HOME Information 天下峰巨石 歴史 1 歴史 2 巨石・磐座 巨石・岩神

巨石信仰の史跡を訪ねる−2
環状列石・岩壁編


参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会

 中根洋治 著 平成14年発行
貴方はアクセスカウンター番目のお客様です。ようこそ! 
Link  巨石信仰の史跡を訪ねるー3:岩神編   
 環状配石遺跡:旧足助町の今朝平遺跡 旧東加茂郡大字今朝平
 
 環状配石遺跡は、愛知県下以西にはあまり無い。

 直径7.6mの環状配石で、長径は40〜50p、短径20〜25p,厚さ15〜20pの楕円形の河原石が並べられてある。
 中央には菱形の石囲い(40p角)があり、その中に獣骨らしき骨の入った甕(かめ)型土器があった。
 その土器の年代は縄文時代後期前のものといわれ、出土時には割られた状態であった。一部には楕円形に石を並べられたところや、真南に当たるところには直径1mほどの扁平な石も置かれていた。
 また、長径35pの扁平な石があった。これの周りから石鏃(せきぞく=矢尻)9点発見されており、扁平な石の上で研磨した痕跡が見つかっており、長さ10p程の黒曜石が近くから発見されている。


 なお、環状配石の内側には、現地では見られない黄色い土が運び込まれて覆われていた。
足助川の右岸台地上にある。現在の保健所の東側にあたる場所である。
この保健所を造るときに事前発掘調査で昭和54年に発見されたものである(県文化財指定)。
発掘品は「足助資料館」に展示されている。
 なお、この環状配石の上層には、縄文時代後期中頃の男根形と思われる石棒(長さ35p)・石剣・注口土器が100個程出土した。注口土器は、男性を表すものだといわれるが、一方、女性の土偶(高さ7p)も4個発掘されている。また、人骨らしきものも発見されたが、獣骨もあり、周囲に墓(甕棺)が複数発見された。調査区域が一部分に限られていたせいか、ここには住居跡は発見されなかった。このような状況からすると、当時、祭祀の場として使用されていたと推定された。
上記の環状配石の東隣には、小型の環状配石2号も発見された。
 この他に、旭町大砂遺跡にも同様な環状配石と認められるものがあった。
 径はおよそ16m。環を描く帯の幅は50〜80p、時代は、縄文時代中期のもので、円の中央部には径30〜50の礫(れき)が積み上げられており、その下には甕棺が、そして、ここでは周辺部に4戸の竪穴住居跡が発見された。
旧足助町 馬場遺跡  
旧足助町 木用遺跡(矢作川の阿摺川との合流点付近)にも、環状配石遺構が発見されている。

          岩 壁 編
 鳳来寺山の屏風岩   鳳来寺町大字門谷         鳳来寺山に詣でる


 左の写真の右にある社(やしろ)である。この社から更に険しい
参道が上につながっている。
 社の右側裏には小さな売店がある。そこをず〜っと歩いていくと、上左の風景が見える。 
 岩壁の高さ約60m、長さ100m以上。この岩壁が信仰対象の中心であった。写真中央は鐘楼、右下は本堂である。
十返舎一九の「一九の紀行」(1815)によれば、ここは推古天皇の勅願によって利修仙人(役の行者の弟子)の開創と著されているという。
寺の創立は文武天皇の世、大宝二年(702)とされ、薬師仏を奉伺し、「煙厳山勝岳院鳳来寺」と称された。参道の階段は1425段ある。
鳳来寺山の山頂は標高が695mあり、頂上は瑠璃山とも言われる。この山一体は、流紋岩・松脂岩・凝灰岩などで構成されていて、およそ2000年前には海底であったところが、後に隆起し激しい火山活動などで噴火し、その後気象変化などの影響を受けて、複雑で険しい地形となっている。国の名勝・天然記念物だ。
 この屏風岩は、流紋岩が熱によって変成された松脂岩だそうだ。
 屏風岩の基部は昭和41年に発掘調査された。「堂行堂」の旧地・即ち現鐘楼の裏付近から、陶製の経筒と共に、同時代の和鏡・刀子・銭貨・香盒等多数が発見された。平安時代から鎌倉時代初期のものと判定されている。
 岩の途中に人骨が埋められてあったり、鏡が途中に引っかかっていたので、上から投げられたと思われる。これは罪と汚れを「かわらけ」にうつし、祓い捨てる滅罪の行事、今行われている「かわら投げ」と同じ意味であったと考えられる(「鳳来寺山文献集成」より)。
頂上を目指すと、尾根に「巫女石(みこいし)」と「高座石」と称される岩がとび出ている。
 まさに天孫降臨のお話のようだが、巫女石とは巫女が天から舞い降りたところであり、高座石において仙人が座って八人の巫女達に教えを説いた岩であるとされている。
 鳳来寺の名称は、中国の伝説「蓬莱山」に通ずるところがあるのであろうか。中国の秦の時代に、除福が”不老不死”の蓬莱の地を求めてこの東海地方にも来たという。
 さて、鳳来寺山はいろいろな巨石巨岩が多く、古くから修験道場としても有名なところである。
また、
 天平年間には聖武天皇の帰依を受け、後には歴代の将軍のための天下安全・武運長久の祈祷書でもあった。
 鎌倉時代には、頼朝(1160年3月11日平治の乱で源氏は平氏に敗れ、頼朝は伊豆に流された。)がこの堂宇を再建したとも伝えられ、
 戦国時代には、豊臣氏(1537年2月6日豊臣秀吉、愛知郡中村に生まれる。)が300石を寄進し、
 徳川広忠夫妻が、家康誕生(1542年12月26日、徳川家康、岡崎城に松平広忠の子として生まれる。父広忠17歳、母お大の方15歳。)に際し快童の出産を祈ったことは有名な話である。そのためか江戸時代の三代将軍家光が慶安四年(1651)に東照宮を建て、現在山門と共にこれは国の重要文化財になっている。
 鳳来寺本堂建設の基礎工事の際、ここから『鬼の骨』と金文字が彫られた石棺が二つ見つかった。大きさは縦横30p程で、蓋を開けてみると中に火葬されたと思われる人骨が納められていた。人骨の容器には”慶安四年(1652)改納”と記されていた。鬼の骨は、利修仙人が入滅した折りに、仙人お着きの鬼が仙人の死と共に殺されてここに埋められたものと伝えられている(平成4年鳳来町発行「郷土を見つめて」山本一三二氏の記録より)。
松尾芭蕉、弟子を伴って鳳来寺を参詣。   ”こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな”
 この時病おこりて麓の宿に一夜あかす。   ”夜着ひとつ 祈出して 旅寝かな”
鳳来寺火災の記録は、文久三年(1863)、明治八年、明治二十五年のものがあった。


