下浸水(陽竜寺文書)。9/2〜3大風雨。堤30間切れる(矢作川)。 8/九久平宮ノ根15の神明宮に石灯籠。『御寶前』ー境内の隅に片づけられている。 名古屋藩に1万両貸す。江戸大火。幕府松代藩士佐久間像山のオランダ語出版許さず。
12/21任侠をもって鳴る博徒国定忠治、脳溢血で倒れついに逮捕される。殺人と関所破り他の罪により上野国大戸の関所で磔となる(41才)。形状には500人を越す見物人。 佐賀藩、この年、金属を溶かす最初の反射炉を建築。日本で初めて鉄でできた大砲を作る。後に、火薬製造、蒸気船など他の藩とは特色のある事業を行った。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1851 | 嘉永 | 4 | 辛 | 亥 | ※村政運営 :村請制:
村絵図 「五拾壱加上」 平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵) |
六ツ木、長慶寺創建。(「松平町誌」) 3/名古屋の株仲間ほぼ復興される。4/「五拾壱加上:五拾壱ケ条」平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵) 江戸に辻斬り多くその切り捨てを許す。ジョン万次郎上陸す。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ・ポアンカレ(1851〜1912)生まれる。 ・・・・物理学や哲学などあらゆる学問をマスターし、レオナルド・ダ・ヴィンチやニュートンに並ぶ「知の巨人」と称えられた人物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1852 | 嘉永 | 5 | 壬 | 子 | 九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠 7月京都暴風雨諸国被害多し。開国・尊皇攘夷運動・討幕 | 6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。 2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トルストイ(24歳)、『幼年時代』が雑誌『現代人』発表され、新進作家として注目を集める。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1853 | 嘉永 | 6 | 家祥 | 癸 | 丑 | 日本開国の序曲 黒船来航 関東地震。 |
桂野用水路完工。(「松平町誌」) 江戸髪結いの転業を教諭。6/ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航。 江戸幕府は、国書を受領しただけ。 7/ロシア使節プチャーチン、日本との条約締結の特命を受けて長崎に来航。琉球王府をも訪問。 幕府ジョン万次郎を登用。 このころ幕府への不信が高まっていた。幕府には、日本を任せられないとの二大勢力があった。=長州藩・薩摩藩。時代を握る主導権争いから対立していた。 幕末危機。 歌川広重 武芸・江戸町道場。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリミア戦争1853-1856 | 18世紀以降衰退の一途を辿るオスマン帝国の状況に乗じて、長年、悲願だった不凍港を得るためにロシアが南下政策を決断1853年にクリミア戦争を開始。オスマン帝国側をイギリス、フランスが支援し、劣勢になったロシアは平和交渉の末、1856年パリ条約を締結。クリミア戦争、後の露土戦争と、二度にわたりロシアと戦ったオスマン帝国は退潮。勢力図が大きく変わり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる火種がバルカン半島に生まれた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1854 | 安政 | 1 | 家定 | 甲 | 寅 | 安政東海地震(M7.3)伊賀・伊勢・大和。滝脇町西洞31の長松院古井戸の前に井水神。九久平町粟の谷下の、水道中継所北東に、馬頭観音。大内町宮脇の大内神社に石灯籠 日章旗を日本国総船印に制定 |
滝脇町西洞31の長松院古井戸の前に井水神(自然石)。九久平町粟の谷下の、水道中継所北東に、馬頭観音(舟型立像)。8/大内町宮脇の大内神社に石灯籠『奉献 八○大明神』。 11/4、5地震による津波、吉田をはじめ被害甚大。矢作川堤防裂ける。 11/本居宣長の実子(大平)の養子、本居内遠、江戸の紀州藩邸での国学講話の途中、名古屋の植松茂岳邸に立ち寄り、二人で「吾が党の人」について論じる。この中に「大和魂」という言葉が出る。 1/ペリー、再び来航。 3/日米和親条約(神奈川条約)。その帰り道、ペリーは琉球に立ち寄り、琉・米修好条約締結・7月・・・その後、琉球王国は、フランス、オランダとも同様な条約を締結)
上野(こうずけ)・陸中等で打ち壊し・強訴多発。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1855 | 安政 | 2 | 乙 | 卯 | 安政南海地震(M7)。 10/2江戸大地震。 |
林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音(舟形立像)。 2/尾張藩、米穂の他所積み出し禁ず。7/26この日より二日間大雨。細川堤切れる(矢作川)。7/29矢作川洪水(1丈8尺)、堤8カ所、その他各所に破堤。田畑水腐。救助のために粥を下す。家屋4軒流失、本漬19戸半漬3軒、その他66軒浸水(郡誌)。8/20村々大風雨。漬家5軒、半漬12軒。矢作川堤防8カ所決壊。倒木66本(藩史)。これにより高潮で伊勢湾沿岸の干拓新田堤防91か所破壊される。10/2江戸大地震。激しい揺れと火災で、死者およそ7,000人。11/尾張藩、他所米の移入を禁ず。 12/日蘭親和条約。幕府、洋学所を設置。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1856 | 安政 | 3 | 丙 | 辰 | 8月東海東山諸国暴風雨。 | 4/26大風雨。矢作川大洪水(岡崎市史)。4/松平東照宮に石灯籠『奉献 市杵島神社前(弁財天)』 外人に牛肉を許す。足軽の飯島良平母の仇を討つ・幕府士籍に列す。7/総領事ハリス、下田に着任。幕府に対して「日米修好通商条約」の締結を求める(58年に条約に調印)。 吉田松陰、松下村塾を開く。二宮尊徳没。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1857 | 安政 | 4 | 丁 | 巳 | 駿河静岡地震(M6.3)。 | 松平町大西・長福寺墓地に念仏塔(角柱)『岡崎宿伝馬町 大阪屋藤吉』 6/13名古屋城下の八百屋商人、下小田井青物問屋 を押さえフゴ荷商人を支配する。9/2田原藩建造の洋式船順応丸進水。以後、江戸・田原間を往復。11/13下小田井青物問屋、再興を許可される。 この年、田原藩の様式船順応丸完成し、江戸ー田原間を往復する。 江戸風邪流行。4/幕府、軍艦教授所設立。5/ハリスと下田条約。10/ハリス、通商開始を要求。 幕府は、ロシアと通商条約を結ぶ。しかし、アイヌの反発が強かった松前藩には、蝦夷が、ロシアに靡くことを恐れて、これを任せることが出来なかった。幕府は、アイヌに対して和風化政策を行って、丁髷を結わせたり、アイヌ特有の髭をそり落とさせたりする。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1858 | 安政 | 5 | 家茂 | 戊 | 午 | 東海その他地震。 安政の五カ国条約 |
