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巨石信仰の史跡を訪ねる−4
岩 神 編 U
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参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会

 中根洋治 著 平成14年発行

Link  巨石信仰の史跡を訪ねるー5:岩屋編   
 弘法と白龍を祀る岩   豊田市大内町
   

 場所は、巴川沿いの旧足助(あすけ)街道から九久平の滝川沿いに国道301号を300m程東に入った南向きの山腹である。
 



 この付近の地名は大内町河原畑だが、昭和37年までは東加茂郡松平町大字長坂(ながさか)といった。長坂・下河地(しもごうち)・大給(おぎゅう)が今は大内町となった。 



岩の北側には文字の判別できない石塔と、



 その北側には「御嶽さん」を祀った石像が三体ある。中央が「不動さん」、

 向かって左が「不寛さん(御嶽山の田の原口を拓いたという言い伝え)」、

 右に「覚明さん(王滝口の登山道を拓いたという言い伝え)」。
 岩の下が空洞になっていて空洞に弘法さんが、岩の上には白龍大王が祀られている。白龍大王は白蛇を祀ったものだそうだ。

 岩のある場所は地元の共有地だそうだ。
 岩の大きさは目測で長径10m位。岩の下は二カ所で支えられている。

 昔は、大給と長坂の村民が共同で祀っていた。戦前まで、毎年8月1日にお祭りをしたが、今は村人はまったく関与しなくなり、柴田家が専ら他地区の御嶽信者に依頼して祈願し祀っている。
 毎年、四月末から五月初めに、岩の手前20mの所に注連縄を張っている。岩には名前がない。
 この岩を通り越して、尾根まで登ると更に大きな岩がある。天辺は平らで直径10m位の比較的滑らかな岩で、昔、この岩の天辺の南側に剣(刀ではない)が立っていたという。
 この岩の北側には、向って左より摩利支天・立山・駒ヶ岳(中央に)・御嶽・浅間山の石塔が据えられている。平成5年頃の台風で樹木が倒れ、この際に三体が壊れたので柴田さんが新しいものにしたという。


 白倉のシンメイさん  足助町大字下国谷
 

 下国谷の白倉地区は戸数13で、今でもこの岩洞が氏神である。
 両側から岩が合掌するように上手く咬み合っていて、隙間はほとんど無い。下国谷熊野神社の山名遺跡の岩壁のように不思議な接合面となっている。人為的に行ったとは思えないが三つの岩が咬み合って、水も漏らさぬ状況となっている。


住民は「おシンメイさん」とか「おしんげさん」と呼ぶそうで、神社とは言わないそうである。
 岩洞は内空高さ3m程、奥行き5m位かと思う。原始時代から使われている県内唯一の氏神様かも知れない。
名前の由来についてだが、「エミシの国の女神」菊池展明著(風淋堂)によると、福島県では「オシラサマ」のことを「オシンメイサマ」と呼ぶ。オシラサマは元来伊勢地方から生じた天白神(風水の神)が養蚕の神、穀物の神となって東北に移ったものである。東北に居ついたオシラサマは、家の守り神、お乳の神様、境界の神様、狩りの神、オッカナイ神、子ども好きな神などと多様な性格を持った神様として崇められたという。
 一般的には、『天地神明に誓う。』と言う時の”神明”で、広く神々のこと、いわゆる神さんのこと。その次の意味としては、天照大御神のこととされる。
 さて、シンメイさんの裏側に廻ってみると、一段と高くなっていてそこには”鏡岩”のような岩がある。地元の人に聞いても知っている人はいなかったが、他の地区同様に、古い伝説や信仰は徐々に薄らいでいるように思う。

    薬師さんの岩 稲武町中当(なかとう)







 国道257号を稲武から南東へ進み、県道との三差路のすぐ先、国道が出っ張ったところの斜面の上にある。
 
 観音・庚申・秋葉山など多くの石仏が鎮座している。

 ここが昔、津具村への分岐点であったらしい。
国道の路肩下に「名倉川」が流れており、この中ほどに「夫婦岩」と呼ばれる岩が一組あって、地元の人々は正月にはお参りするということである。

 

    稲武町 おりゅうさん   北設楽町大字小田木

 
旧「伊勢神トンネル」が出来るまでは飯田街道沿いにあったこの当たりの民家は馬宿を営んでいた。
 屋号は『おくで』、『ハネ』、川向こうには『ハマ屋』があったという。
 段戸山の左岸にある。「おりゅうさん」の土地は稲武町の所有になっている。
 江戸時代(天保の頃か)豪雨による土石流(ナギ)のために川の流れが変わり、それまで「おりゅうさん」の南側を流れていた川が北側を流れるようになった。
 江戸時代の馬宿『おくで』には、「おりょう」という馬の世話の上手な女衆(娘)が居て、馬方達に大層可愛がられた。馬の世話というのは、餌や馬体の手入れの他、お産の手助け、病気の介抱などである。
元々は今の「おりゅうさん」の場所に馬頭観音と弁財天が祀ってあった。当時の馬方達は、そこをお参りしていた。
 いつしか「おりょう」という当時評判の娘の名前でここを呼ぶようになったわけである。
 ここは、大正二年に小田木の村に寄付され、以後毎年七月十六日にお参りをしているという。
 「おりゅうさん」の岩群(6個ほどの)に生えている杉は樹齢4〜5百年になろうと思われるが、伊勢湾台風で一本が倒れて、今は一本のみとなった。
 大杉の根元には、「明和三年」と彫られた石仏と灯籠が一基ある。
 岩群は大きなものでは15t程ありそうで、縞状の変成岩でこの辺りの基盤岩とは異なる。何処かから運ばれてきたものであろうか。下流1Km程の山に同じような岩があるそうである。

