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編集:本田哲康
      
                    
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西暦 天 皇 将軍 年 号 天 変 地 異 社 会 の 状 況
1499 後土御門 足利義澄 明応 8  竜安寺石庭成る。   8/25大地震、人民皆死す(龍渓院年代記)。 蓮如入滅(享年85歳)『一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候 一人なりとも 人の信をとるか一宗の繁昌に候』蓮如
1500  後柏原   明応 9 京都大火  7/京都大火。
 ヨーロッパ人がアメリカ大陸と各海洋を征服し始める。地球全体が単一の歴史的領域となる。
 この頃より科学革命が起こる。資本主義が台頭する。この頃の世界人口5億人。・・・「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」 河出書房 ユヴァル・ノア・ハラリ著
 王陽明、この頃28才。会試に二度落第。28才で進士に及第する。科挙の試験(童試・予備試験→郷試→会試・中央政府が直轄→殿試・宮廷で受ける→合格すると「進士」になる。)     
1501 文亀 1 ・・  松平親忠没。松平一族、大樹寺で連判(連判状)する。
1502 文亀 2 ・・
1503 文亀 3 大干魃飢餓  大干魃飢餓、大地枯渇7月雨降る。(定光寺年代記)
1504 永正 1 長雨大飢餓人民餓死  9/京都に士一揆10/徳政令。長雨大飢餓人民餓死(定光寺年代記)(龍渓院年代記)。
1505 永正 2 飢餓  牛久保の一色城主牧野古白、今川氏と結び今橋(豊橋)に築城したといわれる。吉田城。飢餓(定光寺年代記)
1506 永正 3 親忠に続く、長親、信忠の代まで家督をめぐる内訌。  古瀬間城(この頃以前に築城。):志賀町城山、この頃、加茂郡(豊田)に進出を目論む松平氏は、岩津城主長沢松平源七郎勝宗の庶子弥三郎宗忠をして、南古瀬間村に出張り、村長(むらおさ)鈴木左京亮重政ともども、新城街道を押さえ、高橋荘攻略の拠点として築城『竜田院文書』。  今川方伊勢長氏、客将伊勢宗瑞(北条早雲)と共に三河に侵入牧野氏の今橋城(後の吉田城・豊橋)を陥落させ、西三河に侵入、松平一族と戦う。(数年に及ぶ)長親、今川勢を退けるが、岩津宗家が滅ぶなど、松平一族は多くの犠牲を払った。こんな中で、名実共に松平総領家となった安城家でさえ長親・信忠の代には家督をめぐる内訌があった。本願寺の強大な三河教団が形成されていて、戦国大名に対抗する程の勢いであった。今川氏の侵入を撃退し検断不入といって、警察権や裁判権を持つという特権を得ても居た。後に、家康が弾圧を試みて、一向一揆に発展する。
 大給松平第2代乗正、この年より7年掛けて大給城の大修築を行う。現存する城跡の原形はこの時にできた。 
(「松平町誌」)
 7/北陸に一向一揆
1507 永正 4 ・・
1508 足利義稙(たね) 永正 5 ・・
1509 永正 6 ・・
1510 永正 7 ・・  大給城二代乗正は、城の大改修をする。三河木綿が奈良市場に現れる。  4/朝鮮三浦の日本人、富山浦を攻略(三浦の乱)。大地震(定光寺年代記)。
1511 永正 8 ・・  今川勢西三河に侵入。(「松平町誌」)
 
8~10月降雨。田畑麦損害多し(龍渓院年代記)。 
1512 永正 9 ・・  7月落雷犬死に家焼ける(龍渓院年代記)。
1513 永正 10 ・・  豊田市岩倉南の春光院創建。(「松平町誌」)
 
八王山春光院(平藪):松平四代城主松平右京亮親忠、大樹寺住職(浄土宗)勢誉愚底に開山させる。堂内に両者の位牌。
1514 永正 11 ・・
1515 永正 12 ・・  北条氏康(北条早雲の孫・三代目)生まれる。世に相模の虎(または獅子)と謳われた。農民の年貢免除・「目安箱」を設置し、身分にかかわらず訴え出ることの出来る裁判制度を設けた。また、市場開催が重ならないように、開催日の地区を割り当てた。(六斎市:例えば、大宮郷は1と6の日、本野上村は、2と7の日。下吉田村は3と8の日。大野原村は4&9等。)これによって、商人はものを売りやすくなり、売り上げが伸び商業が栄え、結果、税収も上がった。 この頃、武田・今川・上杉らが、互いに睨みをきかす戦国の世。北条はその渦中に曝されるようになっていく。
1516 永正 13 ・・
1517 永正 14 ・・  7/13矢作川大洪水。(水音寺文書)
1518 永正 15 飢餓  飢餓、人民死(龍渓院年代記)。歌謡集「閑吟集」成る。
1519  永正 16 ・・  9/8 北条早雲没。   
     マゼラン一行の世界周航。 この年までにスペイン人はカリブ諸島の殆どを征服し、一連の新しい植民地を築いた。 スペインのコルテスは、アステカ帝国の東海岸に上陸。アステカ属はどう対処して良いか分からないまま、木剣と燧石(すいせき)を持って、金属の剣や槍と鎧を着たスペイン人達に斬り殺されたり、捕虜にされた。じりじりと周辺の民族・部族を騙し入れて、アステカを崩壊に至らしめた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著より  
1520 永正 17 ・・  松平郷・松平左京某(長親か?)、六所神社・社殿を再建する。棟札は在るが損耗していて文字は不明である。(「六所神社由緒記」)  宮口村を社領とする。(「松平町誌」)
 1/京都に士一揆
1521 足利義晴 大永 1 ・・  この年より1532年まで、猿投神社領の年貢負担について、三方五か村の百姓申し立て。  6/琉球王、種子島忠時に交易を許す。武田晴信、甲斐の守護大名の嫡男として(信玄1521~1573)生まれる。39才で出家し信玄と号す。
1522 大永 2 大洪水  駿河の今川氏親、尾張那古野城を築き、氏豊を置く。大洪水8/1及び8/4人民流溺多し(定光寺年代記)。
1523 大永 3 ・・  松平信忠、清康(13才)に家督をゆずる。松平清康、安祥城から岡崎城に移る。松平長親、高月院に土地を寄進する。    4/寧波(にんぽー)の乱。
遣明使、寧波で争う:細川氏は中国人の宋素卿を同行させ古い弘治勘合を持った遣明船を派遣。・大内氏は正徳勘合を持った遣明船で向かった。当地で、宋素卿は現役役人への賄賂などによって、先着でしかも形式の整っていた大内側をさしおいて、細川側を有利に扱わせた。怒った大内側は細川側の正使鸞岡(らんこう)瑞佐を殺し、細川船を燃やし乱暴を働いて逃げた。宋素卿は獄死し、以後の遣明船については大内氏が主導権を握った。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
  この頃、皇室の衰微最も甚だしい。
1524 大永 4 大洪水  大洪水4/28~長雨。5/13及び5/28大洪水(定光寺年代記)。7代松平清康(家康の祖父)、安祥城から岡崎城に移る。清康、岡崎城に入城する際し、松平六所明神を岡崎城下に氏神として勧進した。
 京都の加茂明神の神紋を用い、加茂明神とも言い、土地の豪族松平氏も加茂明神の神紋を戴き、我が家紋として氏子氏神の関係となり神に奉仕していた。
 なお、このときには、衣冠束帯の神像三体、地蔵三体を、東宮口(現・坂上町)の六所神社より遷御した。後に、家康は社領百六十石を寄進し、歴代将軍が厚く崇敬した。
1525 足利義晴 大永 5 ・・  清康(家康の祖父)、足助城を攻め鈴木一族を服属させる。
1526 後奈良 大永 6 ・・  貞永(御成敗)式目刊行。  陽明学おこる。
1527 大永 7 大洪水