9/松平兵部少輔源朝臣乗謨(三河奥殿藩の第8代藩主のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代。)、六所神社の本宮(上宮)に・吉木宮御本社一宇寄進(同集落郷倉の棟札)。 4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ・ダーウィン「進化論」を学会に発表。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
インド、ムガル帝国を滅ぼされて、イギリスの植民地となる。最後の皇帝は、バハードゥル・シャー二世(1775〜1862)ムガル帝国第17代皇帝。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1859 | 安政 | 6 | 己 | 未 | 坂上町的場・豊栄神社南東に馬頭観音 | 宮口(豊田市坂上町)・郷倉の竃(現在、五平餅作りに使用)この年に作成・鋳造。 9/20坂上町的場・豊栄神社南東(県道沿い)に馬頭観音(舟形立像)。江戸大火。オランダ船品川に初めて来航。5/神奈川・長崎・箱舘の3港で貿易を開始。7月コレラ流行、米価高騰。10/吉田松陰(松下村塾、荘孟の思想)29才で刑死。 佐藤一斎(1772〜1859)没。門下には、佐久間象山、安積(あさか)艮斎(ごんさい)、大橋訥庵(とつあん)、横井小楠、中村正直などがある。(象山の門下から勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、小林虎三郎などの志士が輩出した。また、吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなる。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダーウインの「種の起源」出版。 ドイツの天才数学者・リーマン予想(1859年)。・・「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ。」・・これが証明されると、不規則に存在する素数に、理想的で完全な調和が存在することを証明することを意味する。 注:その後、1972年、このゼロ点とゼロ点の間隔が、原子核のエネルギーの間隔との間に緊密な共通性があることが解った。バラバラにしか見えない素数の並びに隠された大いなる意味は、万物の理論・いわば想像主による宇宙の設計図かも知れない。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1860 | 万延 | 庚 | 申 | 討幕運動 桜田門外変 尊皇攘夷運動 |
5/洪水。小栗新田では堤防流失し一面海となる(挙母市資料)。5/12大風雨。矢作川洪水(1丈9尺)市中浸水(高9尺・低1尺6分)救船で立ち退き。漬家109軒、倒木138本、家屋浸水243軒(藩史)。5/17大風雨。矢作川洪水。挙母村浸水(郡誌)。 11/設楽郡川合村で米商人排斥運動おこる。 6/日米修好通商条約に基づき、横浜(輸出額の8割、輸入額の5割以上が取引される、もともと人口四百人に満たない小さな村であったが、国内用・国際用の二つの桟橋が新たに増設。外国の商館も次々と立てられた。10年後には、人口2万を超えた。)・長崎・箱館が開港。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1861 | 文久 | 1 | 辛 | 酉 | 鍋田町ヒカゲの旧曲がり神明社跡に地蔵菩薩 | 8/21大雨洪水。(岡崎市史)。10/5・6大平川満水。仮橋流失(岡崎市史)。 鍋田町ヒカゲの旧曲がり神明社跡に地蔵菩薩(舟型座像)。 4/第一次東禅寺事件。5月水戸浪士イギリス公使館を襲う。10月種痘所を西洋医学所と改称。12/遣欧使節出発。福沢諭吉、遣欧使節に随行。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アメリカ南北戦争 1861-1865 |
商工業を中心に保護貿易政策をとるアメリカ北部と、綿花栽培の大規模農場を中心に自由貿易政策をとる南部の戦い。1861年に奴隷制の廃止を唱える共和党のリンカーンが大統領に就任すると、奴隷制無しでは産業が成り立たない南部の諸州はアメリカ合衆国から離脱。アメリカ連合国を結成し、1861年北部連邦政府と南部連合は全面戦争へと突入。1863年リンカーンは戦争目的を「奴隷解放」と明文化。北軍は「民主主義」の名の下に、前線の敵のみならず、南部の鉄道網、工場、商店、農地など戦闘を支える銃後の産業や生活も破壊し尽くした。死者は,両軍で62万人。従来、戦争においても,民間人への攻撃は騎士道精神に反すること、また戦後の平和的和解の妨げに繋がるため避けられてきたが、第一次大戦での無制限潜水艦攻撃や第二次大戦の原爆投下など、南北戦争以降、顕著に観られる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1862 | 文久 | 2 | 壬 | 戌 | 3/坂本龍馬脱藩。故郷をでる龍馬「日本を今一度せんたくいたしもうし候」と手紙。 | 7/26大雨、屋敷一円浸水。菅生川は格段に水多し(矢作川)。8/六所神社本宮・上宮に鳥居寄進:奥殿城主第8代松平乗謨(のりかた:松平乗利の長男)・(同集落郷倉の棟札)。 天白・高落西浅井破堤(西尾市史)。 1月江戸火災多し。1/坂下門外の変。3/24坂本龍馬脱藩。故郷をでる。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トルストイ(34歳)18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定める。夫婦の間には9男3女が生まれた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1863 | 文久 | 3 | 癸 | 亥 | 龍馬:幕臣・勝海舟の塾で蒸気船の航海術・語学を学ぶ。 | 9/15大和天誅組の乱。旧刈谷藩士松本奎堂、大和天誅組の中心人物として死す。奥殿藩主松平乗謨、信濃国佐久郡田野口村に居城を移す(竜岡藩)。奥殿藩廃す。 6月江戸大火。二の丸焼失。6/長州藩、高杉晋作ら騎兵隊編成。7/薩英戦争。8/8月18日の政変。七卿長州へ。8/天誅組の変。10/生野の変。大阪大火。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1864 | 元治 | 甲 | 子 | 坂上町小坂23-3日箇出神社に石灯籠 8月関東暴風雨水害多い。 |
