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本 田 哲 康

      
                    
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西暦 天 皇 将軍 年 号 天 変 地 異 社 会 の 状 況











1600









後陽成 慶長 5 関ヶ原の戦い

(東西併せて17万の兵士)
 松平太郎左衛門第7代尚栄、関ヶ原の戦いで東軍に従軍。徳川家康、大名の国替えを行い三河八藩となる。 (「松平町誌」)
 
妙昌寺7世法屋順和和尚は、地蔵院を再建して自ら開山となり、本尊を親氏の御誦念仏として、地蔵院前立の腹中にこもらせた。(妙昌寺・「六所神社由緒記」)
 6/尾張以東の豊臣大名、徳川家康の会津責めに従軍する。福島政則もこれに従う。7/石田三成は、「家康は、豊臣家に取って代わり天下を我がものにしようとしている。」と、挙兵した。家康は、「石田三成に付くのか?それとも家康に従うのか?」と、家臣たちに問いただした。豊臣家に恩のある武将たちは迷った末に、福島政則の決意に従って家康側に着くことを宣言した。この方が、豊臣家・秀頼を守るためには正しい方策だと考えた。政則が、天下取りの趨勢を決めた。秀頼の家臣・福島政則・加藤清正らは、秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続けていた家康に深く共感していた。9/5家康の息子・徳川秀忠初陣の後見役を任された榊原康政軍は中山道を進み信州の真田軍を攻めてから西に向かい、家康軍と合流してから西軍との決戦に望む事になっていた。真田攻めを開始。真田勢の思いもかけぬ抵抗に手を焼く。
そんな中、9/9家康から早馬の通達「今すぐに西に向けて進軍せよ!」 真田攻めを中止して、西に向けて行軍を開始。通達は予定より5日も遅く秀忠に届き、その上西に向かう途中の大雨で思うように進めなかった。しかも、三万の軍が行軍するには、道が狭すぎた。到着前に関ヶ原の戦いは終結してしまった。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
  9/15関ヶ原の戦い。戦いを間近に迎えて、徳川の主力は、井伊直政の部隊以外は、未だに戦場に到着していなかった。家康は、主力部隊がいない中で、徳川家の存在をいかに示せるかの正念場に立った。井伊は、戦いの火ぶたを自ら切った。自分のやり方を貫いた。実は、この役目は福島政則が負うこととなっていた。井伊は、軍規違反として切腹を命ぜられる行為であった。井伊は、有力武将を討って戦功を上げた。井伊のこの働きによって、徳川家の存在感を大いに高めることができた。家康は、井伊の軍規違反を不問に伏した。 福島政則は、石田三成方の主力を撃破して、家康を勝利に導く。
加藤清正は、家康に味方して、東軍として九州で西軍と戦った。九州では、東軍が劣勢であった。これを承知で戦った。関ヶ原では東軍が勝利した。これを知った九州の西軍の多くの武将たちが、雪崩を打って東軍に鞍替えし、清正は勝利して決着。この勝利は、家康が天下を取るための大きな一歩となった。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 家康は、大阪城に赴き、この戦いの勝利を、臣下の礼をとり秀頼に伝えた。 加藤清正は熊本県に城を構える。熊本県熊本市立田山に社を構え、亡くなった秀吉を神として祀った(「豊国大明神 秀頼八才」と、秀頼に書かせた掛け軸をご神体にした)。  この時、松平太郎左右衛門尚栄(9代)、家康軍に従軍し功を上げる。尾張・三河の豊臣大名、加増を受け西国に転出する。   10/家康、福島政則(豊臣系)を広島城に移す(49万8200石)。家康の四男武蔵忍城主松平忠吉、清洲城主となる。岡崎の田中吉政、筑後柳川に、吉田城(豊橋)の池田輝政、播磨姫路に転封。丹羽氏次、伊保1万石に入封され、伊保藩が誕生する。  豊臣系大名:岡崎城の田中吉政、筑後柳川へ転封32万5000石。 豊臣系大名:水野忠重横死。息子勝成に刈谷三万石を安堵。同:石川光吉1万2000石改易。同:黒田城(葉栗山木曽川町)の一柳直盛、伊勢神戸へ転封5万石。戦いに遅れて間に合わなかった徳川秀忠には「謁見を許さない」と、家康。榊原康政は関ヶ原の合戦の8日後家康に拝謁し、事情を説明して家康の理不尽さを理解させた(諫言)。徳川家の分裂を避けることができた。家康は、「諫言は、一番槍よりも難しい。」と、後々述べている。
 鈴木正三(21才)は、徳川秀忠軍に従って信州(長野県)で初陣。
1601 慶長 6 諸国飢餓  高月院、家康により寺領100石が与えられ、諸役免除となり明治維新までときの将軍からあつい保護を受けた。鳥山精俊、三河大官となる。滝脇松平4代乗次(乗高の長男)、関ヶ原合戦後に改めて祖父の旧領滝脇村と額田郡内に併せて600石を賜り滝脇に陣屋(滝脇町西洞)を構える。  1/家康、東海道に天馬制を布く。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。
江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
3/福島政則、広島城(9万石)に入る。政則は、商業地を拡大して、領内の港を活性化して、幼い秀頼を支え大阪城の豊臣家の経済をもり立てようとした。家康は、秀吉を弔うという名目で盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせた。その範囲は日本全国に渡り、近畿地方だけでも50を超える。加藤清正は、この状況を憂い秀頼に資金援助を家康に申し出るが、家康はそれをはねつけた。
  10/15松平忠吉、清城主となる。尾張一国を支配。 この年、木曽川御囲堤完成。  本多康重、岡崎5万石、本多泰俊、西尾2万石、松平家清、吉田3万石、戸田尊次、田原1万石、水野分長、知多小河1万石、松平忠利、深溝1万石をそれぞれに領した。木曽川堤が完成。家康、関ヶ原の戦い、石田三成を破る。
1602      慶長   7  壬     正月、家康は、上洛に際して菩提所高月院の祖廟参詣の節に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に高20石を大明神初穂料として下賜した。(「六所神社由緒記」) 家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。(「松平町誌」) 家康、猿投神社に神郷776石の社領安堵状をあたう(「豊田市史 二」)
  松平(奥平)忠明、上野長根より入封、作手1万7千石を領す。美濃路開かれる。 4/大雨、美濃洪水。人馬多く死ぬ。7/大雨、尾張。  本願寺東西に分かれる(東本願寺創建)。徳川家康、筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)に徳川家の祈願書として500石の寺領。  東海道に松並木を植える。この年、三河各村に幕府検地実施
 浄土真宗・教団内部での対立が進行する中、徳川家康により京都に新たな寺院が寄進されたことを受けて、教如と彼を支持する勢力はこの年に独立して、「東本願寺」を設立した。こうして、本願寺派准如の西本願寺と教如の東本願寺は分裂することになった。
1603 徳川家康 慶長 8 矢作川に大洪水被害甚大

徳川家康(62才)、征夷大将軍となる:
江戸に
 徳川幕府開府

 徳川四天王
酒井忠次
(ただつぐ)
本多忠勝
井伊直政
榊原康政
 矢作川に大洪水被害甚大(岡崎市史)。衣郷を、東町、大手町、本町、西町、神明町、中町、竹尾町に分割する。   2/徳川家康(62才)、征夷大将軍となる。江戸幕府成立。豊臣家の家臣の一人であった家康。微妙な政治状況が伺われる。
 家康は、臣下の礼をとることをしなくなる。 多くの大名たちは、次第に大阪城の秀頼に伺候(しこう)することを控えるようになってきた。加藤清正は、秀頼への忠誠心をますます大きくしていった。
 家康は、これを見とがめて使者を送る。「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのは如何なものか。(「駿河土産」より」)と。
 清正は、「武士の本意にあらず・・云々」と応える。加藤清正は、万が一の時には秀頼を助けて熊本城まで退き、この城をよりどころに戦うつもりであった。(「有方録」より)
 清正の城には、秀頼を匿うための部屋と伝えられる「昭君
(しょうくん))の間」があり、ここに入るには様々なからくりを施した。特殊な秘密通路を経て行かなければ成らないようになっていた。地下にある「闇御門(くらがりごもん)」 が入り口、地下道を通って「昭君(しょうくん))の間」に至るのであった。「昭君(しょうくん))の間」の隣には、抜け穴が設けられていた。   この時には、家康は秀頼の所領を、200万石から65万石にまで減らして無断で大名に与えた。 豊臣秀頼(16歳)、病気で倒れる。福島政則や加藤清正らが、見舞いに訪れた。彼にとって「主君」は、家康ではなく、あくまでも豊臣秀頼であった。家康は、これを快く思わなかった。家康は、彼らの活力を削ぐために、それぞれに名古屋城の普請を命じた。不満ながらも、福島政則・加藤清正らは徳川政権の元で豊臣家を存続させる方法を模索した。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
  至道無難禅師(法孫に白隠禅師),この年、美濃・関原沢に、三輪刑部太郎親明(後の至道無難禅師)に生まれる。彼の家業は、宿場の本陣問屋。
1604 慶長 9 慶長地震M7.9