野火により
六所神社社殿全焼。



 大洪水。8/5人民流溺(定光寺年代記)。12/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、野火により六所神社社殿全焼。社殿再建のために松平宗家五代長親は、嫡子六代信忠・祐泉と連署で神社造営奉加帳(寄進状)を松平一門宛に送付。 (「松平町誌」)   
  注:この時代の大給松平は乗元(?~1534)・乗正(?~1541であった。
(管理人)
 「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。☆大永7(1527)年12月、野火によって焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。
 奉加帳はその寄付に添えられた文書である。 「そもそも、当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。なかんずく松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。」と記している背景には一族の内紛や家臣団分裂などの状況があった。長親、信忠は六所神社への勧進を求めることによって松平宗家としての主導性と権威を誇示しつつ、改めて松平一族に団結と助力を求める意味があったのだろう。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる。
1528    享禄 1 旱魃  旱魃、6/7大地枯渇(定光寺年代記)。
  王陽明(1472~1528) 没。  
1529  享禄 2 ・・  松平清康(家康の祖父)、東三河に侵攻し、吉田城牧野氏・田原城戸田氏・作手奥平氏・長篠・段峯菅沼氏・設楽氏をおとす。同年、幡豆郡に攻め入って小島城(西尾市)を下し、東条(幡豆郡吉良町)の吉良氏と婚姻を結ぶ。続いて尾張に入り品野城(瀬戸)・岩城城(日進)をおとす。
    ピサロ、インカ帝国の海岸に到着。この時に帯同した兵士はわずか168人だった。この辺りからおよそ300年にわたって、ヨーロッパ人はアメリカ大陸、オセアニア、大西洋、太平洋で圧倒的な支配権を享受し続けた。これらの地域で起こった大きな戦いは総てヨーロッパ勢のものだ。最終的には、アジアも侵略して数々の帝国を打ち負かしアジアを分け合うことができた。オスマントルコ、ペルシア、インド、中国が目覚めて注意を向けたときは、もう遅かった。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著より   
1530 享禄 3 ・・  松平清康、八名郡宇利城(新城)の熊谷氏をおとし、東三河もほぼ征する。 上杉謙信、生まれる(春日山)。
1531 享禄 4 ・・・・  清康、加茂郡伊保城(豊田)の三宅氏を攻め陥落させる。    加賀大小一揆の乱
1532 天文 1 旱魃  6~7月旱魃、大地枯渇(定光寺年代記)。松平信忠、家督をめぐり一族の内紛となるが、(1532~1554)信忠が清康に家督を譲り内紛解決。 蓮如上人の建てた山科本願寺、地元の豪族の攻撃で完全に焼失する。
1533    天文  癸  巳  ・・  松平清康と広瀬の三宅右衛門慰 寺部の鈴木日向守が対戦し、清康勝利。この時に、松平太郎左右衛門家の勝茂は、長男信茂と共に討ち死。
 九久平の吉祥院創建。
(「松平町誌」)  6/細川晴基、本願寺光教と和する。     
 インカ帝国滅亡。
 この年、フランス・モンテーニュ城でミシェル・エケム・ド・モンテーニュ生まれる(~92.9.13)。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。
1534 天文 3 大地震  6/21大地震。8/3大雨/洪水、人民流溺(定光寺年代記)。松平清康、猿投神社焼き討ち。三重塔社殿、神宮寺焼失。  織田信長小さな大名(守護代家老)の子として生まれる(尾張那古野城)。この頃、紀伊に惣国一揆。  この頃、日本各地の豪族達が勢力を広めようとしていた。織田氏の西には六角氏、東は今川氏、北には斉藤氏。
1535 天文 4 守山崩れ  松平清康、大樹寺に多宝塔建立。  12/5松平信康(25才)が尾張守山に織田氏を攻め出陣中に,誤解から近臣・阿部弥七郎に惨殺される。(守山崩れ)  
1536 天文 5 ・・  この頃、家督をめぐる松平氏内紛。松平信定が岡崎城に入る。松平広忠、流浪の身となり駿河の今川義元を頼る。  7/天文法華の乱(法華の宗徒、延暦寺の衆徒と戦う。比叡山の増兵18万人が、洛中・洛外の法華宗の寺院21カ所焼き払う。応仁の乱を上回る京の町の被害。洛中ほとんど焦土と化した。  本願寺光教、道場を山科に再興。(32年焼失)
1537 天文 6 ・・  2/6豊臣秀吉、愛知郡中村に生まれる。  6/ 松平広忠(家康の父)、駿河から岡崎城にはいる。
1538 天文 7 ・・  前田利家、尾張荒子村(現中川区)に生まれる。前田利昌の四男。幼名、犬千代。一説に1537説もある。
1539 天文 8 ・・  滝脇・専光寺創建。(「松平町誌」)
1540 天文 9 8/16尾三地方大暴風雨、大洪水・大津波にて被害甚大(参河国聞書)。  2/5滝脇城跡を護ってきた一族の墓石と言われている滝脇小学校南西(駒型平石)。  6/6織田信秀、三河進出激化。西三河の拠点安祥城(松平清康死後)を攻め落とす。8/16尾三地方大暴風雨、大洪水・大津波にて被害甚大(参河国聞書)。   諸国に悪疫流行。
1541 天文 10 ・・  1/毛利元就、尼子詮久(晴久)を破る。修験道:長谷川角行(1541?~1646?)生まれる。後の富士講の開祖。役行者の夢告により富士山で修行を始め、1572に富士山頂をきわめた。
1542 天文 11 徳川家康生まれる  8織田信秀、駿遠三の兵を率いる今川義元と三河小豆坂(岡崎)で戦う。12/26徳川家康、(~1616)岡崎城に松平広忠の子として生まれる。父広忠17歳、母お大の方15歳。幼名:竹千代。吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に礼拝さる。  池坊専応「専応口伝」(華道)。
1543 天文 12 ・鉄砲伝来・
・南蛮貿易・
 大給城、このころ(1543~48)四代親乗による松平太郎左右衛門館の夜討ち。  2/14織田信秀、台風で荒廃した内裏築地修理費4000貫文を朝廷に献上。8/種子島にポルトガル人漂着、鉄砲を伝える。狩野元信「花鳥山水図」。 武野紹鷗・俳諧集
1544 天文 13 洪水  7/9洪水にて陸地船行くがごとし、三河民家多く漂蕩す。(矢作川)  9/23織田信秀、美濃稲葉山城に斉藤利政を攻め、破れる。  上杉謙信、初陣(14歳)。
1545 天文 14 ・・  府内(大分市)・豊後(大分県)の港に、ポルトガルの商人達が上陸。
※ エピソード ※
大友宗鱗(16才)弟と共に持ち込まれた西洋の品々に目を奪われていた。この時に試し打ちしていた火縄銃が暴発し弟が怪我をした。ポルトガル人達の医療技術や軟膏などの医薬品に目を奪われた。「西洋の文物は何事も優れている得るものは甚だ多し。」 
1546 足利義輝 天文 15 ・・  松平広忠の寄進状「竜海院文書」に、『東者六所之谷境・・』とある。   4/北条氏康・上杉憲政、朝定軍破り朝定戦死。
1547 天文 16 ・・  松平竹千代(後の家康)、駿府今川氏に送られる途中奪われ、織田信秀の人質となる。  4/21滝脇町長松寺開基夫人墓石(駒型平石)。五穀安し(龍渓院年代記)。
1548 天文 17 ・・  耳取縄手(岡崎市明大寺町)の合戦<広忠と松平信秀が対戦。広忠が勝利。松平一族内の反対派を打倒>。  織田信秀、古渡城から末森城にはいる。3織田、今川再び小豆坂で戦う。 ※ルイス・フロイス16歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、イエズス会に入会。インドのゴアに派遣されフランシスコザビエルと、日本人ヤジロウに会う。 
1549 天文 18 ・・  岡崎城主:松平広忠没(24才)。近臣・岩松八弥に城内で暗殺される。今川義元、岡崎城を接収し、今川勢に城を守らせる。7 ザビエル、キリスト教を伝える。11/9今川義元方大原雪斉、安祥城に織田信弘を攻め落とし、松平竹千代と交換する。11/松平竹千代(8才:清康の孫)、今川氏人質として駿府へゆく。
この時、徳川四天王と後にいわれる酒井忠次が武千代に従い今川義元の屋敷で暮らす。駿府での竹千代の教育係は、太原雪斎。 
 今川義元、西三河を配下に置く。額田郡内一部で検地。 上杉謙信(19歳)、生地に帰る(春日山城)。49歳に没。
1550 天文 19 ・・  8/2矢作川に大洪水被害甚大(西加茂郡誌)(龍渓院年代記)。  2/19大友家の内輪もめで、大友宗鱗(20才)の家族が殺される。大分県の大友家は、(代々謀反や内乱が絶えなかった。)大友家は、毛利氏と薩摩の島津氏との大国に囲まれて常に緊張を強いられていた。 ポルトガル船、初めて平戸に入港。  フランシスコ・ザビエル、京都にはいる。
1551 天文 20 ・・  8/2大雨洪水(定光寺年代記)。3/織田信秀没。織田信秀没す。万松寺で葬儀。信長(18才)家督を継ぐ。この頃倭寇最も活発化する。前田利家、この年より織田信長につかえる。    大分県・大友宗鱗(21才)、大友家の頭領となと、日本への宣教師となったフランシスコ・ザビエルを招いた。
ザビエルを通じてポルトガルとの貿易を盛んにしたいと考えた。彼は鉄砲た火薬の原料である硝石を大量に輸入した。日本ではじめて手に入れた大砲・フランキ砲。この大砲の威力に、大友宗鱗は「国崩し」と名付けた。軍事力を次々と拡大していった。一方、貿易相手のポルトガル人との交易を深める為に、キリスト教徒を手厚く保護した。自由な布教を認め宣教師に栃を与えるなど、全国に例を見ないほど彼らを優遇した。4年後には府内のキリシタンは1,500人を越えた。内科・外科を備えた日本初の総合病院ができた。更に、孤児院や学校も作られ府内は医療・福祉・教育の先進都市になった。宗鱗の言葉「デウスとは、甚だ大切にして大いなる不思議あるものなるべし・・・。」(日本イエズス会書簡集) 讃美歌(ムジカ)は、戦に明け暮れる宗鱗の心を癒した。
1552 天文 21 ・・  この頃は、三河・遠江・駿河を統治する今川義元が強力な勢力を持っていた。更に、西への勢力拡大を目指して尾張の信長を脅かしていた。
1553 天文 22 異常気象  異常気象9~10月まで夏日のごとし(定光寺年代記)(龍渓院年代記)。織田信長、斉藤道三と冨田聖徳寺で会見する。
1554 天文 23 霧島山、翌年にかけて噴火繰り返す  北条氏康・武田信玄・今川義元、甲荘駿三国同盟成立。氏康は、室町時代以来の旧来の秩序を脱した、新たな政権樹立を意識していた。農民に親しまれるようになった氏康は、独立国家の構想を考えていた。
  霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)翌年にかけて噴火繰り返す。
1555 弘治 1 ・・武田信玄は、堤防を築き農業を興した。  松平太郎左衛門第5代親長、大給城主第4代親乗の下で蟹江城を攻める。(「松平町誌」)
 