6/坂上町小坂23-3日箇出神社に石灯籠『秋葉山』 3/天狗党の乱。6/池田屋事件。7/禁門の変(薩摩藩と長州藩京都で激突)。これに勝海舟の海軍塾の塾生も関与したとされて、塾閉鎖さる。坂本龍馬行き場を失う。この龍馬に、薩摩藩の西郷隆盛が目を付ける。龍馬は、薩・長が手を結べば強力な勢力となるに違いないと判断する。しかし、禁門の変によって龍馬が想像する以上に、両藩は険悪な関係となっていた。龍馬、隆盛に懇願し長州の桂小五郎との会談を約束させる、が、隆盛は来ず、薩・長の溝はますます深まる。 第一次長州征討命令。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トルストイ、世界文学史上に残る傑作『戦争と平和』(1864-69)と『アンナ・カレーニナ』(1873-77)である。 前者はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物がリアリズムの手法によってみな鮮やかに描き出されている。 後者は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、前者に比べより調和に富み、構成も緊密である。 一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、初等教育の教科書作成にも力を注いでいる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1865 | 孝明・明治 | 慶応 | 1 | 乙 | 丑 | 2/額田郡細川、仁木の両村碧海郡配津村との渡船停止を求め、9月和睦(岡崎市史)。4/奥殿藩・松平兵部少輔源朝臣乗謨のとき、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5/17岡崎洪水(矢作川)。 9/幕府、横須賀製鉄所起工式。10/紅葉屋事件。 坂本龍馬:長崎に行き貿易商から武器を購入し薩摩藩に渡し、その代わりに薩摩から長州に米を購入しようとする。(幕府に目を付けられていた薩摩藩は、長崎で武器購入が困難であった) 長崎、大浦天主堂完成。 リンカーン暗殺。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1866 | 慶応 | 2 | 慶喜 | 丙 | 寅 | 風水害で、諸国凶作、米価高騰。 | 5/7/8/霜害・風水害重なる。(「松平町誌」) 7/1岡崎、大風雨にてにわかに増水し床下へ3寸程入水(矢作川)。8/6昨夜より雨。床上浸水。前代未聞の洪水(矢作川)。8/7矢作川洪水、挙母城内各所破損。田畑に被害。(梅坪村組合7カ村年中御用留)。 11/2岡崎藩の碧海郡用悪水路計画に福島・刈谷藩領民の反対が激化、碧海郡神楽山で一揆。実地検分中の幕府役人を襲撃する。 凶作による米価高騰により外米輸入を自由とする。各地に一揆・打ち壊し多発(この年、江戸時代最多を記録)。外国との貿易が増えて国内の経済が混乱。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1867 | 慶応 | 3 | 丁 | 卯 | 大久保利通・・文明開化・明治維新 林添町下清水の戸井田橋南に、馬頭観音。 松平町稲葉下の稲荷社に旗立石 |
林添町下清水の戸井田橋南に、馬頭観音(舟型立像)。松平町稲葉下の稲荷社に旗立石(角柱)、現在拝殿前の石段として利用。 7/14・15吉田藩内、渥美郡牟呂村で、近在の御鍬祭りが流行り、この村も準備している所に三枚の御礼が降り騒ぎがおこる。
12/大政奉還・王政復古の大号令。
10/14徳川慶喜、大政奉還。11/坂本龍馬(大政奉還進言、薩長同盟仲介)33才暗殺。12/京都に有力諸藩と朝廷が合体した新政府が誕生。大久保利通(薩摩藩):天皇を中心とした近代化を主張。天皇が直接国政を行う西洋式君主国家を主張した。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクス「資本論」第1巻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1868 | 明治 | 明治 | 1 | 戊 | 辰 | 大政奉還(政治の役割を幕府から朝廷に戻す)、明治維新。 廃藩置県 神仏分離令発布 神戸事件 |
4/三河国裁判所が豊橋問屋町の吉田宿・悟真寺内に設置される。6/裁判所廃止。三河県を置き県庁を赤坂に置く。8/伊那県が設置(〜1871.12.31))され、加茂郡の大部分をその管轄下に入れる。(「松平町誌」) 1/20青松葉事件おきる。尾張藩の重臣で佐幕派の渡辺新左衛門等3人、朝命によって斬首、他14人処刑される。東海道・東山道諸国に勤王誘引の使者を派遣。1/24成瀬正肥、犬山藩3.5万石、竹腰正旧、美濃今尾藩3万石が成立。2/8刈谷藩勤王派が家老津田新重郎等を斬り、藩論を統一する。3/五箇条の誓文4/政体書(太政官制発足)。4/3安部信発、武蔵岡部より半原藩2万石を領す。4/29吉田に行政官庁三河裁判所が設置され、三河・駿河・遠江の旧幕僚を管理する。5/13長雨で矢作川増水。5/17入鹿池堤決壊する。死者941人、浸水11,709戸、被害町村133カ所、流没田畑8,480町歩あまりに及ぶ。6/9宝飯郡赤坂に三河県庁設置、三河裁判所は廃止。7/江戸を東京と改称。8/2信州伊那県は足助支庁を置き、三河の一部を管轄下に置く。8/24矢作川増水で城下 七町の田畑冠水。本町庄屋岡田庄三郎より藩役所に提出(竹生町若子家文書)。9/4徳川亀之助、三河の旧幕領・旗本領11万6.000余石を含む76万石を与えられる。9/5矢作川大水。挙母城下四町被害。被害届出される(竹生町若子家文書)。 一揆:丸亀・薩州、岩村田松江、新発田。4月阿片の喫煙を禁止。12月三河幡豆に一揆。 1/昨年の大政奉還・王政復古の号令に対して反発した徳川慶喜は、大阪城から京都に進軍:鳥羽伏見の戦い。ここで薩摩長州を中心とする新政府軍に敗れる。新政府軍は江戸に向かった。 1/11外国人の目から見ると、日本は無政府状態に見えた。日本各地で戦いが起き、外国人達は神戸に避難し、艦船も神戸に来ていた。ここを備前藩治めた。。この備前藩の行列を、フランス兵士が横切ろうとした。これを槍で威嚇したら、フランス兵士は驚いてピストルを構える。武家社会の慣例ではフランス兵の行動は無礼であった。外国人達は、これを攘夷行為とみて激怒し、神戸事件の発端となった。列強は、この日の内に神戸の中心部を占領した。事件該当者の身柄引き渡しを要求。京都の新政府は非常な危機感を覚えた。1/15 瀬戸際の外交交渉。イギリス(パークス)、フランス、アメリカ等6カ国の公使と日本は、イギリス・フランスでおよそ1年間、法制度や経済を学んだ寺島宗則(薩摩藩)と、イギリスで学んだ伊藤博文(長州)を含めた留学経験者だった。共通ルールとして、「万国公法」に基づいた。2/2備前藩は、責任者の処罰を受け入れる。一週間後に責任者を切腹させた。 3/21明治天皇大阪行幸。
近藤勇刑死(34才)。「宮さん宮さん・・・・」の旋律、「トコトンヤレ節」として流行。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1869 | 明治 | 2 | 己 | 巳 | 人力車創案(1870年営業)・尾張藩を名古屋藩と改称 渋沢栄一 | 飯田他に一揆。1/板倉氏重原藩主となり、加茂31か村を管轄する。 6/17尾張藩を名古屋藩と改称し、藩知事を置く。6/24三河県廃止、伊那県足助支庁の管轄へ。7/12矢作川大水。工事中の渡場・堤防筋破損(挙母内藤文書)。9/藩校設立:岡崎・允文館、半原藩:学聚館、重原藩:養正館、西端藩校。12/20中島郡稲葉宿で農民決起し、村総代を襲い、中島郡・海東郡一体へ拡大。畑村藩、野村藩となる。諸道の関所廃止。 1/版籍奉還の申し出
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マハトマ・ガンディー、地方の政治家の家に誕生する。後に、ガンディー、幼児婚という習慣で、13才で結婚する。 スエズ運河開通。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1870 | 明治 | 3 | 庚 | 午 | 巴川に港橋架設。 大教宣布「神道国教化の詔」 |
4/「名古屋」と名称を統一。6/名古屋藩洋裁学校が開校。11/伊那県足助支庁管下の三河新城を中心に、年貢減免を求めて一揆(簑着騒動)。
大阪・神戸観に電信開始。木造自転車輸入。 5/衆議院開院。8/散髪廃刀許可。「えた」「ひにん」などの称を廃止。9/平民の名字使用認める。10/兵制。海軍は英式。陸軍は、仏式。12/平民の帯刀禁止。大教宣布「神道国教化の詔」。 鈴木大拙(1870〜1966)、金沢市下本多町に生まれる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