   熊野神社の二段岩壁       足助町下国谷
 標高302mの山頂にある神社は、
周囲の集落から一番高いところにある。

 神社は、大字下国谷の他に、
大字鏡も氏子になっている。

 ここから十三〜十四世紀の頃と
思われる土器が発掘され、
古代から中世にかけての
祭祀遺跡であろうと推定された。


下段の岩壁(四面あり屏風状)
鳥居の南に庇(ひさし)の様になった岩が先ず目に入る。高さ3m、長さ6m程で、雨除けになるので物置代わりに使われている。
鳥居を潜って境内にはいると、檜と思われる大木が一本あり、その根は石垣を持ち上げている。
この神社の北方400mほど、尾根伝いに歩いていく。途中怪しげな四個ほどの岩の塊があるが、2〜3分下った道を行き、再び登ったところに岩山がある。これが「山名遺跡」である。
 上段の岩山は高さ13m、長さ20m程のほぼ垂直のもの。
下段にも岩の壁があり、高さは4m程だ。上下とも三つの岩が重なっているようでもあり、一つの岩が屏風のように折りたたまれているようでもある。岩の間の隙間が見つからないのが不思議である。この上下段の岩壁の間は幅が3〜8m、長さ30mの平地になっている。

 昭和40年、台風によって上段の岩の上の松が根こそぎ倒れ、倒れた松の根には制作時期不明の土器片や十三〜十四世紀頃の山茶碗が出土した。
 また、上段と下段の間の平地にも時期不詳の須恵器の破片や灰釉陶器の椀の破片が見つかった。これらの土器片は上から捨てられたものか、それともここで使用し壊されたものかは不明だそうである。
 この遺跡の北は絶壁であって、ここから190m程下を巴川が流れている。
   元観音の岩  足助町大字上脇字スズミ木


右は、東側のひさし上の岩 
 観音堂の下の峠に小さな馬頭観音がある。

 そこには道しるべが彫られている。

 『左 ぜん光寺・あすけ、

 右かいご・下山
(しもやま)』となっている。
 元観音は、この付近の山頂にあり、鏡のような垂直な平面の岩が南と北にある。その高さはそれぞれ10m位。この岩を南に回ってみると、岩と岩の間を急な斜面ではあるが潜り抜けできるところもある。
 また、東側には庇状に突き出た長さ10m、最大幅5mのほぼ水平な天井のような岩は素晴らしい景観である。一時期にはここに梯子が掛けてあったそうだ。
 頂上は、水平な平場が二段になっており、その正面には「天授神霊」と彫られた小さめな祠(明治時代の作)がある。
 昔はここに観音様が祀られていたが、今は下方の峠の所に移されているので、この頂上を「元観音」と呼ぶという。
頂上から東を眺めると高い山が見えるが、地もとの歴史研究家のお話に寄れば、「そこを『日陰砦』といい、武田信玄の軍はこれを攻め落とし、次いで岡崎方面を伺っていた所だ。」という記録があるという。
頂上から北側にも不動岩と言われる岩壁の岩場がある。

