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巨石信仰の史跡を訪ねる−3
岩 神 編 T
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参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会

 中根洋治 著 平成14年発行

Link  巨石信仰の史跡を訪ねるー4:岩神編 U   
 足助町岩神  東加茂郡足助町大字岩神
 

 「岩神(やがみ)」は、香嵐渓の西向かいの広い地帯の地名である。

 足助病院の裏山を登る。
 
 入り口付近には「大日堂」の大杉と「若一(にゃくいち)神社」がある。そこから急な山道を15分くらいで尾根に辿り着く。
 そこに巨岩がある。圧倒される雰囲気がある。高さ5m。

 岩の南側には細長い平場がある。さらに南に行くと石の祠がある。これが案内板にあった「石神社」なのだろうと思う。

 この社から300m先のこの岩が「奥の院」と言うことである。

 「大日堂」は、「岩神山大日堂」のことである。

 下山村の立岩  東加茂郡下山村大字立岩
 
 村の古老は知っていた。そこは県道の南側にあるただ一つの山の頂上にあった。昔は、岩の傍らに「神明社」があったが、今は秋葉山の所に移動されている。
 秋葉山には「琴毘羅」さんも祀られている。
 昔、村の人々がこの岩の廻りでいつものように輪になって集まっているときに、この辺りの地名をどうしようかという話題になって、『「立岩」が良かろう。』と言うことになって決まったそうである。
 岩の高さは、3m弱か。立石の東には1m余りの2〜3個石があり、岩の廻りが平坦なかなりの広さの広場となっている。
 ところで、この岩の南には、イギリスのソールスベリーにある”ストンサークルStone Circle”の「ヒールストン」に似た石がある。その石の北には、お供え用に使用したのではないかと思われる平板な石がある。
 県道の法(のり)面に常夜灯がある。また、県道を挟んで北東に白山神社があり、ここでは雨乞いの行事を行うそうだ。この神社の境内には、檜と杉の大木があり、奇妙な岩の手洗い鉢がある。黒っぽい玉石が花崗岩で接着してある様な岩である。このような岩は県道をもっと奥へ行った場所の川底にあるということだ。
 この神社は、南方から広域農道を「加茂カントリークラブ」へ向かって行って、巴川を渡って県道との交差点の右側の山中にある。


    秋葉山の岩   豊田市穂積町



 現在の穂積町には二柱の秋葉山があり、一つは「西野」のもの、そしてこの山の麓の小山の頂きに「重田和(しげだわ)」のもである。
 ここの岩は、平板が折り重なった様な所に存在する。ここは巴川の「白瀬」と言う集落と「重田和」とを結ぶ生活道沿いである。

 秋葉山は通常常夜灯があって、村の目印になっていることが多いが、ここは山の頂上の巨石が秋葉山になっている。

 標高は120m、岩の高さは2m余り、長さ12m程の黒々とした岩である。

 岩の南側に秋葉山の石標がある。
 巴川沿いの集落「西本郷」は、今でも参拝に訪れるようである。

ここの旧地名は、東加茂郡松平町になる。



○ この付近の尾根には、巨石信仰の跡と思われる岩や山の神が数多くある。麓には白山神社もある。


    秋葉山の岩   足助町則定
 垂直の高さ6mほどの岩である。場所は則定小学校の北を熊野神社を経て登って行く。南西側の出っ張った中腹には、堀切を界して「椎城跡」がある。そこの北方の山 頂まで登ると、この岩がある。この岩の南面と東面が直角に交わっていて、その交点に杉(径30p)が、直角に磨り減ってなお生きている。
 岩の前面は100u程の広場となっていて、通路を挟んで東側にも巨岩がある。眺めの良い所で、東を望めば白倉の岩壁が見える。
 岩と岩との間には、前代の秋葉山の祠と思しき古材が転がっていた。ここの標高は、252m程か。
 広場の東端の見張り台は、岩が磨り減っている様子がうかがえるので、古くから多くの人々がここに足を運んでいたことが伺われる。
 鈴木正三もこの付近で修行したという。

   山の神の岩   豊田市岩倉町 

巴川の神明橋右岸にあたり、ここは昭和48年までは東加茂郡松平町大字山ノ神であった。


 祭は、旧暦の11月7日の命日(新暦の12月14日)に、禰宜さんを頼んで祀り行事を行う。
 昔は、子どもの集まって土手に穴を開けて物を燃やしたりしたという。


 岩の大きさは、たかさ約4m、幅10m程で、南側に覆い被さっている。

 岩の前には20uの平場がありそこは山の中腹である。
祠と基壇も立派な物で、岩の根元には近くの人たちは家から持ってきたという素焼き製の大きな人形が散在している。
この岩の東に「来光院」という庵寺があるが、昭和末期まで使われたが、現在は建物のみ残った廃寺である。
通常の山ノ神は、山の上に石標のみ置かれたものが多い。
   山ノ神の岩    足助町沢の堂 




