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愛知県豊田市を中心とした郷土史
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                         編集:本田哲康
                         <無断にての転用をお断りします>
西暦 天 皇 年号 改元 神社仏閣関連 社 会 の 状 況
1700 東山 元禄 13 綱吉  2/7名古屋円頓寺付近で大火。消失家屋2万個越す。徳川光圀没(73)、大八車・借り駕篭の課税  卍山道白(1636〜1715)曹洞宗の復興を図る。 この頃作られた「元禄国絵図」によると北海道は現在の地図とは大きな違いがあった。
1701 元禄 14 松の廊下
京都大洪水

豊田地方洪水
 高月院、朝廷より「常紫衣」の綸旨を賜る。 (「松平町誌」)
 
2/幕府の命により「三河国郷帳」つくられる。三河国高38万3千石。3/14赤穂藩主淺野匠頭、吉良上野介に江戸城中で斬りかかる。その日のうちに切腹申し渡し。赤穂藩は城・領地没収となる。 8/18岡崎大風洪水、堤を決すること500間田を損すること23,000石。家50戸、破壊22戸(矢作川)。 江戸古着屋・質屋に組合を作らせ惣代を置かせる。
1702 元禄 15 王滝町上河原25-2神明社に、石灯籠。
  赤穂浪士の仇討ち
 6/王滝町上河原25-2神明社に、石灯籠『奉造建 三п鮪R村妙昌現住梅』(三п鮪R村:三州簗山村妙昌寺のことか?) 7/13岡崎大風洪水、堤を決すること660間、田を損すること93,000石(矢作川)。  12/赤穂浪士の仇討ち。大石吉雄ら吉良亭を襲撃。岡崎人胡叟編「かぶと集」、京都で出版さる。   12/タバコ本田畑の栽培許可。伊保城主本多忠晴、寺社奉行となり赤穂浪士の裁決する。
1703 元禄 16 天禄地震(江戸・関東諸国)M7.9~8.2  12/31関東大地震・津波。相模・武蔵・上総・安房で地震大きく、小田原で家屋倒壊8000以上、死者2300以上。津波が犬吠埼から下田の沿岸を襲い死者数千。家屋流失多数。 江戸大火。大石吉雄ら46人に切腹を命じる。近松門左衛門、「曽根崎心中」。
1704 東山・中御門 宝永 1 豊松町宮前の神明社に石灯籠,出羽地震、諸国洪水  6/豊松町宮前の神明社に石灯籠。  田原城下、百姓357軒。 岡崎大風洪水。家50戸、破壊22戸(矢作川)。  浅間山噴火(1〜3月)、地震(1〜7月)、市川団十郎没
1705 宝永 2 豊松町神明下の神明社北に、地蔵菩薩  豊田市西野の薬師堂建立される。(「松平町誌」)
 
伊保天王祭始まる。上野長根山論に幕府裁許。(「豊田市史 二」)
 
豊松町神明下の神明社北に、地蔵菩薩(舟型立像)=二口集会所にある。 6/28岡崎大風洪水、堤を決すること1000余間、田を損すること32,540石。家270戸破壊、92戸流失、溺死13人(矢作川)。  大和川沿岸の開墾を計画。京畿諸国より伊勢お陰参り日々数万
1706 宝永 3  江戸で踊り子遊女を禁ずる。
1707  宝永    丁  亥   南海・東海大地震M8.4、津波

富士山840年ぶりの噴火、宝永山できる。
 当時の富士山案内人(富士山から東南に13Kmに居住)の記録によると、1ヶ月前から富士山は日に何十回と地震があった。しかし、自宅近くの平地では何も起きていなかったと記録がある。

 江戸幕府の安定期
 10/4地震により海岸部津波(紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸を襲う=家屋流失2万以上、家屋倒壊6万以上)。熱田常夜灯倒壊。6/林花翁著「三河雀」刊行さる。三河を冠する最初の三河誌。著者は、東海道御油宿に土着する郷土の林五郎太夫で俳諧と剣法を行い、剣法門人500人を擁した。   10/4伊豆で地震(M8.6推定)、大阪1万戸(3千人)地震は、およそ2ヶ月の間断続的に続いた。大津波は九州から東海まで・・。 11/23午前10時頃、富士山麓で、富士山東南斜面の中腹に巨大な黒煙が上がり始めた。富士山噴火(山頂の東南・直径1.3mの穴:宝永火口)、人の頭程の赤く焼けた溶岩が降り注ぎあちこちで火災発生。(富士山噴火の絵図)大量の火山灰が炎と共に吹き出す。およそ2週間噴火が続く。大量の火山灰が、折からの季節風に乗って関東一円を覆う。江戸湾を渡り、房総半島にまで及んだ。12月8日、ようやく富士山噴火が収まる。特に甚大な被害を受けたのは、山麓に位置する小田原藩であった。小田原の北・足柄(あしがら)平野は、火山灰の堆積40cm。田畑は壊滅し、酒匂川(さかわがわ)に火山灰が堆積し、やがて、水位が上昇して決壊・多くの村々が押し流された。
 江戸でも6〜9mm、場所によっては3cmの火山灰が体積(江戸の「伊東志摩守日記」より)。
  12/中旬、小田原藩が現地踏査。藩は、当分金子の目途が付かず直ちに助けることは不可能であった。城や屋敷に大きな被害を受けた小田原藩には、復旧支援の余力がなかった。小田原藩は、その領地の半分を幕府にさしだし復興の援助を求める。
 幕府は、小田原藩領11万石の内5.6万石を幕府直轄領に編入し、直ちに救済支援に当たることにした。幕府の、これほどに大規模な復興支援は始めてのことであった。しかし、幕府財政も困窮していたので、幕府は諸大名に異例な通達を発した。「被害の大きい村々の灰を取り除くため、各領地とも石高百石につき二両を徴収する」(幕府の御触書より)という通達であった。これまで、税の取り立ては各藩ごとに行っていたが、被害が大きいので全国一律に税を課したのであった。僅か半年で、現在(平成20年)のお金200億円を徴収し、復興に乗り出した。20年後
(1735)、八代将軍徳川吉宗の頃に本格的な復興を行うことになった。
注:幕府が災害に対して救済の手をさしのべるようになった最初の政策である。石高百石につき金二両を集めおよそ30万両(300億円=2017年換算)を救済に当てた(資金の部分「御蝕書寛保集成」より)。しかし、「復興に当てられた金額はそのうち16万両であった。」と、「折たく柴の記」に記録がある。「残りは江戸城北に建てた御殿(将軍側室の屋敷)の費用にあてられた。」と。1709、綱吉麻疹で没後援助は止められた。
 後の、天明4年の浅間山噴火・江戸の地震などにも支援が行われた。
 最初、工事の元締めとなったのは、江戸の大商人達。商人達は受け取った資金の大部分を、遊興費や賄賂に充当し、余ったお金で安い資材を購入した。そして、三ヶ月半で修復工事は完了した。しかし、同年の豪雨で手抜き工事の堤防は見事に破戒された。僅かに遺っていた家々もすべて水に流された。「亡所(ぼうしょ)」と言われる廃村が続出した。
 火山灰土では作物は栽培不可能。飢饉発生。 物資買い占め禁止
 当時ヨーロッパ随一といわれた天才数学者・レオンハルト・オイラー(1707〜1783) 生まれる。オイラーが研究の過程で遺した論文(1749)には、記号:太陽と月・・・・が表してある。素数と宇宙の間には何か重要なつながりがあるはずだという執念にもにた直感があった。後のリーマン予想と関連がある。
1708 宝永 5  前年の宝永地震余震  田原城下、百姓401軒。  京都大火(13,370戸3千人)京畿風雨洪水麻疹 大阪大火(7400戸)
 火山灰土で河川川底が揚がり洪水・不作で村を去る農民が多かった(足柄平野)。
1709 宝永 6 家宣 正徳の治〜16
新井白石
 1/新井白石登用。綱吉麻疹で没。東大寺大仏殿再建、落慶供養。生類哀れみの令廃止。東大寺大仏再建。 江戸時代の臨済宗の名僧:白隠禅師24歳、この年越後高田の英厳寺(えいげんじ)で、坐禅のあとで大悟体験。(「大法輪」 八波浩一氏 出光美術館学芸課長代理)
1710 宝永 7  6/刈谷藩が他領出奉公人呼び戻し令を出し、村方これに猶予を願い出る。本多忠良、越後村上より刈谷に移り5万石を領す。この頃までに碧海郡東牧内村で貢租減免運動おこる。12/刈谷藩の他領出奉公人呼び戻し令に、村方猶予を願い出る。  4月、武家諸法度を定める。金銀改鋳、二朱銀廃止。小豆島に一揆
1711 中御門 正徳 1 九州・東海道洪水・風雨。九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔。九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩  大給松平第4代乗真、大給の陣屋を額田郡奥殿に移し奥殿藩と称す。(「松平町誌」)
 
3/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。6/24九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩(舟型立像)。   6/与茂七騒動。8/9尾三地方大洪水(岡崎市史)。8/23岡崎大風雨田畑を害すること6,000石。家400戸破る(矢作川)。11/万石騒動(安房北条藩新役人川井藤左衛門の過酷な検見による年貢増徴策に反対。百姓は国元で訴願したが認められず600余人で江戸藩邸へ門訴。井川は一揆を弾圧し名主6人を入牢。百姓は再度江戸の老中へ駕籠訴を繰り返すが藩は6人の内3人を死罪にする。死罪を知った幕府は百姓の要求を認め、川井を打ち首、藩主屋代忠位ただたかの領地没収。)。 江戸大火。九州・東海道洪水・大風雨。辻で売女取り締まり。近松門左衛門「冥土の飛脚」  朝鮮使節への待遇簡素化。
1712  正徳  壬  辰   諸国長雨・洪水(7〜9)  九久平、高徳寺創建。(「松平町誌」)
 