 南から見る岩は丸っこいが、北から見ると垂直の面が高さ9mほど伸びている。

 垂直の面が二方向にあり、南へ伸びる面に対し、幅1m程の隙間は階段状になっていて、一番奥の高いところに弘法大師と役の行者が座っている。

 これは石室の中に入った状態だ。
お不動さんの祀ってあるところは、他の地区の例でも地狭とか滝など地形のきわめて険しいところに多い。
 
 この当たりには飛び出たような岩とか岩屋のような岩など特異な岩が沢山ある。

 これらを含めて頂上のこの不動岩が信仰の対象になったと思われる。
 観音堂の下の峠に小さな馬頭観音がある。そこには道しるべが彫られている。
 『左 ぜん光寺・あすけ、右かいご・下山』となっている。
 巴川から東の人々は、江戸時代以前には川沿いに道がなかったらしく、この高いところを超えて足助経由で信州に向かったらしい。


   正月神     豊田市・足助町境界

高さおよそ30m


岩の根本にある正月神


 
山木(ざんぎ)地区の正月神
 豊田市幸海町と足助町大字霧山字山木(ざんぎ)及び霧山字三軒(本郷)の三地区が、正月15日の早朝、打ち揃ってか細い山道を通り、御幣・御神酒・御供物を携えて「正月神」に参るという風習が古くからあった。

 この場所は巴川の右岸にあって最も急峻な所である。標高250mの横山の頂上あたりの東面だ。

 ここへ行くには、霧山の白山神社から南へ山木地区に入り、尾根の畑から巴川の上流へ向かう。

 途中に、巨岩の下部がナマズの口のように開いた洞窟がある。

 ここで、昔、地元の人々は雨宿りしたという。昔は、三地区の人々がこの山頂で、正月の日の出を拝んだという。
巴川の中に「正月神の井戸」と呼ぶ甌穴(おうけつ)がある。その穴に溜まった砂を取り除きお祓いをして雨乞いが行われたという。
山木(ざんぎ)には、昭和の初期まで尾根に5〜6軒の民家があったという。
初期の最も古い足助街道はこの尾根を通っていた。
尾根には、戦国時代の名残の酒呑(さちのみ・しゃちのみ)城跡・則定(のりさだ)小畑(おばた)城の跡もある。
幸海町は、昭和37年まで酒呑という地名であった。サチノミは獲物の豊かな所という意味で、この地区の小字名を見ると原始時代を思わせる地名ばかりである。
 酒呑の中心地には九千年前のジュリンナ遺跡がある。
 この岩場の根本には、三つの祠があって、各々の地区の持ち物だそうだ。最近は、山木の村民四軒の人たちのみによって新暦の1月15日にお参りされているのみで、他の二つの石祠は荒れている。「正月神」とは、先祖霊であり作神である(「石神信仰」大護八郎著)という。


   熊野神社裏の岩壁    足助町則定
 則定の本郷から裏山を登ると、その中腹にある。江戸時代の則定陣屋跡に則定小学校が建てられたのであるが、神社はその小学校の裏にある。
 さて、かつてこの地を領したのは鈴木家であった。初代の鈴木重次の子に、かの鈴木正三がいる。
 以下、正三禅師の歴史を集めてみた。・・・・苦縁讃
1394年
応永元年
 中島郡下津(おりつ)の伝法寺跡に、通幻寂霊を勧請開山として、小牧市に正眼寺(しょうげんじ)建立。千鳥寺(千鳥町梨ノ木:この地方の曹洞宗の中心寺院)、足利義満の子天中良運が、弟子達を伴い創建。
 後
(1623)に鈴木正三がここで荒行。
1579年
天正元年
 鈴木正三、則定村の徳川氏に仕える家臣の鈴木重次の長子として誕生。通称は丸太夫。正三は俗名。 この年、家康長男信康、自殺。
1615年
元和元年
 鈴木正三、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣の武功により旗本に叙せられ加茂郡内で200石を賜る。出家するまで、駿河、大阪、江戸で過ごす。  8/10徳川義直、木曽山及び美濃の地3万石を加封される。
 4/大阪夏の陣。豊臣氏滅亡。武家諸法度・禁中並中公家諸法度・諸宗諸本山法度を制定。
1620年
元和6年
 鈴木正三、42歳で厭世を理由に出家。(彼は出家する前からたびたび寺院に寝泊まりしており、当時の有名な禅僧の数々と親交があった。) 得度式には、臨済宗の大愚和尚が戒師を務めたらしい。守綱寺:寺部町2丁目、旧寺部領主渡辺氏の菩提所として、初代半蔵守綱が没したので、二代重綱が墳墓を設け現在の地に創建。 
  桂離宮創建(〜1624)。   メイフラワー号、米大陸へ漂着。
1623年
元和9年
 鈴木正三、帰郷して千鳥山中で荒行に励んだり、矢並町の医王寺の修復や、阿弥陀堂(山中町浄心寺)の建立や二井寺(旭町押井)の再建。イギリス船、日本から撤退。  この頃、桂離宮、創建。
1632年
寛永9年
 