普仏戦争 1870-1871 |
プロイセン対フランスの戦争。この戦争に勝利したことにより、ドイツにプロイセンを中心とした統一国家がはじめて誕生した。戦勝国ドイツはフランスとの境界にある鉱産資源豊かなアルザス・ロレーヌ地方を占領し、フランスと禍根を残す。また、ドイツの強国化を恐れたイギリス、バルカン半島をめぐって対立したロシアなど、第一次世界大戦の萌芽はこの戦争にあったと見て良い。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1871 | 明治 | 4 | 辛 | 未 | 廃藩置県 3府72県 新政府から新たに知事や県令が派遣された。 |
1/1郵便規則制定。 3/8碧海郡鷲塚・大浜村で僧侶・農人門徒ら、神仏分離反対の一揆(鷲塚騒動)。7/14廃藩置県により、3府302県政立。尾張は名古屋・犬山の2県、三河は豊橋・西尾・岡崎(額田)・重原・刈谷・挙母・田原・西端・西大原・半原の10県となる。(これまで、伊那県だった地域は、額田県に編入さる=県庁岡崎。=新政府は、旧幕府から没収した所領の内東京・京都・大阪などの大きな場所を府とし、その他を県と定めた。一方、藩はこれまで通り藩として残し、三治制を行った。だがこれは中央政権下の為には妨げになった。こうした状況を打開する為に、薩摩藩・長州藩・土佐藩・備前藩の4人の藩主に、「すべての土地・人民は天皇のものである。」とした、版籍(領地と領民)奉還の書状を提出させた。それら有力藩に習い、およそ260の藩主達がなだれを打ってそれに追随した。これによって、藩主達は知藩事という地方行政官になった。)
士族の散髪・廃刀許可(廃刀令)。華族・士族・平民間の結婚を許可。 職業の自由。 7/日清修好条規を天津で調印。11/12岩倉具視を特命全権大使とする使節団派遣(〜1873)。横浜港。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この年、ドイツ帝国成立 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1872 | 明治 |
5 |
壬 | 申 | 六所神社外宮の舞台建立 名古屋県を愛知県と改称 浜田地震(石見・出雲)M7.1 宿駅制度・助郷制度廃止 |
六所神社外宮の舞台建立。二重仕掛けの古式を留めている。茅葺き屋根を支持する為、合掌の用材の中間に梁を組む。愛知県誕生。挙母、平井、東広瀬、足助、小渡などに郷学校設立。 1/全国で初の戸籍調査実施。2/田畑永代売買の禁を解く。 東京の博覧会で、出品された名古屋場天守閣の金シャチが人気を呼ぶ。4/2名古屋県を愛知県と改称。5/愛知県、「学問のさとし」刊行。8/学制発布。9/新橋ー横浜間で、鉄道開通。11/徴兵告諭。11/27額田県を廃し、愛知県に合併。 一揆:岡山・豊岡・山梨・宮崎・大分。 1/全国戸籍調査(壬申戸籍)・身分族称、皇族・華族・士族・平民とする 裁判上の扱いも四民平等。 2/陸・海軍省設置。2/田畑永代売買解禁。8/学制公布・・全国に53,760校設置目標(人口600人に1校)→1878年に26,584校・・1907年に27,125校。 宿駅制度・助郷制度廃止。(「松平町誌」) この年、学制公布。「学問は立身出世のための財本・・・云々」 目標:53,760校設置・・ 1878年:26,584校 1907年:27,125校
「北海道土地売貸規則・地所規則」が定められる。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1/21岩倉具視等の明治政府の重鎮達、ワシントンに到着。使節団は、大統領グラントと謁見し天皇の国書を渡す。一行のアメリカでの目的は果たしたのであるが、ここで、アメリカ側の歓迎ぶりに自信を持った伊藤博文は、「今こそ日本の重大な外交問題『不平等条約』の改正をしよう。」と、大胆な提案をした。一行の首脳陣の中では最年少であったが、欧米に一年あまりの滞在経験があり、外国の事情通として信頼されていた。そこで、一同も彼の提案に同意した。
不平等条約の二項目の改正を提案したが、アメリカ側は日本の要求項目を無視して、貿易などでアメリカの利益となる項目を並べ立て要求した。友好ムードに歓迎され、「勝算あり」とみた一行は青ざめた。交渉は難航し平行線が3ヶ月以上も続き、更に長引くことが予想された。 5/今度は、イギリスの外交官が一行のもとに抗議に訪れた。「あなた方の態度は、大英帝国に対して礼を失している。」と言うモノであった。アメリカ滞在を延長し、ヨーロッパ訪問が遅れることで、ヨーロッパの国々に不愉快な印象を与えていると言うことであった。 「再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪なり」(「木戸孝允日記」より)と、後悔した。 6/17伊藤と大久保が、明治天皇の全権委任状を携えてワシントンに到着した。しかし、交渉のめどが立たないまま、当にこの日に交渉は打ち切られた。「五千里の海上、三千里の山陸を往来せしこともみな水泡に属せり」(「木戸孝允日記」より) 外交交渉の意識の差を使節団は感じた。木戸孝允は、後悔しながら西洋のシステムやルールの論理を勉強しなければいけないと思った。そこで、合衆国憲法を勉強し翻訳する間に、若い留学生達と議論を交わした。 旅の予定は10ヶ月で14カ国。しかし、最初の一国で既に半年を費やしていた。彼ら一行の旅は、これより更に一年二ヶ月続くのであった。 7/3使節団はアメリカを発ち大西洋を渡る。7/14 一行は英国・ロンドンに到着。
11/12 イギリス滞在も終わろうとする頃、大久保と木戸はロンドンの下町イーストエンドを視察した。夜八時、昼間の華やかなイギリスと浜逆な光景が目に映った。そこには大勢の浮浪者が溢れていた。経済発展の冨は一部の資本家に集中し、人口の四分の三を占める労働者階級の多くは低賃金で働いていた。盗みは横行しアヘンが蔓延して、イギリス社会の治安は悪化の一途をたどっていた。当に、世界最先端の資本主義が抱える矛盾であった。「自分は、江戸幕府を倒して天皇の政治になそうと考えその事業もほぼ成った。しかし、あとはどうも困る。こうして西洋を歩いてみると我々はこんな進歩の世には適しない文明社会にはまったく辟易する。」(大久保利通の言葉より) 羨望の的であったイギリスが、経済発展の歪みに苦しんでいた。近代化の持つ光と陰に一行は困惑する。次に一行は、フランス〜ベルギーへ。その9ヶ月後に一行は帰国する。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1873 | 明治 | 6 | 癸 | 酉 | 吉木山六所明神を六所神社と改称。 自由民権運動 |
吉木山六所明神を六所神社と改称、社格を「郷社」に列す。12/仁王村(豊田市坂上町)安全寺に仁王学校開設。(「松平町誌」) 五新学校・国谷学校・三好学校など、各地区に小学校できる。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3/7 岩倉具視等の使節団一行は、ベルギーからオランダを経てドイツに到着する。ドイツは小さな国々が集まっていて、農業を中心とした国家であった。統一国家が成立して二年目という、日本と似た境遇であった。
