奇妙な世界
科学は、隠されてはいるが、まだ発見されていないが、すでにある現象や、その現象の中に、あるいは現象の以前に、根本にある法則を発見するものだと考えられてきました。我々は目に見える世界を永遠の昔からの実在であると考え、そしてその根本に創造の原理のようなものが存在すると考えてきました。しかし量子力学が提示した世界はそうした常識を根底から覆すものであったのです。それは魔術の世界、神秘主義の世界であるといえるほど奇妙な世界です。彼らはいう「世界は我々が見たとき初めて存在するのであって、それまでは存在するとも存在しないとも言うことはできない」と。あなたが今見ているこの文章、この文字はあなたが見るまで存在していないかもしれないといっているようなものでしょう。実に非常識な学問です。そんな馬鹿な話があってたまるかと誰でも思うことです。僕はさしあたって、このことを「見る前、観測する前のことは誰も見ることができない」という当たり前なことと理解しておこうと思います。唯識論的にいえば「目の前の現実、世界は存在していないかもしれない」ということのようにも聞こえますが、ぼく流の魂論では「世界は見る人の魂の状況によって違って見える」ということです。それはまた唯物的世界観の「世界は物質エネルギーの変化の連続である」というような唯物論を証明することはできないということだと理解します。
アインシュタインの相対性理論だって奇妙なものでした。そのアインシュタインでさえ奇妙だと反対した理論です。「量子」の概念は非常に分かりにくいものです。例えば物質のエネルギーを質量や速度で見るのが一般の物理量とすれば、その最小単位量子ということなのでしょうが、個々の事象に確率的に設定されるものであって、あらゆる事象に普遍的な、確定的根底的なものではないようです。物理門外漢には分かりませんが、世界をより深く理解するために必要な設定であると理解しておきましょう。
(僕が今読んでいるのは「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」(デヴィッド・リンドリー、松浦俊輔訳、青土社)です。それを読みながらこれを書いています。僕の目的は量子力学の解読ではなく、科学的思考の限界を明らかにして「無」へ参入することですから、その線に沿ったぼく流の、文学的で行き過ぎ、誤解もあるかもしれませんが、理解を摘出するにとどめます。量子力学を正しく理解したいと思う人は直接にこの本を読むなり、専門書、あるいはサイトの「エヴェレットの多世界解釈」などを読んでください。学者の間でも理解の仕方は様々らしいです。)
光(光の正体)は波としての性格と粒子としての性格を併せ持っているといわれます。つまり、光は津波でありサッカーボールであるというわけです。これを具体的な形を持って頭に描こうとするのは不可能だといえるでしょう。光の粒子には縦、横、円形の波があるといわれます。おそらく光は波であり、渦巻きでもある(つまり世界を作る情報のすべて)でしょう。近代科学の理解では球形に見えるましたが、現代の発達した観察の仕方、実験の仕方でそういう面も見せる、見えるようになったのでしょう。量子物理学とはまさにこのことを言っているようです。とりもなおさず、このことは粒子とか波とかいうのは実体ではなく、状況による観念だということだとぼくには思われます。
量子力学の実験が見せる世界にはもっと奇妙なところがあります。一年前に発射された一個の光の粒子と今発射した一個の光の粒子が、時空を超えててテレパスのように、意思を通じ合っているのではないかと、疑いたくなるような現象を示すということです。光の干渉現象をそのように起こすことができるのだというのです。面白いのは光を通す穴は、時間をおいてひとつづつやる時にも、常に二つあいていなければならないのだという、まるで一年も前に起こったことをその場所が記憶しているようでもあります。 この現象にはもっと深い全体的視野が必要でしょう
相対性理論の世界を四次元世界とすれば、それを超えた五次元世界があるかのようではないでしょうか。そしてこの次元の世界では「見方考え方に従って世界は現れる」のです。
量子論における最初期の証明実験とされるステルン・ゲルナッハ磁石について、正直に言えば、実験に使われた磁力線自体が、そして磁力線と電子の関係が、いったいどのようなものなのか本当のところ何もわかっていないという疑問があります。大体電子とは何かについてだって、理論的な数値であって具体的な姿かたちなどわからない、というより,具体的な形などないも同然ないのです。しかし電子のスピン(回転)の方向が測定方法によって変わるものであり、測定される前のスピンがどの方向を向くのかは測定しだいであって、その前のことは何もわからないということは確かなことでしょう。つまり、この実験で何が言いたいのかというと、ミクロの世界のことは観測の仕方によって影響を受けてしまうので、それが本来持っている性質、実在など絶対にわからないということでしょう。電子のスピン(電子は独楽のように回転して磁気を生成していると考えられていた)という性質も観測の結果で想像されているに過ぎない、あくまで観測によって限定された結果です。
(電子について通常書かれているのは粒子の姿ですが、それは観測された粒子の性格だけを取り出したもので、電子の本当の姿など誰も知らないのです。波でもあり粒子でもあるということは波でも粒子でもないといえます。はっきりいって姿や形などないのです。)
数々の疑問があるとしても、量子力学が多くの科学者に承認されているのは、それが現場の科学実験に役立つからであるといわれます。現実とは、科学だけではなく、すべてにおいて誤差や揺らぎのようなものがあります。量子力学の確率数理はそれを埋めてくれるのでしょう。誤った(というより不十分な)発想から真理の発見に至ることも少なくないもの(というより、進歩とはもともとそういうもの)でしょう。