 故郷に、石平山恩真寺を創建。 「日本思想史」 中村 元 東方出版
1644年
正保元年
 中町恩真寺の梵鐘鋳造。鈴木正三の銘「願主 正三道人」。 西尾藩主太田資宗、浜松3.5万石に転封。井伊直好、上野安中より西尾に移り3.5万石を領す。松尾芭蕉生まれる。  清、明を滅ぼす。
1648年
慶安元年
 鈴木正三(69歳)、恩真寺から住まいを江戸に移し民衆を教化する。 守綱寺に創建者重綱、鐘楼を寄進。市内では最古のもの。文化財。
1655年
明暦元年
 6月25日午後4時:鈴木正三 江戸の神田にて没。享年77歳。
 8/10洪水で堤防決壊し、衣城下浸水
(城沿革小史続編)。 
 そこで、「鈴木正三」に関する歴史資料を確認してみた。(苦縁讃) 
 
  ・・・鈴木正三禅師の功績は世界的に知られている。仏教史に与えた影響は計り知れない。
 ところで、彼の著書には以下のものもある。

 ◇ 破吉利支丹   ◇ 二人比丘尼   ◇ 萬民徳用




上と右の写真は、「二人比丘尼」の写本のコピーである。

また、一番右は「破吉利支丹」明治22年製本のコピーである。
 
 
☆ 中村 元 著 「日本思想史」 東方出版 によると、次のような解説があった。(抜粋)
『万民徳用』  『破吉利支丹』
  鈴木正三の思想のもっとも著しい特徴は、仏道とは世俗的な職業にひたすら励むことであるとの主張にある。この考えを明らかにするために、彼は『万民徳用』と題する書物を書いた。これは彼の信奉者によって彼の主著であると一般に認められている。(略)彼の見解によると、どのような職業も仏道修行であり、それによって誰でも仏になることができるとする。 云々  (略) ・・・注目すべきことは、彼が「破吉利支丹」を著してキリスト教を攻撃したことである。
 当時の日本人がキリスト教を、邪法・魔法・妖術として簡単に退けていたのに対して、彼はそれに理論的な批判を加えたのであった。
 当時の仏教とはキリスト教の問題に直面すると、一般にただ空しく傍観していただけであったが、正三は進んでこの問題を取り上げ、単なる中傷や悪口で足れりとすることなく、その教義に対する論理的検討を行った。
 この事実は、思想家としての彼の見識を示すものである。 云々。
  同書によると
 
日本における近世のごく初期において、もしそのまま発展したならば,資本主義の精神となったであろうと思われる仏教の一局面が認められる。それは、禅僧鈴木正三およびその門流によって唱えられた職業倫理である。この教説がどのようなものであったか、また同時に,それがどうして現実の主教および経済運動にまで発展しなかったか、と言うことを以下に検討してみたい。
 鈴木正三という仏教者は、日本仏教史上でほとんど無名の存在である。『日本仏教史』『日本禅宗史』といった類の書物のなかに彼の名を見いだすことはほとんどできない。さまざまな仏教大辞典のなかにさえ、彼の名前は挙げられていない。それにもかかわらず、彼が提唱した仏教のうちには、数々の注目すべき近代的要素が見いだされるのである。
        として、彼の思想全般にわたる顕著な特徴を、以下(要約)のように述べている。
 彼の思想全般にわたる顕著な特徴は、その横溢した批判精神である。まず彼は古代からの伝統的な仏教諸派に対して、常に極めて批判的な立場をとり続けた。彼自身は曹洞宗に属していたが、宗祖道元の教説に対して痛烈な批判の語を浴びせ、道元自身が究極の悟りに達していなかったのだと考えた。さらに彼は日本仏教の諸宗祖の権威を認めず、また、中国以来の有名な禅師の一人ひとりに批判を浴びせた。
 彼は特定の個人ないし集団の権威を認めなかったが、佛に全身全霊で帰依すべきことを唱えた。 (略) 彼は過去の教団や教団を創設した特定個人の権威を徹底的に否定し、ただ自己だけに全幅の信頼をおいて、佛と直接的に対面しようとしたのであった。
 彼の無宗派的性格はこのような見地に基づいて成立した。彼はとりあえず曹洞宗を奉じていたが、臨済宗の諸師とも親しく交わり、中国の普化
(ふけ)の思想に傾倒していた。そしてまた、一般在俗の人々に対しては念仏を勧めた。彼自身は玄俊(げんしゅん)律師から沙弥戒を受けており、いわば全くの自由人であった。事実、彼は「自由」という語をひんぱんに用い、仏道修行の目的は「自由」の実践であると主張した。 (略) 当時のさまざまな封建倫理に反対して、さしたる効果はなかったものの、それらを改革しようと努力した。江戸時代の他の仏教者で、彼くらい封建倫理に批判的だったものは少ないであろう。 (略)
      次に、職業倫理についての特徴を挙げている。 
 大規模に職業倫理を展開させたのは、日本仏教史上、彼がおそらく最初の人であった。  (略)
 蓮如は、『御文章』に世俗の職業生活は、「あさましき罪業」からなるものであるとし、なお中世的な職業観がぬぐい去られていない。・・が、これに反して、正三の主張はもっと積極的である。
 「世俗の職業生活は仏教と矛盾しないどころか仏教そのものである。」と、仏教の本質は実社会での職業道徳の実践であると言うことを唱道した、仏教史上最初の人であると、彼自身が考えていた。
 昔より僧侶につき道多しといえども、みな仏法知りに成りたるばかりにて、世法万事に使うということを云いたる人一人もなし。
 有りもこそせんずるが、今までに終に聞かず。大略我が云い始めかと覚ゆるなり。  ・・・「驢鞍橋」 
  管理人意訳: 昔から僧侶は多く、それぞれ宗派もあるが、どの僧侶もよく修めてその道に深くなりその派の権威者には成ろうと励むが、世間のすべての衆生にたいして法に照らして当てはめよう・掬い取ろうとする人は一人も居ない。
 存在したかも知れないが、私はそのような僧侶は聞いたことがない。 ざ〜と観て、私がその始めかなぁ。 
 「修行は、世間にあってしたるがよきなり」・・・「驢鞍橋」 正三は市井の仏教徒としてその生涯を終え、民衆に即した仏法を説いた。世俗生活の宗教、一般大衆の宗教をめざして正三は、禅宗の僧でありながら、ついに修行方法としては座禅を排斥するまでになった。 (略) 坐禅をしないようにと公然と人々をいさめた禅僧はおそらく彼が最初であったであろう。
  しかし、正三のような主張は、当時の封建社会では受け入れられなかった。
 