松平信祝、吉田に移り7万国を領す。本多忠良、刈谷より下総古河に転封。三浦明敏、刈谷に移り2.3万石を領す。幕府各所に経費節約を命ずる。7/勘定吟味役再置。.8/18尾三地方大洪水(岡崎市史) 
 伊奈忠順
(ただのぶ)復興代官没(?〜1712)地域(神奈川県秦野氏)の訴えを聞いて噴火後の惨状を調査(砂降り一件記録」)。地域の名主等を伴って勘定奉行に面談・懇願。当時の身分制度下の役人としてはあり得ない行動であった。結果、見舞金を得ることができた(「砂除金」=火山場合撤去のために費用)。農民達はおよそ8000平方メートルの田畑を天地返ししたことが最近の調査で解った。伊奈忠順(ただのぶ)は、無断で幕府の米倉を開いて農民達の飢えをしのばせたのだった。この責任を取って切腹したと記念碑に書かれている。(静岡県小山町吉久保水神社)  
    ルソー生まれる(〜1778)
1713 正徳 3 家継  鹿児島大火(1872戸)、京都大火(1750戸)。貝原益軒「養生訓」。幕府、幕領大庄屋の廃止を命じる。
1714 正徳 4  諸国飢饉。

 外国船との海上密貿易禁止
7/岡崎、風雨により河決壊(矢作川)。8/8尾三地方大洪水(岡崎市史)。  3/絵島事件(7代将軍家継の生母月光院に仕えた大奥女中の絵島(1681〜1741)が歌舞伎役者(生島)との遊興を咎められて、処罰される(これは収賄事件を歪曲したデマの説がある)。当時、大奥の風紀の乱れを綱紀粛正するという目的と共に、月光院の勢力を削ぐという政治的意図もある。)。5/金銀改鋳。貝原益軒没(85)新井白石、貨幣を改鋳(正徳金銀)。 近松門左衛門「国姓爺合戦」の初演。
1715 正徳 5 長崎貿易の年額を限定。
 名古屋・大垣(M6.5)
 12/15田原藩,御用金無利息7年なし崩し返済法決める。  永年期奉公・田畑永代売買を禁止。人身売買。近松門左衛門初演。  霧島山中央六所権現宮、この年津島氏二十一代吉貴により造立。建築物の多くが重要文化財に指定される。
 アフリカから奴隷狩りをして、西インド諸島やアメリカに運んで資金を得るフランス・スペイン・イギリス・ポルトガル等の商船が多かった。ヨーロッパ→アフリカ→アメリカ→ヨーロッパの奴隷航路は、「三角交易」と呼ばれていた。アメリカのボストン(Boston)・プロヴィデンス(Providence)・ニューポート(Newport)・ニューヨーク(New York)は、アメリカの海上貿易の中心地であった。
 また、これを襲う海賊船も多く横行した。この頃、海賊の黄金時代であった。
1716 享保 1 吉宗  巴川の舟運


  享保の改革
   (1716〜45)


     人材登用

    『五十壱箇条』



綱吉と吉宗の共通点 
「武家諸法度」を、
吉宗そのまま採用 
 農政改革:農業を
  重視した政策
 町人資本を
積極的に利用
 巴川の舟運はこの頃から盛んになる。(1716〜35)
 8/第八代将軍・徳川吉宗(徳川本家以外の初めての将軍・徳川御三家の一つ:紀州藩の出身)に代わる。この頃江戸は度重なる大火など等で財政が逼迫し、武士に支払う給与さえも事欠く有様であった。吉宗は、法要など幕府の行事を簡素にして出費を減らし倹約を勧めた。武士達には日常生活の贅沢を戒めた。幕府への贈り物の上限を設け、服装は高価な生地や派手な色を禁じる。しかし、長い間途絶えていた鷹狩りを始めた。
  吉宗は、鷹場を六カ所(岩淵筋・戸田筋・葛西筋・中野筋・目黒筋・品川筋)定めて、年に何度も鷹狩りに繰り出すようになった。
 しかし、農民達には不満が高まった。
 「鷹狩り」の度に、農民は人足としてかり出され、農村の畑が踏み荒らされるという思わぬ弊害を被った。
  享保年間には、江戸の人口は100万を超えた。人口の過密化によって、町民達の生活環境が悪化してきた。
 吉宗の「鷹狩り」に加えて、江戸の人口過密の環境悪化が、庶民達の不満を増幅させていた。
 「 府内に遊楽の地 乏しき  云々」  (「有徳院御実紀」より)
  「江戸には行楽地が不足している。庶民には気晴らしが必要である。」 と、吉宗は、桜の植樹を始めた。
 家康以来将軍家の権力を誇示するためであったが、武士にとっては軍事教練の意味もあった。
「享保の改革」の主な内容 
財政改革 倹約令、上米(あげまい)の制(「緊急の策」・藩の石高一万石につき百石の米を納めさせる見返りとして、参勤交代の期間を1年間を半年に短縮・・1730年迄だった)、
新田開発、定免法(毎年の収穫量に応じて年貢を納めさせる方法・検見
(けみ)法から毎年安定した金額を納める方法に変えた。) 
商工業対策 株仲間の公認、相対済し令 
人材登用 足高(たしだか)の制(大岡忠相ら) 
幕府以外からの登用(青木昆陽ら)
そ の 他  目安箱・・庶民からの意見を吸い上げた→(小石川養生所の設置など)
公事方御定書(
くじかたおさだめかき:幕府の基本法令と過去の凡例:裁判・行政の取り扱い基準) 
 享保の改革(第一段階=通貨統一・貿易制限・日本国総図作成・全国の田畑町歩改:耕作面積を命じる。)おこる。それまで、民衆からの意見陳情は禁じられていたが、吉宗はこれらを取り入れることとした。吉宗は、人材登用に長けていた。
 将軍・吉宗自身、倹約に努めて食事は一日二食。おかずは味噌汁に三品。それ以上は腹の奢りと自らを戒めた。
 この頃(享保の時代)に、『五十壱箇条』が完成する。『五十壱箇条』は、毎年作成されるのが普通で、村役人が連判連名し一冊は領主・一冊は村に保管して、毎月・或いは年数回五人組寄り合いの席などで読み聞かせ違背の無いように誓わせた。『五十壱箇条』なる名称は、地方によって異なり、「村方五人組帳」「御仕置五人組帳」「○△村五人組帳」等々多様である。(「古文書用語辞典」より)。 江戸しばしば大火。大阪大火(郭3635軒焼失) 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。  与謝蕪村誕生(1716〜1788)
 この頃の名古屋藩主(徳川御三家の一人)松平通春
(みちはる)・後の徳川宗春(22人いた男兄弟の20番目)は、江戸に繰り出して芝居見物や遊郭遊びに興じていた。
1717 享保 2  大岡忠相、江戸町奉行とす  2/大岡忠相(ただすけ)江戸町奉行とする。 9/27岡崎藩主水野忠之、老中となり、享保の改革に参与する。後、1万石加増される。興福寺焼失。
享保の改革(第二段階=貿易制限・日本国総図作成を命じる。)
  江戸大火・大雪。大名火消し制度。武家諸法度改める。
1718 享保 3 三河・伊那地震(M7.0)。坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対  8/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『六所大明神御寶前。松平縫殿助源乗 奉寄進石灯籠』。矢作川番所、広瀬より細川に移る。 若林村(元禄7年から池鯉鮒宿大助郷に指定)、この年、遠路と村方の不作続きを理由に、助郷免除を嘆願。井ヶ谷村(刈谷市)が代役を命じられる。
☆ 池鯉鮒宿大助郷  ☆
 幕府評定所は、池鯉鮒宿から若林(一里26町5間)・井ヶ谷までの距離を測定し、その差5町46間約624mで、僅かと判断された。そこで、若林村の793石のうち290石、井ヶ谷村の1373石のうち503石:計793石で、従来若林村の担当した池鯉鮒宿大助郷を勤めるよう採決された。(「豊田市史 二」より) 
  享保の改革(第一段階=通貨統一を命じる。)高松城下大火。
  7/28慈雲(〜1805.12.22)生まれる。真真言宗僧侶。 「十善戒」。 人が元々もって生まれたもの・・仏性戒・法性戒 「たといよく この十善をまもるも この根本に暗ければ 有漏
(うろ)の戒と云うべし 三乗無漏の道に入ること あたわず」 人となる道 第二編 より
1719 享保 4  江戸に火除地を設ける。10/吉宗、朝鮮使引見、待遇を復旧する。11/相対済まし令。
相対済まし令   お金の貸し借りのトラブルを当事者間で解決させることにした。
 株 仲 間  同業者組合を公認し、物価の引き下げや流通の統制を諮る。
  岩手山中腹が最後の大爆発。溶岩流は特別天然記念物に指定される。 田沼意次(おきつぐ)生まれる(1719〜88)。父は元紀州藩士で、吉宗の将軍就任とともに幕府直属の旗本となった。意次は16才で、9代将軍・家重に仕え、更に十代将軍家治の元で、老中にまで出世して政権を担うようになる。
1720 享保 5 享保の改革/江戸町火消しの区域を定め、いろは文字の組なる.
享保の改革(第三段階=国役普請令を命じる。)
 江戸に大火。8/江戸町火消しいろは47組設置。12/浦賀奉行設置、キリスト教以外の洋書輸入解禁。  吉宗、鷹場のある飛鳥山に桜の苗木270本植樹(「御場御用留」より)。
1721 享保 6  大風雨諸国洪水