 足助街道の裏街道と目される道筋の沿線に山ノ神はある。
 足助街道は足助を経由して信州へ結ぶ「塩の道」である。
 しかし、本街道の難点は途中岡崎市桑原町に「番所」が有って、税を取られた。
 更に、江戸時代しばしば馬方と町方との紛争があって、しばしば妨害に出会うことがあったそうな。
 そんな理由で、この尾根を通る裏街道がかなり古くから使われた形跡がある。
さて、その尾根道近くの山頂に「ヤマンバ(山に住む怖いお婆さんのこと)の足跡」がある。直径1.2m程の大杉の近くに「山ノ神」と彫られた石柱がある。それはこの山ノ神の岩の背中にあった。爪跡のような凹みが沢山あって大きなものは長さ40p・幅10pくらい、南北に向かって大小10個ほどある。
 標高440m程と思われるこの山頂はこの付近で一番高い山である。
 沢の堂の民家はおよそ標高300m位の所にあるので、集落からは結構離れたところにあるというわけだ。
 そもそも「山ノ神」は、伐採・山菜採り・狩猟・石材採取など、原始時代から山に生きてきた人々の拠り所であったが、神社を建てるほどの大規模なものは無かったという(「銅鐸『祖霊信仰説』」参照)。
「山の神」から少し南の尾根道(裏街道)に「おこり岩」と呼ばれる岩がある。
”おこり”とは、手の施しようのない高熱を伴う病にかかったときに、この岩に触れてこの岩に祈ったと言うことである。


   大鷲院の八丈岩   足助町 


 国道153号を足助の町から北進して坂道の途中、小学校の横に押しボタン式の信号機があり、ここから北にある寺院が「大鷲院」だ。寺の入り口に「八幡神社」がある。


       
 この寺は、「扶桑山大鷲院」という。

 山頂に至るまでの巨石には磨崖仏が彫ってあり、県内では珍しい。
 磨崖仏の数は、弘法大師88体。60余体の観音像。
(明治20年頃の作と言われる)
 現地の説明板には、山は「大峯新盛山」とも言われ、かつて修験道の霊場であったという。
 また、寺の由緒書によれば、寺は当初天台宗であったが、大永年間
(1521〜26年)に曹洞宗に改宗されたとある。寺の9mの石垣は壮観である。大きな石で、急角度だ。これは和尚が飢餓にある村人に対する失業対策の事業で構築したもので、文化年間(1804〜1814年)の作であるという。
 頂上に大岩(「八丈岩」)がある。登山の途中、大きな岩が谷を埋め尽くすほど沢山あって、いろいろな名前が付けられている場所がある。頂上近くには前に立ちはだかるほどの巨岩に出くわす。
これは長さ10m幅4mで高さはおよそ4m。岩の前面が平で上面は傾斜していて西側の高い方に祠がある。同じ足助町の大字冷田にある「水石」とよく似ている。

 岩の上面に猫の爪跡のような穴が所々に有って、化け猫伝説の元となっている。
 「八丈岩」には、大きな猫が怒って爪を立てた如く、穴が所々に空いている。これは、「水石」同様に自然界の風化現象によるものと思われる。
 岩の反対側に廻ってみると、岩の下が空洞になっていた。空洞は八畳敷き程の土間状の空間になっていて、周囲には3〜4体の石仏が立てられている。
 空洞の高さは低く40p〜50p位に見えた。
そこにはかつて「八桑城」があって、武田軍に攻め落とされた城とされる。しかし、城跡は国道の拡張の折りに無くなった。
「化け猫伝説」とは、『大鷲院の住職がある家の葬式でお経をあげていると、真っ赤な口を耳まで開けた猫がお棺の中に飛び込もうとした。住職は払子(ほっす)でその猫を殴りつけ退散させた。無事に葬式を済ませて寺に帰ると飼い猫が顔を腫らし片目を潰していたのである。早速住職は猫に教え諭し、この八丈岩に封じ込めた。』・・・と言うものである。
岩の西側に山頂があるが、ここも少し平になっていて石仏もある。

             

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 巨石信仰の史跡を訪ねるー4:岩神編 U