慶長検地
 松平地域一円総検地:三河・遠江・駿河など一斉。(「松平町誌」「豊田市史 二」) 三宅康貞、衣城主となる(衣藩)。 
  2/ 御油の並木に代表される松並木が東海道筋に植えられる。この年三河各地で検地が行われる。三宅康貞、武蔵瓶尻(埼玉県熊谷市)より入封、挙母1万石を領す。現在の元城町付近に陣屋を構え、これより衣藩が始まった。  12/16慶長地震M7.9。犬吠埼から九州まで太平洋沿岸を津波が襲い、各地で死・流失多数。  朱印船始まる(〜1633以降奉書船(〜1635):日本人、東南アジアへの海外渡航。 松前藩、アイヌとの公益独占権を幕府から保証される。 中国から輸入される生糸から利益を得る糸割符制度成る。 家康、朝鮮との国交断絶を解こうと、対馬藩主に指示する。「両国の通信永く絶たり、我よりあながちに請うべきにはあらず・・ 云々」(私の方から願い出るわけにはいかないので朝鮮からこさせてくれ):朝鮮は、「家康が国士を派遣して詫びるなら、交渉に応じる」・・と返事する(「朝鮮王朝実録」)。翌年、家康は、「前代の非を改め・・ 云々」と、朝鮮の求めに応じたものであった(NHK「さかのぼり日本史」より)。・・・しかし、この国書は対馬藩藩が偽造したものであった。
朝鮮側もそのことに気づいていた。しかし、朝鮮は日本に連行させられた捕虜を帰還させるために、朝鮮はその真偽には触れずに使節を送った。
1605 徳川秀忠 慶長 10 矢作川に大洪水被害甚大  7/20矢作川に大洪水被害甚大(矢作川)。7/22 矢作新川を開く工事が始まる。従来の川は「矢作古川」と称される。 家康、将軍職を息子・秀忠(1579〜1632)に譲る。豊臣家ではなく徳川家が政権を継ぐことを示す。
1606 慶長 11  6/知多小河藩主水野分長、新城13,000石を領し、新城藩成立。小河藩廃す。
1607 慶長 12 矢作川大洪水

第1回朝鮮通信使
(全12回)
 3/松平忠吉、江戸にて病死。4/26家康第9子徳川義直、甲府より清洲へ転封され「御三家」尾張徳川家が成立。 8/14〜15矢作川大洪水。堤防決壊、橋が落ちた。  家康、駿府に隠居(大御所)。 5/朝鮮使節来日、江戸に来着。以降外交始まる。(全12回の朝鮮通信使)文禄の役から15年後であった。
:朝鮮側の使命は被虜人たちを朝鮮に連れ戻すこと及び朝鮮出兵の折りに国王の陵墓を盗掘されたので、それを取りもどすことであった。=回答兼刷還使(4回目から朝鮮通信使に改名)
 使節は、漢城
(ハンソン)→釜山(プサン)→対馬を経てそれから瀬戸内海に入り京都・淀まで船で、そこから陸路をたどって、およそ10ヶ月で江戸に到着した。
 使節は江戸で、二代将軍・徳川秀忠と面会する。幕府は、求めに応じて被虜人の送還に応じるよう、各大名に命じた。
 しかし、被虜人の奪還は思うようにいかなかった。各地の大名が隠してしまったり、家族を持っていたり、好待遇で帰るに帰れない者もいた。
1608 慶長 13  7/20伊奈忠次、尾張の検地始める。8/25将軍秀忠、尾張一国領地の判物を義直に与える。木曽川御囲い堤の築堤、河川改修工事進められる。  姫路城天守閣造営。
1609 慶長 14 8/16大雨・洪水  1/徳川義直、尾張にはいる。家康、名古屋築城地を検分。伊奈忠次、葉栗郡大野に木曽川導水の杁を完工させる。 8/16大雨・洪水。矢作川洪水で、衣村内で決壊。 オランダ、平戸にて貿易開始。 伊達政宗、松島瑞巌寺(828年、松島寺=円福寺として創建)造営。
 この年、琉球(現沖縄)、薩摩藩の支配下に置く。琉球は、中国との貿易を継続。日本と海外との窓口となった。 対馬藩・宗氏、琉球を通じて朝鮮と己酉
(きゅう)条約を結ぶ。





と  
 秀吉の朝鮮出兵以後閉ざされていた国交が復活。朝鮮からは、主に将軍の代代わりに際して国書を携えて外交使節団「通信使」が派遣された。通信使はおよそ500人。画家や書家なども加わっていた。
 行程:漢城(ソウル)→釜山→対馬→壱岐→藍島(相ノ島)→赤間関(下関)→鎌刈(下蒲刈)→鞆浦(広島福山市:とものうら)→牛窓→室津→兵庫→大坂(大阪)→京都→名護屋(名古屋)→吉原(富士→)箱根→江戸(東京)  江戸時代に12回派遣された。
  途中日本の各地で土地の人々と交流し大陸の文化を伝えている。
 ○岡山県:唐子踊り 
  江戸に着いた通信士は、江戸城で将軍と会い友好の証として国書を交換した。
 江戸時代の日本にとって、国書を交換する関係にあった外国は、唯一、朝鮮だけであった。当時、祭でも,通信士に扮した行列が人気を集めた。
 ※ 「倭館」のこと ※
 日本からの輸出::銀、硫黄、東南アジア産の蘇木
(そぼく)など
 朝鮮からの輸入:米、朝鮮人参、生糸など
  釜山には、通信士が留まるために、津島藩の「倭館」が利用された。海外への渡航が禁止された時代の唯一の例外であった。「倭館」10万坪の敷地は、長崎の出島4000坪の25倍であった。津島藩の役人およそ400から500人に、朝鮮語を学ばせていた。
 西館に通信士が宿泊し、東館に津島藩の役人が居住した。
 ガリレオ(45才)、自作の望遠鏡で天体観測(月)を始める。木星の周りを回る4個の衛星を発見。
1610 慶長 15 三河・遠江洪水  三河国加茂郡寺部に、渡辺守綱、陣屋を設ける。(「松平町誌」) 鳥山牛之助、三河大官となる。  1/24・5/26三河・遠江洪水(矢作川) 1/9名古屋城普請始まる(9月完成)。両国、北国の20大名が命を受ける。堀川の開削工事始まる。清洲から藩士・寺社・町人等、町ごと名古屋への移住始まる(清洲越え)。作手藩主松平忠明、伊勢亀山へ移る。作手藩廃す。   6/幕府、ロドリゴの帰途に、京都の商人田中勝介をメキシコへ派遣。スペインと通商。
 ガリレオには、金星が満ちているときには小さく欠けている時には大きく見えた。これによってコペルニクスの地動説が本当ではないか?!と脳裏をかすめた。
1611 後水尾 慶長 16 三陸沿岸・北海道東岸地震M8.1  この年以前に、尾張藩、国奉行を置く。3/家康は10万の兵を率いて京に上り秀頼に二条城に移城するように求める。秀頼の母親・淀は、秀頼の身を案じ反対する。福島政則・加藤清正は、「家康の勧めに応じるべきだ」と、説き伏せた。3/28豊臣秀頼、加藤清正を従えて、二条城で家康と会見。
清正は、短刀を秘めて従った。その時には加藤清正は、直ちに福島政則に伝えて、家康と刺し違える覚悟であった。「もはや、秀頼は家康に従わざるを得ない。一大名としてしか存在し得なかったのだ。」と、加藤清正は覚悟をしたのだった。
 会見の場所に着いて、秀頼を初めて下座に座らせ、家康の登場を待った。後から入ってきた家康は、「共に上座に座ろう。」と、秀頼に促す。・・・、が、加藤清正は、「この申し出を受けてしまうと、秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ家康に隙を見せてしまう。」と考えた。秀頼は、この申し出を断り、下座のままで家康に拝礼した。福島政則は、1万の兵を従えて、清正からの連絡を待って大阪城で待機していた。安堵した加藤清正は、秀頼を大阪に送り届けると、肥後への帰国の途についた。
       ・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 加藤清正、帰国の途上の船の中で病に倒れる。6/24死去。加藤清正の死は、豊臣家にとって大きな不安を増すこととなる。   11/明商人に長崎貿易を許す。12/2・午前10時〜11時頃、三陸沿岸・北海道東岸地震M8.1。午後1時〜3時頃、津波により、伊達領内と南部・津軽で死者多数。北海道東部でも溺死多数。地震から津波までの時間が2時間以上かかっているので、北海道・千島列島付近を震源とする、連動地震だと思われる。 南禅寺(瑞龍山太平興国南禅寺・京都「五山之上」に列せられる)の大方丈は、天正年間に豊臣秀吉が建造寄進した御所の清涼殿をこの年にここに移建。襖絵は狩野探幽の傑作と言われる「水呑の虎」は名高い。
1612 慶長 17  この頃、岡崎・名古屋間に平針街開設。平針、伝馬宿となり、人足25人、馬25匹を常備。  深溝藩主松平忠利、吉田3万石へ転封。  3/幕府、キリシタン禁止=幕領に禁教令。翌年には全国に・・。
1613 慶長 18  六甲山山頂の六甲(むこ)神社建立。麓には有馬温泉。弥生時代末期の祭祀遺跡がある。銅矛も出土。 
  9/伊達氏家臣支倉常長、ローマへ出発。イギリス、平戸に商館開設(〜1623)。支倉常長イスパニア・ローマへ。
 修験道法度を発布。
1614 慶長 19 大阪冬の陣