 「民間省要」により、復興支援金が悪徳商人達によって横領されたことが明かされた。
 
享保の改革(第四段階=団畑町歩改・戸籍調査を命じる。)
 江戸に大火。1〜3月に6度(14.3万戸)。8/小石川薬園設立。諸商人・職人に組合を結成させる。 12月江戸大火  吉宗、鷹場のある飛鳥山に桜の苗木1,000本植樹(「御場御用留」より)。また、庶民が気軽にこられるようにと、桜の植樹をした飛鳥山を所有者の旗本から召し上げて、地元で古くから信仰のある王子権現社へ寄進した。
1722 享保 7  吉宗は、幕府の治藩行政を厳しく批判した書物「民間省要(みんかんせいよう)」土地の名主田中休愚著に注目した。休愚は、幕府が進めていた小田原藩の復興事業をやり玉に挙げて糾弾していた。『酒匂川の工事では金が空しく豪商のものとなり将軍の慈愛も民衆までは届いておりません』などと・・。
注::酒匂川は、富士山噴火による火山灰によって氾濫し、村人の多くが被害を受け、村を去った。  吉宗はこれに注目し意を決した。『まず彼がなすところを試みるべし』(徳川実紀より)
 享保の改革 
享保の改革(第五段階=新田開発令により、山林原野などの未開発地の新田開発は幕府領となる原則を明示。 第六段階:財政再建策:年貢増徴策、倹約令上米制、質流地禁止令=5年間をさかのぼって、本人の同意なしの質流れを禁止) 注:質流地禁止令・・古代以来の、借り手の農民を保護する法令・・・・これを守ろうとしない名主に対して、農民からの騒動が起こり、一年後には、この法令は撤回される。
 7/上米の制。参勤交代制緩和。12/小石川養生所設置。出版統制(著作者を明記)。
1723 享保 8  6/足高の制(能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用する目的)定める。
 地方の名主たちは、高い金利(当時の金利は貸し金と同額以上)で農民に金を貸して、返金できない場合には農地を質に取り上げていた。
 山形県東根市では、総額1980両('09年現在の金額でおよそ2億円)。 1月、380名の農民たちは連判状をしたためて土地の返還と返済猶予を迫った: 2/12長瀞
(ながとろ)騒動。農民は、名主や金貸しから証文を奪い取る。 4/7幕府は、貸し手と借り手の代表を江戸に呼び出す。江戸に入るとすぐに、農民たちは罪人として取り押さえられる。「金子を返さずに証文を奪うのはただ取りである。しかも、代官所の指図に従わずに騒ぎを起こしたことは許し難い。」と、・・。 幕府はこの騒ぎを”一揆”と認定し、隣国の諸藩に鎮圧を命じる。 4/23諸藩の兵が長瀞村を包囲。 命令に従わない村人は捕らえられて、江戸送りとなる。 磔(はりつけ)・獄門による死罪8名、島流し・投獄など15名。罰金91名に及んだ。それに対して、貸し手たちにはお咎めなしであった。8/質流地禁止令 撤回。以後、借り手保護の政策は、貸し手保護のそれに転換。
 これは、以後、明治・大正・昭和へと続いた。全国各地に、「大地主」が誕生。しかし、貸し倒しする地主も発生。
1724 享保 9
 この年、挙母藩盆踊り禁止。 6/諸大名に倹約令を出す。札差し組合を公認。総数109。大阪大火。大阪に壊徳堂設立。近松門左衛門没。    
 カント(〜1804)生まれる。
1725 享保 10  11/新城の商人太田白雪「三河名跡志」を著す。12/吉宗は「民間省要(みんかんせいよう)」の著者・田中休愚に命じて酒匂川復興工事の責任者とする。10年後に、酒匂川の治水が完成する。 江戸大火。新井白石没。
1726 享保 11  越前荒島嶽噴火。  浅井東軒、藩医となる。岡崎竜海院領農民、貢租半免を求めて一揆。  1/田中休愚、酒匂川に赴く。手抜き工事の実態に改めて驚く。そこで、手抜き工事の悪弊を絶ちきるために、公正な入札制度を導入。入札には、地元の事情に明るい業者が参加した。これによって地元の業者によるこれまでよりも安い費用で治水工事を行うことが出来た。2/酒匂川治水工事の開始。 無著道忠(1653〜1745)、「臨済録疏?(そやく)」五巻を脱稿。
1727 享保 12 松平町大西25長福寺に地蔵菩薩像。林添町下清水戸井田橋南に地蔵菩薩  10/松平町大西25長福寺に地蔵菩薩像(丸彫り立像)。11/林添町下清水戸井田橋南に地蔵菩薩(舟型立像)。 12/一宮三八市開市。  1/徳川吉宗、田中休愚に酒匂川の下流の工事も命じた。富士山噴火による火山灰が下流に流されて、水位を上げたので下流も氾濫崩壊した。5ヶ月の工事の末、下流の工事完成。ところが、堤防の維持管理を何処まで、誰が行うかと言う争いが生じてきた。
1728 享保 13  関東水害、両国橋流失  1/田中休愚、富士山噴火によって火山灰堆積による氾濫を治水工事を完成した、小田原藩・酒匂川の治水担当の方法を取り決める。『川筋に近い村々は、増水時は堤防に人を集めること。  川筋から遠い村は、人集めの義務は免除するその代わり石高百石につき一坪分の石を集めて、毎年堤防用に準備すること』などとし、負担の公平化を図った。この事態を知った将軍吉宗も援助の手をさしのべた。工事費とは別に、今(2008年1月)のお金で400万円を田中休愚に与えた。田中休愚は、このお金で流域の村々で、祭りを行わせた。この祭りを通じて、村々のわだかまりは氷解していった。
  3/久留米藩の農民一揆。(7月も)。荷車で童を轢き殺した車夫死刑。
1729 享保 14  伊豆地震余震20日間  岩倉南・神明宮創建。 (「松平町誌」)
 
8/矢作川大洪水起こる(西加茂郡誌)。  松平信祝、遠江浜松に移封。松平資訓、浜松より吉田に移り7万石を領す。  7/吉宗は、小田原の河川工事に尽力した田中休愚を代官に任命。しかし、田中休愚、病に倒れる。12/田中休愚病により死去。この6年後、酒匂川全域の治水完成。
 入荷地方別に米問屋組合結成。12/相対済まし令廃止。
1730 享保 15  この年、岡崎藩主・水野忠之、幕府老中を免ぜられる。
 4/上米
(あげまい)の制停止。参勤交代制を元に戻す。
上米(あげまい)の制   年毎の石高に応じた年貢徴収から、前年度の穀物生産量に応じて年貢米を決定し、毎年入ってくる年貢の石高の変動を押さえた。 
 参勤交代制  しばらくの間、上米(あげまい)の制に応じた大名は、江戸滞在は1年ではなく半年に短縮された。
 7/江戸に米会所設立許可。京都大火(130人死者)。麻疹流行。感冒流行。 5/7本居宣長松坂本町に生まれる。 11/名古屋藩主(徳川御三家の一人)徳川通春の兄が病死。他の兄たちも、既に亡くなっていたり、他家を継ぐことになっていたので、20番目の男児・松平通春が尾張藩主を継ぐことになった→徳川通春。
徳川吉宗の行った享保の改革の効果
 この頃になると、幕府の財源はゆとりができて、百万両の資金が蓄えられることになる。
1731 享保 16  近江八万・刈谷地震

 挙母町はじめ諸村水害。
(「豊田市史 二」)
 1/松平通春、将軍に尾張藩主になった挨拶に江戸に向かう。将軍・吉宗は、自分の名前の一字を彼に与え、更に、自分の刀を与える(銘::「延寿国資えんじゅくにすけ」)。→徳川宗春と改める。 3/尾張藩主徳川宗春、「温知政要」を著す。宗春の政治理念が二十一ケ条にわたって記されている。これを家臣達に配布する。4/宗春、藩主として尾張名古屋にはいる。この時、御駕籠ではなく派手な姿で着飾って、道中の民衆を驚かせた。華美で奇抜な衣装であった。これは、将軍吉宗を挑発するかのようであった。 8/12梅坪村講談所の横堤切れ、挙母城下浸水(洞泉寺記録)。 9/宗春、名古屋の活性化を図り、常設芝居小屋と遊廊の設置を許可する。(西小路・葛原・富士見原の三廓できる。) これまでは、芝居は年に一回程度であったが、それが100回を越えるほどとなった。遊郭の客を当て込んで、周囲には商人達の店が並び始めた。
 宗春、簡素になっていた、盆踊りを盛大に行うように指示する。名古屋は、江戸・大坂に次ぐ大都市へと急成長した。この頃の名古屋人口7万人。
 徳川宗春は、尾張藩邸で芸事を楽しむことを認め、夜の門限も撤廃する。贅沢を戒める将軍の政策に逆らい始める。
 実は、吉宗の「倹約令」は、町人の暮らしも規制するものであった。武士が倹約をすれば、下級の者達が一層倹約をしないと秩序が保たれないからである。先ず、呉服や玩具・副装品を造ることが贅沢であると禁じられた。今まで普通に売られていた、派手な装飾品は販売禁止となった。櫛など、地味な物が許され、大きさや形まで制限された。
 宗春は、藩主になるまでの間、民の暮らしに慣れ親しんでいたので、民におよぼす倹約令の重さを理解できた。
 徳川宗春の著す「温知政要」は、「倹約」で世間を縛る政策とは正反対のものであった。それは、民衆を理解し、その力を引き出すことで、社会に活力を生み経済を発展させようと考えた。
「温知政要」  ○人のこころいさみなく・・・法律や規制が多すぎると民の心が萎縮してしまう・・・・
 ○倹約 ・・・倹約は大切なことだが、そればかりではむごい政治となって、民が苦しみ社会の為にならない。
 ○萬(よろず)の物・・・・すべてのものにはその使いみちがある。
   人間も同じで、個性をうまく生かすことで能力を最大限発揮させることができる。
「人というもの 老いたるも若きも 気にしまりとゆるみとなくては
  よろずの事 勤まりがたし 云々」 ・・・宗春
☆ 宗春が愛用した掛け軸 ☆
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1 絵:太陽 + 慈
2 絵:月 + 忍

 「日」と「月」を合わせることで、「明」・・・・→「慈」と「忍」をあわせもつことで、藩主の徳を「明らか」にできると考えていた。
  江戸大火。米価下落。修験道:普寛(1731〜1801)この年生まれる。後に、木曽御嶽の中興開山。御嶽信仰の民衆化に貢献した。
1732 享保 17  享保の大飢饉


