達磨像達を収集している。

自分で作る程の技量と知識もない。

しかし、自然木などで単純な造形を行っている。

   
貴方はアクセスカウンター番目のお客様です。ようこそ!


 山に産まれ、山里の風土に育まれた私にすれば、一種、生かされている故郷へのいのちの「恩返し」のつもりで、”山の子の山を想うごとにも”、寸暇を惜しみつつ、これからも木片との対話を続けて生きたいと思いました。
 樹種によっても・・、樹木の部位によっても・・、樹は様々な姿を見せてくれます。
 絵画・陶芸・彫刻は、芸術の作業ですが、木工旋盤によって『樹』に主張をさせようと思って木工工芸を始めました。”一風”は黒子のつもりで、一つ一つ、昔、子ども達を見つめたように、樹に対峙してみました。
 樹木は、何せ、宇宙船”地球号”では、偉大なる先輩であります。決して、疎かには出来ません。
 樹皮も・・、乾燥中のひび割れも・・、時には、その樹の捨てがたい個性・性格だと思いそれを活かします。
 私の数多くの教え子達は、昔、元気よくヤンチャ経験も在りました。想えば、それが在って、見事な今が在るのです。
 こんな事を考えながら、改めて「自然」を見直し、”自然”に生きることの大切さを感じております。小生のささやかな営みが理解されるならば、これほどの幸せはありません。 こんな気持ちで打ち込んできましたが、体調の変化に抗しきれず、アレルギー性皮膚炎になって、やむを得ず休止せざるを得なくなりました。(2016年追記)




木工旋盤Wood-Turning              

         
             
「自然が好き 自然を活かしたい!」        Home Page へ
It links it to
 "I want to live a life that works together to
creates with nature and enjoys it."


           

  デジカメ写真館      


身近な植物たち                                                  


皆どの草花も、何気なく咲いている。だが、珍しいものはない。


 妻の母は、老いて市内の老人ホームに預けられた。
 妻は、私の父と両方の看護をしながらの日々がしばらく続いた。
 母の病室に、妻が持ち込んだ花は、成長しやや徒長もしながら、清楚な花を着けた。
 私には、忘れられない花となった。


 義母は、
 妻と小生と・・、老人ホームに勤務する私の娘に抱かれて、静かに逝った。
 とても静かな”死”であった。









達 磨(だるま)       Link   白隠禅師の画とダルマ
私は、達磨が好きだ。旅先で気に入ったものがあり、それが私にとって適当な価格ならば
購入したくなる。                        
 観光地や寺院に行くと、いつも、一刀彫の製品を販売している店を探すことになる。
しかし、気品のある面立ちのものがなかなか無い。

 実は、達磨と不動明王の、いかめしい顔に、私は惹かれるのでだ。
 丸ごと自分が煩悩の固まりのごとく、毎日さまよい歩いてきた。
軟弱な我が身を思えば、そのせいか・・・、
心の内を見透かすような面立ちの・・・、そんな眼光の達磨様が好きだ。

達磨と周辺の仏教史概略
476年  中国で、曇鸞(〜542)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧4。北魏の五台山で修業。
50代に洛陽である三蔵
(シルクロードを通って多くの経典を携えて来て、ここで中国語に翻訳中)から、「観無量寿経」を示され浄土の教えに帰し、仙経を焼きすてる。 
487年   慧可生まれる(〜593)。達磨の二祖。慧可楞伽経を熟読す。萬法一如、身佛無差別を説き、即身成仏の義を立つ。
520年  達磨(南天竺の香至コウシ国の第三王子で菩提多羅(ボダイタラ)という名前)インドから広東省広州に上陸する。ここで修行。
538年  百済(聖明王)より仏教(仏像と経論)公伝(一説には552年)。天台大師智(ちぎ)生まれる(538〜597)
562年  伽耶(任那)、新羅により滅亡。中国で、道綽(どうしゃく〜645)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧5。中国北周の武帝は仏法を嫌い過激な迫害を行った。
この時代に14歳で仏門に入る。涅槃宗に帰依していたが、ある寺で曇鸞の碑文を読んで強い衝撃を受け、聖道自力の道を投げ捨てて他力の教えに帰依した。これよりこの寺・玄忠寺の移り大師の「浄土論註」を基として、念仏生活に入る。同師80歳のときに善導がいる。
593年  慧可 没(487〜593)。達磨の二祖。
600年  第1回遣隋使派遣
602年  玄奘三蔵(サンスクリット語の般若心経を中国語に翻訳)中国・洛陽に生まれる。
606年  僧 粲 没。 達磨の三祖。達磨の理入の深理を説く。 信心銘 冒頭:至道無難、惟嫌揀択(ゆいけんかんたく)
612年  聖徳太子等、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611・維摩経義蔬:613、法華経義蔬:615)」完成。この年玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。      
651年  道信没(579〜651)。 達磨第四祖。
652年  足助八幡宮(品陀和気命ほんだわけのみこと始め五柱)創建。この年雨氷降り、人畜・田畑・家屋損害大きい。
674年  弘忍 没(601〜)。 達磨第五祖。
713年  慧能(638〜713)没。 達磨第六祖。
1234年  日本達磨宗の僧、孤雲懐奘(エジョウ)が道元禅師に入門する。(宗派が吸収合併されたことになる) この年、親鸞が三河矢作柳堂(妙源寺太子堂)で説法を行ったという。また、霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火した年でもある。