9/13欧米12カ国・一年十ヶ月の旅を終えた岩倉使節団は横浜に帰着した。この旅によって、政治家だけではなく若手・中堅の日本を担う人材が旅の経験を共有し沢山の選択肢を手に入れることができた。この旅の間、使節団(43人の留学生も一緒だった)は、過去・現在・未来を見通しながら多くのものを学んだのだった。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本政府は、法学者:ギュスターブ・ボアソナードをフランス(パリ大学教授・ナポレオン法典の研究者)から招いた。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1874 | 明治 | 7 | 甲 | 戌 | 政府に提出 民撰議員設立白書 板垣退助等 |
名古屋鎮台の第1回徴兵検査、岡崎で実施。 郵便所:挙母・大阪(小原)・足助・大津(豊田)・大沼。5/1東本願寺名古屋別院で、名古屋博覧会、金シャチを展示。 1/板垣退助等、民撰議院設立建白書提出。
4/台湾出兵。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1875 | 明治 | 8 | 乙 | 亥 | 板垣等、初めての政治的結社・「愛国社」を大阪で作る。 |
2/岩倉学校、岩倉村平古の宇野吉平宅に開設。(「松平町誌」) 8/10西三河中心に暴風雨。被害多し(妙昌寺過去帳)。9/11挙母町大雨水冠(鈴村家文書)。11/矢作川渡船の賃銭を定める(1人2厘、牛馬6厘)。/郵便役所を郵便局と改称。 巴川の橋、九久平字簗場に架け替えられ「港橋」と呼称さる。(「松平町誌」) 愛知県豊田市の篠平村(坂上町)を南篠平村、宮口村を東宮口村と各改称。(「松平町誌」) 2/大阪会議。板垣退助等、全国的な政治結社「愛国社」を大阪で結成。2/三菱商会、横浜・上海航路開始。4/元老院・大審院・地方官会議設立。漸次立憲政体樹立の詔を出す。5/樺太千島交換条約を締結。5/軍艦雲揚釜山に入港し威嚇。8/琉球藩の清国への使節派遣廃止を命じる。
この年、新聞紙条例。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1876 | 明治 | 9 | 丙 | 子 | 1/名古屋大須観音付近に旭遊郭できる。6/足助街道、県道となる。11/春日井郡和良村中心に43カ村で地租改正反対運動。12/21三重県下で地租改正反対運動(伊勢騒動)が、海東・海西郡に波及し、名古屋鎮台より出兵・鎮圧さる。 郵便局で内国為替取り扱い開始。各地に郵便局開設。 2/日朝修好条規締結=日本、朝鮮を開国させる。一方では、清国も朝鮮への介入を強化。 朝鮮国内では、中国支持派と日本支持派が対立。やがて1884朝鮮でクーデター 3/廃刀令公布。7/三井銀行開業。8/1渋沢栄一、国立銀行条例改正。10/小笠原島領有。神風連の乱(旧熊本藩士等が廃刀令に反対し挙兵)、秋月の乱(旧秋月藩らが征韓・国権拡張を主張して神風連の乱に呼応して福岡県庁を襲撃。)、萩の乱(前参議等の不平士族が、呼応して挙兵)。10/政府、各国大使に小笠原諸島領有通知。 「改定律例」が改正される。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1877 | 明治 | 10 | 丁 | 丑 | 西南戦争起こる 近代化 船来航 学生徴兵 警察に銃剣術 |
2/16愛知県中学校開校。2/19西南の役に名古屋鎮台から出兵。3/豊橋に第8国立銀行設立。4/名古屋に第11国立銀行設立。7/1公立愛知病院医学所、堀川端に新設。12/宮島清蔵、水車利用の紡績を始める。矢作川の水車紡績はじまる。(三河ガラボウ)。 12/20「郡・区・町村編成法」「府県会規則」「地方税規則」の三新法公布。(「松平町誌」) この年、旧豊橋藩士、横浜で三河花火を打ち、名を高める。 この年地租改正。地価取調帳作成。(「松平町誌」) 2/西南戦争起こる(〜9月)・・鹿児島の士族が西郷隆盛を指導者として反乱。しかし、政府軍の圧倒的な力に屈する(内務から6,700人の警察官とその中から精鋭を集め抜刀隊を編成)。この後、士族は武力での反抗はできないと考えるようになり、反政府運動の主流は言論による「自由民権運動」に代わった。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1878 | 明治 | 11 | 戊 | 寅 | 挙母村に西加茂郡役所、足助村に東加茂郡役所設置。(加茂郡が分離) この年、遊平(あそびだいら)村と西大沼村が合併し、長沢村となる。(「松平町誌」) 1/士族婦女子授産のため愛知物産組を創業し、木綿織物を製造する。3/9春日井郡の農民代表上京し、地租改正事務局に嘆願書提出。7/旧名古屋藩士ら、北海道八雲村に入植移住。10/春日井郡の農民ら、行幸中の天皇へ地租改正反対の直訴を企てる。12/20尾張部に名古屋区他8郡、三河部に10郡設置。 この頃矢作川下流の幡豆郡周辺で、舟紡績が行われる。愛知春日井村で地租改正反対の一揆。挙母村に西加茂郡役所、足助村に東加茂郡役所。 富山の漁村婦人の米騒動。4/板垣退助等愛国社再興を図る。(9月再興大会) 5/大久保利通(岩倉と王政復古画策)48才にて、恨みを抱く士族によって暗殺される。 6/東京株式取引所開設。7/郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則(三新法)制定。9/愛国社再興大会。この頃から、民権運動は士族だけではなく地主や商工業者など全国に広まる。 12/参謀本部置く。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1879 | 明治 | 12 | 己 | 卯 | 明治用水工事はじまる。東加茂で、秋蚕の飼育始まる。5/3最初の愛知県議会議員選挙(19選挙区、定員50人)。7/17東三河の女子13人が、富岡製糸工場に伝習生として派遣される。10/小渕志ち、二川に製糸工場開設。 12/16九久平郵便局発足。この年九久平で人力車の営業始まる。幸海小学校、東加茂郡最初の校舎学校として建築。 仁王小学校・大田小学校建築。(「松平町誌」) 山梨県初めて葡萄酒156石造る。新聞の街頭販売禁止。 3/琉球藩主王尚泰に、廃藩置県を達し、家族として東京居住を命じる。4/琉球処分。琉球藩を廃し、沖縄県とする。1372年以来、500年余り続いた琉球王国は滅亡した。清国は意義を申し出た。 5/清国公使、沖縄県を不承認と抗議。 司法に於ける拷問廃止。 朝日新聞創刊。教育令制定。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アインシュタイン(1879〜1955) 生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1880 | 明治 | 13 | 庚 | 辰 | 東京大風雨死者120余人 この年、日本国憲按できる。 |
郡界川ガラ紡始まる。3/名古屋で愛国交親社結成。4/8明治用水竣工。4/「区町村会法」公布され、村会が設置される。 7/最初の名古屋区会議員選挙。9/額田郡大平村に官営愛知紡績所が設立。 この年、足助街道(巴川西岸)が現在地に改修され、車の通行可能となる。桂野の宮本六太郎、ガラ紡業始める。(「松平町誌」) 1/交詢(じゅん)社結成。愛国社第4回大会→(左の二日後に)国会期成同盟結成→(結成から1ヶ月後)国会開設の嘆願書提出・・太政官・元老院却下 4/集会条例制定。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1881 | 明治 | 14 | 辛 | 巳 | 明治14年の政変 国会開設の勅諭 |
