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☆ 何故、巨石信仰か? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山間地に育ち、この”自然”に育まれて見聞きした住民達の素朴な「信仰」には、根深い伝統的な繋がりがあって、各地に様々な痕跡が今なお遺っている。 それは、そのまま日本人の心の源でもあったのである。 戦後、この精神が忘れ去れようとしてきたが、しかし、今、地球上の全人類に、当にこの”日本精神”が求められていると、想うのである。 ・・苦縁讃
神事「大祓い」は、人が神に参るゆえんでありますが、次ぎに神を招き、神の降臨に接する信仰があります。 その第一は、「御鏡(みかがみ)」の信仰であります。 天照大御神は、天孫降臨に際して、こういっておられます。 「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、これ吾(あ)が子孫の王(きみ)」たるべきの地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)いて治(し)らしむべし。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんことを天壌(あめつち)と與(とも)に窮(きわ)まりなかるべし。」 さらに、 『吾(あ)が児(こ)、この御鏡(みかがみ)を視(み)まさんこと、当(まさ)に猶(な)ほ吾を視るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)をおなじくし、殿(みあらか)を共にして、以(も)て齋鏡(いわいのかがみ)となすべし。』 と仰せられました。 これは伊勢神宮の由来でありますが、決して偶像礼拝ではありません。 神霊の表象 ー みたましろ(霊代:れいだい、霊形:れいけい)、すなわち厳粛なる反省による所であります。 第二は、「ひもろぎ」(神籬)「いわさか」(磐境)の信仰であります。 天孫降臨に際し、「たかみむすびの神」は天孫随行の天児屋根命(あまのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)らに、 『吾は則(すなわ)ち天津神籬および天津磐境を起こし樹(た)てて、常に吾孫(すめみま)の為に齋(いわ)ひ奉(まつ)るべし。 汝(みまし)天児屋根命(あまのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)宜しく天津神籬を持ちて、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾孫(すめみま)の為に齋(いわ)ひ奉(まつ)れ。』(以上神勅みな『書紀』による)と宣告されております。 「ひもろぎ」とは祭祀の庭を特に区画限定する時、たてられる樹枝(じゅし)などで作ったものですが、それが「みたましろ」となった場合をも指します。 そのよってたつ鞏固(きょうこ)な基礎が「いわさか」であります。 いやしくも皇孫の行きたまうところ、坐(ま)しますところ、常に天神と共でなければなりません。 これを輔弼(ほひつ)したてまつることが臣下たる者の最も貴い責務であります。それには国民各々また常にそれぞれ「ひもろぎ」を奉持しなければなりません。 日本民族の祖先は決して利己主義、刹那主義、唯物主義的享楽主義者ではなかったのであります。 彼らは皆その子孫のため、国家のために、信仰の崇卑こそあれ、それぞれ「いわさか」(磐境)を起こし、「ひもろぎ」(神籬)を樹てんことを念願してきたのであります。 日本人たるものは永久に、汝(いまし)「ひもろぎ(神籬)」および「いわさか(磐境)」より国津神籬および磐境を、則ち個人的信仰生活より団体的信仰生活に、団体的信仰生活より皇国的信仰生活に高まらければなりません。 個人的信仰生活が国家的信仰生活と矛盾する間はまだ日本人として「みかがみ」「ひもろぎ」の信仰に徹しているとは言えませんが、この点、儒教、仏教の先哲はさすがに偉大でありました。 今日、ともすれば紛争を起こす一部の仏教徒やキリスト教信者はここに深く思いをいたすべきであります。 「御鏡」「神籬」の信仰はやがて宮中祭祀となり、神社神道となって発展いたしました。 <略>
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新城市の岩座(いわくら)神社 大字大宮狐塚
山の少し上方の鐘楼跡付近に南宮明神がある。図のように、磐座は神社の北方約2Kmの雁峰山(がんぽうざん)系の中腹にある。「みそぎ場」という沢を経て西に登ったところがその岩の場所である。
猿投山の古称は、鷲取山(西宮の小字名が、鷲取となっている)といい、サナゲの語源はナギ(山崩れ)の多い所ということらしい。
☆ 神社にまつわる話 @ 祭神大碓命は、東征を好まず、そちらは弟の日本武尊に任せて自分は地方の開拓に尽くした。 しかし、42歳の時、猿投山中で毒蛇にかまれて死んだと言われる。 A 白鳳年間には16坊の建物があり、総称して白鳳寺と言った。 B 「三河国名所絵図」には、建仁元年(1200)源頼朝が当社を大社に改築したとある。 C 宝物の中には、縄文時代の姿と思われる尾張の絵図。平安時代の国重文の鎧などがある。 D 当社解説書(大場磐雄著)によると、「出雲系大国主命の子孫の系統である加茂族が、 矢作川を遡って、この加茂地方に来た。」等と記されていた。
その頂上に磐座と考えられている岩の群がある。それらの岩の間から大正13年に経塚が発見され、『飯盛山経塚出土品』は、県重要文化財になっている。経塚とは、十世紀末、末法思想から世の中の経典がなくなることを恐れて埋葬したものとされている(異説もある:管理人)。
その中の話・・・・・
このように、飯盛山はその昔、東三河の本宮山や西三河の猿投山と並び称される程の霊山であったことを物語っている。
この地名は江戸中期の絵図にも載る古くからのもので、明治期には松平志賀町まで含む志賀村であった。
祭神は、天照皇太神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしみみのみこと)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野□橦日命(注:□は文字が無い)と素戔鳴命(すさのおのみこと)の御子の思姫命・活津姫命・市杵嶋姫命の八王子とされる。
十明(とみょう)神社の元宮も同年にその東方の山頂にあるカナヤマ石から移され、その祠(ほこら)は妙見大明神であった。注:以下の資料は検索してみたものである。 m(_ _)m _( 。_。 ) _
Link 巨石信仰の史跡を訪ねる-2:環状列石・岩壁編 |
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