西日本イナゴ害、大飢餓。
(「豊田市史 二」) ・・蝗 ウンカ?:編者


 「蝗は、ウンカのことで、、享保の飢饉は霖雨とそれにつづくウンカの大量発生が原因であった。もっとも、イナゴに蝗の字をあてるのは、イナゴが虫の王と畏怖されるほどの害を及ぼしたからだと、私は解釈している。」:「魔の系譜」谷川健一著)
 3/徳川宗春、参勤交代で江戸に向かう。
5/5端午の節句、江戸の尾張藩邸に華麗な幟が翻った。そればかりか、宗春は町人達を藩邸に招き入れて秘蔵の武具を披露した。これは、将軍・吉宗へのあからさまな挑発であった。
 吉宗は、尾張藩邸へ使者を送り問いただす。
 これに対して、宗春はあっさりと頭を下げて、反省の意を示した。
 しかし、公式の詰問が終わり雑談となると、宗春は態度を一変させた。
 非公式の場では、使者は一役人である。ここで、使者達に向かって持論を述べる。
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 「いくら上に立つ者が倹約を叫んでも、その結果幕府の金庫にお金がたまるだけで、民衆が苦しむ状況が続くならば、それは本当の倹約ではありません。
 私は、華美な生活をしているように見えますが、それによって世間にお金が回り、実は民の助けとなっているのです。事実、町人に負担をかけず農民の年貢も増やしていません。民とともに世を楽しむこうした私のやり方こそ本当の倹約といえるのです。     (「享保尾州上使留」より)
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 公式の場ではできない吉宗への反論を、宗春はここでやったのだった。
 これを聴いた吉宗は大きな危機感を抱いた。「享保の改革は挫折するかもしれない。」と・・・。
 吉宗は、「温知政要」の出版を引き留め、発売禁止とした。
 
 この年、奥殿藩、領内諸村の訴願書に反論を申し渡す。 この年、渥美郡上野田村で質地請け戻しについて村内が紛議する。享保の大飢饉。西日本ウンカ大発生飢餓民2,646,020人。餓死者1.2172万人。  この年、吉宗は酒匂川治水に尽力した田中休愚の娘婿・蓑笠之助を、田中休愚の後継に任命する。ようやく治水は完成したが、未だ小田原の多くの土地は富士山噴火による火山灰に覆われていた。蓑笠之助は、その小田原で何とか農作物の栽培方法を模索する。『開発によって、近年、ようやく農民達が戻ってきた。これからが、彼らの暮らしが永く続くかどうかの大切な時期なのだ』(蓑笠之助の言葉より) 蓑笠之助は、薩摩芋をの栽培を奨励した。また、ヒエや里芋などの栽培方法の勉強会を開いて、農業の普及に努めた。
1733 享保 18 米価高騰、江戸に打ち壊し  江戸市民に米5万俵、その他ウンカ被害地に男2・女1合の米払下げ。
京都で、ある芝居が話題になった。
 主人公は若い殿様の「傾城妻恋桜」だった。派手な衣装を身にまとい、永いキセルをふかして遊興にふけりながらもお家再興にかつやくする。その颯爽とした姿に、誰もが宗春を重ねて観るのであった。宗春を支持する声は各地に広がりつつあった。
 
1734 享保 19  前年度より飢餓民救済者に報償/小田原城下・対馬城下火災。 8/台風により、富士山麓小田原藩の酒匂川(さかわがわ)氾濫。田中休愚の築いた堤防が決壊する。この付近だけで70名がその犠牲となった(珠明寺の過去帳より)。水にまつわる戒名の多くが、その惨状を物語っている。、田中休愚の後継に任命された休愚の娘婿・蓑笠之助は、決壊した堤防の再建のために江戸に向かった。8/19幕府に正式に工事の許可を願い出る。吉宗は、異例の早さで、翌日には工事の許可と資金援助を保証した。8/下旬・笠之助、田中休愚の築いたものとは根本的に異なる堤防を考えた。彼は、それまで城の石垣に用いられていた石積みの方法を応用した。堤防の側面に二段の石垣を7mの高さに積み上げた。根本の部分には、重しを詰めた木枠を隙間無く並べる方法であった。更にその前には、「出し」と呼ばれる小さな堤防を等間隔に川の中に向けて設置して、堤防が激流に削られることを防ごうとした。これは、独創的な工法であった。全長180mに及ぶ巨大な堤防が築かれていった。
1735 享保 20  日光・守山に地震  米価下落により最低価格決める。(江戸1両1石4斗) 4/25刈谷藩が領内の総検見を命ずる。この年までに加茂郡大林村・碧海郡尾崎村などで 貢租減免運動おこる。 5/幕府が、宝永4年の富士山噴火による被害について、小田原藩の復興を軌道に乗せる。酒匂川(さかわがわ)の治水工事完成。『酒匂川表の儀も だんだんよくまかりなり候』(「大岡忠相日記」より)かつて”亡所(ぼうしょ)”と呼ばれた荒れた村々にも人びとが集い始めた。幕府は、復興した村を少しずつ、直轄領から小田原藩に返還していった。富士山噴火から76年を経て、天明3年・幕府はほぼすべての領地を小田原藩に返し終えた。
1736 桜町 元文 1  この年、六所神社、玄米2石4斗を六所明神灯明料として増加される。(「松平町誌」)
 8/17三州岡崎大雨につき、矢作常水に9尺4寸増水し、田畑21,287石、堤決壊242間、被害多し(矢作川)。10/宮口村、年貢免除の嘆願書。享保の改革(第七段階)
 ・・・ 宗春の方針に歪みが生まれる。(藩主となって五年後)
 武士や町人の中で、遊郭などに入り浸り、遊びほうける者達が増えてきた。
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 「家臣の中に、分をわきまえず放蕩する者が多い。百姓や町人も同じである。
 おふれをもっていさめても一向に改まらない。   (「遊女濃安都」より)
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 事態は、宗春の予想以上に尾張藩に深刻な状況となっていた。
 家老の竹腰正武
(たけのこしまさたけ)は、幕府との対立を深める宗春に危うさを感じていた。
 竹腰正武
は、困り果てて助けを求めた。その相手は、吉宗であった。(「尾張大夫義忠府君行状」による)
 極秘の内に家老は江戸で将軍・吉宗と面会したのであった。
享保の改革(第七段階=種々の国家制度の充実。制度や儀礼の重視などで安定した幕府体勢の形成。)
  5/金銀改鋳。米価最低価格引き上げ(昨年より3度目)。米の安売り厳禁。
1737 元文 2  この年、六所神社、昨年に加えてさらに玄米7斗8升3合増加して免引される。(「松平町誌」)
 5月江戸大火。
  吉宗自ら飛鳥山に出向いて、盛大な花見の宴を開く。このとき、自分だけではなく、家臣達にも酒を振る舞った。
 「上野の花もふるめかし いざや飛鳥の花見にまからん 云々」 (「絵本江戸土産」より)
   このとき、二人の家臣達に、オランダ人の格好をさせて、踊りをさせたという言い伝えがある。・・・日本の花見の先駆けか? 幕府が無礼講での花見を行い、庶民の花見熱を一層かき立てることとなった。「古代ギリシャから古代ローマから ・・ 世界中で民衆の不満を解消するには、公園や市場を造ることはあるが、しかし、桜を不満解消の具に使ったのは、日本の特徴だといえる。さすが吉宗将軍である。それは、今の日本とつながる心がある。一斉に同じ格好をする日本人の特徴も、当時から伺える。
 一つの社会や組織に属することの安心感・帰属意識を確認する手段として、花見が日本人の間で機能してきたのではないだろうか。」ニコルソン 
 やがて、江戸の後期になると、お揃いの服装の集団が、花見に加わるようになった。その多くは寺子屋のお師匠とその弟子達であった。同じ模様の日傘を持ち、同じ絵柄の和服姿の集団が列をなして桜花の下を楽しげに進む絵図が遺っている。彼らは、茶番狂言を演じて互いの存在を誇示し、芸を競い合ったと言われている。これを、
 「野人等多く 風流ならぬ 」 (「哀遊日記」 柳沢信鴻
のぶときより)
 ・・と、嘆く文化人も居た。花見が、集団で羽目を外す花見へ・・・、今と変わらない日本人気質を見る。
                     <「サクラと日本人」 2010.4 NHK>
 吉宗は、後に墨田堤・小金井・御殿山にも桜を植樹した。  江戸時代の臨済宗の名僧:白隠禅師、この頃大悟体験。
1738 元文 3 江戸市内宅地でのたばこ禁止。3/尾張藩主・徳川宗春、参勤交代で江戸に向かう。 5/磐城平元文一揆。7/尾張藩内の市に市日をたてる。
 6/9尾張に残った宗春の家臣達に対して、家老の竹腰正武(たけのこしまさたけ)は、命令を下す。
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 「殿が藩主に名手から決めたことは、全て廃止しそれ以前に戻す。これからは、殿の指示があっても守らなくとも良い。云々」 (「遊女濃安都」より)  ・・・これは、宗春から政治の実権を奪うクーデターであった。
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 直ちに、遊郭や芝居小屋のほとんどが取り壊された。宗春は、参勤交代の期間が過ぎる翌年3月までは江戸から出ることはできなかった。
8/関東新田の開墾を勧める。 10/1刈谷藩領の農民、新しい方法による検見に反抗して一揆を起こす。検見中止。藩役人3人処分。 挙母領に、馬市開設計画(「豊田市史 二」)。
1739 元文 4  1/12尾張藩主徳川宗春、将軍吉宗から蟄居(ちっきょ)謹慎を命ぜられる。(「徳川実記」より) 5/陸奥・安房・伊豆沿岸に異国船出没。監視と警戒を強める。
1740 元文 5 三河各地域の文化的交流の成立基盤  この年、青木昆陽が東海地方の古文書調査。(「豊田市史 二」)  幕府、檀家・施主の任意による宗旨替えを禁止。 (「松平町誌」)
 
洪水、挙母村破堤(郡誌)。  8/佐野知堯(ともたか:宝飯郡下長山村(豊川市)徳宝院住職であったが、還俗して寺子屋師匠として一生を送る。:三河地域の指導者の、菅沼家の代官・庄屋・御用達の太田白雪に師事。三河各地域の文化的交流の成立基盤となった。)により「三河国二葉松」が著わされる。
1741 寛保 1 松平町稲場下の稲荷社に石灯籠、松平太郎左右衛門家墓所に石灯籠。松前方面に大島噴出  2/松平町稲場下の稲荷社に石灯籠『奉献 稲荷大明神御寶前』 4/17松平町生ケ塚の松平太郎左右衛門家墓所に石灯籠『奉建石灯籠太郎左右衛門 9代信和以降の墓所』   1/2名古屋大火。日置橋から7Km消失。噴火により人家漂没。魚鳥・蔬菜の売り出し時期を限定する。  本居宣長、伊勢の紙商今井田家と離縁。
1742 寛保 2 2/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。