小渡・則定・上仁木郵便局開局。6/愛知自由党創立。名古屋茶屋町に伊藤銀行。11/一宮町に一宮銀行設立。この年、打ち瀬網を巡る騒動。3/28名古屋商法会議所発会式。6/19名古屋自由党創立。 6/〜7/法政官僚の井上毅(こわし)、ドイツの法律顧問・ロエスレルに指導を受け憲法に関する綱領を作成し、岩倉具視に提出。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1882 | 明治 | 15 | 壬 | 午 | 巴川洪水 | 東加茂郡脇立病院開院。足助で仔馬のセリ市。1/軍人勅諭発布。3/三河に三陽自由党結成。5/平戸橋架設。7/23名古屋銀行開業。10/1洪水。被害は碧海郡・幡豆郡・額田郡。浸水家屋2,000軒流失30軒余、溺死37名(矢作川)。巴川洪水(宇野善康家文書)。12/愛知立憲改進党結成。 1/軍人勅諭。3/伊藤博文等、憲法調査のため渡欧。立憲改進党・立憲帝政党・結成。4/板垣退助、岐阜で遭難。7/壬午事変。10/日本銀行開業。郵便料金を全国統一。10/立憲改進党創立。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この年、天皇は伊藤博文をヨーロッパに派遣。ドイツ・オーストリア・イギリスなどを1年あまりにわたって視察。天皇の政治的位置付けと自由民権運動で求められた国会をどう規定するかが課題であった。ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz van Stein)から近代国家憲法の講義を受けた。後に天皇の侍従藤波言忠(ことただ)をシュタインの元に送って学習させ天皇に33回にわたって詳細に報告させた。明治天皇は憲法の必要性を認めた。 4/17チャールズ・ダーウイン没(73才) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1883 | 明治 | 16 | 癸 | 未 | 枝下用水工事開始。東加茂郡教育会が発足。10/瀬戸に陶器館がつくられる。 3/高田事件。4/新聞条例改正(言論取締)。5/国立銀行条例改正。6/板垣退助帰国。7/岩倉具視、没。鹿鳴館開館完成。12/徴兵令改正。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1884 | 明治 | 17 | 甲 | 申 | 自由民権運動の衰退 | 6/西枝下・越戸間の水路工事着手(前年より)するも、洪水のために破壊さる(挙母市資料)。 岩倉東・柿田:御嶽山、このころ御岳大神他10柱を祭祀。毎年火祭りが行われ、火の中を渡る神事が行われた。同、柿田の「弘法さん」、西国の八十八ケ所にちなんで、88体の弘法さんを安置し、信仰した。松平地区には九久平(菅沼)・岩倉(柿田)・加茂川(川向)・松平(松平)・石楠(所石)の五カ所に祭祀。 至西加茂郡教育研究会発足。枝下と四郷開墾。4/林市兵衛、時計製造に成功、名古屋に製造所を設立。この年、巴川の東岸、下国谷村〜九久平村の里道改修(郡費)人馬通行便利となる。(「松平町誌」) 8/12平田橋事件。12/村松愛蔵らを中心に飯田事件発覚する。この頃自由党過激派らによる強盗事件続発。名古屋事件発覚。 加波山事件起こる(福島・茨城・栃木の自由党員が政府高官暗殺を計画、発覚して茨城県の加波山で蜂起)。 5/群馬事件。7/華族令制定(後の上院:貴族院の土台)。9/加波山事件。10/31秩父事件(三人の自由党員を指導者とする秩父困民党が蜂起)。10/自由党解党。12/甲申事変(朝鮮の日本支持派が、クーデター)。12/名古屋事件・飯田事件。東京商業学校(後の一橋大学)創立。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
12/甲申事変(朝鮮の日本支持派が、日本の協力を得て朝鮮国内を改革しようとする金玉均(キムオクキュン)等のクーデター) これに対し、清国が朝鮮に軍隊を送り鎮圧。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1885 | 明治 | 18 | 乙 | 酉 | 築平・市平間の渡船開始。3/31名古屋紡績会社操業開始。4/22吉田城後に名古屋鎮台豊橋分営設置。半田の中埜又左衛門、初めてビール製造する。7/矢作川等諸河川氾濫。多くの被害出る。 4/天津条約。11/大阪事件。12/太政官制を廃し、内閣制度を採用・創設。=天皇の下、総理大臣・国務大臣が内閣を組織するもの。伊藤博文、初代総理大臣となる。 「縮刷大蔵経」成る。尾崎紅葉等硯友社結成。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4/天津条約・・伊藤博文が清に赴く。日本・清国共に朝鮮から軍を撤兵。 今後朝鮮に重大な事件が起きて出兵する場合にはお互いに通知。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1886 | 明治 | 19 | 丙 | 戌 | 信越国境地震(M5.3) | 東加茂郡に蚕糸組合。東加茂郡炭業組合。3/1武豊ー熱田間に鉄道開通(武豊線)。5/1熱田ー一宮間鉄道開通。国立銀行(第8、第134)合併。11/愛知紡績所、民間に払い下げられる。 1/北海道庁を置く。6/静岡事件・甲府雨宮製糸工場女工、スト(日本最初のスト)。9/伊藤博文、秘密裏に憲法起草開始。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1887 | 明治 | 20 | 丁 | 亥 | 3/5熱田に尾張紡績会社設立。3/26愛知教育会設立。4/25木曽川鉄橋開設。東海道木曽川ー加納間開通。5/22「扶桑新聞」創刊。 オランダ人デレーケ木曽・長良・揖斐川の分流工事着工。9/名古屋電灯の設立認可される。 この年、九久平駐在所開設。(「松平町誌」) 1/東京電灯会社初めて点灯。3/所得税法公布。 7/不平等友好条約改正の五カ国合同会議による交渉の無期延期 9/井上馨、外務大臣辞任:しばらくの間、首相の伊藤博文が兼任。 10/後藤象二郎、大同団結運動推進。12/二府17県有志、言論集会の自由・条約改正中止・地租軽減の三大事件建白書提出、保安条例公布。 徳富蘇峰、民友社結成。博愛社、日本赤十字と改称。二葉亭四迷「浮雲」。神奈川県夏島で伊藤博文は伊藤毅(こわし)と共に明治憲法の草案造りに取りかかった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ガンディー(18才)、妻を残して単身インドを支配するイギリスに留学。楽しい青年期を送り、弁護士の資格を取る。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1888 | 明治 | 21 | 戊 | 子 | 立憲政治の展開 | 市制・町村制公布。駐在所:寺部・中金・上伊保・上国谷・西細田・飯野などに設置。4/愛知県馬耕伝習所を、県下4郡に設ける。5/14名古屋鎮台廃止。第三師団設置。5/熱田に愛知セメント会社設立。9/大府ー浜松間鉄道開始。 2/大隈重信、外務大臣に任命される。 4/市町村制公布。枢密院設置。 6/枢密院、憲法草案審議開始(明治天皇も出席・議長:伊藤博文)。6/高島炭鉱事件。11/大隈重信の条約改正交渉開始(合同会議ではなく国別に)。メキシコとの通商条約の調印。 三宅雪嶺等、反欧化主義団体政教社結成。東京天文台設置。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1889 | 明治 | 22 | 己 | 丑 | 大日本帝国憲法発布 殖産興業 伝統見直し 尾張・三河に台風による大風水害 熊本市付近地震M6.3 |