この頃、大阪は人口30万以上の都市
 衣藩主三宅康貞、陣屋を設ける。衣(桜)城できる。衣(金谷)城主、原勝清、常陸国塙城に転封になり、衣(金谷)城は廃城。(「松平町誌」)
 
三宅康貞、陣屋の内外に桜を植え、衣城は桜城と呼ばれる。 秀頼が再興した京都方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を家康が嫌い幕府から詰問。 10/大阪冬の陣(方広寺鐘銘事件)。家康、大阪へ出陣。兵19.4万。迎える豊臣方は3万。(そこで、農民や浪人達を集め戦力の増強を図る。近畿一帯にも及んだ結果、兵力9.6万となる。同じ村の中でも、農民は豊臣側に従う者と徳川側に寝返る者と二つに分裂・反目をした。その後、民衆の中にしこりが残った。) 12/16徳川方の砲弾が淀君の居間付近を直撃。やがて、戦争終結の話し合いが行われることになる。 12/20 大阪冬の陣が終結。 直ちに、徳川軍は大阪城の堀(約8Km)の埋め立てに着手。 12/徳川軍勢は、二の丸・三の丸の堀も埋め始めた。豊臣方は、約束が違うと、この埋められた堀の復旧工事を開始。家康は、これを反逆行為と断じる。
 用心深い家康は熊本城に家臣を派遣し監視に当たらせていた。加藤清正が、秀頼を守る最後の砦として準備していた熊本城であった。福島政則は、江戸に待機を命じられた。政則は、「自分が幕府の使者として秀頼を説得するので、戦は避けてほしい」と懇願する。幕府はこれを断る。政則は、大阪城の秀頼に書状を送った。「現実を見すえて御心(みこころ)を改め、すみやかに家康に従ってほしい。云々」(「台徳院殿御実紀」より)福島政則は、徳川家と豊臣家との間の板挟みとなって悲痛な心地だった。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
1615 元和 1 大阪夏の陣

豊臣氏滅亡
 4/家康は、再び大阪城への攻撃命令を発し、駿府から京の都に移動した。
豊臣方は、紀伊一揆を起こさせて、徳川軍の背後から脅かしつつ大阪城を守ろうとした。一揆を起こした農民達400人は、やがて処刑された。5/5家康、京をたち大阪へ向かう。5/7、15万の徳川軍が南に、迎える豊臣軍は5まん五千。大阪の市民たちは、そのまま戦火に飲み込まれた。5/7正午頃、決戦の火蓋が切られた。真田幸村は捨て身で徳川軍に抗した。5/7午後四時頃、大阪城落城。
 5/8大阪夏の陣で豊臣秀頼自害する。豊臣家は滅亡する。
 多くの民衆は逃げまどい、殺害され、奴隷狩りの対象(数千人)となった。
 このとき、福島政則、家臣へ心の内を書状にて書き送る。「我等事 はや死に申たる同然・・云々」以後、政則は徳川家の一家臣として忠誠を誓って仕えることに決意し専念し通した。
  鈴木正三、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣の武功により旗本に叙せられ加茂郡内で200石を賜る。出家するまで、駿河、大阪、江戸で過ごす。
  8/10徳川義直、木曽山及び美濃の地3万石を加封される。 4/大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。諸大名に対しては、一国一城令と武家諸法度、朝廷と公家には禁中並中公家諸法度、
 禁中並中公家諸法度
 (第一条
 一 天子諸芸能ノ事、
  第一御学問也。
(天子が修めるべきものの第一は学問である。) 
  ・・と、幕府は天皇を政治から遠ざけようとした。
 神社寺院には、諸宗諸本山法度を制定。
 ガリレオ、異端審問所に書類送検される。地動説を唱えないことを条件に死罪を免れる。
 彼の新しい宇宙観によって、これまで宇宙の中心にあると信じられてきた地球がその特権的地位を失うと伴に,人間は自分が全くなんの足がかりもなく、この宇宙の片隅に投げ出されている,頼りない、偶発的な存在であることを見いだしたくはなかったようであった。「この果てしない空間の永遠の沈黙が、私には恐ろしい。」パスカル: パンセ392
1616 元和 2 ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限。  4/17家康没(75才)。二代将軍は、息子の徳川秀忠。彼は大物大名の粛正をし統制をはかることで、幕府の維持を保とうとし、福島正乗るの改易を考えた。 7/徳川義直、、駿府より初めて名古屋に入国。武士も移住する(駿府越え)。成瀬之成、足助1.5万石を領す。水野忠清、上野小幡1万石より刈谷に移り2万石を領す。10/人身売買・タバコ栽培の禁。  家康、太政大臣就任。修験者:木喰、金峯山の山上蔵王堂を再興。ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限。 
1617 元和 3   松平太郎左衛門家6代由重は六所神社・本殿を造営し、宮口村高のうち玄米4石7斗8升3合を六所神社祭礼料・灯明料として毎年免状面にて永引することにした。 「松平町誌」によれば上記の通りである。
 しかし、没年が1603年とある。松平尚栄が、無録となった父親の名でこの年に造営したか?!
(関ヶ原の戦いに弟・信晴と共に参戦して戦功を上げ1613年に家康から恩賞として松平郷において旧領220石 ・・管理人補う)
 福島政則の居城・広島が何度も大雨に見舞われ大きな被害を受け、その時城の石垣が崩れる。直ちに、政則は壊れた石垣を修復。秀忠の意を受けた幕府の使者が、武家諸法度に違反した旨を伝える。この中に「城を修復する場合、届け出る義務が定められていた。これを盾に、秀忠は政則を「法」で裁こうとした。幕府は、今回修復した石垣をすべて壊すように命じた。
「新しく普請の分、石垣・矢倉残らず破棄・・・云々」(「細川家史料」より)。政則は、これを受けて、広島城本丸の石垣・およそ300mを壊した。これは、今回普請した場所ではなかった。幕府の指示とは異なる場所を壊した。指示された場所とは異なった場所を壊して、広島城を完全に武装解除することで、幕府に恭順の意を示そうとした。政則は、徳川幕府への忠誠を自分の生きた戦国時代のしきたりで示そうとした。しかし、指示とは異なる方法で対応した対応は、秀忠にとって好都合なものであった。秀忠は、法に従わない福島政則を改易にすることを命じた。城と領地を奪うものであった。・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
  西尾藩主本多康俊、近江膳所3万石へ転封。松平成重、下野板橋より西尾に移り2万石を領す。 この年、成瀬正成犬山城主となる。 日光東照宮建立(家康、東照大権現の神号受ける。)。狩野探幽、幕府の絵師となる。3/吉原遊郭開設許可。    英人コックス・朝鮮使来朝。
1618  元和 4  松平家信、形原1万石を領し、形原藩成立。
30年戦争1618-
1648 
 16,17世紀のヨーロッパ各地でカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の宗教戦争が勃発。30年戦争は神聖ローマ帝国やスペインなどの旧教国対イギリス、オランダ、北欧諸国などの新教国の戦いへ。最大最後の宗教戦争となる。1648年にウェストファリア条約締結。戦勝国の現状固定を図るだけでなく,各国の勢力均衡に応じた今後の変化を想定した条件から世界最初の国際平和条約とされる。     
1619 この1620ねんまでは太陽の活動周期が11年 元和 5 地震
 三宅康信、亀山へ転封。留守居役に増田金輝を置く。  5/16美濃国の内5万石が尾張藩に編入される。6/14幕府は、福島政則の城を包囲した。更に政則の領の国境を封鎖した。このような状況下で、福島政則の家臣たちは、臨戦態勢を整えた。徳川幕府に一矢報いてから、討ち死にの覚悟を決めて、政則からの司令を待っていた。一方、江戸では完全に封じ込められていた政則の元に、秀忠からの最後通牒が届いた。「新しく設造した部分を壊さず、ただ日を過ごしている事は不不届き 広島を召し上げることとする。」(「玉滴隠見」より)。 6/14政則、幼い我が子の末の保証を依頼して、安芸(あき)備後広島49万石召し上げを受諾し改易。政則は、法が支配する時代の到来に対応しきれなかったことを部下に詫びた。戦国武将としての意地を示すことはしなかった。武力が制する時代から「法」が支配する時代になった事を、痛切に感じた。改易後の福島政則は、長野県高山村に居を移す。
   9/16名古屋城内に東照宮が完成。   仮名草子盛ん。
1620 この年1620年から太陽の活動周期が11年から13年に変わって・・・、
その後、マウンダー極少期となった。