 洪水・風水害(寛保の洪水)  
 2/吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。同村郷蔵棟札)、奥の院改築。施主:松平 盈乗17161742 みつのり):三河奥殿藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家4代。初代藩主・松平乗真の長男として奥殿で生まれる。しかし父は享保元年(1716年)75日に死去したため、生まれたばかりで95日に家督を継いで第2代藩主となる。寺部領で、尾張藩堤銀を負担するようになる。(「豊田市史 二」)   寛保の大洪水:大阪周辺に上陸し中部・関東を経て東北地方に出、三陸沖に抜けた台風。京畿その他洪水死者多し。江戸洪水。隅田川などが溢れ各所で浸水。3,900人が溺死。また、信濃では千曲川が溢れ流域住民が大被害。特に小諸町では、武家、町方合わせて500人が流死した。東国大風水害諸城大破。京都積雪1.8〜1.9尺。4/公事方御定書成る。
1743 寛保 3  豊田市川向、法興寺創建。(「松平町誌」)
1744 寛保 4  挙母領定免制採用。(「豊田市史 二」)  麻疹流行。出雲大社本殿できる。幕府買い上げ米により米価調節。神田に天文台設置。田畑永代売買の罰則軽減、禁令の緩和はかる。 この年、幕府に納められた年貢の量は石高450万石となり、江戸時代を通じて最高となる。
1745 寛保 5 家重
1746 寛保 6  三河の伊保領消滅本多忠如、奥州に移封による。(「豊田市史 二」)  2月江戸大火。
1747 寛保 7  西尾藩主土井利信、三河刈谷に転封2.3万石(土井氏刈谷に定着)。刈谷藩主三浦義理、西尾に移り2.3万石を領す。 江戸城二の丸全焼。京都風邪・咳病流行〔軽症〕。
1748 桃園 寛延 1 竹田出雲の仮名手本忠臣蔵なる  9/17夜、満水。能見村27間きれる(矢作川)。  2/10名古屋に蟹養斉を中心とした官許立の巾下学問所を創設(明倫堂のはじ まり)。大岡忠相、西大平藩1万石を領す。 本居宣長、伊勢の紙商今井田家の養子となる。 江戸で女の羽織禁止。竹田出雲等「仮名出本忠臣蔵」。
1749 寛延 2 '播磨大水、江戸府内洪水、  内藤政苗、三河国挙母藩主となり、挙母城築城計画する。 (「松平町誌」)
 
本多忠央、相良へ転封。内藤政苗が挙母藩主となる。  1/長崎の中国船貿易増額。2/吉田藩主松平資訓、遠江浜松に転封。松平信復、浜松より吉田に移り7万石を領す(松平氏、吉田に定着。)挙母藩主本多忠英、遠江相良に転封。内藤雅苗、上野安中より挙母に移り2万石を領す(内藤氏、挙母に定着)。  陸奥・出羽等の一揆続発(武士の窮乏・百姓の一揆)。
1750 寛延 3 姫路水害。

関東雹下野・陸奥では人馬死。
 百姓農民の強訴を禁ずる。(「松平町誌」)
 
松平橋北川の旧足助街道の路傍に、一字一石経塔。「天下泰平国土安全 大乗妙典石書日本廻国供養塔 願主岩倉村宇野市兵衛親常」。塔の周りには一字一石経の千五百・六百個の小石が埋葬されていた。内藤政苗、本多氏陣屋跡に挙母城(桜城)を築く。
  1/農民の強訴・徒党・逃散の厳禁。内ノ子騒動・7/米騒動。京都大雷.。関東雹、下野・陸奥では人馬死。 幕僚に定免制全面的に採用。
(「豊田市史 二」)
1751 桃園・後桜町 宝暦 1  六所神社上宮に石灯籠一対『奉建御寶前 願主織源親房』。

 京都大地震。
 越後高田大地震。
 2/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『奉建御寶前 願主織源親房』  11/岡崎藩主水野忠辰、藩政改革に反対され、老臣牛尾四郎左衛門らに幽閉され、隠居させられる。善光寺本坊全焼。8/田村騒動。  本居宣長、義兄宗五郎没したため家督相続。
1752 桃園・後桜町 宝暦 2  この年、挙母藩領内・加茂郡飯野・舞木・四郷村などで年貢減免の越訴行われる。飯野八兵衛一揆の供養塔:四郷町山畠・雲龍寺:12/3挙母上築城中に、領内の飯野村八兵衛他3名、四郷村磯右衛門はじめ6名、舞木村の林蔵等4名および迫村新七の計15名を総代として、江戸藩邸に強訴。24箇条の訴状を1241人の百姓が竹槍ムシロ旗で挙母城下を通り岡崎城に向かった後、首謀者八兵衛、舞木村清兵衛ら計6名が斬首。処刑後各所に出火があり、同6,7年に洪水。八兵衛の祟りとの風聞が流れた。後に八兵衛は義民として世人から称えられた。 2/松平君山等藩撰「帳州府志」を完成さす。7/吉田藩校時習館が創設される。   本居宣長、医学修行のため上京。始めに儒学を学ぶ。このとき本居に改める。江戸に追い剥ぎ俳諧。
1753 宝暦 3  宝暦強訴オッソ事件  4/28大洪水(洞泉寺文書)。5/矢作川大洪水(同)。8/17洪水破堤、民家流失、救助米下す(藩史)。  4〜6月麻疹流行。米価下落により旗本・ご家人に金を貸す。4/諸大名に備荒米の貯蔵を命じる。新田開発の地代金制度復活する。9/芝村騒動。   本居宣長、堀元厚に医書を学ぶ。
1754 宝暦 4 王滝町覚庵16妙昌寺に、石灯籠  

 貞享暦を廃し、宝暦暦を用いる

 7/17大風、矢作川満水。田畑浸水(藩史)。9/王滝町覚庵16妙昌寺に、石灯籠『寄進石灯籠壱基』。   薩摩藩、木曽三川の改修工事を行う。(宝暦治水)。醸酒の制限緩和。3/越後・久留米に17万人の一揆
  岐阜郡上の「宝暦騒動」(1751〜1764)。
郡上(ぐじょう)金森藩主は財政破綻のために農民に重税を課す。これに対し農民は強く反対した。現在の郡上郡白鳥町の農民が中心となり藩に談判したが受け付けなかった。郡上では話にならないと江戸藩邸にまで訴えにいったり 登城途中の老中の駕籠を止め直訴したりした。しかしそれも功を奏さず、やむなく江戸評定所の 「目安箱」に訴状を入れる。これら農民たちの死罪覚悟の行為により幕府も田沼意次や大目付により詮議を開始。その結果、幕府役人・郡上藩役人が罷免た。もちろん農民には獄門・死罪・遠島の者もでた。藩主は取り潰され、新しい藩主が任命される。江戸時代におきた多くの 一揆の形態 のなかでも藩主だけでなく幕府要人まで裁きが及んだのは郡上の一揆のみである。LINK→郡上百姓一揆
  本居宣長、武川幸順に小児学を学ぶ。
1755 宝暦 5  6月越後球磨川洪水。
 奥羽凶作(〜56)。
 5/尾張藩地方目付役児島徳貫「地方品目解」完成。  奥羽を中心に凶作・大飢餓(〜56)。10〜12月出羽その他に一揆。「この年、八戸藩は二万石の内18,573石の損害があったと幕府に訴えている。」(「魔の系譜」谷川健一著)
1756 宝暦 6  庄内領内、熊本凶作。
 近畿東海洪水。
 6/米価高騰につき、米商の買い占めなど禁止。(11月解除)10/1挙母城下大洪水(藩史)。本居宣長、有賀長川に和歌を学ぶ。
1757 宝暦 7 滝脇町藤治洞の専光寺に手洗い石。
 杉田玄白、洋医学を唱える。
 東海道洪水。夏東国に水害。
 11/滝脇町藤治洞の専光寺に手洗石(角型)『水鉢。太租聖人五百回御忌法要造之』。  5/1庄内川・佐屋川・矢作川・豊川決壊(宝暦の洪水)。5/3洪水、城中浸水。流家54戸、炊き出し米受け者270余人(藩史)。5/4浸水丈余。流可4戸(藩史)。6/15矢作川中島が決壊(上郷史)。6/19大雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。三河大樹寺に修理料。美濃・郡上に一揆。7/26 熱田で藩船蔵火災、藩船6隻焼失。11/8田原藩、領内の割替地の慣行を禁止する。    本居宣長、松坂に帰り医者を開業。
1758 宝暦 8 九久平町鵜ヶ瀬荒井の松生島弁財天北東に地蔵菩薩  4/13九久平町鵜ヶ瀬荒井の松生島弁財天北東に地蔵菩薩(舟型立像)。  5/25矢作川大洪水、国江村流失し村民高台に移る(上郷町史)。美濃・郡上に一揆再発。6月関東・東海道他に河川工事完了。  7/宝暦事件。(竹内式部とらまる。1759追放)長州藩、財政改革。ー肥後熊本藩、松代藩などで、藩政改革実施。  良寛生まれる。本居宣長、嶺松院歌会に加入し「源氏物語」の講釈を始める。   
1759 宝暦 9 平賀源内、電気を研究  4月金沢城下に発火、城を全焼。
1760 宝暦 10 家治  2/江戸連日火災。4/宝暦事件に関与した公家等7人に落飾を命じる。 賀茂真淵「万葉考」。会津藩、塩専売始める。
1761 宝暦 11  8/洪水、挙母村破堤(郡誌)。美濃・飯田に一揆。12/米価下落につき万石以下の知行米を買い入れる。阿波藩、藩政改革。
1762 宝暦 12 九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔  7/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。  挙母城下の民家、水難を逃れおいおいと樹木台に移る(豊田市の歴史年表)。2/寺院への田畑寄進禁止。佐賀領内凶作。岡崎藩水野忠任、越後唐津に転封。松平康福、下総古河より岡崎に移り5万石を領す。
1763 宝暦 13 9月大風。  4/挙母城主内藤政苗、水難を避け樹木台に居館を建てる(内藤家文書)。  治本居宣長、5/25伊勢松坂で加茂の真淵と会い、12/入門を許される。
1764 後桜町・後桃園 明和 1 京都雪(1717年以来平地1.4尺)  矢作川による水害が頻発するため樹木台に御殿を建てる。  12/明和伝馬騒動。三州馬稼ぎと信州馬稼ぎとの争いを幕府が裁許する。 西尾藩主三浦明次、美作勝山に転封。松平乗佑、出羽山形より西尾に移り6万石を領す。(松平氏西尾に定着)。田原藩主戸田忠昌、肥後富岡に転封。三宅康勝、挙母より田原に移り1.2万石を領す。  伊勢山田大火。平賀源内、火浣布(石綿)発明。2/朝鮮通信使、将軍に謁見。3/俵物の生産を奨励。   本居宣長、古事記の研究に着手。
1765 明和 2 近畿大雨洪水。奈良大暴風  4/15大雨、矢作川洪水、破堤、城内町共に浸水潰家数軒(藩史)。4/16挙母堤決壊し、挙母城下に浸水。(陽竜寺過去帳)。4/20大雨、上里村堤破壊。(伊賀八幡宮記録)。6/44月の洪水で、町家130軒が樹木台・児子口へ引っ越し(藩史)。7/5洪水・破堤、城内浸水8日余り(藩史)。8/2矢作川大洪水、挙母城下に流水(陽竜寺過去帳)。8/3三州挙母大風雨、矢作川洪水・1丈3尺8寸余、破堤・城内床上に浸水(藩史)。8/8洪水・挙母村破堤(郡史)。11/17洪水による損耗高5,110石余、御用番に届け出(藩史)。  1098年以来初めて。大津山崩れ。上野・武蔵・信濃3国伝馬騒動(20万人参加)。伊藤屋(今の松坂屋)刈谷城下の商売を許可される。 鈴木春信、錦絵を創始。
1766  明和    丙  戌  猿投神社観音堂(猿投町大城)に経塚。弘前大地震(1〜2月)  6/18矢作川大洪水(岡崎市史)。  7/13矢作川大洪水。渡刈村破堤し6戸流出(上郷町史)。7/10猿投神社観音堂(猿投町大城)に経塚「発起人覚性院峻照、願主酒井儀兵衛氏芳」小石に墨書きされた法華経の一字一石は、甕に納められて保管されている。  弘前凶作。尾張凶作。水戸凶作。   
 チャールス・ダーウインの父(ロバート・ダーウイン1766〜1848)生まれる。
1767 明和 4  田沼(田沼意次)時代
   (1767〜86)