家康元服、元信と名のり、今川の武将として活躍。
 今川義元の名前を一字もらった。人質としては、礼を尽くし優遇されていた。今川義元は跡継ぎ氏真の補佐役として竹千代を育てていたのではないか? 
 今川義元から元康家臣への勧請
「・・・粉骨比類なし、甚
(はなはだ)もって忠節の至り・・・云々」
                
安城市歴史博物館 蔵
 今川勢侵入により大給山中の合戦。  4/20織田信長、清洲の織田信友を破り、那古野から清洲城にはいる。7上杉・武田両軍、川中島で戦う。10/毛利元就、陶晴賢を厳島で討つ。倭寇、中国内陸部へ侵入、前後十年間倭寇最も盛ん。   斎藤道三、織田信長 会談。
1556 弘治 2 ・・  大給松平氏、滝脇松平氏の所領を侵略し、同族滝脇松平氏との合戦。滝脇松平氏初代乗清、二代乗遠、乗遠の長男の三人討死。 滝脇町長松院墓石「駒型平石」三基。松平氏のもの。1/5二代目松平三郎太夫源乗遠の嫡子正乗討ち死。3/25瀧脇元祖松平出雲守源乗清・二代目松平三郎太夫源乗遠討ち死二基。  能見神社:野見山町4丁目、火災により社殿・社宝・古文書等消失。このために創始は不明。
1557 正親町 弘治 3 大旱魃  大旱魃8/26大風(定光寺年代記)。12今川義元、三河山中郷の検地を行う。この時、三河には今川から代官が派遣されていた。 武田信玄・上杉謙信、信州で戦う。
1558 永禄 1 ・・  元康・後の家康、岡崎城の城主となる(~1569)。
 この永禄年間に、岡崎城に近い高宮村(現在の明大寺町)の六所神社に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)の御祭神六柱のうち三柱の神が勧請遷座(「松平家文書」に、六所神社は永禄年中に高宮村の六所神社へ衣冠束帯の神像三体、地蔵尊三体を遷御した。
 「松平町誌」など
  木下籐吉郎、信長に仕える。前田利家、まつと結婚。
1559 永禄 2 大干魃  大干魃、山中、東は吉、西国は悪し(龍渓院年代記)。織田信長、岩倉城の織田信賢を攻略し、ほぼ尾張を統一する。この年信長上洛し代将軍足利義輝に謁見する。松平元康(家康)七箇条の定書を出す。
信長の功績
①兵・農分離により、いつでも戦い可能・農産物は増収
②身分・家柄に拘らず実力を重視。秀吉・光秀ら。
1560 永禄 ・・  広瀬城、松平元康は織田信長に属する広瀬、梅ケ坪、挙母の諸城を攻め、2/20広瀬城落城、高清は一族とともに死す。『松平記』  5/19桶狭間(名古屋市東南部から豊明市西部一帯)の戦い。織田信長、大雨の中を本隊2千余名の奇襲戦法により西進する2千8百の大軍今川義元を倒す。松平元康(後の家康19才)、その日の早朝、今川軍の先陣として三河衆を率い、大高城(名古屋市緑区)に兵糧を入れ、織田方の鷲津・丸根両砦を攻め落とす。信長は、南下して桶狭間に待機中の今川軍本陣を側面から急襲し義元を討ち取る。今川勢総崩れで西三河から撤退。
 元康19才、10年ぶりに岡崎城へ帰る。元康駿府に戻らず三河に踏みとどまった。織田は元康に同盟を持ちかけた。
 信長の中央集権の動きに、北条氏康(地方分権の意向)も否応なく従わざるを得なかった。この時、当時最強といわれる騎馬軍団を率いる武田信玄が控えていた。
   *************************
 北近江の大名・六角氏への反乱が起こる。浅井長政(16歳)がこれを率いる。(「世の常ならぬ若君なり 云々」 『浅井三代記』より)長政軍勝利。北近江の領主となる。
 浅井氏は、元々、北近江の領主であった。しかし、父の時代に六角氏との戦に敗れて、その配下に甘んじていた。しかし、部下達の不満はくすぶっていた。
・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 北近江を治めるには、大きな課題があった。北近江の人々は、大名の権力を拒み、自分たちで政治や裁判を行っていた(このような村を”惣村(そうそん)”といって、このような村が北近江には多かった)。大名にとって、治めにくい土地であった。普通、大名達は上から押さえつけて政治を行ったが、長政は村人の声を直接聞いて、村同士の水争いなどの裁判を行った。権力による一方的な命令を下すようなことはしなかった。琵琶湖の北にある竹生島に弁財天を毎年祭り豊穣を祈願した地域の習わしに理解を示し、長政はこれに寄進をした。
1561 永禄 4 三河中条氏滅亡  元康、刈谷の水野元信の仲介により、信長と和睦。幡豆郡の西条(西尾)城代牧野氏を逐い、東条(幡豆郡吉良町)の吉良氏を降伏させる。信長は、加茂郡に侵入し矢作川以西の西部を支配下に治めた。尾張側に属したこの地域は、三河から切り離されて高橋郡と呼ばれるようになった。(この地は、鎌倉期から中条氏が地頭を務めた高橋荘があった。)  衣(ころも)城(七州城)、佐久間信盛の支配となる。=中条常隆、織田氏により敗走。
 福島政則、愛知県美和町で生まれる。
(一説には、「秀吉の従兄弟に当たり、子供のいなかった秀吉の元で加藤清正とともに育てられる」と言われる。)   長尾景虎、関東管領となり上杉氏を嗣ぐ。   9/第4回川中島の戦い(上杉謙信32歳、武田信玄と戦う)
1562 永禄 5 ・・  1/15織田信長、松平元康と清洲で盟約を結ぶ(清洲同盟)。元康、今川氏とは断交。合戦後、三河における今川勢力が駆逐されると両者による領国支配は決定的となった。2/信長、尾張鋳物師水野太郎左右衛門に特権を与え、他国からの鉄製品移入を禁止。 北条氏五代目・氏直生まれる。
1563 永禄 6  三河一向一揆