その他も後も、太陽活動が鈍化する前には、同様の現象が見られた。


1300年後半


1650年頃


1800年頃

・・と、前兆があった。

2011年報告
元和 6  鈴木正三、42歳で厭世を理由に出家。守綱寺:寺部町2丁目、旧寺部領主渡辺氏の菩提所として、初代半蔵守綱が没したので、二代重綱が墳墓を設け現在の地に創建。   桂離宮創建(〜1624)。   メイフラワー号、米大陸へ漂着。
1621 元和 7  7/愛知郡中野村に騒動起こる。西尾藩主松平家信、摂津高槻2万石に転封。形原藩廃す。 3,000人の日本人、マニラ郊外のディラオに日本町復興。 幕府(第二代徳川秀忠)、貿易統制。
1622 元和 8  堀尾金助の母、熱田精進川にかかる裁断橋を架け替える。心情を擬宝珠に刻む。6/大久保忠教、「三河物語」を書き終える。  8/元和の大殉教。
盤珪
(ばんけい)永琢、播州浜田に生まれる。12歳の時に、「大学」の中の明徳と云う言葉に惹かれて、禅の世界に入る。彼は唯一「不生」を説いた。臨済宗系(〜1693)。『さて、皆の衆にいひまするは、親の生み付けてたもったは、仏心一つでござる。 余の物は、一つも産み付けはさしゃりませぬ。 その親の生み付けたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切の事が調(ととの)ひまする。その不生で調(ととの)ひまする証拠は、皆の衆がこちらを向いて、身共が云う事を聞いてござるうちに、後ろにて烏(からす)の声、雀の声、それぞれの声が、聞こうとも思ふ念を生ぜずに居るに、烏の声、雀の声が通じ別れて、聞き違はず聞かるるは、不生で聞くといふものでござる。』盤珪禅師語録より
1623 徳川家光 元和 9 徳川家光、第三代将軍に就任  鈴木正三、帰郷して千鳥山中で荒行に励んだり、矢並町の医王寺の修復や、恩真寺、阿弥陀堂(山中町浄心寺)の建立や二井寺(旭町押井)の再建。イギリス船、日本から撤退。  この頃、桂離宮、創建。 イスパニア船の来航禁止。
 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)生まれる(1623.6.19〜1662。8.19)。フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。
1624 寛永 1 矢作川洪水  豊田市岩倉町吉ヶ入の長慶寺創建。 (「松平町誌」)
 
6/28矢作川洪水。 7/13福島政則、長野県高山村にて家族に見守られて死去(享年64)。家臣によって荼毘に付されたが、幕府は禁止を待たずして火葬したことを咎めて、福島政則の領地を没収した。大名としての福島家は、政則の死とともに消滅した。霊廟は、長野県小布施町・岩松院。広島市の繁華街にある胡子(えびす)神社は、政則が広島の繁栄を願って建立した神社である。
  板倉重昌、深溝藩1.18万石を領す。  日光東照宮陽明門建立。3/スペイン船の来航禁止。12/朝鮮使、家光に謁見。
1625 寛永 2
江戸幕府の
支配基盤 




地 
全国の
1/6
18世紀初
めでおよそ
400万石 




盤 
貨幣の
鋳造権
長崎貿易
の統制権 
 直




旗本

御家人 
 6/26〜28洪水、加茂郡寺部21ケ村の堤防・田畑被害。(愛知県災害誌)  12/尾張領内の農民の他国居住を禁止する。    5/関所駅伝の制改定。江戸に徳川将軍家の菩提寺・寛永寺創建。開山は、徳川将軍家から信任の厚かった高僧・天海。 地震。
  幕府は、開かれたばかりの江戸の町を京都に劣らぬものにするための工夫をした。寛永寺の建立もその一つ。江戸城の鬼門の方角・北東の上野に建立した。これは、京都の朝廷が、北東に延暦寺を建立したのを模している。
 また、天海は、京都の清水寺や琵琶湖の宝厳寺
(ほうごんじ)・竹生島の弁財天に似たものを、寛永寺に造った。
 このように天海は、京にならった名所を、次々と江戸に誕生させた。江戸の庶民を、寛永寺に集めて楽しませるために、天海は従来王朝貴族だけが楽しんだ”花見”を行いたかった。
 奈良・吉野山の桜を求めた。「お会いした時にお願いした桜を・・」と。
 「面約の桜・・・ くださるべく候  天海 」 
 天海が、奈良・吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)に送った書簡
 江戸の庶民にとっては上野の桜は格別なものと成った。桜を集中的に植栽して、桜の森を造るという発想は、上野が最初であろう。また、桜を観賞して楽しむという文化は、日本人固有のものである。 
 「幕の多き時は三百余り ・・鳴り物は御法度にて鳴らさず・云々」
(「紫の一本」より)  ・・と、桜の花見は、瞬く間に庶民の間に広まった。人々は、羽織を桜の木に巻き付けて幕とし、筵(むしろ)を敷いて花見を楽しんだ。この頃の花見は、物静かなものであった。しかし、後の、享保年間(1716-1735・吉宗の頃)になると、 飛鳥山図には、
  「桜花爛漫として 尋常
(よのつね)の観にあらず 云々」
              
(「江戸名所図会」北区飛鳥山博物館蔵より)
 飛鳥山での賑やかな花見の様子が描かれた資料もある。
 ここでは、酒を飲み三味線を持ち大騒ぎしている。
              2010年4月 NHK「サクラと日本人」より
 ガリレオ(61才)「天文対話」ラテン語ではなく、イタリア語でを著し、この中で天動説支持者と反対者の対話を著した。
 1626   寛永   丙    
1627 寛永 4  一時空白になっていた大給松平氏の三河加茂郡、額田郡支配は真次によって復活し、この後明治維新まで継続(300石を領す) (「松平町誌」) 一時期幕府領となった大給、この年大給松平乗次は三河国、丹波国逢わせて千石を知行。
  その後、大阪定番となった乗次は摂津、河内国(大阪府)7郡、合わせて1万石を加増されて1万6千石大名となった。 最初は関西や関東に飛び地が多くあったが、「戴くならば祖父たちが居た大給の地にしてほしい」と、幕府に願い出て、領地替えをしてもらった。結果、本領を三河国大給となり、居所は再び大給城となる。祖先の地大給で、大給藩を立藩。大給藩の領主は、初代の乗次・二代乗成・三代乗真まで続いた。
 しかし山城で、交通の便が悪い大給城は戦の亡くなった時代には不便きわまりない城となった。そこで、碧海郡の奥殿(奥殿陣屋)へ移した。
 大給城は完全に廃城となり、藩の名称も大給藩から奥殿藩に変わった。 居所の移転と同時期に本領三河国以外のすべての所領(摂津・河内・丹波・常陸国の1万2千石)を、信濃国佐久郡(長野県)に移した。 

  紫衣しえ事件(1629沢庵ら流罪)。
1628 寛永 5  鈴木正三(1579,椎城城主鈴木忠兵衛重次の次男)、この年に則定に心月院を創建。 葉栗郡大野杁を宮田に移し、宮田用水とする。
1629 明正 寛永 6  長崎で踏み絵始まる。
1630 寛永 7  キリスト教関係書物の輸入禁止。
1631 寛永 8  4/19 尾張藩士阿部正室所製の万国全図・地球儀を将軍家光に献上する。この年、尾張藩でキリシタン詮議し,57人処刑さる。内、4人が火あぶり刑に処せられる。  海外渡航には朱印状と老中奉書の交付を条件とする奉書船制度開始。
1632 寛永 9  鈴木正三、この年に山中町に恩真寺創建。 刈谷藩主水野忠清、吉田4万石に転封。吉田藩主松平忠房が刈谷に移り3万石を領す。 8/15尾張藩、軍役を改訂する。  9/諸士法度制度。 12/大目付設置。この年、「入鹿六人衆」江崎善右衛門らの出願により、入鹿池築造工事始まる。 円空、岐阜県美濃に生まれる。
スピノザ生まれる(〜1677)。ガリレオ、「天文学対話」における地動説発表(この時パスカル10歳)。
1633 寛永 10  丹羽郡に入鹿池完成。この年以前に、名古屋城に聖堂ができる。奉書船以外の海外渡航禁止。在外5年以上の日本人帰国禁止。 奉書船以外の海外渡航禁止(これまでは御朱印があれば良かった。=幕府は貿易の利益を独占したかった。)
 ガリレオ、異端審問所への出頭を命じられる。6/22、2ヶ月後に有罪判決を受ける。裁判で地動説を放棄して死罪を免れる。デカルト、「宇宙論」の発表をあきらめる。
1634    寛永  11  甲  戌  当時の貿易
当時の窓口 