   重商主義



  明和の洪水。

  尾張・三河水害。
 7/11矢作川大洪水、岩滝村の鞍が池堤切れ、市木・寺部・平井の村落を押し流す(平井本郷教会文書)。7/12洪水・破堤。猿投山3・4カ所崩壊。籠川満水で城内浸水。大手門前水嵩1丈9尺3寸・城中床上5尺7寸に及び、城内・村共に流家多数。流死12人(藩史)。7/27洪水挙母村破堤(郡史)。7/庄内川・矢田川・天白川氾濫、死者2,154人(明和の洪水)。8/大雨降り続き矢作川洪水、渡刈堤防決壊。村人水難を避けて高台に移住(上郷町史)。田畑水腐、御用番に届け出(藩史)。 旧碧海郡鴛鴨村の集落は、標高の高い碧海台地に移転。  田沼意次による田沼時代 (1767〜86)。
 田沼意次(おきつぐ)による田沼時代 ・・ 意次は、徳川家治亡き後に失職。
@ 市場経済を更に活発にして、そこから収入を得ようと、株仲間の結成を促し、商品の仕入れや販売の独占権を与える代わりに、税を取り立てた。
 これは、米ではなく貨幣で収入を得ようとした斬新な政策。
A 長崎貿易に目をつけ、積極的に輸出増加をもくろむ。産出量の減少していた金銀に替えて、干しなまこ、フカヒレ、アワビなどの海産物を新たな輸出品とした。これによって長崎貿易は初めて黒字に転換した。
B 海産物の宝庫・蝦夷地に調査隊を送り、開発計画を立てる。これは、7万人を移住させて、およそ600万石の農地を開発するというもののほか、ロシアとの貿易も考えていた。

 市場経済をより一層発展させるため、新しい貨幣の導入を行った。
 当時、東日本では、記された額で通用する金、西日本では重さを量って使う銀が使われていた。
 従って、東西をまたいでの物のやりとりには手間がかかっていた。
 田沼意次が発行した「南鐐二朱銀」(表面には「以南鐐八片 換小判一両=南鐐八片を以て小判一両に換ふ」と書かれていた。)は、江戸でも大坂でも通用した。
                         ・・「赤蝦夷風説考」 
天理大学付属天理図書館 蔵 
 享保の改革で、農業生産高は増加したが、その分、米価が値下がりして、期待したほどの経済効果がなかった。そこで、農業重視から商業重視の政策に転換した。
 当時の風刺画には・・・・
 
此虫常ハ丸ノ内にはひ廻ル
 皆 人銭だせ金だせ 
  まひなゐつぶれといふ

 注:カタツムリのような絵が描かれている。
 この虫 常には丸ノ内に這い回り
  皆、人を見ると 金出せ
   まいないつぶれ と言う
 注:まいまいつぶりは、カタツムリのこと。
   賄
(まいない)を出せ! と、いうこと。 
 鳥取凶作。江戸大火。    蕪村・芭蕉顕彰さる。  色刷錦絵。  竹刀剣術普及。
1768 明和 5  豊松町寺下の公民館に石灯籠。
 大内町の神明社に念仏塔。
 滝脇町の春日神社本殿前に石灯籠。
 長松院に石灯籠一対
 豊松町寺下の公民館に石灯籠。1/水難見舞いとして500両、挙母藩主内藤学文に寄せられる。(内藤家文書) 2/28 大雨矢作川洪水。破堤・田畑浸水(藩史)。 4/14〜20大雨矢作川洪水。堤防破損。城内まで浸水(藩史)。 4/26〜29大雨洪水で浸水、御用番へ届け出(藩史)。5/4〜6洪水、挙母村破堤(郡史)。 5/滝脇町西洞36の春日神社本殿前に石灯籠一対。『奉納 御寶前』。7/滝脇町西洞31の長松院に石灯籠一対。『永代燈明』。 12/大内町長坂80の神明社に念仏塔(自然石)。   江戸城竹橋門に落雷。水野忠友、旗本より大浜藩1.3万石を領す。 越前・福井に大一揆。伊勢亀山に一揆。上田秋成の雨月物語なる。幕府、全国の人口調査。  臨済宗中興、白隠寂(84歳 1685〜)。
1769  明和  己  丑   6/8洪水・破堤(藩史)6/26洪水・破堤(藩史) 6/28洪水・破堤(藩史) 7/27洪水・破堤(藩史) 8/19矢作川満水樹木御殿に立ち退き(藩史) 8/21減水・帰城。(藩史)岡崎藩主松平康福、石見浜田に転封。本多忠粛、石見浜田より岡崎に移り5万石を領す(本多氏岡崎に定着)。京畿諸国疫病流行(1〜3月)。江戸大風・感冒流行。 賀茂真淵(1697〜1769)没。
   ワット、蒸気機関、開発
1770  明和  庚  寅   諸国災旱、
 琵琶湖水減少1丈(3.3m)
この頃、尾西地方に縞木綿の製織技法伝わる。 諸国凶作。  
    ヘーゲル(〜1831)生まれる。
1771 明和 8 九久平粟の谷下の水道中継所北東に如意輪観音  
 伊勢お陰参り流行。
京都積雪平地1尺。2〜8月旱魃。関西諸国洪水。 
八重山・宮古両群島地震M7.4
2/18九久平粟の谷下の水道中継所北東に如意輪観音(舟型座像)。   4/吉田の町人林正森ら、三河一国の地誌「三河刪補松」を著す。6/26矢作川洪水(岡崎市史)。7/9矢作川洪水。水量9尺余。樹木御殿に立ち退き(藩史)。7/22矢作川洪水。樹木御殿に立ち退き(藩史)。  尾張藩士土岐市左衛門知行地数10カ所が、減免を要求して名古屋城下へ強訴する。名古屋の大野惣八、貸本屋を開く。伊勢お陰参り流行。この年前後、渥美郡高師村で貢租減免運動。大原騒動(飛騨高山領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆:)。  4/24八重山・宮古両群島地震M7.4。   越前・唐津、越前、水戸、飛騨に一揆。   霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。
1772 後桃園・光格 安永 1 九州に津波 8/21大風雨、漬家15軒。(藩史)。  江戸火災(目黒行人坂火事)。大阪天満青物市場問屋・仲買株を公認。2/目黒行人坂火事、諸国凶作。  佐藤一斎〈佐久間象山の師〉生まれる。〜1859没。江戸後期の儒学者。美濃岩村藩(現在の岐阜県恵那郡岩村町)の出身で家老の子、江戸幕府の「昌平坂学問所」の儒官を努めた人物。門下生に渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎など。幕末回天の事業に大きな影響を与えた。(吉田松陰は一斎の孫弟子)名は坦。別号、愛日楼。中井竹山に学び、朱子学 を主とし、陽明学に傾く。林家の塾長、昌平黌シヨウヘイコウの教授となる。経書に訓点を施し、世に1斎点という。著「古本大学旁釈補」「言志四録」「愛日楼文詩」など。
1773 安永 2 4月冷気続く。6月伊勢大風 6/19大雨、矢作川洪水。(水量1丈3尺)、破堤城内浸水届け出(藩史)(郡史)。7/11矢作川洪水(岡崎市史)。 8/17矢作川通り堤防に横堤を築き竹を植え水勢を弱める。(藩史)。   大原騒動(飛騨高山領領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆)。秋田凶作。
1774 安永 3 京都・大阪1680年以来の大風雨。杉田玄白の解体新書なる 8/23矢作川洪水。(藩史)9/1大雨、矢作川洪水。(岡崎市史)。火事見物・見舞いを制する。8/前野良沢・杉田玄白「解体新書」刊。   良寛(1758〜1831)出家する。
1775  安永 4 宇治川洪水。鴨川洪水。 6/7大風雨、矢作川洪水。(岡崎市史)8/20大雨、矢作川洪水。(岡崎市史)  4/吉田の町人林正森等、三河一国の地誌「三河刪補松」を著す。この年、尾張藩士土岐市左右門知行の地数10カ村が、減免を要求して名古屋城下へ強訴をする。尾張藩地方目付役児島徳貫「御国法検地古伝」を著す。
 アメリカ独立戦争1775-1783    宗教改革の一端を担った清教徒(イギリス移民)がイギリスの絶対王政から民主主義を勝ち取った戦争。1773年、ジョージワシントンがアメリカ大陸軍曹司令官に就任(1771年とも)1776年にはトマスジェファーソン等が基本的人権、人民主権、革命権を唱える「独立宣言」を発表。1783年にアメリカ合衆国として独立するがアメリカの民主主義とはキリスト教と民主主義の正義のみならず,富の拡大や植民地支配を肯定し,後の戦争にもその考えは受け継がれている。
1776  安永    丙  申  平賀源内のエレキテル完成。 2月摂津風邪流行る。3月1753年以来の麻疹。
 アメリカ独立宣言。
 力や重要性を奪われた人々(黒人やアメリカ先住民はもとより女性も)が権力を得たり行使したりできることは意味しなかった。自由とは特殊な状況に無い限り、国花が国民の私有財産を没収したりできることは意味しなかった。その使途を命じたりできないことを意味するだけだった。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
1777  安永    丁  酉  長崎大風・津波。尾張水害。 6/矢作川洪水(上郷町史)。   大浜藩水野忠友、沼津2万石に転封。以後、沼津藩飛地。  大阪大火。新濃貢納延期の一揆。5/農民の江戸出稼ぎ制限。平賀源内、エレキテル完成。
 カール・フリードリッヒ・ガウス(1777〜1855) 19世紀前半人類最高の数学者ドイツに生まれる。 
1778 安永 7 三原山噴火。京都大雷雨。山崩れ。ロシア船、北辺に来航 岡崎城火災。京都山崩れで600人死。6/ロシア船、蝦夷地に来航。松前藩に通商を求める。長崎貿易輸出不振につき俵物の生産を奨励。
1779 安永 8 6/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。東国風水害。    6/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)東宮口六所神社、奥の院改築。松平六所神社に、松平 乗穏17391783 のりやす):三河奥殿藩の第3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。第2代藩主・松平盈乗の長男・・本宮修復(同集落郷倉の棟札・「松平町誌」)  7/23大風雨、破堤(藩史)。8/川端決壊(上郷町史)。8/25村々大雨、矢作川満水。破堤。田畑水腐(藩史)。11/3度々の出水で破堤。田畑損耗。城内浸水。樹木台へ引っ越し。御用番へ堤修繕費等願書進達。(藩史)。 7/碧海郡高棚村 ほか3カ村で助郷反対運動。10/17旗本領碧海郡安城村庄屋中川覚左衛門、救民を願い出て自害する。8月江戸出水。10月桜島噴火・三原山噴火。12/松前藩、ロシア船の通商要求を拒否。
1780 天明 1 6月関東洪水。  6/大水害(平井本郷教会蔵「平井村阿弥陀堂之伝」)。  8/大阪に鉄座、京・大坂に真鍮座。
1781  光格 天明    辛  丑  天明飢饉(〜89)。石楠町の津島神社に石灯籠 
 天明改革
 12/石楠町上藪39の津島神社に石灯籠一対。『奉○ 御寶前』。  5/天明改革。国奉行所の機構を改革し、代官の管地駐在により支配強化をする。この年以降、刈谷藩の10カ年賦返済御用金上納の返済要求運動おこる。上野で高崎譲を襲う一揆。
 「天明凶歳録」北田一左右衛門から:「在々8月下旬より、葛(くず)、蕨(わらび)、野老(ところ)などの根もの堀取りて餓渇をしのぎ、また冬中覚悟するといえども、大豆は少々実入これあるばかりにて米は一粒もみのらず、粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦(そば)は種もこれなきほどなれば、世上いよいよさわぎ立ちとやせんかくやせんと身のおきどころを知らず 云々」・・領内人数6万人余のうち3万人あまり死んだと記した。(「魔の系譜」谷川健一著)  頼山陽生まれる(1781-1832)。
 カント、「純粋理性批判」。
1782 天明 3 春〜夏諸国長雨洪水。小田原地震。
天明の大飢饉