家康ほぼ三河を統一
 家康、酒呑の鈴木次郎左衛門、甚十郎を案内人として足助城主鈴木重直を攻め降伏させる。(「松平町誌」)
 
9/三河三か寺(安城市野寺の本證寺、佐佐木の上宮寺、針崎の勝鬘寺)を中心に三河一向一揆おこる。   7織田信長、居城を清洲から小牧山城へ移す。この年家康ほぼ三河を統一する。寺部城:寺部町1丁目、在地の小豪族鈴木氏は、ある時は自立し、ある時は織田・松平に属して保身を図っていたが、この年松平元康に攻められた。『東照軍鑑』この時、信光寺(豊田市)も加担し針崎にて合戦。家康のとがめを恐れて信州へ逃れたが家康の祖先松平家の由緒の寺であるとのことで、許されて無事であった。  ※7/6ルイス・フロイス31歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、来日。備前国横瀬村に滞在。九州各地に滞在。

注・三河一向一揆:定説によると、永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近にを築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したという。(しかし、菅沼定顕という家臣の実在が不詳)または、大久保彦左衛門の著書『三河物語』では、本證寺(安城市野寺町)に侵入した無法者を西尾城酒井正親が捕縛したため、不入の特権を侵害されたとして一揆が起こったという。不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、不入特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如上人の孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に、檄を飛ばし、門徒を招集して菅沼氏の砦を襲った。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れた。
 一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいた。その様な武士が一揆を離脱し、帰参を望む者が多くいたため、一揆は収束に向かった。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していた。家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させた後、本願寺教団の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却した。これより19年後の天正11年(1583年)まで、三河は真宗禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した。(本多正信など一部の家臣は、出奔した。)
 この経験により、家康は本願寺教団の力が戦国大名にとって大きな脅威であることを身をもって理解することとなった。これが後世、本願寺教団の分裂に際し、教如を支持する一派(今の真宗大谷派)に土地を寄進して分裂を支持する行動に繋がったと言われている。
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1564    永禄 7 三河一向一揆  2/三河一向一揆、家康と和睦。後家康、三河本願寺勢力の中心寺院を破壊する。足助の鈴木氏(足助7城築く)松平勢の猛攻にあい元康(家康)の配下に属す。滝脇松平氏三代乗高、この時軍功あり。御船城、秋尾三の乱に賊の為に城郭は焼かれ城主三宅義高は死す。『千鳥寺旧記』より。=御船、亀首、加納の荘園を領す。『猿投村誌:大正4年西加茂郡教育会』より。 
 ガリレオ・ガリレイ(1564~1642) 実験と数値による法則の発見(斜面実験で落体の法則発見。幾何学の手法で数学に表現)    
1565 永禄 8 ・・  家康、三河一向一揆を平定し、三河一円を治める。 朝廷に申し出て祖父清康が称した世良田氏の庶流徳川に改正し、三河守に任ぜられる。
 ※1/31 ルイス・フロイス33歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、九州から京都に入る。
1566 永禄 9 ・・  4/今川氏真、駿河大宮の市を楽市とする。 8/信長、足利義昭から幕府回復の命を受ける。家康、徳川と改姓。寺部城:寺部町1丁目、在地の小豪族鈴木氏は、織田家の臣佐久間信盛に攻められ落城。  永徳、京都大徳寺の聚光院の襖絵描く。  霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。多数の死者。
1567 永禄 10 信長:岐阜に移る。

家康の嫡男、信長の娘と結婚。
 8/15織田信長、斉藤竜興の美濃稲葉山井ノ口城を攻略し、居城をここに移す。城下を岐阜と称す。濃尾平野一体を支配。この頃、信長「天下布武」の印判を用い始める。 10/信長、美濃加納を楽市とする(分国ないの自由通行権・諸役の免除・役人不介入の不入権などを保証)誰でも自由に商売可能とする。 松永・三好の争いで東大寺大仏殿焼失。 この年、家康の嫡男信康と信長の娘(徳姫)が結婚。酒井忠次は信長との絆を深めることで、徳川の命脈を保とうと奔走する。
1568 足利義栄・足利義昭 永禄 11 ・・  宮口・地蔵院(開山は、無染融了禅師・六地蔵を奉ることから”六所”の名が付いた=妙晶寺古文書)、六所本殿の神宮寺を山上から移して現在地に作る。
  8/信長、京へ向かう途上、妹お市を嫁がせた浅井長政を訪ねる。このときに浅井に次のように胸の内を述べた。「このたびは浅井殿と組んで将軍のお供をし日本を残らず従えたい。云々」『総見記』より
京の足利将軍の権威は失墜し、それが乱世に拍車をかけていた。
 「将軍を助け、日本に安定をもたらせたい」という信長の言葉に浅井長政は共感する。 9/上旬 浅井長政(24歳)は信長とともに京へと出発。途上で南近江で反信長勢力が待ち伏せていたが、当地の地理を熟知していた長政の活躍により、これを打ち破る。 9/26織田信長、元将軍の弟・足利義昭(よしあき)を奉じ(第15代将軍にたてる)入京する。浅井長政は、北近江へと戻る。10/足利義昭、征夷大将軍となる。 12徳川家康、武田信玄の駿河侵攻に歩調を合わせて、遠江掛川城に今川氏を攻める。
1569 足利義昭 永禄 12 ・・  大給松平第5代真乗、家康の招きを受け、遠州笠居島に布陣し懸川城を守る。(「松平町誌」)
 
6/姉川の戦い。信長、浅井・朝倉を破る。9/石山戦争始まる。(~80)11/21願証寺を中心に長島一向一揆。一向宗徒、小木江城に織田信興をせめて、自害させる。   前田利家、信長の命令で、前田家を継ぐ。
 ※3/30 ルイス・フロイス37歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、京都で初めて織田信長と対話をする。この年2回(4/19)
1570   元亀 1 浅井・朝倉連合軍、比叡山に立てこもる。   大給松平第5代真乗、家康と越後の上杉輝虎との和親同盟の折衝に参加。武田・今川両氏と対立していた当時の家康にとって重要な役割を果たす。(「松平町誌」)
1570年代前半の信長包囲網 
 武田信玄・朝倉義景・浅井長政・足利義昭・松永久秀・雑賀衆・三好三人衆
 注:朝倉義景・浅井長政は、比叡山と手を結んでいた。
   信長は、比叡山に中立を求めたが無視された。
 ※  信長から比叡山への申し入れ ※
 ○ 浅井、朝倉に味方せず自分に味方すれば織田分国内の比叡山領は返還する。
 ○ 一方に味方できないのであれば、せめて中立を保って欲しい。
 ○ このまま敵に味方すれば、延暦寺をすべて焼き払う。
 1/下旬 浅井長政、信長から一通の書状を受け取る。
 その文面には、信長が各地の大名(北畠大納言殿・姉小路中納言殿・徳川三河守殿・山名殿と)を敬称付きで呼びかける中、長政に対しては「浅井備前」と、呼び捨てであった。手紙の中で、浅井長政は対等の立場ではなく、家臣扱いされていた。浅井長政は、これによって自分の領地も信長の統治下にあると見なされたと判断した。北近江の浅井長政は信長への不信感を抱いた。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 4/浅井長政の元に、越前の大名朝倉氏・義景を信長が攻めるという報が入る。長政にとっては、浅井家代々の付き合いがあり、信長以上に関係の深い大名であった。信長は、3万の兵を率いて朝倉氏攻めに向かった。浅井は朝倉氏に加勢することに決めた。4/下旬 浅井長政、越前へ進軍。信長軍を背後から攻撃する予定であった。このとき、信長は京へと脱出を試みていた。これにより浅井長政は信長の怒りを一身に受ける立場となった。6/信長、北近江・姉川に着陣する。徳川家康の援軍を含めて、その数およそ3万。朝倉と浅井の兵は併せて1万3千。6/28 姉川の戦い。長政撤退。 6/徳川家康、居城岡崎を嫡子信康にゆずり、遠江浜松に移す。9/中旬、浅井長政小谷城を出陣し京にいる信長への逆襲を開始。信長包囲網の始まりであった。9/22浅井長政、北近江の有力な寺に通達を回す(出陣の依頼)。門徒の民達は長政の期待に応えるべく立ち上がった。既に北近江に入っていた信長軍を、彼らはかき乱した。9/24織田信長、北近江の見える京都の比叡山の麓に陣をおく。延暦寺は、その所有地を元に信長と対立していた。浅井長政は、延暦寺を陣地にした。浅井長政は、大阪の石山本願寺にも協力要請をした。浅井長政は、反信長勢力を束ねる要の一つとなっていた。10/7石山本願寺は、近畿各地に反信長の檄を飛ばす。これに応じて、南近江・伊勢・長島で一揆が起きる。浅井長政の、信長包囲網が功を奏し始めた。  信長は、越前に朝倉義景を攻めたが北近江の浅井長政の離反により失敗か。11/21願証寺を中心に長島一向一揆起こる。一向宗徒、小木江城に織田信興を攻めて、自害させる。12/浅井長政に当てて、正親町(おうぎまち)天皇による講和の命令が届く。(信長は、足利義昭と朝廷を動かし停戦命令を引き出した。)浅井長政は、これを受諾せざるを得なかった。12/13浅井長政、比叡山の陣を引き払い北近江に引き上げる。 12/家康、碧海郡小山新市を楽市とする。
1571  元亀 2 矢作川に大洪水