集めた達磨など

弟子の慧可は、真理を求めるために、
「弟子にしてくれ!」と、懇願するも断られた。
尚お願いするが、やはり答えは同じ。
雪中に座して待つが、一瞥もしてくれない。
 そこで自らの腕を切断して、決意の程を
示したという。
<「慧可断臂」の伝説>
 真理を象徴する”達磨”禅師。ひたすら座禅に明
け暮れて、この姿になったというものである。
 理屈はともかく、私は”達磨”像が好きなのだ。
 左のものは両足がある。
これは、室生寺に参拝したときに気に入って、
友人から不足分のお金を借りて手に入れた。
 白衣観音は、魅せられて衝動買いした。  白衣観音は、弁財天の化身だと聞いた。
 
母親に生命をいただき、祖母に青年期の苦しみを解く「何でもない言葉」を投げかけられた。
 
妻には感謝することが多い。その他、忘れてはならない女性もある。
 女性は、実に偉大な存在だ・・と、想う。
☆達磨のこと  岡正篤 「日本精神通義」 より抜粋
                    ・・                     Link 
 白隠禅師の画とダルマ
禅門の興りと達磨の真髄
元来、禅という言葉は梵語(ぼんご)のDhyanaを音訳した「禅那(ぜんな)の訳語であって、静慮(せいりょ)、瞑想(めいそう)の意味である。
 もちろん単に概念的に静思する意味ではなくて、人生の真相を徹見
(てっけん)し、煩悩(ぼんのう)を解脱
(げだつ)して涅槃(ねはん)に住(じゅう)せんとする業(わざ)を意味するのである。
 中国において初めて禅宗を伝来したものは俗にかの有名な菩提達磨
(だるま)であるように言われているが、いわゆる禅宗という宗教形式はもっと以後にできたので、禅の必要はまた彼よりも前に、すでに中国に伝えられていた。
 一例をあげれば、覚賢
(かくけん):仏陀跋陀羅(ぶっだばとらBuddhabhadra)がそうである。
  覚賢
(かくけん)は、五世紀の初め、中国の僧の請いに応じて北インドから渡来した僧で、傑僧(けっそう)で、当時、江北はいわゆる五胡十六国の時代であった。
 かれは山東から長安にのぼったが、この長安には有名な羅什三蔵
(らじゅうさんぞう)が秦主・姚興
(ようこう)の手厚い保護の下に、食前方丈と数あまたの佳人を擁して豪奢(ごうしゃ)な生活をしておりました。
 羅什
(らじゅう)の教学上の功績は実に偉大なものに相違ないが、その人格行為の上から見れば、むしろすこぶる心得ぬ点が多い。
 長安において羅什と会った覚賢はやがてその俗臭紛々たる行為に飽きたらず、袂
(たもと)を払って江南の盧山に立ち去った。そこは羅什輩の俗器ではなくて、真に仏法
(ぶっぽう)の大器(たいき)である慧遠(えおん)法師等が白蓮社(びゃくれんしゃ)をむすんで、その名に相応しい静節を発揮していたのである。
 慧遠
(えおん)は、陶淵明、陸修静とともに有名な虎渓三笑の伝説に現れる哲人(てつじん)である。慧遠(えおん)は、当時の俗権と苟合妥協(こうごうだきょう)する長安仏教に対して超然たる別天地を樹立し、
 