「われ八十年苦労せしかども、誰でも聞く人なく、時に逢わず、ただ打ちくさるまでなり。あまりの悲しさに、今こそ見る者なくとも、末世に残し応縁の者を待たんと思うてこれを書くなり。」  ・・・「驢鞍橋」 
 管理人意訳:私は、80年近くの年月生き(教道の)苦労してきたけれども、誰も、真に耳を傾けて私の話を聞くものは居なかった。時流に合わなかったようだ。 このままふり返られないまま、わたしは死にこれまでの苦労は徒労となるだろう。
 そう思うと空しい。・・が、今、このように私の話に耳を貸さないとはいえ、後の世に書き記しておけば、ご縁によってこの気持ちに答えてくれる人が居ると信じている。そう思ってこれを書いているのだ。   
<これこそが、「不退転」の体現者である>
日めくりカレンダー 「鈴木正三和尚金言集」より   豊田市鈴木正三顕彰会 平成20年11月発行  
表紙   義は己にありて 万事にわたれり   「麓草分」 より  義は誰も持っている良識のことである。いいかえれば、正しいこと,そうでないことを見分ける能力のことである。それをお互いに磨きだして、毎日の仕事や暮らしに生かしていこう。そうすれば、世の中うまく整っていく。
1  何事も功を尽くさば 必ず 徳備わるべし   「驢鞍橋」下26  たとえわずかずつでも年月を重ねて努力すれば、必ず身につくものがある。自分の生き方を点検して努力を重ねる人になりたい。
 総じて切れた心なくしては 物は成ぜぬとなり  同 下13  切れた心とは、思い切った心、決断の心、勇気ある心である。
 やろうかやるまいかと迷う心ためらう心では駄目。思い切って実行しようとする心こそ、物事を成功に導くかぎである。
我 今度 娑婆に出て 何の詮も無く 死するなり 同 下130   娑婆というのは,この世のこと。自分で自分をほめてやりたいような、そんな仕事をしたい。なかなかできることではない。人の人生は死ぬまで努力の積み重ねだ。 
我になき事を云い聞かせて 人に示すべからず 大いなる咎なり
機の位だてを云って いかずけな振舞すべからず。
  同 下49 
 自分に備わっていないことや自分にはできないことについて、「それはこうでなくてはならない」「こうすべきだ」などと、さも自分は完全であるかのように話してはならない。
 「気合いが入っていない」と人をどやしつけるような行為である。 
恐れず,驚かず,退かず、不動不変にして、一切の主人公となる。
                         武士日用 
 いかなる場面に遭遇しても恐れず,驚かず、退かず。
 少しもひるむことのない勇猛心、不動心をもって、人生の主人公となれ。 
総じて人を悪くいわば、我がよき者になると思うていうものなり。 
                      「驢鞍橋」下54 
 人の悪口を言うことは、人の悪口を言っただけ自分の価値が上がり、自分が偉い者になると思うからである。
 まったく愚かしい錯覚だ。 
心を自由に使って、世界の用に立つべし。      同 下49    心を広くもって、思い切って行動すれば,必ず、世のため、人のためになる。がんばろう。
吾が身を思う一念を退治せよ。        「武士日用」   「自分が・・」「自分が・・」と自分だけを大事にしようとする。
 それが苦しみの根源となる。自分の身だけが何よりも大事だと思う心を退治しなければならない。 
一切の所作 皆もって 世界のためとなる。  「職人日用」   どんな仕事でも、どんな小さな行いでも、皆、世のために役立っている。世の中は互いに助け合うことによって成り立っている。自分のやるべきことに、全力を注げ。 
10  己をかえりみて 己を知れ       「盲安杖」   知識をたくさもって、物知りとなったとしても、自分自身のことがわからなくては、他のことがわかるはずがない。 
11  我が命の惜しきをしらば、小さき虫に至まで、心をとめてみよ 「盲安杖」   自分の命を大切にしたいと思うなら、他の生きものはもちろん、小さな虫にも心を止めてみよう。 
12  愚者は己を楽しみて 人を忘するる    「盲安杖」  自分の楽しみだけを求めるのは愚かなことだ。
 自分のことだけを考えず 他者に対して,恵み、救い、助けようとする心をもちたい。 
13 修行に赴く人は、浅きより 深きに入り 
 麓の草を分けて 頂上に至るべし。
       「麓草分」 