   鬼の岩谷  足助町  東加茂郡大字岩谷



十七年ごとに本尊がご開帳される。

(写真:左下

加茂郡西国三十四観音の一つ。
十一面観音が本尊である。
 800tは有ろうかと思われる巨岩は、わずか二カ所の岩の先端に支えられている。
 地面と岩の空間は2m程で天井とほとんど水平になっている。
 長さは南北方向に13m程で北から稲荷・千手観音・岩屋観音と三部屋に分かれている。
 岩の東側には「安勝院」という明治になって建てられた無住の寺がある。十七年ごとに本尊がご開帳される。

 宝暦二年(1752)に作られたご詠歌にこの岩谷を詠っている。
 
「いにしえの  鬼の岩屋の観世音
              浄土となるや とらとかるらん」


 ご開帳の様子は、太鼓と拡声器の音が大きくなって、やがて稚児行列が出て、境内には関東煮や酒が振る舞われる。やがて浄土宗の4〜5人の僧による読経が始まり、信光明寺の住職によるお説教が行われる。


寺の広場は、南側にあり、高さ10mほどの急勾配の石垣によって支えられている。
 
 石垣の北端が寺の門になっている。門には樹齢4〜5百年ほどと思われる栂の木の大木がそびえ、根本には鎌倉時代のものかと思われる五輪塔10体程佇むように立っていた。

 十七年ごとにお顔を見せられる観音様は、丈が50pくらい。向かって右に聖観音。

 左は本尊の十一面観音、その前にもう一体の十一面観音が鎮座している。

 ご本尊は、行基菩薩作との伝説がある。
 足助の伝説集にもあるように、ここは「鬼の岩谷」と称され、『鬼が住んでいる』と、恐れられた所である。
 この岩谷の上を岡崎から松平を経て足助町へ繋がる道筋があるが、昔は恐る恐る通ったことであろう。
 この街道は、足助街道の裏街道と目されるもので、江戸期の長きにわたる中馬紛争と番所を避けるための通路であった。
 岡崎城から渡通津
(わつず)を経て松平の高月院までは、家康一族の祖先の墓地へお参りするための「殿さん街道(松平往還)」と重なるが、その先は、六所神社→真垣内(まながいと)→国閑(かいご)→岩谷→四ツ松→足助と結ぶ道であった。
岩谷から少し南に下がった足助町下平(しもだいら)の谷間で馬場遺跡が発掘された。これはおよそ九千年前の住居跡(七つ)と環状配石など、多くの遺物があった。
岩谷から南には、炮烙山・六所山(旧:吉木山)が眺められ眼前の開けたところである。


    豊田市九久平の岩屋


昭和45年四月までは、

”東加茂郡松平町大字九久平”であった。

平成12年3月撮影
 「松平村史草稿(明治43年に編纂)」よると、”菅沼の岩窟”のページに『菅沼は小字だが、そこの岩山には色々な形の岩や岩窟もあり、堂を守る老僧が居て朝暮れの勤行が行われ、実に幽遠の霊場である。岩屋の中に観音菩薩が祀られているので、この岩山は観音山とも呼ばれる。』と記されている。
 明治二十六年から足助街道は巴川の東岸へ移されたが、その道から東へ分岐する旧小川街道の分岐点に、九久平小学校の西に、天保十一年(1840)建立の高さ3m程の徳本和尚揮毫の名号石がある。
旧街道を入り、小学校を越したら最初の左に入る道を山に登ってゆくと、この岩屋に至る。


    足助町 京良石不動尊の岩屋     大字野林

 県道を登り、大きなヘアピンカーブを過ぎて最初の家が二軒並んでいる。

 そこから東に入る。

幅・奥行き共に10m程の岩屋である。よくぞ崩れ落ちないものだと思わせる。

 お堂は欅製で立派なものだ。岩屋の外の建物の西に目通り径2mは有ろうかと思われる大杉がある。

 岩屋内のお堂には不動尊が祀られその周囲には三十三観音が鎮座する。
 岩屋の前は細々と滝が流れ落ちる。滝の前には参拝の人々が泊まり籠もったのか「籠り堂」と呼ばれる建物もある。

 不動明王が祀られ、滝は「不動滝」と称されていた。石仏の中には役行者(えんのぎょうじゃ)もあるので、山伏等の修行の場でもあったのであろう。

 『手を叩くと滝の水量が増す』とか『渕
(ふち)の主である大蛇が現れるとき、滝は金色に輝き壮観である』との伝説もある。



             

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