「袈裟(けさ)は、朝宗の服に非ず。鉢盂(はつうは廟廊の器に非ず。沙門(しゃもん)は塵外の人なり。まさに敬を王者に致すべからず。」
 という信念のもとに道友相集まって切磋琢磨し、規約を厳にして、いやしくも徳人に非ざるものはいかなる才学顕栄とはいえども敢えて許さず。白蓮社
(びゃくれんしゃ)列賢の道風は心ある人士をして真に傾倒惜(お)かざらしめていた。
 当時、才学江左
(こうさ)に冠たりといわれていた謝霊運ですら、辞を低くしてしきりに社員の列に加わりたいと懇願していたにもかかわらず、ついに慧遠(えおん)の許すところとならなかった。覚賢はここに迎えられて、その優游の地を得、法友とともに「六十華厳」の大翻訳に従事したのであった。
 菩提達磨の渡来はそれよりも少なくとも五十年、あるいはかれこれ百年の後、一般には南朝の梁の武帝の普通元年、六世紀の初めとされている。江の南北を通じて仏教が恐るべき勢力を有していた当時、達磨の渡来はたちまちにして朝廷の耳に入り、達磨はついに金陵(南京)において梁の武帝に親しく引見せられるようになった。

 
梁の武帝は史上有名な仏教信者で、自ら「三宝の奴」と称し、ひたすら「外護(げご)」に努めた天子である。
 しかし、仏教の外護すなわち信仰を現すものといえ、当時の信仰は要するに供養信仰、利益信仰に過ぎなかった。
 さまざまな供養をする代価として現世利益を受けようと願うのがその心情である。南北朝時代はシナ文明の爛熟期である唐代の前駆であって、社会の騒擾
(そうじょう)、思想の混乱などのために、著しく一般に不安困憊(こんぱい)気分が漂っていた。
 そこに法楽を求める供養信仰が流行し、これに乗じて邪道の跋扈
(ばっこ)することは古今東西その揆を一にするものなること、いまさらここに贅言
(ぜいげん)するまでもない。

 達磨が武帝に謁見すると、武帝は早速尋ね、次のような問答をした。

武帝「朕、即位以来、造寺・写経・度僧いちいち記録することもできぬほどである。
  かほどまでに仏法のために尽力しておるのであるが、どんな功徳があるのであろうか」
達磨「どれもこれも無功徳です。」
武帝「そりゃまた何故功徳がないか」
達磨「これらはただ人天
(にんてん)の小果、有漏
(うろ)の因、影の形に随う如く、有(う)
  いえども実ではありません。」
武帝「それでは真の功徳とはどんなものであるか。」
達磨「淨智妙円
(じょうちみょうえん)、体自空寂(たいじくうじゃく)、如是(にょせ)の功徳は世俗の
  観念で求められるものではありません。」
・・・・武帝は達磨大師の厳粛なる喝破にあって狼狽せざるを得なかった。・・・・
武帝「それでは聖諦一義とはどんなものか。」
達磨「不識
(ふしき)。」 中国のお話である。中国語で言ったはずだが、日本の文献にはこう書いてあった。。”知らぬ”と言ったと思う。 

 三宝の奴と称し、王者の身をもってこれほど仏法の外護に任じている自分こそは、まさに聖諦一義を悟れるもの、無量の功徳
(くどく)あるものと思い込んでいた矢先、このように人天の小果、有漏(うろ)の因に傲(おご)る黄金骨を慈悲の鉄槌
(てっつい)をもって微塵(みじん)に撃砕してくれた達磨の心は、しかしながらついに武帝には領会(りょうえ)することができなかった。達磨も武帝ではまだ契合(けいごう)せず、また、このような利益信仰の徒(やから)の下に、ことには帝者の俗権に苟合(こうごう)して在ることを快しとしなかったのであろう。
 達磨はそのまま飄然として江北に去り、崇山
(すうざん)の少林寺に籠(こ)もってしまった。

 
この頃、宝誌和尚という、日本の一休禅師をもっと散僕(さんぼく)にしたような飄逸な高徳が居た。高僧伝の語るところによれば、住居も一定せず、飲食も時なく、髪を長く伸ばして、いつも裸足で町を歩いていたという、よほど風変わりな和尚であったらしい。ある時、武帝はこの和尚に会って”達磨という名僧が来たが、一向に朕とは話が合わなかった”と話した。
 すると、宝誌は真面目になって、

「陛下、あなたはいったい達磨とはどういう人で、なんのために来たのかご存じですか。」
と聞いた。
武帝「いや、知らない。」
宝誌「それは残念、あの人はね、観音大士です。観音大士が仏心印
(ぶっしんいん)を伝
  えに来たのです。」
武帝「それは大変なことをした。そういう有り難い人とは知らずに逃がしてしまった。」
  ・・・・武帝は大いに後悔した。そしてすぐさま使いを遣わして迎え取ろうとしたが、その時、宝誌は冷然と答えた。・・・・
宝誌「陛下そんなことをおっしゃっても駄目です。恐らく全国の人が迎えに行っても、
  それで回
(かえ)るようなかれではありません。」