 浅間山噴火死者2万。江戸でも火山灰3p積もる。火砕流によって麓の村はすべて地中に埋もれた。
 挙母城城郭、童子山にでき挙母・七州城と公称される。 (「松平町誌」)
 
1/細川平洲、の巡回講演会を尾張各地で開く。6/23矢作川洪水(水量1丈2尺)、田畑に砂が入る(藩史)。8/21矢作川洪水(水量1丈余)破堤漬家在り(藩史)。   この年、設楽郡鳳来寺山領19カ村の農民が悪政に反対して一揆。碧海郡八橋村で庄屋排斥運動おこる。  紀伊連年不作。漁業不振。
 7/浅間山噴火死者2万。江戸でも火山灰3p積もる。火砕流によって麓の村はすべて地中に埋もれた。冷害。
富士山噴火から76年を経て、この年・天明3年・幕府はほぼすべての領地を小田原藩に返し終えた。『近来は荒れ地もだいぶん元に戻り回復が一見してわかるようになった』(幕府直轄領から返還された村の記録より)
  小田原80年来の大地震。7/幕府、印旛沼、手賀沼干拓に着手。各地で打ち壊し。天明の大飢饉(〜87)流民化の始まり。
弘前町では、「8月18日 :(略)衣服道具味噌等迄安々に売払い雑具牛馬を捨て我も我もと秋田路へ行くこと引きも切られず、皆々幼少の子を負い或いは妊婦は腹をかかえて行き、盲人の手を引くものもあり、十八日より23日迄行く事付限昼夜、暮れに及ば神社に篝かがり火を焚き・・・略 ・・ 老いたるは子に捨てられ明き屋に泣き倒れ、幼は・・、目も当てられぬ事共也。」『平山日記』。乞食の者は日々城下を巡回し、発見した凍死者は直ちに片付けるよう命じられていた。 藩は、「非人小屋」「施行小屋」を設置。ここには何とか生き延びようとする飢人達が集まり、ここで飢えと寒さと疫病などで死亡するものも多かった。
       

 30万人に及ぶ餓死者が出た。死者の肉をも喰った。 
 
 

