豊田市 松平城跡付近の岩 |
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左は、館の存在した頃の平面図である。(「松平町誌」による)
右は、松平地区の水系図。(同) |
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国道301号線が大きく曲がったところの北側山頂に、「松平城跡」とその南中腹に岩と祠がある。
ここの北側には、徳川発祥の地として「松平東照宮(館跡)」と、「高月院」がある。
さて、この岩へは井戸跡を訪ねて歩くとそこのすぐ南にある。岩が庇状になっていてその下に石祠があるのだ。しかし、これが何を祀った神様よくわからなかった。徳川家初代の親氏(ちかうじ)が城を築くときも、その後の城主も、岩はそのまま残した。
地元の住民に聞くと、当時地元に在住していた近藤家(元当地の庄屋)が祀っていたという。
近藤家は松平城の剣術指南役だったというが、大正時代に富山県に引っ越し、戦時中の時期、富山県知事になったという。
なお、「松平東照宮(館跡)」の東に「八幡神社」があり、その裏には「神体石」と称される岩がある。徳川家から代々信仰されている。この岩は、『七色に変わることがあって、変わるときに汗をかく』と、伝わっている。
神社前には徳川家代々使ったという”産湯の井戸”があり、これを弁天さんが見守るように隣に鎮座している。昔は、この境内へは履き物を脱いで入ったと言われている。
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他にも、、山頂の城跡に大岩がある所は西の大給(おぎゅう)城、足助の飯盛山城、黍生(きびゅう)城などがある。 |
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松平城は昔挙母街道と松平往還(足助裏街道)の交点に当たる。挙母街道は、新城と豊田市を結ぶもので、江戸時代までは松平城の北から坂峠を通っていたが、明治26年以降現在のルートになったという。 |
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松平往還は、松平城主が参勤交代に際し、渡通津(わつづ)をへて東海道の大平へ向かったものと推測される。また、足助街道は税金を取ったりして、取り締まりが厳しかったので、江戸時代は岡崎城下から足助までの間はこの街道をよく使ったと言われる。「足助裏街道」と称される意味がこれで理解できる。
このルートは岡崎の城下から駒立(こまだち)付近で、松平往還に合流して足助に通じるものである。注:「岡崎市史」にも関連記事がある。 |
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