1570年代前半の
信長包囲網 
  武田信玄 
   朝倉義景 
 浅井長政
 比叡山
   京都本願寺
  足利義昭 
大和   松永久秀
   雑賀衆
   三好三人衆
 1/織田信長、浅井長政の包囲網を崩し始める。浅井長政と反信長勢力の連携を崩し始める。
 4武田信玄、駿河から遠江に侵入し、さらに信濃から遠江・三河の山間部を侵略。奥三河では、4/15足助の鈴木重直を岡崎城に逐い、鈴木氏の勢力下にあった浅谷(旭町)、八桑・阿摺(足助町)及び大沼・田代(下山村)等の諸城は潰れる。作手の奥平氏、田峯・長篠の両菅沼氏の山家三方衆を服属させ、平野部の吉田にまで来襲。三河二連木で家康と戦う。
 ☆ 武田信玄の書状 8月10日付け  六所神社 蔵 
 「一筆申し遣わし候 気分心得られず候 之に依りて嶋田弥右衛門蛇付劔南無妙法蓮華経寡蛇居候八寸五分宝劔並びにこん糸おどし乃よろい一黒よう国カミ白ひげ当分預け置申候委細之儀ハ松田大阿蔵ニ申超す可候               武田信玄 花押
 八月十日
   日 短 殿  」
  「詳細は松田大阿蔵に話しておくが、気分が悪くなったから短刀一ふりとよろい一りょう及び国白ひげ(?)を当分預ける」ということを日短という人に告げたものと思われる。
                         (短刀も神社に存在。)
 武田信玄の西上計画の最初の行動  宇野鎮夫氏より 
 信州・伊奈において兵食を備え、四郎勝頼と共に二万三千の兵を率いて伊奈口より三河に攻め入る。
 4月15日足助城を攻撃しこれを落とし、続いて浅谷、阿摺
(あずり)、大沼、田代、八桑の諸塁が皆つぶされた。武田勢の兵が六所山麓に出没したかも知れない。 
 5信長、長島一向一揆討伐のため、津島に兵を進める。9/12信長、反信長陣営の一角であった延暦寺焼き討ち。諸社をことごとく焼き払い、老若男女を問わず、山中に生活する者の大半を殺戮する。比叡山門徒の横暴等、それまでとなる。 10/21北条氏康没。世に相模の虎(または獅子)と謳われた。
  矢作川に大洪水被害甚大
(西加茂郡誌)。  九州・大分の大友宗鱗は、6カ国を支配し、九州最大の大名となった。だが、キリスト教への信仰を深める宗鱗は、心に矛盾を抱え始めた。それは、『汝、殺すなかれ。』。例え敵であっても殺すことを禁じるキリスト教と戦国大名の現実は矛盾していたのであった。「悪をなすものを殺すことを命ぜずば、国はいかにして治むる得べきか・・・・。」宗鱗は、戦争と信仰を折り合わせようとして悩んだ。
レバントの海賊   神聖ローマ帝国、スペイン、ヴェネツィア連合軍とオスマン帝国の戦い。キリスト教がイスラム勢力の進出を食い止めたヨーロッパ史に於ける重要な一戦。レパントの海戦は中世と近世を分ける戦争とも言われ、レパントの海戦以降、キリスト勢力はイスラム勢力より優位に。そして、西欧諸国は新大陸や東アジアへと進出をはじめる。     
1572 元亀 3 矢作川に大洪水

被害甚大
 矢作川に大洪水被害甚大(西加茂郡誌)。  12/三方が原の戦い。武田信玄、北条市と再び同盟を結んで背後を固めて、二股城を落として浜松城に迫る。家康を破る。信玄、そのまま三河に入り野田城(新城)を陥落させる。
 修験道:長谷川角行(1541?~1646?)、後の富士講の開祖。役行者の夢告により富士山で修行を始め、1572年に富士山頂をきわめた。
1573 天正 1 ・信長権力・
・統一戦争・
 1/11武田信玄の三河侵攻、菅沼氏の野田城攻略。この帰路、信玄没す(4/12)。7/信長、自分と対立するようになった将軍足利義昭を追放。室町幕府事実上の滅亡。 同年、信長は朝廷の停戦命令を破り近江・浅井長政(9/1:29才)と越前の朝倉義景とを倒し、北陸へも勢力拡大。 狩野永徳。
1574 天正 2 ・・  1/武田勝頼、東濃より三河加茂郡へ攻め入る。 1/12信長、瀬戸に焼き物窯を免許し、他所の窯を停止させる。9/29信長、長島一向一揆を平定。
1575 天正 3 長篠の戦い:信長戦法を変える・個々の武将が率いて戦う方法から、全軍が一つになって戦う方法に。
 ※ 第二次 信長包囲網 1570年代後半 ※ 
 上杉謙信・武田勝頼・宇喜多直家・荒木村重・雑賀衆・足利義昭・毛利輝元
 ・浄土宗本願寺石山:顕如
 滝脇松平乗高、大給城の夜襲。仇敵親乗、一時期尾張に追われる。滝脇松平氏遠州二俣城の攻略戦に参戦家康に軍功を認められる。 棒の手、猿投神社に奉納
 5/21長篠の戦い(愛知県新城市)。織田・徳川連合軍、武田勝頼軍(当時、日本で最強の騎馬軍を持つことで、周囲に恐れられていた)を設楽原に破る。信長、この時始めて鉄砲を効果的に使う。大阪・堺の町の鉄砲職人達に火縄銃を沢山造らせていた。徳川軍の酒井忠次は、信長に奇襲作戦を進言し、その実行を命じられる。酒井忠次は、武田軍の背後を突いてその戦いに大きく貢献。また、家康の嫡男・信康の武功を信長に披露する。  8/信長、越前の一向一揆を滅ぼす。信長、嫡子信忠に家督をゆずって岐阜城と尾張・美濃支配を任せて、翌年から近江安土の築城し本拠とする。   前田利家、越前府中城の城主となる。
1576 天正 4 霧島山、79年にかけて噴火繰り返す。  2信長(43才)、天下統一の拠点とするために、近江に安土城築城(天守閣と石垣を備えた新しい形の城)。ここにに移る(中国地方を抑える毛利輝元を牽制するものであった)。 武将に各地を与えたが、統治権は信長が握った。京に近くしかも物資流通の要所。楽市楽座令:楽市楽座(らくいちらくざ:税を納めずに誰でも市場を開いて商売が可能)で収益を増加させ経済力を高め、城下に家臣を住まわせた。武士を先祖伝来の土地から引き離し軍事や政治の専門家にするという戦略。安土城に、天皇を住まわす目論見であった(天守閣)。また、関所(通行する人々から通行料)を撤廃した。  織田信忠、尾張国中の道路幅を定め整備する。
本街道 三間二尺幅(約6.5m)  道路は直線にして、河には橋を設けた。
 また、今で言う「バイパス」も作った。
脇街道 二間二尺幅(約4.5m)
在所道 一間     (約2m)
   霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)79年にかけて噴火繰り返す。
 大分・豊後・大友宗鱗(47才)は、家督を長男・大友義統
(よしむね)に相続する。長男に相続することで、キリスト教の教えに忠実に行きたいと考えた。そのような大友宗鱗の姿勢が豊後を揺るがす事件へとつながった。
1577 天正 5 ・・  豊田市坂上町杉ノ木・蓮生寺創建。(「松平町誌」)
 
