生命的世界観へ

 振り返ってみれば、精神論的世界観では生命体は精神・魂が動かすもの(生気論)と考えていたと見ていいでしょう。近代哲学もその例外ではありません。唯物論的世界観では魂も生命体も物質現象であり、魂は一種の原子のように見られることもあったようです。近代になると、生命体は単に神の操る機械であり(機械論)、魂は神の下僕のようなものでした。
 しかし、進化論の登場以降精神論的世界観は混乱に陥ったというべきではないでしょうか。その混乱は現代も続いていて、オカルトまがいの世界観が氾濫しているようです。
 唯物論的世界観では進化論的解釈を取り入れようとする傾向がだんだん強力になり、機械論に対するアンチテーゼが強くなっていったようです。
 20世紀にはいると量子力学の発達によって還元主義批判の情熱が高まり、世界を非機械的システムとみる見る見方が強くなったようです。V・ベルタランフィらの有機体的「一般システム理論」の登場です。しかし、この理論は生命的世界観を語るのではなく、生物学的な有機体的世界論のようで、そのシステムの解明であって、生命自体や意識、主体についての考察ではないようです。あくまで精神と物質の二元論の範疇からははみ出していないようです。その延長として、コンピューターの登場とともに新機械論というべきものが生まれています。両大戦後の大衆文明はコンピューター時代へと新しい展開を見せたと言っても過言ではないでしょう。

 科学の世界では、「一般システム論」を嚆矢として、「ホロン、全体と部分の相補性」、「エントロピーの法則」に対する「負のエントロピー」そして、「散逸構造論」に至る、システム的思考の発達がありました。この経緯はフリッチョフ・カプラのターニング・ポイント「有機システム論」として統合されているということです。
 
システム論の中心的課題は「全体と個、個と個の関係」でした。個と個をつなぐものはなんでしょう。量子力学の実験で時間や空間を隔てた粒子間に意志の疎通があるかのような現象を見ました。同じように生物学でも「部分と部分の関係」を、細胞と細胞が、細胞と個体が情報のやりとりをしているかのような現象が数多く見られるといいます。遺伝子にも情報交換をする手段があるかのような現象が見られるといいます。本当にそんなことがあるのでしょうか。それとも他の何らかの力が働いているのでしょうか。

 時空を超えた粒子間の意思疎通
 こういう現象に関しては、時空間を超えるエネルギーやシステムを考えるのが一般的でしょうが、シェルドレイクの「形態形成場」のように同じ種類同士をつなげる「場」という考え方もあります。ライアル・ワトソンの「コンティジェント・システム」(contingent とはわかりにくい概念で、依存する、偶然起こりうる、とでもいうのでしょうか)など、信頼に足る証明はされていないらしい、いささか神秘的な考え方もあります。「疑似科学」といわれているようですが、科学の及ばない場所、「『無』」の世界に無理に科学を持ち込もうとしているのでしょう。文化系の人間にとってその想像に深く感じるところがあればいいのですが、科学的であろうとする概念化にひっかるのを感じるでしょう。とはいえ、そこにも何らかの真実があるように思われます。

 「全体と個」の関係をつなぐもの
 こういう現象に対してアーサー・ケストラーが考えたのが「ホロン」でした。ホロンの概念はわかりにくいのですが、全体子ということで、例えば分子と原子の関係で、その分子を構成する原子全体を包むものをいうのでしょう。原子で言えば、その原子を構成する素粒子全体です。人類で言えば、人類を構成する民族全体です。日本民族でいえばアイヌ民族、沖縄民族、本島民族で構成されているとすると、その構成民族全体ということになるでしょうか。すべてのホロンは高い「自律性」を持ち上部に対しては「従属的」「協調的」「自己超越的」ですが、下部に対しては「支配的」「競合的」自己主張的」です。つまり物質と精神が相補って世界を作っているという考え方でしょう。彼は「見えないインクで書かれたテキスト」が、鶏の受精卵が必ず鶏なるように、全体が構成されるための設計図のようなものが最初からあると考え、それを読み取る鍵もホロンにあるというように考えていたようです。ホロンはある種、アル系を覆う見えない力ですから、いわば階層的霊魂のようなものです。この考えは霊物二元、裏に神の設計がある精神と物質二元論でしょう。日本人の考え方で、部族の魂、一族の魂、家の魂、あるいは武士の魂、農民の魂、職人の魂、商人の魂といった階級に、あるいは土地にも、それぞれの魂があるというのと似ていますが、こちらは神の設計図はなく、全体的魂からの派生でしょう。