 山の頂上をめざすには その山の麓から、1本1本草をかき分けて登っていかねばならない。 いきなり頂上にはつけない。 
14  一紙半銭も おろそかにせず       「麓草分」   目的を達成するためには、また、人々の役に立つためには、たとえ一枚の紙でも、わずかなお金でも、おろそかにしてはならない。 
15  万過はただ己に負けて、私の心生ずる処にあり。
 己に勝を勤むるのみ。
     「石平道人四相」 
 自分の弱さに負けて,自分をかわいがりすぎるところに、いろいろな問題が起こる。
 「己に勝つ」心をもち続けたい。
 正三和尚は,自分に勝つ心を「沈む心」といっていた。 
16  東へも西へも 行かんと思い 一歩ずつ運べば
 必ず行き着くものなり
        「驢鞍橋」上27 
 目的地に向かって、一歩一歩進んでいけば、必ず、到達できる。
  目標を立て、小さな努力を積み重ねよう。 
17  何れも心をつけて 書を見れば 徳を得るべし   「驢鞍橋」上120   心を込めて書物を読めば,必ず、役に立つものだ。
 問題意識をもって、本を読むことを大切にしよう。 
18  人、我を憎むとも,我、人を憎むべからず   「驢鞍橋」上124   人が私を憎んだとしても,決して、人を憎んではならない。
 人に憎まれる自分に、何か落ち度があるのではないか。自分自身をふり返ってみよう。 
19  自分を顧みて、餘所の笑いを知るべし  「驢鞍橋」上169   たいした事でもない事を自慢して、他人から笑われていることもある。
 特に若い人は、気をつけよう。 
20  一粒に、百手の功当たる。   「驢鞍橋」中46   正三和尚は,食事の時におっしゃった。「米一粒にも、多くの人の苦労が詰まっている。無駄に食べるではないぞ。」と。
 感謝の心を忘れないでほしい。 
21  思いを達せぬ者、汝一人のみに非ず   「驢鞍橋」下121  自分の願いを十分達成できなかったといって、悔やまなくてもよい。
 誰もそれぞれに努力し続けている。
22  人の痛みを知らずして、空しく一生を過ごさば、人倫に非ず  「反故集」   自分の周りの人に気配りせずに、自分の幸せだけを求め続けて、一生を過ごすならば、それは、人間としての道をはずれることになる。 
23  瞋の心強き人は、ものごとに、憤り強くして、人を憎む心甚だし。 「反故集」  「(いかり)」とは、苦楽にこだわり、不快なものに対して怒ること。
 の強い人は、いろいろなことに不満を多く持ち、どんなことにも腹を立て、人を憎む心が強くなり、感謝の気持ちをもつことができない。 
24  生死を知りて 楽しみ有事  「盲安杖」   死を知って生を知り、生を知って死を知る。人は、生老病死を深く思い、考え、そのことに目覚めることが必要である。
 目覚めたときに、自分の生きがい、「楽」に気づくことができる。 
25  物毎に 他の心に至るべき事   「盲安杖」     本当に自分自身を大切にしたいと思うなら、他人の視点に立って事々を見聞し、思い、考えて行動することが必要だ。 
26  己を忘れて 己を守るべき事  「盲安杖」   私欲にまみれた自分を捨て、本当の自分を見つけ、本当の自分を育てていこう。 
27  立ありて、ひとり慎むべき事   「盲安杖」   志を大きくもって立ち上がることは大切なことである。
 しかし、それから独りよがりや傲慢になってはならない。
 常に自らを慎み、一歩引き、謙虚さをもつことを忘れないようにしよう。 
28  小利をすてて 大利に至るべき事    私利私欲にかかわるものは小利であり、公利公欲につながるものが大利である。
 利己心による小利を捨て去り、公利心による大利に至れ。 
29  心に心を恥じて 誠あることを知れ   「盲安杖」   自分のことを第一に考えて行動することは「誠」ではない。
 他人に対して恥ずかしいと思うのではなく、自分自身に恥ずかしいと思い、「誠」の道をめざせ。 
30  農人なくして 世界の食物あるべからず
 商人なくして 世界の自由成るべからず
  「万民ん徳用」 
 農業がなければ、私たちは食物を口にすることができない。 商業がなければ、いろいろな品物を手にすることができない。
 人は皆、助け合って生きている。視野を広く世界に向けて、自分の務めを果たしていこう。 
31  我、人を打てば 人また我を打つ 
 人によく向かえば 人また我によし
   「驢鞍橋」上50 
 誠意をもって人に接すれば、人も誠実な態度で自分に接してくれるだろう。 
 