1/日向・伊東氏が西の津島氏に敗れて、大友宗鱗の援軍を要請。 10/羽柴秀吉、中国攻め開始。(~82)
1578 天正 6 ・・
 3/大友宗鱗の息子義統(よしむね)と家臣達は乗り気ではなかったが、宗鱗の強い勧めで6万の軍勢で日向(現在の宮崎県延岡市)に進軍する。7/25大友宗鱗、キリスト教の洗礼を受ける。大友宗鱗の日向責めの目的は、そこにキリシタンの理想郷建設であった。10/大友宗鱗、海路で日向へ出陣。旗印は深紅の十字架であった。  それは、かつてヨーロッパで行われた十字軍の戦いの時と同じ旗印だった。
 宗鱗の日向遠征は神の名の下の「聖戦」であった。日向に到着すると、現在の宮崎県延岡市に新たな名前を付けた。それは、教会で聴いた讃美歌「Musica]の務志賀
(むしか)であった。現在の無鹿町。彼は、これまで村人が信じてきた神社やお寺をことごとく破壊した。僧侶や神官達を教会建設の忍足として働かせた。宗鱗の考えによれば、神社仏閣は邪教でしかなかった。しかし、キリシタンではない家臣達も居た。彼らは、派遣されたもののこの闘いの目的を見失っていた。やがて、軍議もまとまらない状況に陥った。
 11/12耳川の戦い=大友軍と島津軍の最大の合戦。大友軍のある武将が命令を待たずに、手柄を焦って攻撃を仕掛けた。大友軍達は、まとまりのない攻撃が繰り返された。島津軍の統制のとれた鉄砲隊の総攻撃に総崩れとなる。大友軍の戦死者は2万人と言われている。宗鱗の理想国家建設の夢は、わずか2ヶ月で崩れ去った。これまで服従していた臣下達が半旗を掲げて島津家に寝返った。また、息子義統
(よしむね)も宗鱗を厳しく批判しだした。「父上は、邪教にうつつを抜かし神仏をないがしろにするもうついて行けない。」
                    ・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 この年、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)は、伊賀の国を治める拠点として丸山城を築く。しかし、この城は伊賀の惣国一揆から先制攻撃を受けて焼き払われる。
1579 天正 7 ・・  鈴木正三(1579~1639)、則定村の徳川氏に仕える家臣の鈴木重次の長子として誕生。酒井忠次が、安土城(あずちじょう)の完成を祝って、酒井忠次が献上品を信長に届けたときに、酒井の前で信長は徳姫から預かった書状を読み上げた。
「武田が織田ばかりか家康をも滅ぼし、その領地を信康に与えようとしている。(信康密通)」と、これの真偽を酒井に問いただした。(『三河後風土記』より)。酒井がこの書状を肯定すれば、信康の謀反を認めたことになり、否定すれば信康の嫁・信長の娘・徳姫の書状を疑わしいと言うことになる。酒井は、信康の謀反を肯定せざるを得なかった。
・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 信長の命により、家康長男信康(21歳)、自刃=信長は家康の長男が武田と組んで謀反を企てていると疑い処分を求めた。
 この年、織田信長の次男・信雄
(のぶかつ)は、伊賀の国を総攻撃したが、伊賀勢から集中攻撃を浴びて、二日間で撤退。伊勢に逃げる(第一次天正伊賀の乱)。この知らせを京にいて聞いた信長は「言語道断、曲事の次第に候。親子の旧離許容すべからず候。(とんでもないことだ!親子であっても許せない!・・「信長公記」より) と、激怒した。
1580      天正   余語勝久、衣城主となる。=信長、佐久間信盛親子を追放して・・。   信長、長く(10年)苦しめられた一向一揆の拠点石山本願寺を降伏させる。この頃、加賀をはじめ多くの浄土真宗の門徒は、織田信長の徹底的な弾圧を受ける。以後、170年後の江戸時代になって、ようやく浄土真宗は安泰な世の中を迎えることになる。
 モンテーニュ、この年、『エセー(随想録)』Essais 刊行。これは、フランスのモラリスト文学の基礎を築いたとも評され、モンテーニュの主著である。
 法官辞任後、1572年以降に執筆をはじめ、この年にボルドーで刊行された(初版、2巻本)。その後、1588年に第3巻及び初版(2巻)への大幅な加筆を行い刊行した(1588年版という)。
 晩年も死去の直前まで本の余白に書き込みを行っており、この書き込みも含めて定本とされている。
 体系的な哲学書ではなく、自分自身の経験や古典の引用を元にした考察を語っている。宗教戦争の狂乱の時代の中で、寛容の精神に立ち、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。文献学者のアウエルバッハは、『エセー』が初めて人間の生活、自分の生活を近代的な意味で問題にした本であるとした。   
1581 天正 9 伊賀の
惣国一揆壊滅

注:一揆とは「同盟」のこと。地域の武家たちの同盟のこと
 家康(40歳)、武田勝頼との攻防の末、高天神城を陥落し、遠江から武田勢を一掃する。  前田利家、能登に封じられる。
 2/28&3/5信長、天皇を招いて馬揃えを行う。五畿内隣国の大名・小名・御家人を集めて、駿馬を天下に集めて正親
(おおぎまち)天皇に見せて軍事力を示した。譲位要求の圧力。
 9/信長は、次男・信雄
(のぶかつ)の伊賀丸山城を焼き払われたので、次男・信雄(のぶかつ)を大将に伊賀の周囲6カ所(大和・伊勢・甲賀)から一斉に攻撃。伊賀勢は、わずか9,000で迎え撃った。あっという間に攻撃され、女性や子供も殺され、伊賀惣国一揆は壊滅した。生き残った人々は、最後の砦・柏原城に籠もったが降伏(第二次天正伊賀の乱)。
1582 天正 10  信長、天皇に対して、京歴ではなく尾張歴を使うよう求める。(この頃、各地で固有の歴を使用)

 この直後に、本能寺の変
・秀吉覇権・
 岡崎市細川町の松明院、大給松平氏の菩提寺として建立された高祖寺、松明院としてここに移転。  3/天目山の戦い。武田氏滅亡。5/備中高松城水攻め(羽柴秀吉)。6/2本能寺の変。織田信長(49才)、家臣の明智光秀に殺される。この時、信長最大の同盟者家康は、大阪・河内にいた。直ちに三河にとって帰ろうとする。手勢30人ほどでの帰りを警護したのは、190人の伊賀・甲賀の忍者であった(「伊賀路濃知邉いがじのしるべ」より)。
 6/秀吉、天下統一に向けて動き出す。光秀を山城国山崎で破る(山崎の戦い)。6/27織田氏の諸将、清洲城で信長の継嗣・遺領処分を合議する。織田信長、尾張・伊勢・伊賀を領有する。7豊臣秀吉の検地始まる。前田利家、本能寺の変以後柴田勝家と羽柴秀吉の対立で、最終的に秀吉側に着く。
 この年、家康(41歳)、三河・遠江・駿河の三国を領地とする。 千利休:侘び茶改革。 金碧障壁画。 武術・柳生宗厳。
 この時、北条氏は、18才で家督を継いだ五代目北条氏直。関東統一を守るために、徳川家康・伊達政宗と三国同盟を結ぶ。三国を合わせればおよそ11万の兵となる。この時、秀吉勢は15万人。
・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
1583 天正 11 ・・  8/織田信雄、尾張に総検地実施。   大洪水。この年2~3度(龍渓院年代記)。4/20賤ヶ岳の戦い。秀吉、柴田勝家を破る。福島政則、この合戦において貢献・一番槍。加藤清正、八面六臂の活躍。 9/大阪城の築城始まる。  前田利家、金沢城入城。以降、秀吉政権の重鎮として活躍。五大老。秀頼の傅役として重職に就く。 ※ルイス・フロイス51歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、イエズス会総長から「日本史」執筆を命じられる。
1584 天正 12 ・・  3~11小牧・長久手の戦い。秀吉と家康。家康は、信長の後継者をめぐる家臣団の争いの中で、主導権を取った羽柴秀吉=本陣犬山城、軍10万=と対決し、信長の遺子信雄と結ぶ:本陣小牧山、軍約2万。
 結果、秀吉は敗れる。この時に加藤清正が、秀吉撤退の際に最も危険な殿
(しんがり)を任せられる。家康軍の本多忠勝は、僅か500の兵。「釣り野伏せ」という戦法で寄せ付けておいて、潜んでいた兵に挟み撃ちにした。100倍以上の兵もこれに太刀打ちできず、結局は、勝利に導いた。井伊直政は、この戦いではじめて先鋒を命じられ、自ら先頭に立って敵陣に突っ込んだ。
「我に遅れし者は男にあらず。」(「井伊年譜」より) 井伊軍は赤い鎧、敵からは「赤鬼」と怖れられた。しかし、井伊は家康に諫められる。「井伊はあくまで一軍の将であり、戦場における突出は許されない。立場を考えて行動せよ。そして本多忠勝を手本とせよ。」(「陣書軍記」より)・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
     スペイン船、平戸に来航。
1585 豊臣秀吉 天正 13 11/29尾張を大地震が襲う。