 この一則の話は古来、禅門でも有名なものであるが、その終始を貫いて、いかにも禅家の真骨頂
(しんこっちょう)の躍如(やくじょ)たるものがうかがわれる。
 鳩摩羅什
(くまらじゅう)輩であるならば、仏教宣揚(せんよう)を名として、武帝(ぶてい)の心を収攬(しゅうらん)し、世に時めくことも易々たるものであったろう。
 けれども仏心印を伝える達磨はすげもなく武帝を喝破
(かっぱ)して、武帝の驕気(きょうき)と多欲(たよく)と態色(たいしょく)と淫志(いんし)とに痛へん:痛烈に戒(いさ)めること(石ヘンに乏)した。しかもその治療が喜ばれないことを見て取ると、彼は飄然(ひょうぜん)と去ったのである。
 それをまた飄逸
(ひょういつ)な宝誌(ほうし)が、「観音大士仏心印を伝える」と称揚し、武帝はこれを迎え戻そうとしたとき、断固として「もはや返るまい。」と天子を止めるところは、浮き世の何ものにもとらわれず、悠々として衷
(うち)に信ずるところのある風格は、我々には欣羨(きんせん)絶えざる所がある。

 達磨の真髄を得たものは慧可
(えか)といわれている。慧可は神光と称して、達磨に下に散ずる以前既に仏道に造詣(ぞうけい)の深い天才であった。慧可は、達磨の道風(どうふう)を慕って法を求めたとき、達磨は拒んで室に入れなかった。神光もまた窓前に立って敢(あ)えて去らなかった。この夜、大いに雪が降って、暁(あかつき)には積雪が神光の腰を埋めるばかりであった。これを見て達磨は尋ねた。

達磨「お前は長らく雪中に立って、一体何を求めるのか」
神光「どうか和尚のご慈悲をもってご垂教
(すいきょう)に預(あず)かりたい。」
  ・・・熱心に懇願した。・・・
達磨「諸仏無上の妙道は無窮
(むきゅう)に努力精進(しょうじん)して、行い難(がた)きを行
  い、忍び難きを忍ばねばならぬ。小徳、小智、軽心、慢心をもって真乗を願う
  のは徒労の話であるが、お前にその覚悟があるか。」

 神光は、これを聞いて涙を流して求道を誓い、ついに自ら臂
(ひじ)を断ってその覚悟を示し始めて達磨の許しを得て入室参禅することができた。(有名な二祖「慧可断臂」の伝説である。)
 達磨の法系は、その後慧可より僧粲
(そうさん),道信、弘忍
(こうにん)と続いて宗風を挙揚(こよう)した。
 
 達磨生伝の禅風<T>  から      ・・・・ 安岡正篤 「禅と陽明学」 より抜粋  314頁
 達磨 洛陽嵩山(すうざん)を根拠とす。 生涯遊化六十年。
 二入四行を教え、楞伽經
(りょうがきょう)を重んず。
◇二入・・理入   行入
◇四行 報 冤 行
(ほうえん)行・・恨まないこと
    随 縁 行・・・・
因縁によって生ずるものであることを知り、道に随順する
    無所求行
(むしょぐ)・・とらわれの思いを離れる
    称 法 行・・・
本性清浄の理にしたがって自利利他を行ずる
達磨の真骨頂
 達磨というと象徴の達磨(人形)を皆すぐ念頭に浮かべて、座禅ばかりして何もしなかった人のように思うのですけれども、そうではない。座禅は彼の信仰、彼の教学、彼の修行の一つの在り方であって、実は「生涯遊化六十年」。
 これは彼の伝記の中にある言葉です。六十年の間、ずいぶん信者を教下することに努力した人で、専ら洛陽の近所にある嵩山
(ここに拳法で有名な少林寺という寺がある)を根拠にして教下活動、いわゆる布教のために熱心に努力した。そして「二入四行」ということを教えた。
 つまり理から入っていく理入と、実践行から入ってゆく行入がある。
 その行入に報冤行
(ほうえんぎょう)、随縁行、無所求行(むしょ・ぐぎょう)、称法行という四つの行を立てた。
 
