精神論的世界観
いまだ多くの闇に包まれていますが、心の無意識と物質的無が現実となった現代において、人類の未来に大きな意味、根源的意味を持って来るのが『無』だといっても言い過ぎではないでしょう。『無』は目に見える世界、意識対象、世界の実体性を否定してしまいます。それはとりもなおさず『無』こそ主体だということを主張しているといえるでしょう。精神論的世界観において『無』を論じたのは仏教と老荘思想しか思い浮かびません。ギリシャの哲学は「『無』からは何も生まれない」という観点から思想していたようです。もちろん何もないところからは何も生まれません。『無』という概念に対する感覚が違うのです。東洋の『無』は「無限無際限の無」なのですが、西洋の無は「虚無の無」なのです。
仏教思想の『無』
『無』といえばまず頭に浮かぶのが仏教です。釈迦の無は認識作用を無化することにありました。「唯識」の『空』論において『無』は思想化されました。この思想の特徴は実在するのは『識』だけであり、その他の存在は識の作用のようなものであり、実体がない(空)であるということです。いわば魂とは『識』であり、『識』以外に何ものも存在しないということでしょう。世界の変化は『識』状態の変化(転変)なのです。『識』とは『意識』や『心』と『身体』、世界現象のすべてなのです。ということで識の様々な変化構造を描き出すのがこの思想の特徴です。その煩雑なインド的カテゴリー的概念は現代的には無意味ですが、一つ重要な概念をあげるとすれば、自己感覚の存続に関わるのはアーラヤ識だということです。しかし、『識』が変化するものなら『永遠』とはいえないので『識』も自性を持たない(空)でしょう。つまり真の実在は『識』を属性とする『空』という『無』なのです。禅の無はその延長であり、宗教的体験を求める方法としての無であって、『無』自体については思想されたものではありません。仏教的『無』はきわめて非物質的であり非生命的であり、純粋精神的です。つまり現実否定的なのです。
道教思想の『無』
精神論的世界観において『無』を実存的(現実的、生活的・社会活動的)に語った思想は道教思想の他にないでしょう。道教はインドにおけるヒンズー教のようなもので、中国のあらゆる宗教や聖者を飲み込んでしまおうという情熱は持っているでしょう。釈迦を老子の生まれ変わりとするような考え方もあったでしょう。しかし、中国仏教は中国化してはいますが、道教の現実肯定的の対極、現実否定の立場に立って、相容れがたいものを持っています。それを示す概念が「道」と「法」の違いです。道は現実に人が自然に歩くところ、生きていく道ですが、法は非現実的で見えないものであり、人を罰して死を与えるものです。道教の精神的中心は、神のような精神と物質のすべてに対する支配的実在でも、仏教原理の『『空』』という精神論的実在でもありません。『道』という「混沌として、何ものかであり、何ものでもない」得体の知れない、感覚的感性的な実在であろう何かなのです。これが道教的『無』なのです。この『道』から世界のすべて、『心』も『身体』も生まれたのです。ただし、道と名付けた心は、人の生きる道という精神論的意味を持っているでしょう。
『老子』は第一章で『道』を次のように表現しています。
道のいうべきは常の道にあらず、名の名づくべきは常の名にあらず。名無きは天地の始めにして、名あるは、万物の母なり。故にまことに「常に欲無きもの、以ってその妙(実質、実在)を観、常に欲あるもの、以ってその徼(キョウ=境、めぐる、隔てる、うかがう)を観る」。この二つのものは、同じきより出でたるもしかも名を異にす。同じきものはこれを玄(秘神、奥深く見えないもの)という。玄の又玄、衆妙の門なり。
これを意訳すると次のような意味でしょう。
『道』、すなわち大自然の根源的実在は名前をつければすでに『道』ではなくなる。名前つけて説明できるとすればそれはすでに変化するものであり、永遠不変の本質ではない。我々の目の前に現象する万物は名もなく見ることもできないもの「玄」すなわち「無意識」から生まれる。「玄」は万物の本質「妙」のあるところであり、玄よりもっと玄なるもの、しいて名づければ「道」とでもいおうか、この「道」に始原、根っこを持つのである。名のあるというのは「言語・記号」すなわち「意識」である。「意識」は「万物」を生み育てる母である。万物を生み育てるとは生成消滅のことであり、変化である。変化は欲望を生む。欲望は生成消滅するものに執着するところに生まれる。だから「無欲の人は物事の真髄を観、欲深いものは物事の差異、差別を観る」といわれるのである。相反するもののようであるが意識すなわち「有名」も、無意識すなわち「無名」もともに「無意識」の奥底にある「道」から生まれるものである。
そして第四章で次のようにもいいます。
道は沖(ちゅう)なり、而うして之を用うるに或は盈(み)たず。淵兮(えんけい)として万物の宗(そう)なるに似たり。その鋭を挫き、その粉(ふん)を解く。その光(こう)を和らげ、その塵を同じくす。湛兮(たんけい)として常に存するに似たり。吾、誰の子なるかを知らず。象は帝の先にあり。
すなわち「『道』は空っぽの容器のようだが、いくら汲んでも尽きることがない。底が無くて万物の祖先のようだ。その中にあってはすべての鋭さは鈍らされ、すべての紛れは解きほぐされ、激しい光も和らぎ塵と融合する。常に深々と水をたたえているか海のようだ。それがどこから生まれたか我々は知らない。その神秘は天地創造より先にある。」といったところでしょうか。
しかし、第二十五章にはこういいます。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
人は大地の恵みに従っていきていく、大地は天の運行に従っている、天の運行は『道』という法則に従っている、そしてその『道』はより大いなるもの、『大自然』に属する
けっきょく真の実在は『道』という精神的なものではなく、『自然』という生命的なものだということでしょう。自然とは「もののありのままの姿」とか、「ものが自ずからそうある、そうなる、そう行う」ということで、「ありのまま生きること」だと精神論的にはいうようですが、しかし、「ありのまま」ほど訳の分からない言葉はありません。「ものの自然」に従うkとだといいますが、「ものの自然」こそが人々が求めている実在でしょう。それを精神的なものと考えるか、物質的なものと考えるか、あるいは生命的なものと考えるかです。
二十五章の頭に次のようにあります。
物有り混成し、天地に先立って生ず。寂兮(せっけい)たり寥兮(りょうけい)たり、独り立って改わらず、周行して而も殆(つか)れず、以て天下の母為るべし。
つまり『自然』とは母なる大自然、生命なのです。
以上のように、仏教と道教の『無』を比べてみたとき、道教の『無』は「万物を生む」という生命論的なものであるということことが分かります。もちろん精神論的世界観の時代のことですから、老子の思想は「人間いかに生きるべきか」という、精神論的視線から語られて来ました。しかし、それが道教の中心思想になったのはその生命論的性質によるものだといえるでしょう。