秀吉全国統一。
 衣(ころも)城主、余語勝久退城し平松与左衛門がなる。  11/29大地震M7.8、被害地域は、畿内、東海、東山、北陸諸道まで及ぶ。 一宮真清田神社、岡崎城壊れる。余震が翌年2/8まで続く。3/秀吉、紀伊根来・雑賀の一揆平定。6/14※ルイス・フロイス53歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、「日本覚書」を執筆する。 7/秀吉関白となる。大坂城完成。北条氏・徳川家康・伊達政宗との三国同盟の切り崩しに掛かる。秀吉、家康に上洛を求める。家康、秀吉からの圧力に屈し、上洛して臣下の礼をとる。 長谷川等伯:楓図・松林図。  城郭・茶室。
その裏で、家康は北条氏と密かに接触。両者は、三島と沼津で会談する。家康は、高価な贈り物を示して、北条氏と戦う意志のないことを表した。北条氏は、表向きは秀吉に従っているが、いざとなっては家康は見方になってくれると確信する。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
1586 後陽成 天正 14 6/24木曽川大洪水  天正地震(てんしょうじしん)は、天正13年11月29日(グレゴリオ暦では1585.01.18)、に日本の中部で発生した。
 洪水によって、ほぼ現在の木曽川筋を形成する。この頃までに信雄再検地。
3/大分・豊後・大友宗鱗(57才)は、僧侶の姿に変装して、わずかな家来と共に大阪に向かう。秀吉の援軍を頼み豊後を救おうと考えた。敵の兵や海賊をかいくぐっての旅は至難を極めた。4/大友宗鱗、大阪城に到着。秀吉は、彼の熱意を感じながらも「援軍は1年後、四国を平定した後になる。それまで持ちこたえて欲しい。」と応える。12/島津軍、大友家の本拠地豊後・府内に侵攻する。大友宗鱗の息子義統(よしむね)は府内から逃亡。このとき宗鱗の元に残った家臣はわずか十数人だけであった。宗鱗は、府内の南臼杵で最後まで闘う覚悟を決めた。臼杵城は三法を海に囲まれた要害堅固なところであった。島津軍が押し寄せてきた。宗鱗は、城下の領民達(数千人)を臼杵城の城内に避難させた。(戦場では、民は殺されるか、それとも奴隷として連れ去られるかであった。)・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 12/秀吉(50才)、太政大臣となり豊臣姓を受ける。 
1587    天正  15   田中吉政が岡崎城主となり衣城を所轄。  九州地方に謀反反乱。5/秀吉、加藤清正(26歳・この時3000石)に命じて、九州・肥後の国の半分(19万5000石)を与えて、九州平定を任せる。
「加藤清正定書」即ち、加藤清正の統治方針が遺されている。
 武力ではなく、慈悲でもって統治しようとした。理不尽なことがあれば、例え農民でも、直接、清正に訴えることができる。反乱軍に加わった農民たちを、お咎めなしに許すことにした。大規模な治水工事をして経済を潤すようにした。等々。
                       ・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 清正は、知略を活かした政治で肥後の統治に成功。 島津義久降伏。6/秀吉、朝鮮国王来日を要求。バテレン追放令出す。6/信長、バテレン追放令を出す。9/聚楽第完成。10/北野に大茶会。
 ルター、宗教改革。   
1588 天正 16 ・・  4/秀吉は天皇を京の聚楽第(じゅらくてい)に招き、全国の諸大名へ列席を命じる。これは、秀吉への服従を試す言わば”踏み絵”であった。北条氏直は、これを断固断った。理由は、秀吉の年貢取り立てにあった。秀吉は、二公一民、すなわち三分の二は年貢として納めなければならなかった。北条氏は、年貢が少ないやり方(四公六民・年貢は4割で良かった)で農民の信望も厚かった。民を慈しむ政治理念は、秀吉の中央集権的な支配とは全く相容れなかったのだ。  7秀吉、刀狩り令発布。7/海賊取締令。
1589 天正 17 ・・  7~11徳川家康、7ヶ条の定書を郷村にだす。この年、家康、領地三河のほか遠江・駿河・信濃・甲斐5カ国の総検地を行う。6/秀吉、小田原城征伐。7/秀吉、奥州征伐。 11/24秀吉が北条氏直に宣戦布告。「北条氏は近年公儀を侮り上洛をしない。早く誅罰(ちゅうばつ)を加え、必ずや氏直の首を刎(は)ぬべきこと。」 北条氏直は、伊達政宗と徳川家康の援軍を期待する。それまでは、籠城をする作戦であった。山中城への攻めに対して、独特の堀(障子堀)など、万全を期した。本拠地の小田原城の周囲の長さ9Kmを堀(最大で深さ9mの障子堀)で囲んで城下の住民たちの保護も考えた。城下町の外に暮らす住民たちも、堀の中に招き入れて保護し、臨戦態勢をとった。
1590    天正 18 徳川家康、駿府から関東8カ国に転封される  小田原開城

地方分権から中央集権の時代へのTurning pointが小田原城の開城であった。



豊臣秀吉天下統一


 日明村など、太閤検地を実施。大給城六代家乗のとき、家康の関東入りがあり、これに従って群馬県上野国入りしたので,、この年に一端廃城となる。 家康が関東に入国後、岡崎城主田中兵部大輔長政は、西三河を支配下に入れ、各地の社領を残らず没収した。従って、六所明神も社領を失った。(「松平町誌」)
 豊臣系大名:田中吉政、岡崎5万国、池田輝政、吉田(豊橋)15万2千石それぞれ領す。犬山城、三好吉房(10万石)。黒田城、一柳直盛(3万石)。 9/三河太閤検地が文禄3年まで実施される。家康の関東移封に従い、足助城は廃城。 大給松平六代・松平源次郎(家乗)の時に大給城廃城。   3/1秀吉、小田原城の北条氏直に向けて出陣。 4/小田原城の北条氏直、海上も陸も、秀吉軍22万の兵によって包囲・封鎖される。この時、家康(1585年氏直と密談を重ねた)の軍勢が、秀吉の主力部隊の一つとして配置されていた。家康の裏切りを知った北条氏直は大きな衝撃を受ける。
氏直は、「この上は、伊達の援軍を頼むのみ。」と期待した。5/9伊達政宗、小田原城に出陣。向かったのは秀吉の陣。 6/伊達政宗、小田原で秀吉に降伏。7/氏直、家臣を集めて告げる。「この度の籠城は忠義の至り、未来永劫忘れはしない。もとより城を枕に討ち死にする覚悟でいた。しかし、大勢の者たちの命を失うにしのびず、このような仕儀となった。皆は明日より離散して、その身命を全うしてくれ。」(「関八州古戦録」)・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 北条氏直、城を出て降伏。小田原城、無血開城。自らが切腹するかわりに、他のものの命は助けて欲しいと願い出る。秀吉、氏直を殺さず、高野山への追放にとどめた。
 翌年、秀直は許され、1万石の大名として河内国狭山藩として幕末まで12代にわたって存続する。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
  豊臣秀吉天下統一。7/13豊臣秀吉、織田信雄を三河など5カ国に移封。信雄、尾張・伊勢の旧領をのぞみ追放される。豊臣秀次、近江八幡山より清洲城(西春日井郡)に入り、尾張と北伊勢を領す(57万1737石)。8/1徳川家康、駿府から関東8カ国に転封される(約236万石)。ついで、岡崎城主:田中吉政、吉田城主:池田輝政。9/三河で太閤検地実施。  10/大崎・葛西の一揆。  福島政則、四国伊予の大名になる。
       
