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巨石信仰の史跡を訪ねる−5
 岩 神 編 V

参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会

 中根洋治 著 平成14年発行

Link  巨石信仰の史跡を訪ねるー6:腰掛・物見岩   
 上八木の行者さん    足助町大字上八木
   

 大字上八木(うばやぎ)の中でも通称「山中(やまなか)」と称される県道沿いにある岸壁である。しかし、Over Hang していて、岩窟のようになっているので、岩屋の部類に入れた。
 岩の下には馬頭観音が二体鎮座しているが、台座は四個有るので、二体は盗まれたのであろうか?!石仏の一体には「文政十年
(1827年)」と彫られているように見える。

 


 注:1827年の出来事
 5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。  
 8/碧海郡和泉村の都築弥厚、加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。
 この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。
 三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。 

  頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。
 槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。
 小林一茶没(65)。

 
補:参考資料

  LINK  歴史 〜 999
  LINK  歴史 1000 〜 
  LINK 歴史 1700 〜
 戦国時代以前の、足助から信州を結ぶ街道は、この沢沿いではなく、この上の尾根を通っていたようである。しかし、江戸時代にはこの川沿いになっていたらしい。
 山中地区字百々
(どうどう)では、近世の街道が民家の上の山腹に残っている。
 下流の方の神社付近(字坂)は、鳥居前から川に降りて対岸へ渡り、また、川を渡って・・と、蛇行している崖の部分の通行を避けて通っていたそうだ。
 戦国時代の信州に至る道は、足助町二夕宮(ふたみや)で、東の山には入り、上八木(うばやぎ)の集落を通って、現在在る「いこいの村愛知」の付近から「大田和」→「大多賀(おおたが)」→「駒ヶ原」→「納庫(清水)」→「木戸洞峠」→「上津具」→「猪古里(いのしごり)」→「川宇連(かおれ)」→「新野峠(しんのとうげ)」に至るものであった。


 八畳岩と岩屋  豊田市桂野町字岩谷
 
 の岩の天辺は八畳敷き程の平場がある。その上、高さもおよそ20m程あるので、「八丈岩」と票記すべきかも知れない。
岩の周囲の樹木が茂る前の時代には、2Km離れた村積山(別称:三河富士)からこの岩が見えたそうだ。
 岩へは、郡界側沿いの県道から矢竹の生えている急斜面を渡って登った。石祠・石碑・不動さんなどが沢山あった。更に、岩屋状の空洞が二カ所在った。
村の古老の話では、『戦時中(昭和20年頃)には、行者が居た。』とのことであった。
 それを裏付けるかのように、御嶽信仰の石碑も目に入った。しかし、近年ここに訪れる人が少ないとのことであったが、ここで自殺した人があったということからだろうか。
                              
    遠見岩  豊田市桂野町


 巴川の支流を遡って、桂野町の「華蔵院」の裏山に遠見岩と呼ばれる岩がある。

 郡界川はかつての東加茂郡松平町と額田郡岩津町の境界を流れる川である。この川の左岸が今の岡崎市宮石町、この対岸の桂野町がある。
 遠見岩は、華蔵院の北方尾根の南側にある。岩の高さは15m程で、天辺は三つに分かれている。岩からの眺めは”三河富士(村積山:
むらずみやま)”から東側が展望できる。

 眼下には宮石町が全域眺めることができる。宮石町の八幡宮の杜は東側に目立っている。


 神明宮から裏山をまっすぐに登って行けば、ここの鏡岩状の巨石群に辿り着ける。
 
  華蔵院は、近年鉄筋コンクリート製となったが、裏には薬師堂が、そして更に裏には墓地がある。
 薬師堂付近から昔の山道があり遠見岩に向かっている。山は竹藪となっていて杉やその他の樹木が枯れ始めている。尾根付近にはアベマキが多く、下の方には藪椿が多い。
 また、この尾根を探すと西南に岩が集まった場所がある。岩屋状の岩や東面が垂直な面を持つ岩など、巨岩が集中している。その中央は鏡岩状にみえる。この岩の前には八畳ほどの平場がある。
 