蝦夷地 

 朝 鮮

 清・オランダ

 琉 球

生糸、絹織物、薬とその原料、香辛料、砂糖など 

金、銀、銅、後になまこ、フカヒレアワビ、昆布など 
 
 日光東照宮大造替(〜36)。将軍家光上京に当たり、佐屋路開く。宿は、岩塚・万場・神守・佐屋。この時に、軍役で動員された人数は、約30万人。(この人数は、あの有名な関ヶ原の合戦時の両軍の数を遙かに上回っていた。)
  長崎に出島を構築。 8/譜代大名の妻子を江戸に移す。  
 
  大名は、将軍と主従関係を結ばれたもので、1万石以上の所領地を持ったもので、この当時2百数十家あった。 
注:
 大名は将軍が変わるたびに、「領地判物
(りょうちはんもつ)によって領地を通達された。また、大名は事情に応じて「改易」「減封」「転封:領地の配置換え」もあった。
 改易は、家康〜家光(1603〜51)に224件、家綱以降(1651〜1867)127件。
 その理由は、○跡継ぎが無く大名が死亡 ○密貿易・仮病で参勤交代を怠るなどの法令違反 ○お家騒動など、領内統治の不行き届き ○「乱行・乱心」など   
1635   寛永   12  参勤交代制始まる
武家諸法度改定

この頃の一両は、
現在の10万円に相当する。 
 5/外国貿易を長崎に限定。海外渡航、在外邦人の帰国禁止。5/参勤交代制始まる(武家諸法度改定)。 
 武家諸法度(寛永令)の主な改定
 参勤交代の制度化  大名の私闘禁止
 贈答、結婚、屋敷建築の簡略化  道路、船便、橋などの整備
 私的な関所、品物流通の妨害を禁止
 五百石以上の船を造ることを禁止
 寺請制度始まる。寺社奉行設置。日本人の海外渡航・帰国の全面禁止(この頃東南アジアには移住した日本人たちが日本街を作っていた。ここからの帰国などが禁止された)。 宮本武蔵「五輪書」。 風俗が流行る。
1636 寛永 13 諸国大飢饉  三宅康盛、三河国加茂郡入封、衣城(陣屋)に居城する。  この頃、三河国郷帳つくられる。石高は35万石余。熱田社で「熱田万句」を行う。西尾藩主本多俊治、亀山へ移る。西尾藩領、幕府直轄となる。三宅康盛、伊勢亀山より挙母に移り1.2万石を領す。  6/銭座おく、寛永通報鋳造。日光東照宮の大造営完成。 ポルトガル人の妻子を追放。
 清が朝鮮に出兵。都・ハンソン・漢城を焼き払う。朝鮮は、日本との友好関係を切実に必要としていた。  第4回朝鮮通信使来日。(第1回は1607年。この時に改名) 三代将軍・徳川家光、幕府の権威を高める絶好の機会と判断し、これを歓迎する。
 (これより以降、将軍の代が代わる度に招き入れた。)
1637    寛永  14  丁  丑  島原・天草の乱  五人組制を厳にする。(「松平町誌」)
 
1/25尾張藩百姓の他国日傭稼ぎを禁ずる。10/24島原と天草の中間の位置の湯島で、代表が集まって談合。話が決まった。総大将に益田四郎時貞。翌日、島原半島の有馬村にて密かに開かれたキリシタンの集会を取り締まろうとした代官を殺害したことが発端となる。島原・天草の乱(一揆)(〜38)。島原城を焼き払った。呼応して天草でも農民達が蹶起。有馬晴信と小西行長の家臣だった牢人達の支援により一揆は長引いた。11/9江戸に知らせが届く。12/1原城に3万7千人集結。籠城戦。12/10幕府軍攻撃開始。宮本武蔵も幕府軍として参加。このときに、女子供を含めて4万人が惨殺された。天草四郎は、豊臣秀頼の子であるという説が伝わって(豊臣家の子孫説は、歴史的に証明できる資料も多々ある)、春日局(父は、明智光秀の甥)の指令であったという。明智光秀は、豊臣家に滅ぼされた過去がある。(本能寺の変1582)・・存在の有無を含めて諸説がある。 キリシタン大名小西行長(1558-1600)は、民の目線で物事を考えていた。住民は暮らしやすかった。 
 デカルト、この年に「方法序説」といくつかの付帯論文を刊行。
1638 寛永 15 2/28島原の乱終結


この年老中制
ほぼ確立
 松平太郎左衛門尉源朝臣重和、8代松平重和は、高月院15世世尊大の堂宇修復と同じくして、六所神社・本殿を造営。
 1/三河深溝
(ふこうず)藩主(1万5千石)板倉重昌、島原の乱の征討大将として原城を攻撃、戦死する。
   ☆ 老中制 ☆ 