 村人の1/4が欠落
(かけおち)し、戸籍から抹殺された。(栃木県のある村の戸籍帳)
 彼らの多くは、江戸に彷徨い出た。
1783 天明 4 坂上町の観音堂に念仏塔。   11/15坂上町丸塚60-1の観音堂に念仏塔(兜巾)。矢作川洪水(倉地米吉集記)。   2/菅江真澄(渥美郡牟呂村生まれ。民俗学の先駆。加茂真淵門の植田義方に学び、名古屋の丹羽嘉言に漢学を学ぶ。)、三河から東北へ向かう。 5/1尾張藩校明倫堂を開講。綱紀の刷新、士風の振興を目指す。総裁に細川平洲が任ぜられる。この年、蘭方医野村立栄、名古屋で開業。宝飯郡八幡村(豊川市)の伝吉は、三河は江戸・大坂から隔たっているので穀物相場が変動し難儀であるので、値段を決めるようにしたいと幕府に出願。幕府勘定所から問い合わせがあったが、田原藩・吉田藩と連絡を取り、結局は「迷惑である」と、商売を考える商人の案を差し戻した。
  未曾有の凶作、弘前凶作。奥羽死者数数十万人。諸国に大飢饉(天明の大飢饉:明治維新以前の最大級の大量死。各地で一揆・打ち壊しを起こしたが、飢餓が本格化すると流民化し、食料を求めて城下町や他国・他領、更には江戸に流れ込んだ。一家全員が村を出ると、戸籍を抹消し「欠落ち
(かけおち)」となり「無宿人」となって物乞いを始めたり、やがては火付け盗賊とならざるをえなかった。
 当時の犯罪の7割が、これら無宿人によるものであった。戸籍のないものは、後見人がないので職にも就けず、飢えに苦しんだ。
 天明の6年間に、全国で140万人の人口が減少したという。)。大阪で打ち壊し。
浅間山噴火(1281年以来2度目).後、群馬県高崎市では、ダルマが日本一の生産地。これは、噴火の後生き残った人びとが、禅の基礎を築いた達磨大師を本尊とする少林山達磨寺に頼んで、達磨の型を造ってもらったことから、当時は農家の副業としてダルマ造りを始めた。現在は、日本一の産地となった。人びとの安全祈願の気持ちをこれに託している。
1784 天明 5 筑前で、漢委奴國王金印、発見 坂上町丸塚60-1の観音堂に、名号石。  10/日光川の開削工事がはじまる。   会津凶作。秋田飢餓民離散。疫病流行。秋より死者多し。出雲・上野に一揆。
1785 天明 6 7月江戸開幕以来の大水  六所神社 再建 「文字消えて読み難し」 (「郷社六所神社図記」による)
 6/17洪水、挙母村破堤(郡史)。 鞍が池の堤防が崩れ岩滝村、市木村の民家流失(挙母市史資料)。 内藤学文、樹木台に新城、挙母城(七州城)を築く。  11/河村秀根「書紀集解」を刊行。   12/ 新川開削工事がはじまる。   2/蝦夷地調査。 12/大阪町人らに御用金を課す。 江戸大火、琉球凶作。修験者:覚明、水行のみの軽精進で木曽御嶽登拝。庶民の登拝が盛んになる。
1786 天明 7 江戸開幕以来の大水で死者多し 9/6夜、大風雨、城内所々破損、村々漬家多数(藩史)。 将軍家治不慮の死・暗殺。(毒殺説:薬物中毒→田沼意次おきつぐの関与があったと思われた:大奥の陰謀か?)  4/ロシア船、千島に来る。
 幕府は、治安維持に手を焼く。 6/松平定信、老中筆頭となり寛政の改革始まる。町奉行所以外に、このような盗賊を取り締まる「火付盗賊改め」を設け、長谷川平蔵がこれを率いた。7/関東・陸奥大洪水。大凶作。
 8/老中田沼意次ら失脚、印旛沼工事中止。10/蝦夷地調査中止。江戸大火にて湯島聖堂焼く。大凶作平年の1/3。  天明福山藩一揆。年貢の月割先納などの収奪強化に対して蜂起した。  「蝦夷輿地之図」(北海道大学付属図書館蔵)による北海道の地図は、現在の地図とほど遠かった。
1787  天明  家斉  丁  未   寛政の改革
 (1787〜93)
滝脇町西洞31の長松院に地蔵菩薩
2/滝脇町西洞31の長松院に地蔵菩薩(丸彫り立像)『萬霊塔 月日 十方○○○○』。   1/15田原藩、領内にサツマイモの苗を植えさせる。この春、庄内川の分水工事完成。8/25洪水、挙母村破堤(郡史)。10/挙母藩校崇化館設立される。江戸新吉原焼失。   5/米価高く貧民苦しむ。江戸・大坂各地で打ち壊し(天明の打ち壊し)。飢饉により村から欠落した人びとを、江戸から元の村に返す「人返し」の無宿人施策を行おうとするが、国元の治安悪化を恐れて、この施策は実施されなかった。 大原騒動(飛騨高山領領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆)
 アメリカ、イギリスの植民地支配からから独立するために独立戦争の末に連邦制国家を形成。人民主権と三権分立を詠った合衆国憲法を制定。
1788 天明 9  4/4吉田藩主松平信明、老中となり後の寛政改革に参画。  
 寛政改革の主な内容(この改革は、厳しいもので、民衆や幕府内部からも不平。6年で終わる。)
財 政  倹約令
棄捐令(旗本・御家人の借金を整理)
農村復興  旧里帰農令(出稼ぎ制限、農業人口の確保)
飢餓・災害対策 囲米(諸藩に穀物備蓄を命ずる)
七分積金(江戸市中、町入用を節約) 
そ の 他  石川島人足寄場(浮浪人の収容施設・職業訓練)
昌平坂学問所(幕府直轄の教学施設)
寛政異学の禁(儒教:朱子学を奨励)
 京都大火(屋敷18.3万、土蔵8.1千)
1789  寛政      己  酉   6/17大雨・雷雨矢作川洪水。長興寺村掘り割り水門・山際堤が押し切られ、挙母町浸水。助船で立ち退き(藩史)。6/18終日大雨堤数カ所切れる(藩史)。8/15村々水害のため、漬家40軒に鳥目(銭)50貫文下ろされた(藩史)。9/9矢作川洪水(上郷町誌)。10/7大雨洪水起こる(岡崎市史)。  この年、本居宣長、名古屋に来る。  3/家具、衣服らの奢侈禁止。9/棄捐(きえん)令で、旗本・御家人の負債免除。囲い米の制。 大阪大火。旗本・長谷川平蔵、天明の飢饉によって、際限なく増加した「無宿人」対策を老中・松平定信に上申する。無宿人を集めて、技術を養成させ社会復帰を行わせようというものであった(「寄場起立」による:新しい養育所)。
 翌、寛政2年2/19、旗本の一人・長谷川平蔵が自ら提案した無宿人への技術養成施設・「人足寄場」の責任者となる。
 松前藩は、特殊な大名で、米で年貢を取り立てるのではなく、アイヌに米を渡して、アイヌからは鮭、ラッコの毛皮・鷹・蝦夷錦などを対象にした。しかし、松前藩の暴力的な支配に対して、国後アイヌの若者達が蜂起し、商人・飛騨屋の関係者71人を殺害した。松前藩は、クナシリアイヌの首長・ツキノエの協力を得てこれを鎮圧。蜂起した首謀者達を処刑した。以降、アイヌの人々による目立った反乱は起きなくなった。しかし、大阪で綿の栽培が盛んになるにつれて、松前藩は、北海道のニシンを綿の肥料に出荷すべくアイヌの人々を安い賃金で酷使し始める。
 フランス革命始まる。8/17から議論して26日に可決、「人及び市民の権利宣言」。後のフランス憲法に取り入れられた。
1790 寛政 2  2/松平 乗尹17771818 のりただ):三河奥殿藩の第5代藩主。奥殿藩大給松平家7代幕末に活躍した永井尚志の実父。・・松平六所神社本宮改築。(棟札・「松平町誌」)
  松平 乗尹(まつだいら のりただ)は、三河奥殿藩の第5代藩主。奥殿藩大給松平家7代。幕末に活躍した永井尚志の実父である。
安永6年(1777年)7月4日、第3代藩主・松平乗穏の四男として江戸で生まれる。父の隠居後は兄の乗友が第4代藩主となっていたが、兄の長男・乗詮が渡辺規綱と名乗って渡辺綱通の養子となっていたため兄の養子となり、寛政2年(1790年)3月6日の兄の隠居で家督を継いで第5代藩主となり、寛政3年(1791年)に従五位下・対馬守に叙位・任官し、寛政5年(1793年)に主水正に遷任した。
 しかし病弱であり、藩政の実権は隠居した兄に握られ、自らは日光祭祀奉行や江戸城門番役、大坂加番などを歴任しただけにとどまった。享和2年(1802年)12月2日に隠居し、家督は12月6日に甥で養子の乗羨が継ぐこととなった。
 文化13年(1816年)5月に出家して木斎と号した。文政元年(1818年)5月23日、奥殿で死去。享年42。
 2/岡崎藩藩医荻須恕因は名古屋の野村立栄を訪問。7/同じく、荻須の門人、碧海郡法性寺村(安城)の本多良作(荻須元良と同一人物=文化13年、法性寺村から堀之内村へ「出医師」となる)が訪問。 5/寛政異学の禁。藩校、多くできる。8/19伊賀八幡宮石垣、上里、西熊村等洪水にて壊れる。(矢作川)。 11/27刈谷藩の先納金等について連日農民集会。この年暮れ一揆。藩主は謹慎、藩領高13,000石を福島藩領・幕領とする。
  江戸の無宿人の授産・厚生施設「人足寄場」、隅田川の河口にある島の一角(今の東京都中央区)に造られた。
2/28仮小屋が完成。最初は20人を選んで、ここに人足として入れた。『その方たち 心を入れ替え 技能を身につけよ。自立できると認められれば、ここから出所させる。』「寄場起立」よりここでは、大工・桶造り・縄造り・鍛冶・元結い・紙すきなどの職業訓練を開始。中でも、役所で使った紙のリサイクル紙が安くよく売れた。売り上げの2割を差引いて、8割を人足達に与えた、これを社会復帰の資金として貯金させた。人足達は水玉模様が入ったお揃いの半被(はっぴ)が与えられた。出所が近くなると、水玉模様は少なくなっていくようになっていた。長谷川平蔵は、人足達の就職先を捜した。しかし、収容所から抜け出るものも現れた。そこで、道徳の実践を説く「心学」を月に3日行って、働く意欲を湧かせるための精神教育を行った。5月第一期の修了者が出た。
 
1791  寛政    辛  亥   8/21村々大風雨、城内所々破損。漬家35軒。郷倉一カ所(藩史)。 6/尾張藩、木綿統制令を発布。   1/江戸市中、男女混浴を禁止。
 フランス革命後、9/3フランス憲法。
1792 寛政 4 雲仙噴火、水害津波死者多し。  7/13村々大風雨、矢作川洪水(水量1丈3尺)(藩史)。  尾張藩が藩札(米切手)を発行。 この年、鈴木朖、本居宣長に入門。本居宣長、紀州藩に仕官。   9/ロシア使節ラックスマン根室に来航、通商要求。露人、択捉島に上陸。  江戸大火。  北海道のラッコの毛皮に目をつけたロシアのアダム・ラックスマンが通商を申し出た。   
1793 寛政 5  大御所時代
(徳川家斉93〜1841)
 2/伊予吉田藩、吉田領一揆。7/24三州挙母辺大雨、矢作川洪水。堤防破損(藩史)。 寺部村矢作川堤防造築成る(三河国西加茂郡誌)。この年、岡崎藩が財政改革を実施。伊藤屋(今の松坂屋)岡崎に支店を出す。   本居宣長、学問普及のために上京し、近江・美濃・尾張を経て帰る。 江戸大火。 
1794 寛政 6 挙母村と梅坪村、矢作川水車利用につき論争となる(豊田市所蔵文書)。6/4尾張藩の国奉行を地方勘定奉行と改称する。尾州本屋仲間成立。    9/幕府、酒造制限令緩和。 江戸大火。  本居宣長、紀州藩主・徳川治宝侯の前で講義する。
1795 寛政 7 東広瀬経塚 8/合歓木村正願寺西方矢作川堤防損壊(六美村誌)。  東広瀬経塚。  大垣凶作。江戸、女髪結いを禁止。
1796  寛政    丙  辰   2/英人ブロートン、海図作成のために室蘭に来航。
 ダーウインの祖父(エラズマス・ダーウイン1731〜1802)「ズーノミア」で、進化思想を展開した。
1797 寛政 9 江戸大火。江戸中、隠密と称して脅迫するものを告訴させる。宝暦暦廃し、寛政暦となる。
1798 寛政 10 京都、方広寺落雷で焼失。本居宣長「古事記伝」全44巻完成。近藤重蔵、択捉島に至る。
1799 寛政 11  8/9矢作川大洪水(郡史)。8/19洪水、挙母村破堤(郡史)。   本居宣長、門人・稲縣大平を養子にする。役行者(えんのぎょうじゃ)千百年遠忌(おんき)
                        
                                             
                            前の歴史へ   後の歴史へ           「世界観」へ 
                      

参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    17 「松平郷」  豊田市
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 19 「松平郷館」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868〜) 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 27 古代世界への旅  Newton別冊   
13 「日本史事典」  岩波書店 28 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 河出書房 ユヴァル・ノア・ハラリ著   
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会  29 「道を極める  −日本人の心の歴史」 魚住孝至著 放送大学教育振興会   
15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3