    冷田の水石 東加茂郡大字冷田字旭



 上に登ると広さが40坪(130u)程の南傾斜の平場となっている。


 高さ3m程の三角形の岩もある。形が蕎麦のみに似ていることから「ソバ石」と呼んでいる


 
学校の東には根元に石仏のおかれた岩がある。

 この岩の西に、昔、神社があったと言うことで、「念仏岩」と呼ばれて、これも信仰の対象となっていた。
 冷田(ひえだ)小学校の北側に民家があって、天野家の西にこの岩がある。「水岩」とも言うらしい。東西に幅13m、南北の長さ15m、高さ4mほどの岩だ。上に登ると広さが40坪(130u)程の南傾斜の平場となっている。
 梯子を民家にお願いしてお借りし、これを使って岩に登ってみる。上には弁天さんの祠があり、、それより北側に岩の上に水溜まりがある。長さ3m幅と深さが1m程の凹みとなっている。ここの水はどのような渇水期でも枯れたことがないという。人工的にあけられた凹みではないようだ。
 岩の北側は杉林で、この岩だけが地面に乗っかっているような姿である。
 この奇妙な凹みの水溜まりのところで、昔は雨乞いが行われたという。
 日照り続きの時にこの「池」に御神酒を供えてお祈りすると必ず願いが聞き届けられたという。
 ある日、池の底に落ち葉が溜まり「あまりにも汚い」と、村人が相談をして池ざらえをしたところ、その晩からすさまじい大雨が降り災害となってしまったという(足助の伝説)。
 昔から、毎年、旧暦の7月16日の夜八時に、「弁天さん」の前に禰宜を呼び、御神酒と肴を供えて祈る。「この後の直会
(なおらい)の盃に映る満月はとてもきれいだ。」と、村人は言う。
 なお、この「小池」の水はイボ取りに良く効くと言われ、「イボ神さん」でもある。岩の上にある弁天さんは村の老夫婦「天野」さんが、岡崎の石屋さんから購入し背負ってここに運んだものだという。この天野家宅の前には二つ並んだ古めかしい岩と、その東方には高さ3m程の三角形の岩もある。形が蕎麦のみに似ていることから「ソバ石」と呼んでいるという。



また、南には冷田小学校があり、学校の東には根元に石仏のおかれた岩がある。この岩の西に、昔、神社があったと言うことで、「念仏岩」と呼ばれて、これも信仰の対象となっていた。
更にここから県道を200mほど東に、「子持ち岩」という石碑が建っている。傘状で屋根になったその下にも岩があったと言うが、現在はない。
 
   追分の雨乞石  東加茂郡・追分字小原


 大字追分は明治時代からの地名といわれ、通称近岡(ちかおか)地区の地先になる。
 巴川の水際。「小原橋」の右岸の藪にある。畳三畳敷きほどの扁平な石は珍しい。「水神さん」とも言うらしい。いろいろな伝説はある。
 雨乞いの儀式は、昭和の初期まで続けられたという。
 


    お船石 豊田市御舟町


長さ4m幅2m程の平面の石
 三河線の法面の下にあり、周辺の草はいつもきれいに刈ってある。
 この石は、ここの地名のもとになったといわれる。長さ4m幅2m程の平面の石である。三河線の法面の下にあり、周辺の草はいつもきれいに刈ってある。
 「大昔、猿投山の頂上近くまで神様が乗ってこられた船石が三体あり、その内の一体が洪水によってこの地に流れ着き、残りの二体は山頂にとどまった。」と、猿投町史は伝説として伝えている。
 大正十三年、名鉄三河線が開通したが、そのときの工事でできた法面がこの石に覆い被さった。何故かその後から事故が重なるので、写真の様に背後に石垣を積み、”お舟石”の標柱を立てて守ったという。
 明治初年頃まで、猿投神社の白鳳宮司は毎年9月にしめ縄を張り替えてお祀りをされていたそうである。この石がどうしてこれほどまでに有名なのかはわからない。周辺に古墳がありその蓋石の可能性も想像できるが、この辺りには古墳のあったという話は聞かない。