同・  鈴木正三和尚ゆかりの文化財など
 文化財等 場 所  文化財等  場 所  文化財等  場 所  文化財等  場 所 
正 三 坐 像 心月院   「驢鞍橋」全六巻版本 恩真寺  正三開基の心月院 豊田市則定 正三開基の十王堂  足助町
 正 三 坐 像  長泉寺・東京八王子  正三和尚墓塔 心月院 古墓  正三修復の寺・医王寺   矢並町
 正 三 坐 像  報慈寺・彦根市  鉄鉢・正三使用 正三史跡公園  建立の寺・浄心寺  山中町 
 正 三 坐 像  能仁寺・大分市 「 正 三 杉 」 正三・重成像  正三再建・二井寺
(現普賢院) 
押井町 
建立した寺・恩真寺  豊田市山中町 正三修行の岩穴  豊田市山中町  正三再建・本郷薬師堂 正三銘の梵鐘  普賢院 
 正 三 坐 像 恩真寺 正三修行の滝  正三記念館  鈴 木 神 社  熊本天草市 
 正三銘の梵鐘 正三座禅した石  正三修行の千鳥寺  豊田市千鳥町  東 向 寺   同

 

    鈴木正三は、関ヶ原の戦いにも従軍したが、その後この地の岩の上や洞で修行を重ねて禅僧となった。弟の重成が「島原の乱」の後、天草の初代代官となって献身的な治世をし、正三も応援に赴いた。今、両者は地元の鈴木神社(熊本・天草市)の御祭神となっている。
山頂には岩があり、秋葉さんが祀られているが、その道程の途中に、この熊野神社があるのだ。
 熊野神社の岩壁の中断には、「虎の神」の祠がある。これは本宮山から家康の身代わりとして、十二支の中の”虎”だけが抜けてきたというものである。この岩は直高10m位の岩壁だ。
祭神は、イザナギ・イザナミ命・須佐之男・豊受姫命、他である(「県神社名鑑」)。
 神社の裏に「心月院」の跡があって、山を登って行くと途中に十六羅漢がある。恐ろしく立ち上がった岩の折り畳みたるや歴史の威圧感を覚える。


   足助町の天下峰  大字下国谷(記の足助町則定にある秋葉神社から東方に当たる場所)


上記の足助町則定にある秋葉神社から東方に当たる場所に、
大きな岩壁がある。
 そこへは巴川の穂積橋から”鏡”という数軒からなる集落を通っていくことになる。川の名前も「鏡川」という。「天下峯といえば松平地区のもの」と、思っていたが この岩壁が鏡と解された可能性もある。
 先に進むと、民家が見えてきた。頂上に行くためには西に廻って峠に至り、そこから尾根を東に歩く。
 さて、頂上へは「中部電力KK」の反射板を東から迂回して登る訳だ。
 頂上には、秋葉さんが祀ってある。この秋葉神社の周りには、旧祠の残骸が散見でき、歴史を物語っていた。
○ 途中に足助町の白倉の氏神が祀ってある所にいたる。


   楠の碑  豊田市石楠町
 
石楠町は、昭和37年豊田市に合併するまでは東加茂郡松平村大楠(おおぐす)であったが、大字所石(ところいし)と合併されて石楠町となった。
大楠地区は、明治時代には46戸あったそうだが現在は13戸しかない。
 明治26年に巴川東岸へ足助街道が移されるまでは南北の道は東の山を縫って進むものであったという。しかし、東西の道は東方の山奥と豊田市中心部を結ぶ主要道が、ここ石楠町の山の斜面を通っていた。
 巴川を渡る所を「橋場」と言い、丁度飛び石(岩)が渡りに丁度良い間隔となっている。
 現在の道は、昭和13年に完成した。この頃、付近の産物は”薪”であったが、両村が共同出荷していて、薪の名札に「石楠社」と記していたそうである。
 巴川の方から大楠地区に入っていくと、最初に秋葉山の常夜灯が目にはいる。その横に「木葉箒社(こそはははぎのやしろ)」と刻まれた碑が岩の上に立っている。
 また、このあたりに水車小屋があって、そこにいた人が水害で亡くなられたので、その墓が南の山腹にあるという。
 大楠には著名な岩が多い。楠の碑・丸岩・おぶの神とおへんび・動石・三ツ石等である。
 三ツ石は、足助町との境となっている。
 楠の碑は、秋葉山の常夜灯付近から南の谷沿いに、急傾斜の道なき道(竹藪)を山頂まで登った所にある。
 山頂に至るまでの急峻な場とは異なって、頂上は凹んだ広場のようになっていて、ここを地元の人々は「楠の木谷」と呼んでいる。「楠の碑」はここにある。
謂われは次の如くだ。
 明治の末か大正の初めかは定かではないが、この岩の上にあった楠の御神木が切り倒された。
 これは、樟脳を採るために根っ子まで売られた。樟脳は、セルロイド・無煙火薬・防腐剤の原料となるからである。
 その後、この楠木を伐採した者は祟りを恐れて、石屋を家業にしていた弟に頼んで、岩壁に『楠の碑』と刻み、謹んでお祓いをしたというものである。
 今、お供え用の平板石があるのは、その際に設けた物らしい。果たして、この岩壁がそれ以前から信仰的要素があったかどうかは不明であるが、付近の岩場の中でもこの岩は一層特異に見える。
 この岩壁の南側根元部に三畳敷きほどの洞窟がある。
 昔は、住民が毎年お参りに参上したものだそうだが、今は「木葉箒社(こそはははぎのやしろ)
」から遙拝するだけだという。
 今は、岩の上には欅が生えている。地名の『大楠』は、かつての大きな楠木から由来したと思われる。

