妻の母は、老いて市内の老人ホームに預けられた。 妻は、私の父と両方の看護をしながらの日々がしばらく続いた。 母の病室に、妻が持ち込んだ花は、成長しやや徒長もしながら、清楚な花を着けた。 |
私には、忘れられない花となった。 義母は、 妻と小生と・・、老人ホームに勤務する私の娘に抱かれて、静かに逝った。 とても静かな”死”であった。 |
私は、達磨が好きだ。旅先で気に入ったものがあり、それが私にとって適当な価格ならば 購入したくなる。 観光地や寺院に行くと、いつも、一刀彫の製品を販売している店を探すことになる。 しかし、気品のある面立ちのものがなかなか無い。 実は、達磨と不動明王の、いかめしい顔に、私は惹かれるのでだ。 丸ごと自分が煩悩の固まりのごとく、毎日さまよい歩いてきた。 軟弱な我が身を思えば、そのせいか・・・、 心の内を見透かすような面立ちの・・・、そんな眼光の達磨様が好きだ。 |
476年 | 中国で、曇鸞(〜542)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧4。北魏の五台山で修業。 50代に洛陽である三蔵(シルクロードを通って多くの経典を携えて来て、ここで中国語に翻訳中)から、「観無量寿経」を示され浄土の教えに帰し、仙経を焼きすてる。 |
487年 | 慧可生まれる(〜593)。達磨の二祖。慧可楞伽経を熟読す。萬法一如、身佛無差別を説き、即身成仏の義を立つ。 |
520年 | 達磨(南天竺の香至コウシ国の第三王子で菩提多羅(ボダイタラ)という名前)インドから広東省広州に上陸する。ここで修行。 |
538年 | 百済(聖明王)より仏教(仏像と経論)公伝(一説には552年)。天台大師智(ちぎ)生まれる(538〜597)。 |
562年 | 伽耶(任那)、新羅により滅亡。中国で、道綽(どうしゃく〜645)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧5。中国北周の武帝は仏法を嫌い過激な迫害を行った。 この時代に14歳で仏門に入る。涅槃宗に帰依していたが、ある寺で曇鸞の碑文を読んで強い衝撃を受け、聖道自力の道を投げ捨てて他力の教えに帰依した。これよりこの寺・玄忠寺の移り大師の「浄土論註」を基として、念仏生活に入る。同師80歳のときに善導がいる。 |
593年 | 慧可 没(487〜593)。達磨の二祖。 |
600年 | 第1回遣隋使派遣 |
602年 | 玄奘三蔵(サンスクリット語の般若心経を中国語に翻訳)中国・洛陽に生まれる。 |
606年 | 僧 粲 没。 達磨の三祖。達磨の理入の深理を説く。 信心銘 冒頭:至道無難、惟嫌揀択(ゆいけんかんたく)。 |
612年 | 聖徳太子等、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611・維摩経義蔬:613、法華経義蔬:615)」完成。この年玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。 |
651年 | 道信没(579〜651)。 達磨第四祖。 |
652年 | 足助八幡宮(品陀和気命ほんだわけのみこと始め五柱)創建。この年雨氷降り、人畜・田畑・家屋損害大きい。 |
674年 | 弘忍 没(601〜)。 達磨第五祖。 |
713年 | 慧能(638〜713)没。 達磨第六祖。 |
1234年 | 日本達磨宗の僧、孤雲懐奘(エジョウ)が道元禅師に入門する。(宗派が吸収合併されたことになる) この年、親鸞が三河矢作柳堂(妙源寺太子堂)で説法を行ったという。また、霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火した年でもある。 |
弟子の慧可は、真理を求めるために、 「弟子にしてくれ!」と、懇願するも断られた。 尚お願いするが、やはり答えは同じ。 雪中に座して待つが、一瞥もしてくれない。 そこで自らの腕を切断して、決意の程を 示したという。<「慧可断臂」の伝説> 真理を象徴する”達磨”禅師。ひたすら座禅に明 け暮れて、この姿になったというものである。 理屈はともかく、私は”達磨”像が好きなのだ。 左のものは両足がある。 これは、室生寺に参拝したときに気に入って、 友人から不足分のお金を借りて手に入れた。 |
||||||||||||
白衣観音は、魅せられて衝動買いした。 | 白衣観音は、弁財天の化身だと聞いた。 母親に生命をいただき、祖母に青年期の苦しみを解く「何でもない言葉」を投げかけられた。 妻には感謝することが多い。その他、忘れてはならない女性もある。 女性は、実に偉大な存在だ・・と、想う。 |
|||||||||||
☆達磨のこと 安岡正篤 「日本精神通義」 より抜粋 ・・ Link 白隠禅師の画とダルマ |
||||||||||||
禅門の興りと達磨の真髄元来、禅という言葉は梵語(ぼんご)のDhyanaを音訳した「禅那(ぜんな)」の訳語であって、静慮(せいりょ)、瞑想(めいそう)の意味である。 |
||||||||||||
達磨生伝の禅風<T> から ・・・・ 安岡正篤 「禅と陽明学」 より抜粋 314頁
|