 
      御  知  行  書  立          
         注:
 一  弐拾七俵弐斗弐升五夕六才   牛金村    中金村 
 一  百六拾六俵壱斗五升五合八夕四才   ませのさわ    柵之沢 
 一  七拾九俵壱斗壱升四合七夕三才   かぶらき    蕪 木 
 一  弐百弐拾六俵壱斗八升九合四夕七才  かミや    
 一  弐百弐俵弐斗八合三夕四才  嶋之郷     
 一  八拾九俵五升六合九才   あせび平    (あそ)び平 
 一  参百卅三俵弐斗弐升壱合六夕八才   田代ノ郷     
 一  弐百弐拾九俵壱斗弐升壱合壱夕三才   嶺之郷     
 一  六拾弐俵壱斗九升五夕五才   大野間     
 一  百四拾三俵四升壱合八夕四才   切二木     
 一  九拾七俵壱斗六升壱合九夕六才   まかり    (まが)り 
 一  七俵六升弐合弐夕四才   そためたち   提立(そだめ) 
 一  弐百四拾六俵弐斗壱合五夕四才   六木村    六ツ木村
 一  百拾四俵弐斗六升五夕四才  あか原    赤原(あかばら) 
 一  七拾八俵弐斗八升四合九夕九才  中さハ   中沢(なかざわ) 
 一  拾四俵弐斗弐升壱合弐夕三才  やなミ    矢並 
 一  六千五百壱俵壱斗三升三合弐夕三才  大給領     
 一  百八拾七俵壱斗九升九合壱夕壱才  押切村     
 一  卅拾三俵壱斗  山札銭     
 一  三百卅九俵壱斗七升六合六夕九才  南世古間     
 一  千八百七拾俵壱斗五升弐合三夕一才  細川郷    
 一  弐千四拾俵壱斗四升七夕四才  大沼領内     
               理□      
 一  弐壱千五百五拾六俵七升  大沼領    
  大給・大沼               
       惣都合壱万五千六百四拾九俵弐合四合 三夕    
          五才    
         
 右、御縄打奉行衆任御書付、員数如此也、可被成所務
    旨、取高之外田畠上中下共ニ、壱段ニ壱斗宛之夫銭
    有、 右之分百姓請負一札有之、仍如件、 
         
   天正十八年庚刁     (忠次)     
       二月十二日   伊奈熊蔵 (花押)    
       (家乗)         (黒印)     
    松平源次郎殿      
  *****
         
 ー  知行書立(写し)   [「松平乗承家蔵古文書」 所収] 国立公文書館 :縦書き  ー
1591 豊臣秀次 天正 19 ・・  愛知県豊田市酒呑・祐源寺創建。(「松平町誌」)
 
8/秀吉、身分統制令発す。8/20豊臣秀次、尾張の検地条目を定め、天正20年にかけて太閤検地を行う。11/4北条氏直(徳川家康の娘婿)没。享年30。
1592  1592~
1598


イムジンウェラン(壬辰倭乱)・文禄慶長の役


延べ29万の兵を投入し朝鮮の都を蹂躙

被虜人として朝鮮人を5~20万人、日本に連れて帰る。
文禄  ・・  1/25滝脇町長松寺、墓石駒型平石『松心院殿従五位下前雲州白雲乗高 柏樹院殿實操貞全大姉 文禄元年辰正月二十五日卒 三代目松平三郎太夫源乗高 ・・・・』。猿投神社、豊臣政権によって神領776石が安堵される。   3/秀吉朝鮮出兵(文禄の役~93和議)。この時、加藤清正は1万の兵を率いて挑戦に出兵し、現在の中国との国境近くまで達する。この時に、当時不老長寿の薬と信じられていた虎の肉を、加藤清正は頻繁に秀吉に送った。 秀吉、人掃令(全国の戸口調査)発す。尾張の検地条目を定め、この年まで太閤検地続く。 この年、高橋村
 隠元隆琦(~1673)、福州福淸県に生まれる。   
1593 文禄 2 ・・  豊臣秀吉、尾張の太閤再検地を実施する。秀吉の子、秀頼(~1615)が生まれる。 ※10/9ルイス・フロイス60歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、巡察師ヴァルビャーノと共にマカオに滞在。以後、再来日(1595)
1594 文禄 3 ・・  1/豊臣秀次、秀吉の監督下で、尾張復興対策として木曽川築堤工事を実施(御囲い堤)。4/1清洲城下へ来住の在々農民を帰郷させる。   伏見城完成。秀吉移る。  豊臣系大名:水野忠重伊勢神戸より刈谷城に復帰(1.5万石)。
1595 文禄 4 ・・  7/福島政則は、秀吉から秀吉の甥・秀次を高野山に追放するように命じられる。秀吉は我が子秀頼に天下を譲るために、子供のない時に期待していた秀次を排除しようとした。秀次は後に切腹。・・8/2秀吉の甥(おい)で謀反の罪で切腹した関白・豊臣秀次の一族39人が処刑のため三条河原に向っている途中だった。幼児(おさなご)も容赦しない非情の公開処刑。鴨川の流れも戦場と見間違うほどに血の色で染まった。2014.1・・ 福島政則を清洲へ転封する。  豊臣系大名:水野忠重に5000石加増。同:三好吉房、改易。  ※ルイス・フロイス63歳(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、再来日し以後同地に滞在。
1596    慶長  大地震  大地震7/12  人多く死ぬ・死者1000人。(定光寺年代記)(龍渓院年代記)。慶長伏見地震。 9/スペイン船サン・フェリペ号、土佐へ漂着。9/秀吉、明の国書の無礼怒り、明使を追う。11/  26聖人の殉教(1597.2.5別の資料)?!。  デカルト生まれる(1596~1650)。
 3/31ルネ・デカルト、生まれる(~1650.2.11)。
 考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
 初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。   
1597 慶長 2 ・・  1/秀吉、挑戦へ再出兵(慶長の役~98)。   ※2/5 ルイス・フロイス(ポルトガル人のイエズス会宣教師)、長崎西坂でキリシタン26人の殉教を目撃する。3/1526名殉教の報告書を執筆。   7/8 ルイス・フロイス65歳 長崎で死去。
 石灯籠  松平縫殿頭源朝臣(大給松平氏) ・・・ 上宮  注:この年代の大給松平氏は家乗。
(管理人)
1598 慶長 3 霧島山噴火。
桃山文化
 8/18秀吉、没(62才)。朝鮮侵略は終わりを告げた。6歳の豊臣秀頼が後継者となる。ここで、秀頼の家臣たちは武闘派(福島政則・加藤清正)と官僚派(石田三成)に分裂する。 家康等、朝鮮撤兵を命じる。(9年後、朝鮮通信使により和平の努力)  霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。 家康・柳生招聘。 能楽、式楽に。 黄金・侘び。
1599 慶長 4 ・・  1/22、熱田の宮中延焼。本社残る(龍渓院年代記)。前田利家、大阪で没。3/福島政則は加藤清正とともに石田三成を襲撃。家康は、政則を咎めず、被害者であったはずの石田三成を蟄居させた。 熊本城築城。  
朝鮮へ使者 対馬から朝鮮に、和を結びたいとの使者を送る。


参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    17 「松平郷」  豊田市
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 19 「松平郷館」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868~) 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1~9 NHK
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 27 古代世界への旅  Newton別冊   
13 「日本史事典」  岩波書店 28 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 河出書房 ユヴァル・ノア・ハラリ著   
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会  29 道を極める  ー日本人の心の歴史  魚住孝至著 放送大学教育振興会   
15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3

     
     
                      
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