〜『養寿寺縁起』より〜


  
奈良時代のことです。行基さんという僧侶が旅をしておりました。たまたま、現在の花園町にある小高い丘の上で数日間滞在したそうです。その折りに、観音菩薩像をおつくりになりました。行基さんが去られた後、その土地に住む人たちが、この観音像を大切に守っていきました。そしてこの場所を観音山と呼ぶようになりました。     
                               
         
                      現在の養寿寺  →                                       


    



平安時代終わり頃、平景清(別名:悪七兵衛景清)という人が、この花園の里に以前からあるこの観音菩薩像を本尊とするお寺を建てたとされています。時に養和二年(1182)であり寿永元年(1183)の年号の一文字ずつをとって、天台宗養寿寺としたというのです。
 
 

室町時代に至り、本願寺八代蓮如上人の三河地方布教(1468年)の影響で浄土真宗の末寺となり現在に至っているとされてます。



 



 
現在も本堂右のお厨子の中にこのような2体の観音像があります。昭和時代には、地域の人から子安観音と呼ばれ、安産を願う人たちがお参りをされたと言われています。






   















 本願寺八代蓮如上人以降、浄土真宗教団は巨大になりましたが、教団が大きくなり、力を持つことは良いことばかりではありませんでした。『一向一揆』の一向とは、まさに浄土真宗のことなのです。その一つに伊勢長島の一向一揆というものがあります。願証寺というお寺が拠点となり、織田信長と戦ったのです。結局は、多くの真宗門徒が殺されてしまったそうです。その願証寺から難を逃れるために譲り受けたというのが養寿寺ある蓮如上人の絵像だと伝えられています。真偽のほどはわかりません。古い絵像で、所々やぶれていますので、通常は、お写真をかけています。しかしながら、毎年3月末に執り行われる『蓮如忌』には、北余間のお厨子の中にこの絵像をかけています。