県下各地で町村合併。7/矢作川堤防決壊。挙母浸水家屋365軒(浦野家文書)。7/東海道鉄道が全通する。9/11尾張・三河に台風による大風水害(県下で死傷者955人。家屋倒壊流失14,323戸)この時の松平地区の溺死者2名。(「松平町誌」) 10/松平地域の村々、市町村制の実施により、五カ所(小川・松平・豊栄・穂積・志賀)に合併される。(「松平町誌」) 名古屋に初めて電灯がつく(灯数400余)。名古屋区は、名古屋市となり、人口157,000人。 2/大隈外務大臣アメリカと新条約調印。その後、ドイツ・ロシアとも合意。 2/11大日本帝国憲法発布。この日に、初代文部大臣森有礼、刺される(43才没)憲法草案の検討会議で「臣民権利義務」を「臣民の分際」にしろと主張したが、伊藤博文は、憲法で臣民の権利を主張せずにその責任のみを記載するというのは、憲法制定の意味がないと応えた。(「人権宣言集」岩波文庫)
新しい条約改正交渉の方針が定まる。
正岡子規:子規改革。 日本美術院興る。 嘉納治五郎。 講道館柔道。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハイデッガー生まれる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1890 | 明治 | 23 | 庚 | 寅 | 経済界不況 | 枝下用水工事完成。足助村町制を施行。足助町となる。10/5・6矢作川筋の仁木・細川地内、その他破堤(愛知県災害誌)。10/教育勅語発布。11/第1回帝国議会召集。11/11豊田佐吉、豊田式木製人力織機を完成。 5/府県制・郡制公布。我が国の地方自治制度確立。 7/第1回総選挙(この時の投票率 93.9%:現在までの最高記録)。
当初、氏族に限られていた北海道の屯田兵の枠は、この年から平民にも広げられた。1904年に廃止されるまでに、北海道屯田兵は30年間でおよそ4万人、700平方Km・琵琶湖の広さを上回る開墾面積に達した。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1891 | 明治 | 24 | 辛 | 卯 | 濃尾地震 (M8.1) |
10/28揖斐川上流を震源に濃尾地震。中島郡・葉栗郡を中心に死者2,459人、負傷者6,736人、住家の全半壊58,426戸に及ぶ。枝下用水石垣大破する(西加茂郡誌)。 最大でM7相当、一四万戸の家屋破壊。科学的な記録が残されるようになってから、日本で起きた最大の地震とされていた。間隔が5Km以内の三つの断層が連動して起きた。(2012年NHK「サイエンスzero」) 1/内村鑑三の不敬事件。一高(東京大学)の倫理講堂に置かれていた「教育勅語」(前年に、明治天皇によって発布される))への奉拝(深々とお辞儀をする)を、彼だけが深々としなかった。学生が騒ぎ出した。「不忠の臣」と、新聞に書かれて教師の職を追われる。3/立憲自由党、自由党と改称。4/郡制施行。5/大津事件(警備中の警察官津田三郎がロシア皇太子を襲い負傷させた)。青木外相辞任。・・・大津事件犯人に対する処罰を巡って、日本は確固とした法を持ち、それを運用できる国として諸外国から評価された。 9/日本鉄道、上野ー青森間全通。10/濃尾大地震。12/足尾銅山鉱毒事件。 幸田露伴「五重塔」。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トルストイ、 1891年から93年にかけてロシアを飢饉が襲った。このとき、自分の農地を貧しい人に与えたりして救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられた。しかし、これは貴族社会を批判するものであった。政府側はトルストイを危険人物視した。 1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなり、1901年には教会はトルストイを破門にしたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシア、1883年に朝鮮の永興湾の租借を朝鮮政府に申し入れ、この年には、シベリア鉄道の建設開始。終点はウラジオストックである。・・・これらの動きを見て、日本政府の山県有朋は、「鉄道が完成すればロシアの朝鮮進出が容易になる。」と、危機感をつのらせた。 日本の安全を守るためには国境線をまもるだけではなく、周囲にある朝鮮の安全を確保することが重要であると唱えた。また、同時に、「朝鮮の近くにある清国も抑えなければ・・」と言う考え方もメディアに登場してきた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1892 | 明治 | 25 | 壬 | 辰 | 挙母町となる。5/帝国議会で、額田県設置に関する法律否決。 2/第2回衆議院選挙で流血事件(松方内閣の選挙干渉)。6/国民協会結成。11/千島艦事件。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1893 | 明治 | 26 | 癸 | 巳 | 条約改正と日清戦争 | 4/大田小学校内に、豊栄、松平組合立豊松高等小学校創立。(「松平町誌」) 8/16矢作川増水し、第三代米津橋破堤。矢作橋・美矢井橋流失(西尾市史)。40年ぶりの大雪。挙母地区で積雪60p。この年、県道足助街道、則定より巴川東岸に移り、下佐切-大楠-簗山-曲り-鍋田-九久平にいたる間竣工。九久平正受寺創建。(「松平町誌」) 2/衆議院、内閣弾劾上奏案可決。4/集会・出版・版権法公布。7/陸奥宗光、条約改正案決定。10/文官任用令公布。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1894 日清戦争 |
明治 | 27 | 甲 | 午 | 東京湾北部M7.0 庄内地震M7.0。 社会運動の発生 |
九久平・岡崎間乗合馬車営業開始(下林鎌太郎)。 8/4日清戦争で、第三師団に動員令。 1/大阪天満紡績工場スト。7/16日英通商航海条約調印(治外法権撤廃)外務大臣・陸奥宗光、各国とも相次いで調印。8/日清戦争勃発(〜95)。8/朝鮮と攻守同盟。8/軍事公債条例公布。9/黄海海戦。11/旅順口占領。 高等学校令公布。 富国強兵。 北里柴三郎、ペスト菌発見。 ホトトギス。 樋口一葉「大つごもり」。 浪漫主義。 女学校に「茶」導入。 武術界:武徳会 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春、甲午(甲午)農民戦争。朝鮮で、役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、当時地方で広まっていた新興宗教「「東学」の指導者を中心に武力蜂起。大規模な農民の暴動。 朝鮮政府はこの鎮圧のために清国に出兵を要請した。2000人あまりの軍隊が派兵された。日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、出兵を決定。およそ4,000人を送った。このような清と日本の動きに対して、危機感を持った朝鮮政府と反乱軍は和約を結び、一端反乱は収まった。 日本は、清と共同で朝鮮の内政改革をすることを提案。清国(清・光諸帝)はこれを拒否。
日本政府はそのまま独力で朝鮮の内政改革を行うとして,そのまま兵を朝鮮に置き、朝鮮王朝を占領した。清国よりの政権を倒し、国王・高宗の父で日本を支持していた大院君(テウォングン) を政権の座につけた。 その上で、「清国軍を追放させて欲しい。」と、朝鮮王朝から日本に依頼させた。 その二日後、94/7/25豊島・プンド沖海戦・日清戦争開始。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1895 | 明治 | 28 | 乙 | 未 | 飯田、足助両街道、改修工事開始。 3/牛乳の普及に伴い、県が厳密な検査を実施。5/24関西鉄道の名古屋ー弥富間開通。11/16一宮紡績所が設立。この年、愛知紡績所火災、廃業。 2/威海衛占領。2/初の市街電車開通(京都ー伏見間)。4/清国、講和会議のためにおよそ100人が下関に来る。下関条約調印。(清国全権李鴻章、日本全権:陸奥宗光外相・伊藤博文首相。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1896 | 明治 | 29 | 丙 |
