

魂を語る人は宗教的人間だと思われてしまう。
しかし、『魂』とは『私』という意味です。
とはいっても唯物論的世界に住む現代人はほとんど興味を持たない。
というわけでこれは
魂論です。
僕の魂の定義
まずもって魂という言葉に対する僕の定義をしておきたい。
過去から持ち越した一切の幻想、妄想を剥ぎ取って、もちろん死後に天国や地獄、神の国があるかないかの議論も棚上げにして、僕が定義する魂とは、僕という肉体を通して世界を見ているもの、聞いているもの、感じているもの、認識しているものである。
それは僕はもちろん他の誰も見ることができないものである。科学的には『意識』と呼ばれているものである。
魂が永遠の命という意味を失ったのは科学への信仰からだろうか。永遠の命などないという証明は不可能なのに、なぜ魂の永遠は失われたのか。人が目に見えるものだけしか信じなくなったからだろうか。昔の僕はそう判断していた。しかし、相対性理論や量子論によって、目に見えるということがどんなに信頼の置けないことかわかったはずだ。それでも魂の永遠性を信じないのは、人生への嫌悪、もう二度と世界に生まれたくない、生まれたのが間違いだと思うからだろうと、今の僕は考えている。自己を愛し生を愛するものが魂の永遠性を信じないはずはないではないか。
魂と肉体の関係についても定義しておかなければならない。
魂は肉体を離れては何も認識できないし、見ることも感じることもできないものである。なぜなら魂が肉体を離れて何かを見聞き感じることができるとしたら、世界はもっと多くの複雑怪奇なことが現象するのではないだろうか。あるいは見聞きし感じるだけで何もできないものだとしても、エホバの民のような一度きりの人生しかない魂は別として、この世の外で見聞きしたことの反省の上にたって、人類はもっとすばらしい世界を作りえたのではないだろうか。だから僕は幽霊も遊体離脱も信じない。
肉体とは「魂」と「DNA」の係わり合いで育てたものである、と、ひとまずはしておこう。「DNA」は『魂』の身体情報である。
以上、魂のことは証明不可能なのだから、これを僕の魂に対する定義とするものです。他のさまざまな魂観とかかわるときこれが僕の基本姿勢となるでしょう。
認識し感じる主体を実験的に検証することがいつかはできるとする考え方について
見える魂として言われていたものに人魂がある。仮に人魂があるとして、われわれは果たして人魂が世界を見ているかどうか、認識しているかどうか調べることができるであろうか。それは絶対不可能なのである。われわれが見ることのできるのは人魂が発する光だけだ。人魂を解剖したところで出てくるのは人魂の物質的構造だけである。正確に言えば構造の発する光による構造像だけである。なぜならわれわれは光によってしかものを見ることができないからである。
もし認識する、あるいは見る主体自体を見ることができるとしたら、光以外の伝達エネルギーがなければならない。それによって形のないものを見るということになる。あるいはもし魂の認識像を光によらず見ることができるとしたら(そうしなければ認識を検証できない)魂の中に魂が入ることができなければならない。あるいは僕が今見ている風景を他の人が見るには、僕の魂と二重化しなければならない。とんでもないことだが超能力を信じる人は可能というだろう。しかしもちろん科学ではない。原子と原子は合体することはあっても二重化したり進入したりはできないのだ。
脳のどこでなにを認識しているかなら特定できるだろう。大脳生理学などの実験では特定的な場所ではなく全体作用と考えるほうが適当だと考えられているようだ。どちらにしろ認識する主体自体は見ることはできない。
宇宙の見方について
僕は宇宙の物質的エネルギーを、宇宙を一つの生命体と見て、その身体性という考え方をする。
宇宙やエネルギーに対しては物質的に捕らえるか生命的に捕らえるか、あるいは仏教の場合のように霊的なとらえ方もある。唯物論と生命論そして霊魂論とであるが、物質と霊魂の二元論が多いだろう。生命論的見方、宇宙生命体説は(僕が考えるほどのことだから)現在にはあるかもしれないが、現代以前にあったということを聞かない。(インドの巨大原人、中国の盤古などはその死体から世界が生まれたものという考え方である)どんな思想も魂のひとつの立脚点からものをいっているに過ぎない、という相対性論者ではあるが、僕は生命論者の立場をとっているわけだ。
身体性は言葉が心に観念を与えるような意味で「言語・記号」ともいえる。DNAとは生物における遺伝的身体性の「言語・記号」といえるのではないだろうか。身体性は魂に肉体像(肉体観念)を生むのである。宗教者的に言えば遺伝情報を神の懲罰あるいは褒賞、または試練であるというものもいるようだが、もちろん精神論的くだらない考え方だ。唯物科学的に言えば進化記憶の連鎖だろうが、もちろんそれを証明する手だてはない。
僕の生命論的立場は物質と精神根源に生命的原理をおく、その根源的生命を『魂』あるいは『イノチ・命』と呼ぶのである。
遺伝子情報は進化の記憶であるだけでなく、生命の基本的設計図のようなものから来ているに違いない。そしてそれぞれの個の魂においても個性化されるものだろう。あるいはもっと複雑な、全体とのかかわりをも持つと想像することもできるだろう。
実際のところ、僕には命のダイナミズムを固定的に表現できるものとはとうてい思えない。
聖霊という存在は宗教には欠かせないが、唯物的には幻想に過ぎない。生命論的には魂の本質的愛の願望、あるいは希求を体現するもの、「精神的美的想像から来る存在」という表現を加えるだろう。人によってさまざまな、もっと多くの要素もある。それが生命のダイナミズムだと僕は言いたいのである。
『永遠』と現在
「永遠」と「無限」において、空間は点の集合であり、時間は瞬間の連続である。点も瞬間も存在しない。それゆえに点と瞬間の集合である時空は実在としては存在しない。
それなら存在するとは何か?存在するもの、それは「心(魂)」である。「心」とは「おも(念―思・想・憶・情)う」ものである。つまり、瞬間も点も観念・思想である。
現存在・世界は観念・思想である。
人間は完全なるもの、「永遠」を求める。し
この欲求は「魂」の本性・本能「愛」から来る。。
「永遠」は生命体的である。これが僕の宇宙観である。