         
 大老    これによって、
 合議制で政治が行われた。

 重要な審議事項には、以下の三奉行が加わった。
   町奉行・・都市行政担当
 勘定奉行 ・・幕府の財政管理 
 寺社奉行・・寺社の統括
 老中
    
 大目付  
 町奉行
勘定奉行  郡代 
代官 
 遠国奉行  
 若年寄  目付
 寺社奉行    
 京都所司代
 大阪城代
 下野山川藩主太田資宗、西尾に移り3.5万石を領す。伊保藩主丹羽氏信、美濃岩村2万石に転封。以後、幕領。沢庵(1573〜1645)東海寺の開山となる。
 1/1幕府軍、改めて島原城に総攻撃。この時の一揆側の死傷者7人。幕府軍は、司令官板倉重昌討ち死に、、死者4千人であった。1/4老中松平伊豆守信綱、12万の兵と共に原城を包囲。兵糧攻め。1/12オランダ
(プロテスタント系)船により海上から原城を攻撃させる。2/3有馬直純と一揆勢の副将・山田右衛門作会見。かつての主君直々の書状を手渡された山田は、幕府側への寝返りを決意。四郎を生け捕りにする計画を立てる。山田と幕府との矢文が露見して失敗。2/28島原・天草の乱集結。一揆勢37000人が殲滅。松平信綱の幕府軍12000人戦死。
 ガリレオ(74才)研究の集大成を「新科学対話」として著す。7/島原藩主苛政の罪で斬首(切腹ではない)。
1639 寛永 16  中山道・美濃路の助郷制はじまる。深溝藩主板倉重矩、三河中島に移り1万石を領す。深溝藩廃す。中島藩成立。  ポルトガル船の来航禁止。 オランダ以外と鎖国。ジャガタラお春、(イタリア人の父と日本人の母を持つ)15才の時ジャガタラに追放。
1640 寛永 17 駒ヶ岳噴火  1/27尾張藩、「農民取締条目」を出す。この頃から尾張南部で新田が続々と造成。檀家制度の基盤できる。  各地に寺子屋おこる。
1641 寛永 18 高月院  高月院、山門や本堂、徳川家光により建立。   12/13尾張藩、御国諸法度二十七箇条を定める。    4/オランダ商館を出島へ移す。(鎖国の完成)・・長崎で貿易の行える国は、オランダと中国のみとなった。
1642    寛永 19 寛永の大飢饉(18〜19)  5/27尾張藩、欠落取締令を出す。吉田藩主水野忠清、松本7万石に転封。水野忠善、駿河田中より吉田に移り4.5万石を領す。   2/寛永の大飢饉。2年続きの不作。地域によっては3年続きの不作からおこった全国的な飢饉。死者5万人、10万人とも言われる。それ以前の幕府の過度な収奪によって農民が疲弊させられていたこと、幕府役人によって米価の高騰が画策させられていたこと(蔵奉行・代官・勘定ら多数が処罰されている)も重なって被害が大きかった。江戸や京都には乞食があふれ、小屋を建てて収容したり、同じ乞食に統制させたり、出身地を調べて返す乞食管理方法の原型がこのときに作られた。) 人身売買禁止。農民の衣食住にわたる倹約令。井原西鶴生まれる。
   1/8ガリレオ(77才)死去。 後の、1992年パウロ二世はガリレオ裁判の過ちを認めた。
ニュートン(1642〜1727)万有引力の法則発見・数式化。(地上と宇宙が同じ法則で結べる。微分学・積分学で数式化が進展)    
1643 後光明 寛永 20 全国的飢餓。幕府田畑永代売買禁令を出す。  この年から、六所大明神のある六所山をめぐって、宮口村と日明村との六所山論。1660年(万治3年)に宮口村から訴状を出す。・・・宮口の者が六所山の「神田之ひら」でわらびの根を掘ったところ、日明村が掘らせないという行動に出た。・・・当時の宮口村の領主・大給松平縫殿に訴えて、日明村の領主刈谷松平主殿頭から検使を出させて、宮口側の山であることを確認する。(「豊田市史 二」より) 幕府代官鳥山牛之助、三河段戸山を検地。郡境を決める。  3/田畑永代売買禁止令(貧しい百姓が田畑を売ってしまうと没落してしまうので・・)。 この年、「料理物語」発行され、この中の「獣の分」には、狸・熊・猪・兎などの外に、犬の料理方法:吸い物・貝焼きが挙げられている。(この40年後には、生類哀れみの令)
1644 正保 1  山中町恩真寺の梵鐘鋳造。鈴木正三の銘「願主 正三道人」。 西尾藩主太田資宗、浜松3.5万石に転封。井伊直好、上野安中より西尾に移り3.5万石を領す。松尾芭蕉生まれる。  清、明を滅ぼす。
1645 正保 2 大雨・洪水。衣村内で矢作川決壊。  東宮口(坂上町)の馬祭りこの年より始まるか。 洪水、梅坪村で破堤(挙母記)。  2/11尾張藩領内の石高が過去10年間の平均年貢の10分の4に改める(概高の制「四つならし」)。 岡崎藩主本多利長、遠江横須賀5万石に転封。水野忠善、吉田より岡崎に移り5万石を領す。小笠原忠知(豊後杵築4万)→吉田4.5万石。新城藩主、水野文長→上野安中2万石(新城藩廃す)
1646 正保 3 寺院・民家約20戸流失(六美村史)  佐屋川を開削する。 滝山寺東照宮正遷宮。 8/5碧海郡上青野村西の堤防が2〜30決壊。寺院・民家約20戸流失(六美村史) 数日来の雨で、にわかに水かさが増し、死者14〜15人。(「愛知県災害誌」1970)
  五代将軍徳川綱吉生まれる。文治政治を推し進め、中でも儒教を重視した。(1646〜1709)
1647 正保 4  熱田新田開発完成。吉田藩主小笠原忠知、武蔵岩槻5万石に転封。久世重之、丹波亀山より吉田に移り5万石を領す。   酒井田柿右衛門、赤絵焼きに成功。  各地に寺子屋おこる。
1648 太陽活動周期が11年だったものが13年に伸びた。・・という前兆があった。(2011年報告) 慶安 1  鈴木正三、恩真寺から住まいを江戸に移す。守綱寺に創建者重綱、鐘楼を寄進。市内では最古のもの。文化財。
1649 慶安 2 江戸大地震  岡崎領内で検地実施。刈谷藩主松平忠房、福知山4.5万石へ転封。熱田新田完成。  松平定政、伊勢長島より刈谷に移り2万石を領す。慶安の御触書(おふれがき)を発布(百姓の暮らしを細部に足るまで規制)。
 幕府の法令を怠らず、名主や組頭のことを親のように尊敬すること。
 ○ 酒や茶を買って飲まないこと。 
 ○  粟やひえなどの雑穀等を食べ、米を食べすぎないこと。
 ○ 麻と木綿の他は着てはならないこと 
 ○  早起きし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕し、夜は縄をない、俵を編むなど、それぞれの仕事をきちんと行うこと。
 ○  煙草は身体に悪く金もかかるので吸わないこと。
1650 1650



1700頃


マウンダー極小期



太陽の黒点の数が殆どゼロであった。
太陽の珍しい現象

通常は、太陽の黒点の数によって、太陽活動を知ることが出来る。

(太陽のコロナが全体に広がって、丸く見えるときは、活動的であるが、
両極方向に細長く伸びるときには活動が弱い。)


太陽の活動が不活発で、地球上の気温が平均0.6℃低下した。

当時画かれた絵画で、現在は冬でも凍ることのない、イギリスのテムズ川が全面凍結し、:厚い氷が二重三重に重なった絵画:た事実がわかる。
局所的には、随分と寒冷期であったことが伺われる。





このような、太陽の活動の衰える珍しい現象は、、今後無いとは言えない。

本来ならば、太陽活動が周期的に上昇しなければならない時期である。

過去40年間には10年毎に
太陽の黒点が多いピークが在った。
1970
1980
2000年
と・・
(正確には11年周期で太陽の磁場<S・N>が反転する。
しかし、
このマウンダー極小期には、14年周期が70年間継続した事実が、樹齢千年の屋久島杉に含まれるC
14の分析の結果解った。・・東京大学宇宙船研究所・宮原ひろ子氏)

しかし、
21世の'09年
依然として低調のままである。

もしかしたら、
21世紀がそれの入り口かも知れない。

と、世界の研究者のホットな話題となっている。

By,常田佐久教授
(国立天文台)
慶安 3  愛知県豊田市の六所神社建造物の棟札は在るが文字が損耗して明らかではない。修復又は再興した。( 「郷社六所神社図記」・「松平町誌」)
 木津用水完成。犬山祭り始まる。犬山市針綱神社。13台の山車の上でからくり人形。
1651 徳川家綱 慶安 4 鳳来山東照宮竣工

第4代将軍 家綱
 旗本石川家(大島)加茂郡に転封となる。 (「松平町誌」)
 
7/刈谷藩主松平定政、家光の死に殉じ出家。旗本救済、所領返還を願い出て除封される。稲垣重綱、越後三条より刈谷に移り2.3万石を領す。   この年、鳳来山東照宮竣工。本殿前の手洗用石造物は、同年9月17日 従五位と記されている。  7/由井正雪の乱。12/末期養子の禁緩和。 この頃文治政治へ。 経済成長。 「浮世草子」。
1652 承応 1  2/熱田船番所を設置。この年、尾張藩家老竹腰正信、自分金で知行地の中に新田を開発。尾張で初の俳諧撰集「尾張発句集」刊行。3/佐渡一揆。5/若狭で年貢増徴反対一揆。佐倉騒動。  若衆歌舞伎を禁止。
1653 承応 2 矢作川大洪水  8/3矢作川大洪水。(岡崎市史)  9/尾張藩、百姓婦女子の他所奉公を統制する。 知立祭り、この頃から始まる。東海道の宿場町であった知立神社は、三河国の二宮。隔年に出される山車。文楽とからくり人形。   多摩川から玉川上水を引く。 近松門左衛門生まれる。 無著道忠(〜1745)、但馬の竹野に生まれる。
1654  後西 承応 3 陸奥・中国地方凶作  明僧隠元(1592〜1673)、長崎に渡来。黄檗宗を伝える。
 中国の三大革命建設の帝王の三人目の一人:清の第四代皇帝康熙(こうき1654〜1722)皇帝生まれる。  彼は,満州生まれで,満州から入って中国を征伐して天下を支配した。   
1655 明暦 1 洪水で堤防決壊し、衣城下浸水  8/10洪水で堤防決壊し、衣城下浸水(城沿革小史続編)。 鈴木正三没。享年77歳。
1656 明暦 2 矢作川大洪水  7/矢作川大洪水(岡崎市史)。この年、寺部八幡宮、時の社主寛国は、領主渡辺治綱と計り寺部村岩前山に遷宮。(1133年、平安時代荘園高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村(上野町1丁目)の館内に石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりで、この年、子孫の高橋氏が再勧請造営。)
1657 明暦 3 江戸大火  江戸大火(死者10万人)江戸市街の55%が焼失。江戸城天守閣も延焼する。(明暦の大火<振り袖火事>)。徳川光圀「大日本史」成る。 林羅山(1583-1657朱子学)没。
1658 万治 1  この年より、幕府は、常火消を設置して、江戸市中の防火と消火に当たらせた。
1659 万治 2 田峯田楽始まる  西尾藩主井伊直好、掛川3.5万石に転封。増山正利、相模より西尾に移り2万石を領す。木曽川筋の北方と神明津に川番所設置。田峯田楽始まる。設楽郡設楽町田峯・観音堂。三河三田楽の一つ。田峯城主が近くの大輪村から田楽衆を移住させて始めると伝わる。「昼田楽、夜田楽、朝田楽」と分けることができる。役柄は、現在でも世襲。翌日は、子供三番叟、地狂言が、農村舞台で奉納。     隠元、黄檗山万福寺創建。
1660 万治 3 名古屋城下大火災