   ☆ 大楠由来記のこと     「献馬大将 - とよたのお祭りと源氏の伝説 -」        豊田市郷土資料館 による

 寛永20年
(1643)は、寛永の大飢饉(18〜19)
直後である。この3年後に、六所神社(東宮口・
現坂上町)の「馬祭り」が開始されたとの記述が
あった。・・・管理人は、馬祭りの始まりは、これ
以前だと推定している。




 「近江国甲賀里の戦い後、加茂郡の大楠谷に義綱の一族で加茂之助義次というものが落ちのびてきました。先に居住していた酒井彦兵衛を配下にして、近郷の若者を集め、大楠谷を開拓したと伝えられています。二代目義政のときに、河合孫太郎、杉浦信西、伊藤助十らが入居し、大楠村と命名しました。
 その後、平清盛による源氏の追い討ちが行われたため、安政元年(1175)、身分を隠す必要から加茂太郎義定は岡野三郎兵衛、酒井家の子孫は岡田彦右衛門と名を改めたといいます。


 この伝説を伝えるものとして、石楠町には鬼ヶ窪、乞食沢連、古屋敷などの字名が残って折るので、一部を紹介します。

 鬼ヶ窪(おにがくぼ):楠木谷の南向の大谷にある大木を伐ったことから、毎夜鬼が現れ、村人を襲うので、鬼ヶ窪というようになりました。
 義政が鬼を弓で退治してみると、鬼は古い狸だったと言うことです。
 乞食沢連(こじきぞうれ):義政が亡くなり、その供養に乞食を集め、施しをしたことに由来します。
 古屋敷(ふるやしき):加茂之助義次が初めて居住したことに由来します。」


   注:左の写真と上の解説は、「献馬大将 - とよたのお祭りと源氏の伝説 -」 
       豊田市郷土資料館 によります。
 

   行者岩  稲武町小田木(おたぎ)


 山本氏は、参考に使用させていただいている本書の著者(中根洋二氏)を案内された方である。

 山本氏の祖先は飯田街道沿いで馬宿を営んで居られたと言うことである。
 更に進むと石仏が三体あって、杉・檜林になり川側に石積み状の猪垣らしきものがあり、その先の暖勾配を登って行くのだ。すると左側の山腹に高さ20m程の岩壁がある。
 これがその「行者岩」である。昔、修行中の行者がそのままの姿でミイラになっていたそうである。

 岩壁には元禄十五年(1702年)、寛政年間の馬頭観音が沢山建っている。
 そして一番上には役行者の石仏があり、東側の石面には天明年間の三地区の講の代表者名が彫られている。
 ここへのお参りは、毎年7月16日頃、「おりゅうさん」と一緒に行っていたそうだ。

 岩壁の上には明治30年に付け替えられた飯田街道が通っている。
 このみちは、昭和47年に改修され、現在国道153号線として、愛知県と長野県を結ぶ幹線道路となっている。
 尚、この国道は更に昭和47年に幅を4mから8mに拡張されている。

 「伊勢神トンネル」の上には、明治三十年に作られたトンネルがあるが、更にその上にそれまで使われた旧道が山を越えている。
 飯田街道である。この峠は、江戸時代まで「石亀峠」と称されていた。
 また、そのあたりでは馬宿(おくで)も営まれていた。

注:元禄15年(1702年)の出来事 
◇ 6/大滝町上河原25-2神明社に、石灯籠『奉造建 三п鮪R村妙昌現住梅』         *→判読不能文字
◇ 7/13岡崎大風洪水、堤を決すること660間、田を損すること93,000石(矢作川)。
◇ 12/赤穂浪士の仇討ち。大石吉雄ら吉良亭を襲撃。
  岡崎人胡叟編「かぶと集」、京都で出版さる。
  また、12月タバコ本田畑の栽培許可。
  伊保城主本多忠晴、寺社奉行となり赤穂浪士の裁決する。


 東濃から旧飯田街道の常盤橋を渡り、大多賀経由の秋葉街道沿いにある。昔多くの旅人が通ったという街道に入って行くと、

先ず、菊の紋の墓がある。これは地元の旧家の墓である。


この旧道を蓮谷(れんだに)の方に下ると「おりゅうさん」もある。
蓮谷を下流方面にさらに進むと県道は行き止まりになる。そこから山道をどんどん進むと「小石亀峠」がある。
もっと坪崎の方へ行くと、道標『ぜんくおうじ』と示され、この道が飯田街道でもあり善光寺への道でもあったことを物語っている。

             

                                Link 
 巨石信仰の史跡を訪ねるー3:岩神石編