    名倉の船石  北設楽郡大字東納庫字船石


 「おかま石」から上は、女人禁制


 山頂には本宮・「奥の宮」。ここが「小鷹城」跡であったと思われる。頂上近くには二カ所、」山城によく見られる横堀(堀切)らしき切り込みが認められる。
 「城址研究会」の資料によると『戸田加賀守鍬塚城よりここに移り鉄の弓矢を奉献』と記載があった。”狼煙
(のろし)場”として使われたかもしれない。「二ノ宮」は曲輪跡かもしれない。



祭りの当日は、

朝七時に出発し「仏庫裡山」→「菜畑山」まで一回りする


 周囲には縄類は使わず、棚の支えには木の枝を使う
 昔は、通称「大平(おおだいら)」の集落から船石川に沿って、この川の上流にこの”船石”がある。現在は「名倉カントリークラブ」の中にある。

 この岩は、長さ7m程で、上面が少し凹んだ舟形をしている。この岩の西側にも長い石があって、いつの頃か二つに割れたものらしい。南北に向いていて岩の上には筒型の石製品が二個のせられている。

 この筒状の石は鳥居の沓石
(くついし)で、船石の手前に埋めてあった。この筒に木製の鳥居の脚を差し込んだ。ゴルフ場のできる前には、「小鷹山奥宮遙拝所」なる石碑と写真のような祠もここにあったという。

 現在は、国道の郵便局東の「小鷹神社」に移転された。ここの拝殿には『天満宮』という額が掲げてある。
 船石の北西方面に「鷹塚」があったという。鷹を捕まえてその羽などを売っていた人が、自分に不幸が続いたので、謝罪の意味で鷹のくちばしや骨の一部を埋葬した所だという。
 石が積み石状になっていたそうである。昔、狩人達は鷹を見たら鉄砲の筒先を下に向けて、鷹を畏れ多い動物として特別視してきたという。
 「北設楽郡誌」によると”小鷹の神がこの盤船に乗ってここに降臨せられた”という説明がある。船石は、このように古い時代から信仰の対象として、かなり有名であったのであろう。
 船石から西に小鷹山があり、その山裾に「おかま石」が存在する。
 この「おかま石」から上は、女人禁制であったそうである。この山の頂上には「小鷹神社奥の宮」がある。
 祭神は、「護良親王(後醍醐天皇の皇子)」・「二ノ宮大臣」・「皇大神宮」という。ここまでの経路は、昔は近かったが、カントリークラブができてからは、町道「名倉宇連線」を通って林道208号の支線の終点に上水道のタンクがある。そこから旧道にはいり大平沢川の谷筋を上る。100m程上ると「前立岩(「北設楽郡誌」に解説)」と思しき岩がある。
 山頂には本宮・「奥の宮」、その西に「二の宮」がある。「二の宮」は石祠である。この石祠は「決して開けてはいけない」との言い伝えであった。修理の際に中に納められたお札を見れば『三河ノ国第三番』と記されていたと言うことであった。本宮には、昔は金と銀の鷹の置物があったというが、いつしか盗難にあって今はない。
 本宮は、宮司が主催するが、「二の宮」は、区長が取り仕切る。そのときのお供え物は、山芋・榧
(かや)の実・ところ芋(にが芋)・渋柿・御神酒・洗米・赤飯・木ノ葉餅それに栗またはアケビだと言うことである。
周囲には縄類は使わず、棚の支えには木の枝を使うと言うことである。
 また、石室の周囲には御幣を配置する。御幣は、本宮に向かう東側には150本立てることになっているという。
 昔は、九月八・九日が祭日であったが、養蚕の関係で期日が変更された。今は八月二十一日が”宵(よい)の宮”で二十二日が祭礼となって、その年の事情で計画されるようである。
祭りの当日は、朝七時に出発し「仏庫裡山」→「菜畑山」まで一回りするという。雨が降れば、その時には遙拝所までで済ます。氏子は、十六軒有ったが、今は7軒。
     参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会 中根洋治 著 平成14年発行

      上記の文献には、実に多くの踏査報告があるが、
          当管理人の住まいする付近に存在する部分のみを抜粋して引用させて頂いている。
             

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 巨石信仰の史跡を訪ねるー6:腰掛・物見岩編   
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