矢作川大洪水
 1643年から続く宮口・日明村の六所山論訴状を出す。この年、(万治3年)に宮口村から訴状を出す。・・・宮口の者が六所山の「神田之ひら」でわらびの根を掘ったところ、日明村が掘らせないという行動に出た。・・・当時の宮口村の領主・大給松平縫殿に訴えて、日明村の領主刈谷松平主殿頭から検使を出させて、宮口側の山であることを確認する。しかし、隣接する両村の争いは後を絶たず、なにかと後世に言い伝えられている。(「豊田市史 二」より)
 1/14名古屋城下大火災。死者16名、焼失家屋2,856戸。矢作川大洪水(岡崎市史)。
1661 寛文 1 諸国風水害  この頃より、巴川水運始まる(1661〜1736頃より)。5/尾張藩、切支丹奉行を創設し、海保弥兵衛就任し、幕府切支丹奉行北条安房守より伝授。 キリシタン禁圧を強める。
1662  寛文  壬  寅  諸国大地震(M7.2) 諸国大地震(M7.2)・被害甚大 日向佐渡原地震 近江大地震
   8/フレーズ・パスカル(1623〜1662) 没(晩年の四年間は、痛ましく、「息をしているのがやっと」と、姉の言うように、胃と肝臓が弱っており、腸は壊疽にかかっていた。頭部にも異常が)
1663 霊元 寛文 3 有珠山噴火  尾張の茶屋中島家、日光川・庄内川河口付近に茶屋新田を開発。土井利長古河分与によって西尾に移り2.3万石を領す。吉田宿本陣清洲屋が清洲新田を開発。   5/武家諸法度改定。殉死を禁ずる。
1664 寛文 4 洪 水  古木津用水、丹羽郡小口村で分流し、新木津用水完成。衣藩主三宅安勝、田原1.2万石に転封。挙母藩廃す。衣は幕府領となり、三河代官鳥山牛之助の支配下となる。6/4妙昌寺墓石(笠付角柱)。及び、年代不明墓石(笠付平石)→十字が彫られている。10/洪水、挙母村破堤(郡史)。  尾張藩、隠れ切支丹を200余人斬首。 吉田友次、「阿波手帳」刊行。 家綱、奈良、三輪山に拝殿を建立。  北海道・有珠山噴火。
1665 寛文 5  1/30尾張藩、寺社奉行を置く。キリシタン詮索のため丹羽郡を蔵入地とする。  7/大名の人質制を廃止。
1666 寛文 6 円空・北海道  この年、12月旗本松平太郎左衛門領と高月院領の松平郷の百姓18名は、松平太郎左衛門家が、「山川田地役儀等」を「押領」したとして江戸幕府に訴える訴状を作成。一人が江戸に出訴した。(「豊田市史 二」より)
 江戸町人伏見屋又兵衛、矢作川河口に新田開発を出願。竹腰三信、田原湾岸に石塚新田を開く。   円空、北海道に。円空は、道端に転がる餓死者の山を見たとのこと。
  荻生徂徠生まれる。政治学者(1666-1728)。
1667 寛文 7 六所神社再興  松平 乗次(1632〜1687 のりつぐ):三河大給藩の初代藩主。奥殿藩大給松平家初代:六所神社再興。(「郷社六所神社図記」・「松平町誌」)
 岩倉山長慶寺:十一面観音(吉ケ入)この地に移る(開山は、寛永元年)。 田原藩領の収納に干し鰯納がみられる。
1668 寛文 8  この年、幕府は寛文6年に江戸に出訴した百姓を処罰すると共に、岡崎藩水野監物忠善による松平郷の検地実施を命じる。出訴された旗本松平太郎左衛門とその所領百姓との矛盾を解決するには、石高所持にもとずいた領主と百姓という関係を作り出すために、この検地が不可欠だと思われた。後の資料によると、この検地が、松平太郎左衛門家の「御願」によるものであったとされているのは、公儀=幕府権力に依拠することで、松平太郎左衛門家の領主としての基礎を固めねばならなかったことをも,良く物語っている。検地は「見分」による恣意的なもので、47.5%と、5割近い「出目」が生じた。(この部分「豊田市史二」より)
1669 寛文 9  注:検地帳に記されている67名の百姓うち,出訴に参加したのは16名で、百姓の抵抗が年貢減免要求のような近世村落の構成員全員の利害にかかわるものではなく、百姓持除地を持つ手取り百姓にかかわるものであった。(この部分「豊田市史二」より)
1670  寛文  10  庚  戌 
 この年、パスカル(1623〜1662)の「パンセ」出版される。 この中に箴言を多数含んでいることでも知られている。「人間は考える葦である」という有名な言葉も『パンセ』の中にパスカルが残した言葉。
1671 寛文 11 東海道諸国大洪水  8/東海道諸国大洪水(岡崎市史)。この頃、尾張藩領「寛文村々覚書」がつくられる。この年尾張の人口は375,918人(士は除く)。河村瑞賢、東回り航路を開く。 至道無難禅師「即心記」。
1672 寛文 12  中島藩主板倉重矩、下野鳥山5万石に転封。河村瑞賢、西回り航路を開く。
1673 延宝 1  三河大官鳥山牛助精元、矢作川堤防(曲尺手堤防の造成)工事行う。  市川団十郎、江戸で荒事(歌舞伎)を演じる。分地制限令(分割相続による土地の細分化を禁ずる)。
1674 延宝 2  渥美郡比留輪山論争。幕府評定所にて決着。直訴の野田村名主死刑、6人追放。
1675 延宝 3
1676 延宝 4 東海道諸国大洪水  豊田市岩倉東の白山神社創建。 (「松平町誌」)
 
7/関東中の鉄砲改め(百姓等の所持禁止)7/東海道諸国大洪水。尾張国特に大水害。(日本史年表) この年夏、至道無難禅師74歳。「即心記」に加筆し、これを完成とする。示寂(麻布の東北寺に葬られる・・禅師百年忌の安永4年に渋谷に移転されていた東北寺に改葬されるが、墓は、この時に分骨されて、小石川至道庵の二カ所となる。)。
1677 延宝 5 陸中地震
房総沖地震
 5/碧海郡大浜茶屋村庄屋柴田助太夫、助郷役の免除を願い出て、刑死したといわれる。この頃設楽郡部武設村ほか50数カ所の百姓が越訴(おっそ)する。
1678 延宝 6 江戸大地震・諸国大風雨・被害甚大  6/坂上町地蔵堂の六所神社外宮に石灯籠一対『奉寄進』  坂田藤十郎、大阪で和事(歌舞伎)を演じる。 江戸大地震・諸国大風雨・被害甚大
1679 延宝 7  長沢の法恩寺創建。(「松平町誌」)
 
この年、尾張の鳥ケ地前新田完成。 下野鳥山5万石、幕府領となる。10/越後(高田藩)騒動起こる。
1680 徳川綱吉



























延宝 8 8/6・10/矢作川洪水。  赤坂宿、この年飯盛り女を抱える旅籠が、62軒あったと言われる。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。  5/将軍家綱、の後継者に徳川綱吉を決定。五畿内・関東大飢餓。シャム船、長崎に来航。
1681 天和 1 三本多家領成立

渥美郡中山に凶作不漁で一揆

江戸大火
 本多忠利、三河衣藩主となる(1万石)。本多忠晴が伊保に、本多忠周は足助に・・・。三本多家領成立。 文字の混用を避け、挙母に改定。 (「松平町誌」)
 
4/渥美郡中山に凶作不漁で一揆。本多忠利(陸奥石川郡=福島県石川郡石川町=1万)→挙母1万石。再び衣藩ができる。本多氏は「衣」を「挙母」と表記することに定め、幕府領時代に埋め立てられた三宅氏時代の堀をさらえ、陣屋を建てる。   この年、三河島原村(新城市)の庄屋菅谷太次兵衛、伊藤仁齊に入門。  江戸大火。芭蕉、新風の俳諧始める。 鉄眼(1630〜1682)「一切経」の刊行を完成。   
1682 天和 2 江戸大火(八百屋お七の火事)  挙母・梅坪・寺部の矢作川堤論争に、幕府裁決する。   西鶴の好色一代男なる。  江戸大火(八百屋お七の火事)
 深川の芭蕉庵も急火に囲まれ、「潮にひたり苫を香月て煙のうちに生きのびけん」『芭蕉翁終焉記』本所・深川一帯を焼き尽くした大火に逃げ惑い咄嗟に海に飛び込んで、辛くも生き延びた。咨嗟は3500人を超えたという。
1683 天和 3 岩手山、たびたび爆発。  足助藩主・本多忠周、寺社奉行となる。(「松平町誌」)
六所神社本堂再建。 (「郷社六所神社図記・「松平町誌」による)
 本多忠周、足助藩1万石を領す。赤坂に代官役所設立。  岩手山、たびたび爆発。   徳川綱吉、武家諸法度を代代わりする。
従来の法度・一条  綱吉、武家諸法度 ・一条
一 文武弓馬の道 専ら相嗜(あいたしな)むべき事   一 文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事
1684 貞享 1  松平真次、大給藩主となる(復活大給松平初代)。(「松平町誌」)
 