 生命的システム

 システム論をさらに有機生命観に向かって押したのが、アーウイン・シュレーディンガーの提唱した「負のエントロピー」という概念でしょう。この概念の延長にある「開放系非平衡」という考えかたが、機械と生物の違いを示ししたのです。「開放系非平衡」という考え方をさらに発展させエネルギー代謝機能に注目し、これこそが生命の本質ではないかと考えたのがイリア・プリゴジンの「散逸構造論」ということです。「負のエントロピー吸収」に対して「エネルギーの消費(散逸)」と「エントロピーの排出」を加えたということでしょう。生物現象としては当たり前と思いますが、それを物質現象にまで広げ、科学化(数式化)したことによって相対性理論以来の科学貢献とたたえられたのでしょう。まさに機械論的世界観から有機生命的世界観への転換です。

 人類はその生誕以来初めて「生命」について真剣に考え始めたと言っていいでしょう。
そして、生体論的世界観、とりもなおさず「ガイア・地球生命体」、ひいては宇宙は有機的生命体であるという見方も当然可能なことになります。こうしてヤンツの「自己組織化する宇宙」の登場となります。この説にはいくつかのキーワードがあるようです。自己組織化、自己調節、コヒーレントな行動、個性、環境とのコミュニケーション、相互作用、共生、形態形成、進化における時間ー空間結合などです。もちろん有機システム論の、全体と個の切っても切り離せない関係、連動を語るものですが、そのプロセス的ダイナミズムに焦点を当てていて、「プロセス中心」の世界観といわれます。「進化とは基本的に学習のプロセスである」と彼は言います。
 個々と全体はそれぞれ独立しているようで全体的統合的に連動して揺らいで(つまり不安定なのです)います。そこに発達が生まれ、複雑化します。複雑になるとそれまでの体制のままでは持たなくなります。しかし自己の内部から新しい秩序形成の再組織化行われるのです。再組織化するとさらに複雑になり、さらなる再組織か、進化が起こるのです。
 例えば生命の進化において、突然変異など、偶然は単なる偶然ではなく、このような全体との関係にあるのです。自然淘汰もしかりです。有機システムとは、部分と全体が相互に関連し合い、揺らぎながら平衡を保ち、自己更新するプロセスのです。
環境も生物もお互いに学習しながら進化していくプロセス、そこでは自然は何一つ否定されるものはないでしょう。エントロピーも負のエントロピーもエントロピーの排出も大切なプロセスの一部でしょう。プロセスとプロセスが作用し合って「自己創出」的な進化を推し進める。これは精神的世界観が蔑視していた現象世界の変化性、唯物的世界観が超克すべきとしてきた対象としてきた環境を、自己と同一視する思想、ひいては(いささか楽観的すぎる)生命賛美の思想といえるでしょう。
 ヤンツの思想は人類の未来に、自然との共生と関係拡大による進化を見ているようです。「進化のメカニズムと原理、それ自体の進化」というダイナミズム。進化した未来には宇宙時代も入ります。彼はまた「意識の進化」について言及しているようですが、それを深く追求する時間はなかったようです。あるいは、ジム・ロックの「ガイア仮説」のような操縦士のいない宇宙(という生命体)という考え方が心にはあったのかもしれません。宇宙の「意識」は宇宙におけるすべての意識の総体だという考え方です。主体のいない、中心のない世界です。目的のない世界、生きることが目的である世界、まるで現代のネット世界のように、それが生命ではないでしょうか。

 
さて、こうして人類は生命的世界観に到達しました。そして生命の裏には見えないシステムや場があるということも明らかになりました。もちろんこうしたシステムや場というものは実際にあるというのではなく、それらしいものがあるという想像なのです。見えない世界、すなわち『無』がそのようにして生命を現象させている実在なのです。