(略) 達磨は「教下別伝」・「不立文字」といわれるが、しかし決して経というものをまるっきり論じなかったのではない。
 いろいろの教典の中で特に楞伽經というものを重んじたようです。
楞伽經(りょうが・きょう)
 楞伽城主婆羅那夜叉、如来を礼讃す。佛呵々大笑、身より無量光明を放ち説法す。
 諸法本来無相、如実に之を観じ、法と非法とを棄てよ。
 無相は一心。一心は如来藏。
 無相の智慧を修行せば無生法忍三昧
(ざんまい)を得べしとす。
 この楞伽という名前は考古学的に、あるいは地理学的に申しますと、セイロンにある険峻な山の名前になっております。
 そこでお釈迦さんが説法されたというのでありますが、実際は問題外であります。
 一つの教典の中のフィクションと思われるが、この楞伽という所に城を構えていた婆羅那夜叉
(ばらなやしゃ)王、これがある時に佛の説法の際に聴聞して、つくづくと如来を礼讃した。
 ところが
  「佛呵々大笑、身より無量光明を放ち説法す。諸法本来無相、如実に之を観じ、
  法と非法とを棄てよ。無相は一心。一心は如来蔵。無相の智慧を修行せば無生
  法忍三昧を得べしとす」
 これは楞伽經の本質を簡訳してそこへ出しておいたのでありますが、達磨の理入の話をした時に、理入の本質を表すものは何かというので指摘しておきましたが、特にかいつまんで申しますと、当時は翻訳
(ほんやく)仏教、御利益(ごりやく)仏教でありますが、そういう戯論(けろん)に随わず、「更に文教(文が言という字になっているものがある。) に随わず。此即ち理と冥符(めいふ)し、分別有る無し。寂然無為(じゃくねんむい)、之を理入と名づく」。
 どうもこの如来を主とすると、どうしても知識的・概念的・論理的になって、体験とか実践とかいうことが遊離している。その弊害、つまり空理空論がひどかったからそれを戒めて、さらに文教、あるいは言教に随わない。それはどういうことかというと、これは即ち「理と冥符して」、真理と冥々のうちにというのでありますから、これは概念的・論理的というのではない。
 直感的・具体的にきっぱりと一致する。理と冥符する。主観とか客観、主体と客体と、そういう「分別有る無し」。これである。
 つまり従来のような御利益宗教、そろばん勘定の信仰とか、あるいはお経に従っていろいろの知識や理論を主とするような、そういう理の宗教ではない。
 そういう感情的・主観的なものに従わないで、本当の自分を体得してゆく。
 それはどういうことかというと、この宇宙万有というものは、そのまま一つの偉大な真理である。
 万有、宇宙、造化、これは理だ。真理である。
 これはロゴスというものと同じ考え方で、プラトンやヘーゲルなどが論じたが、これはちっとも新しくない。すでに達磨が論じている。
 ただそれを概念的・理論的に追求するものではない。もっと身体で一つになる。つまり体得する。
 そしてこれに主体とか客体とか、あるいは観察者とか非観察者であるとか、そういう分別というものが全くなくなってすまう。つまり造化そのもの。真理そのものと一体になる。こういうのが理入である。
 理入というけれども、理入というのは知識的・論理的なというのではなく、真理そのものと一体になって、そうして自然が「天行健なり」で、かくして春夏秋冬やむことなく千変万化するように、自然に行
(ぎょう)じてゆく。
 人間そのものが真理であり、人間の行はその真理の自ずからなる心理である。理入。
 これが達磨の真骨頂であります。
 これを達磨が教えた。
無生法忍三昧
 現象的にみると、いろいろの姿、いわゆる有相無相があるけれども、真理と冥符すれば、一切そういうのはそのまま無相である。
 諸法は本来無相である。これをあるがままに観ずる、自然をそのままに観ずるのである。自然がそのままに光を放つように、自然に自ら光明があるように、如実に、そのまま直感するのである。
 如実にこれを観ずる。従って法と非法とを棄てる。これが存在、実在である、これが非存在であるというような、そういう法・非法を棄てよ。
 この無相はしからばどいうものかというと、これは要するに一心である。
 人間の一心は、言い換えれば如来蔵である。この無相の智慧、深い直感的智慧を修行するというと、「無生法忍三昧を得べしとす」。これが楞伽經の所説である。
 「無生法忍三昧」というのは・・・無相は無生である。
 はかない生命、生老病死、そういったようなものが、そういう人間の惑いといったようなものがなくなる。
 生は生、死は死、すべてが自然、真実である。その無生の法に徹することを儒教では「忍」という言葉で表す。
 無生法忍、それに徹底することことが三昧である。無生法忍三昧を得べし。
 つまり宇宙そのものに人間がなりきることができる。
 この楞伽經は四巻本、七巻本、十巻本がある。
 達磨の頃にあったのは四巻本のようであります。




時の経つのを忘れて 遊戯(ゆげ)三昧 !