小野田長安(阿願)(おのだながやす)についてchouan001etn

応永二十年(1413年)、私達の檀那寺である悟真山光明寺(ごしんざんこうみょうじ)koumyouzi9tnKoumyouzi14tnの発足に、小野田長安が、取り持ちました。

小野田長安(阿願)は、現在の愛知県西加茂郡三好町明知(みょうち)に住み、東郷町傍示本(ほうじもと)の加藤時利(空明)とともに、嘉慶2年(1388)、玉松山祐福寺(ぎょくしょうざんゆうふくじ)koumyouzi9tnに、達智上人を迎え七堂伽藍を建立しました。

玉松山祐福寺は、愛知県愛知郡東郷町春木3417の浄土宗西山禅林寺koumyouzi9tn派のお寺で、建久2年(1191)の創建と伝えられています。

現在祐福寺の開山堂には、達智上人立像を中央に、右側には加藤時利(空明)坐像、左側には小野田長安(阿願)坐像chouan001etnが、それぞれの家紋の入った厨子(ずし)の中に祀(まつ)られています。

祐福寺には、三好町明知に建立され、後に、移築されたと伝えられる観音堂(明治34年(1901)国宝指定、同35年上層部焼失により指定解除)や、同じく、明知(みょうち)に所在した宝珠庵に因(ちな)む雲版等が残り、三好町明知と深い関わりを物語る西三河、および、東尾張地方の名刹(めいさつ)です。

小野田長安と小野田氏
小野田長安(1358〜1406)、左近将監、法名阿願です。伊勢鈴鹿(三重県)に生まれ愛知県西加茂郡三好町明知(みょうち)に住みました。祐福寺の再建や、明知八王子社(現在の明知上八柱社)を建立しました。
天授三年(永和三年1377年)8月、小野田長安は明知(みょうち)に来て住みました。長安は信濃の国に生まれ、伊勢の鈴鹿で成人した忠臣で、征西将軍懐良親王に随(したが)い、大内義弘と戦い、敗れてこの地(明知)に来ました。これは長安の20歳の時で、翌年、東郷町傍示本(ほうじもと)の加藤時利の女「はな」を妻としました。嘉慶二年(1388年)時利と協力し玉松山祐福寺を建立、応永八年(1401年)には、猿投八王子社を、明知に勧請多宝塔および慈眼庵を建てました。長安の子孫は近藤の姓をなのり沓掛城主となりました。

明知の地名の由来
この頃、劫外乗空和尚は宝珠庵を開いたが、妙智高徳の名高く、深谷の地名が妙智となり後に明知となったといわれています。


参考文献

三好町立歴史民俗資料館が開催した1994年特別展「史料が語る鎌倉・室町時代の三好」の図録
三好町誌(昭和37年9月20日発行)


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