注:1827年の出来事 5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 8/碧海郡和泉村の都築弥厚、加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。 この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。 三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。 頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。 槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。 小林一茶没(65)。
この岩の天辺は八畳敷き程の平場がある。その上、高さもおよそ20m程あるので、「八丈岩」と票記すべきかも知れない。
岩の周囲の樹木が茂る前の時代には、2Km離れた村積山(別称:三河富士)からこの岩が見えたそうだ。
岩へは、郡界側沿いの県道から矢竹の生えている急斜面を渡って登った。石祠・石碑・不動さんなどが沢山あった。更に、岩屋状の空洞が二カ所在った。 村の古老の話では、『戦時中(昭和20年頃)には、行者が居た。』とのことであった。 それを裏付けるかのように、御嶽信仰の石碑も目に入った。しかし、近年ここに訪れる人が少ないとのことであったが、ここで自殺した人があったということからだろうか。
大字追分は明治時代からの地名といわれ、通称近岡(ちかおか)地区の地先になる。 巴川の水際。「小原橋」の右岸の藪にある。畳三畳敷きほどの扁平な石は珍しい。「水神さん」とも言うらしい。いろいろな伝説はある。 雨乞いの儀式は、昭和の初期まで続けられたという。
三河線の法面の下にあり、周辺の草はいつもきれいに刈ってある。
昔は、通称「大平(おおだいら)」の集落から船石川に沿って、この川の上流にこの”船石”がある。現在は「名倉カントリークラブ」の中にある。 この岩は、長さ7m程で、上面が少し凹んだ舟形をしている。この岩の西側にも長い石があって、いつの頃か二つに割れたものらしい。南北に向いていて岩の上には筒型の石製品が二個のせられている。 この筒状の石は鳥居の沓石(くついし)で、船石の手前に埋めてあった。この筒に木製の鳥居の脚を差し込んだ。ゴルフ場のできる前には、「小鷹山奥宮遙拝所」なる石碑と写真のような祠もここにあったという。 現在は、国道の郵便局東の「小鷹神社」に移転された。ここの拝殿には『天満宮』という額が掲げてある。