申 | 明治三陸地震M5.5 陸奥地震(明治三陸)M7.2 |
挙母町に公設消防組織設置。3/18愛知銀行8/明治銀行10/額田銀行設立。6/19愛知馬車鉄道、動力変更により名古屋電気鉄道と改称.7/熱田湾築港着工。「中京新聞」創刊。7/26名古屋に日本車輌製造会社創業。8/明治銀行設立。9〜10三重紡績名古屋、尾張紡績で、同盟罷業おこる。9/11大暴風雨、全壊家屋4戸、半潰6戸、大破損12戸(挙母市資料)。10/知多紡績設立。12/1大3師団歩兵33連隊を東春日井郡守山町におく。この年、豊田式木製動力織り機発明さる。 3/進歩党結成。航海奨励法。造船奨励法公布。酒造税法、葉煙草専売法。4/日本勧業銀行法・農工銀行法・銀行合併法公布。7/日清通商航海条約調印。8/宮沢賢治、岩手県に生まれる(〜1933.9.21)。9/第二次松方内閣成立。黒田清輝ら白馬会結成。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アメリカ・連邦最高裁の判決で:「人種で分離しても、設備やサービスの内容が平等であれば違憲ではない。」:”Separate but equal”分離すれど平等:と下され、公共施設における人種隔離が認められた。アメリカ合衆国憲法には、「正義Justice」と「自由Liberty」であった。しかし、黒人にはこれらが与えられようとの兆しが見えなかった。差別する白人側に、”差別”の意識はなかった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1897 | 明治 | 30 | 丁 | 酉 | 伊勢神トンネル竣工。足助の西町に西盛座できる。3/1日本銀行名古屋支店できる。7/郡界川に岩津発電所。滝脇発電所工事完成。 7/15豊川鉄道豊橋ー豊川開通。9/豊橋に歩兵第17旅団司令部設置。9/8・9矢作古川の支川、須美川破堤(愛知県災害誌)。 7/労働組合期成会結成。 この年、仁王駐在所開設。豊松駐在所の前身となる。(「松平町誌」) この頃、管理人の在所:愛知県三河国東加茂郡豊栄村大字東宮口:と称された。(曾祖父の購入したヨロゲに毛筆で記載) 3/貨幣法(金本位制確立)公布。7/労働組合期成会(日本初の労働組合)発起人会開催。 志賀潔、赤痢菌発見。尾崎紅葉、「金色夜叉」。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10/朝鮮、国号を「大韓帝国」にする・・・清や日本と同じように自主性を示そうと「帝国」とした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1898 | 明治 | 31 | 戊 | 戌 | 名古屋市内電話開通。市内加入者200余人 | 額田銀行挙母支店設立。挙母町に農会設立。2/津島に片岡毛織設立(我が国初の毛織物製造)。4/1愛知県三部経済制復活。5/6名古屋鉄道の市内電車笹島ー県庁前の四区間開通。「広小路歩けば、電車が通る。チンチン御園か柳橋かすテンションか」と唄われた。5/23豪雨。乙尾、白川の堤防が決壊する。(高岡村誌)。6/4豪雨により枝下用水の堤防が決壊(挙母・長興寺・御船・西枝下)(西加茂郡誌)。10/11名古屋市内電話開通。市内加入者200余人。 1/元帥府を置く。選挙法改正期成同盟会同盟会結成。4/朝鮮に関する日露協商調印。6/自由・進歩両党調印。憲政党結成。保安条例廃止。8/尾崎文相、共和演説事件。10/憲政党分裂。孝徳秋水・片山潜ら、社会主義研究会結成。12/地租条例改正(2.5%→3.3%)。岡倉天心ら、日本美術院創立。徳富蘆花「不如帰」。日本初の実景映画。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1899 | 明治 | 32 | 己 | 亥 | 紀伊半島南西地震(M7.0)。 第二次恐慌起こる |
2/豊橋に「参陽新報」11/「新潮報」創刊。8/4武豊港が開港場に指定さる。貸本屋大惣廃業。この年、外人宣教師が名古屋で娼妓解放運動。勝海舟(幕臣・無役)没。 1/第二次恐慌起こる。2/東京ー大阪間長距離電話開通。3/北海道旧土人保護法公布、文官任用令改正。4/八幡製鉄、清国鉄鋼の輸入契約。6/大井憲太郎、小作条例期成同盟会結成。7/改正条約実施。第一回ハーグ平和会議終了(国際紛争の平和的処理条約調印)。10/普通選挙期成同盟会組織。「中央公論」創刊。土井晩翠、「天地有情」。 「北海道旧土人(アイヌ人)保護法」成立。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イギリス、南アフリカでボーア戦争(1899〜1902)。・・多大な出費。 極東でロシアと対抗する際に日本の力を利用しようとした。(後の日英同盟) |
参 考 文 献 | 参 考 文 献 |
1 「理科年鑑」 | 15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3 |
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5 | 16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編 |
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 | 17 「松平郷」 豊田市 |
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 | 18 「豊田市七州城跡公園」 豊田市 |
5 「目で見る豊田・加茂の100年」 郷土出版社(1868〜) | 19 「松平郷館」 豊田市 |
6 「新編 日本史図表」 第一学習社 坂本賞三 監修 | 20 「豊田の史跡と文化財」 豊田市教育委員会 |
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか 講談社 | 21 「豊田の文化財」 豊田市教育委員会 |
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」 中日新聞社 | 22 特別展「川をめぐるくらし」 豊田市郷土資料館 |
9 「県史23 愛知県の歴史」 三鬼清一郎 著 山川出版社 | 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV |
10 「日本の名山」 作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 | 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK |
11 「歎異抄」 梅原猛 講談社文庫 | 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会 |
12 「古寺をゆく」 小学館ウィークリーブック | 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 |
13 「日本史事典」 岩波書店 | 27 「道を極める −日本人の心の歴史」 魚住孝至著 放送大学教育振興会 |
14 機関誌「かんなび」 愛知県教育関係神職協議会 |