9/名古屋城下人口54,118人家数5,986軒とされる。松平紀次、奥殿藩1.6万石を領す。11/芭蕉七部集「冬の日」。
 徳川綱吉、この年服忌令
(ぶっきれい) =忌引きを定める。
 近親者が亡くなったときに、その関係に応じて喪に服する日数を細かく定めた。例えば、両親の場合は50日忌引き・十三ヶ月間喪に服すこと。
 等々。
 この法令はたびたび追加修正されて、武士のみならず民衆の間にも適用されるようになり、今にまで続いている。
 注:身内が亡くなったときに「喪中」として年賀状を出さなくなったのは、、この服忌令に基づいたものである。
 渋川春海、貞享暦を撰す。 8/松尾芭蕉「野ざらし紀行」の旅に出る。「貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、風の音、そぞろ寒気也」。
1685 貞享 2 生類憐れみの令  加茂郡九久平旗本鈴木市兵衛領村に条目をだす。(「松平町誌」)
 
吉田船町が船手権につき吉田町商人と争う。  7/初めて生類憐れみの令出す。(1708まで繰り返し布令)。 宮崎友禅、友禅染発明。 松尾芭蕉「おくのほそ道」。  歌舞伎。 琳派・浮世絵。 。
1686 貞享 3  鈴木市兵衛、領内検地。(「松平町誌」)
 
西鶴「好色五人女」。:岩手山2/29〜3/半ばにかけて有史以来の大噴火。大火砕流は山麓から北上川にまで及んだ。 12/25白隠慧鶴(〜1769)、駿河の原に生まれる。白隠によって独自の公案体系による臨済禅として中興確立された。白隠禅は、単に観念や思想にとどまらず、「今、ここにいる」という現実存在としての自己の問題を解決するための実践修行を重んじる。以後日本の臨済宗はすべてこの白隠の法を受け継いでる。
1687  東山 貞享    5/松平 乗次(1632〜1687 のりつぐ)六所神社再建。(「 郷社六所神社図記」・「松平町誌」による)
  寛永9年(1632年)3月20日、7000石の旗本である松平真次の長男として生まれる。真次は男子に恵まれなかったため、乗次が誕生する前に養子として注:松平乗真( のりざね)を迎えていた。そのため正保3年(1646年)に真次が死去すると、その領地と家督をめぐって両者が争った。結局は第3代将軍・徳川家光の裁定により、乗次が家督と4000石、乗真が3000石をそれぞれ相続することとなった。
 寛文2年(1662年)3月7日に小姓組番頭に任じられ、12月7日に従五位下・縫殿頭に叙位・任官する。寛文9年(1669年)7月8日に書院番頭に任じられ、寛文12年(1672年)12月3日に大番頭に任じられ、延宝9年(1681年)9月14日に江戸城留守居役に任じられるなど、幕府の要職を歴任したことから、天和2年(1682年)4月21日に丹波何鹿郡・氷上郡などで2000石を加増された。
 天和3年(1683年)7月に江戸城大奥の普請役を命じられ、貞享元年(1684年)に大坂定番に任じられると同時に摂津・河内・丹波などで1万石の加増を受けて合計1万6000石の大名となり、大給藩主となった。
 しかし領地に入部することもなく、在位3年後の貞享4年(1687年)8月30日に死去。享年56。跡を長男の乗成が継いだ。

 1/生類憐れみ令(注幾つもの法令の:総称)を発布。
  捨て子や捨て病人禁止令も何度も出された。
 一 捨子これ有り候わば、早速届けるに及ばず、其(その)所の者
  いたわり起き、直ちに養い候か、又は望の者これ有り候わば、
  遣
(つかわ)すべく候、急度(きっと)
  付け届くに及ばざる事

     (書き下し文を現代仮名遣いに改変:NHK高校講座)
 意訳: すぐに届けて、自分や自分の街とは関係ないと届けなくとも良い。まず、捨て子が死なないように養育すべき事
又、曰く
 一 日頃町中にて薬売、蛇をつかい候者これ有、牢舎仰せ付け
  られ候、蛇に限らず、たとえ犬猫鼠等に至る迄、生類に芸を仕
  付け、見せ物等に致し候儀無用なるべし・・・・
    (書き下し文を現代仮名遣いに改変:NHK高校講座)
              ******************
 注::中野の犬小屋(多いときには82,000匹収容されていた)
   施設維持費:98,000両/年(1両の価値≒10万円)
   規模・広さ:16万坪   25坪ずつの犬小屋 290棟
   7坪ずつの日除け場:295棟  子犬養育所:459カ所:
 この年と、翌年、本多忠晴の伊保領愁訴。   
  ニュートン万有引力の法則発見。
1688 元禄 1  戸田氏成、旗本から畑村1万石を領す。
1689 元禄 2  7/19芭蕉出羽三山に登る。「ありがたや雲をかをらす南谷」と詠んだ。 唐人屋敷を長崎郊外に設置。 芭蕉、「奥の細道」の旅に出る。
1690 元禄 3 8/10暴風雨、洪水碧海郡領村は矢作川出水のために田畑被害。(愛知県災害史)

  山陰一揆
 山陰一揆。日向延岡藩山陰村の百姓、凶作にもかかわらず過酷な年貢徴収に反対して郡代梶田氏のもとを離れ、高鍋藩へ逃散。1400人には女性や子供も含まれ、馬もつれて村と家を揚げての逃散であった。周辺諸藩を緊張させた。幕府の評定所に裁決が持ち込まれたが、百姓側の敗訴、4名磔、2名獄門。郡代の代官は追放。藩主有馬永純も越後糸魚川に移封。ドイツ人ケンプェル、出島、商館医員として来る。2年間滞在。
 この時に、彼は「日本誌」(英語版)を著し、「日本は閉ざした国」と紹介した。
 後に、これのオランダ語版を1801年に長崎執事が和訳し、「鎖国論」とした。これによって、鎖国が江戸幕府の大原則であったかのように誤解されることとなった。
1691 元禄 4  西広瀬・西枝下村に、鮎の運上金が課せられる。  この年、芭蕉、新城の商人太田白雪宅に宿泊。東三河蕉門の拠点とする。
1692 元禄 5  9/12松平 乗成(1658〜1703 のりしげ)、三河大給藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家2代。松平乗次の長男、六所神社に不動一宇寄進。 棟札・「松平町誌」
 このころから、知立木綿市が始まり、三河木綿の集散地となった。 8〜9/碧海郡内幕領の村々、代官に色物差し出し帳を提出。この頃、「奥の細道」完成。  東大寺大仏殿(現存)、再建。
1693 元禄 6  9/19坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠『吉木六所大明神御寶前 奉寄進石灯籠』    井原西鶴没。
  盤珪没。(1622-)『仏になろうとせうより、皆人々、親の産み付けたは、余の産み付けはせぬ。只不生の仏心一つばかり産み付けた所で、常にその不生の仏心で居れば、寝りゃ仏心で寝、起きりゃ仏心で起きて、平生活仏
(いきぼとけ)でござって、早晩(はやばん)仏で居ぬということはない。常が仏なれば、このほか又、別に仏というてありゃせぬ。仏にならうとせうより。、仏で居るが造作がなうて、近道でござるわいの。』盤珪禅師語録より
1694 元禄 7  若林村池鯉鮒宿大助郷に指定される。 松尾芭蕉没。 
1695 元禄 8  豊田市林添の晴暗寺再建。 (「松平町誌」)
 
三河最初の俳書「矢作堤」出版。 円空(1632-)没。
1696 元禄 9  三谷祭りの起こり。八剣神社から若宮神社へ渡御する夢を時の庄屋が見たという事から始まった祭礼。古くは、重陽の節句9/9に実施された。
1697 元禄 10  4/岡崎の人鶴声編の俳書「柱暦はしらこよみ」が京都で出版される。この年から翌年にかけて、三河に知行地を移された旗本が多い。 賀茂真淵(1697〜1769)生まれる。 幕府、全国にわたり酒造高を調査し、酒運上金を賦課。
1698 元禄 11 江戸大火(勅額ちょくがく火事)  9/天野信景・吉見幸和等、「尾張風土記」の編纂始める。 三河代官鳥山牛之介精永失脚。
1699 元禄 12


参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 17 「松平郷」  豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868〜) 19 「松平郷館」   豊田市
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
13 「日本史事典」  岩波書店 27 「芭蕉 最後の一句 生命の流れに還る 魚住孝至     筑摩書房 
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議 28 「道を極める  ー日本人の心の歴史」 魚住孝至著 放送大学教育振興会 
     
     
                            
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