世界の現実、時間空間は点と瞬間という実体のないものから構築されています。点と瞬間を設定し、0、1,2、・・・という数に概念化して、確かな立脚点であるかのような顔をしている、というより、そういう特殊空間が物理的数理だといえるかもしれません。世界は数(理)でできているという言い方もあります。
アインシュタインまでの科学者は、実験や現象の観測結果を、絶対的な定理に概念化、数理化できる、エネルギーのようなものを世界の実在と考えてきました。それは永遠の昔からの確かな実在で、科学者の役割はそれを見つけるだけだったのです。しかし、観測によって決定されるものを実在なんて考えるのはおかしいのではないか、といってけちをつけたのが量子力学だったのです。
世界は見る人の意識しだいだなどというようなことをいわれては、神の摂理として絶対的実在を信じていたアインシュタインが怒る気持ちはよくわかります。しかし、世界は彼の信じる姿とは違う見方があったのです。
もともと世界は多くの可能性を秘めているのかもしれないと思えてきます。今までが神話の世界だったに過ぎなかったのかもしれません。電子のスピンの方向性は上下左右のすべてに可能なのかもしれません。しかし、その方向を決定したのがその実験との関わりによるとしても、もともと何かがなければ方向性を持てるはずはないでしょう。何もなければ実験が方向を決めたことになり、磁石に電子の流れを二つに分ける力があるということになってしまいます。それは考えられないことですから、何らかの実在はあるのです。量子論がいっているのは、それが何であるかは知ることができないということでしょう。決定された後の電子の上下の方向性は現実です。しかし、それもいったん違う計器、上下から左右に変えた計器にかければ、上下の方向性は失われるのも実験結果です。つまりこの現実は実在ではなく、実験の結果でしかないということになるようです。つまり目に見えるものとしての現実在、観測されるものとしての現実在は根源的な実在でもなければその写しでもないということを示しているのです。これは現代科学におけるイデア論の否定であるとも言えるでしょう。
アインシュタインは量子力学に反対して、「量子論の言っていることは奇妙なことだ。たとえば、二つの箱に一組の手袋を片方ずつ入れて、離れたところに持っていく。どちらに右手、あるいは左手の手袋があるのかはわからないようにしてある。そこで片方の箱を開けると右手であった。ということはもう一方は左手であるとわかる。これが自然で当たり前なことだが、量子論の言い方によると、片方を右手であると判断したとき初めてもう片方は左手になったのであって、元から左手が入っていたわけではない、ということになる」というような反論をしたという。これはまさしく詭弁というべきでしょう。この場合右手左手というのはもうすでに決定していたものす。手袋のようなマクロの世界は決定されたことの積み重ねのようなもので、観察されるまでは何も決定されていないミクロの世界とは次元が違うのではないでしょうか。もちろん現在の量子論がマクロの世界まで支配するとしたら問題ですが、、、
実際、<科学的とは何か>ということについて信仰に近いものを感じるぼくです。
量子力学的夢想家となると、量子論で言う選ばれなかった可能性から多元宇宙論を展開します。SF小説でおなじみの幾人もの自分というやつです(エヴェレット解釈はこれと違うということです)。理論的に可能でもこれほど馬鹿らしい話はないとぼくは思います。それが本当とすれば我々の一人一人、そして一人の一挙手一投足のすべてから無限数の宇宙が生まれることになりそうです。無限の数の私がいることになることはなんとむなしいことではないか、というのが僕の感じ方です。相対性理論のタイムマシーンと同じように、これも理論的に可能でも無意味な空想のひとつだといえるでしょう。もちろんそれを信じる人には感動的なことではあります。いや、その無限の多様可能性というすばらしさに感動する人には信じられるのだろうというべきか。人間とは、自分の信じる世界観をもって世界のすべてを支配する絶対神のように思い込むものなのでしょう。とはいえ、量子力学的にいってもとSF小説違って、実体としては別の自分と決して触れ合うことができないようですから、証明不能なことであっても、虚妄だといえます。
時間においても空間においても多元宇宙の可能性を物理学者が提起したのは、おそらく不定形の物象的エネルギーにつけたに過ぎない物理数学的概念の実在を信じすぎるからでしょう。
僕の好みの世界観では、この世界は唯一であり、僕の存在も唯一のものです。無限数の宇宙など、あの世の存在を信じるのと同じで、無駄で無意味です。観測によって世界は変わるのなら、最初に見るものである「魂」によって世界は変わるのではないでしょうか。
物理学者の、相対性理論と量子力学を統一する理論へのチャレンジは続くでしょう。デヴィット・ボームの考えたガイドウエーブや量子ポテンシャル、あるいは隠された変数という神秘的な実在があるというふうに、量子的エネルギー自体の実在にこだわる気持ちは分かります。けっきょく科学も自分の信じる世界観を正当化しょうという努力のたまものです。ともあれ、素粒子が出現するところとなる量子系の世界は、実証的には無定形で非実在であることだけははっきりしました。量子の世界は無と現象の狭間だといえます。
「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」半ばですが、僕にとって見るべきものは見たというところです。しかし、この本の著者は「現実をテストにかけ」て彼の見解による奇妙でないわけを説明してくれるそうですから、量子力学の理解のためにもう少し先へ進もうと思います。
量子力学が奇妙でないわけ
さまざまな実験によって量子力学が正しい、というより、相対性理論までの古い実在論的法則が間違っている、というより、信用できないものだということが実証されました。ということから、①根底にある明確な実在などない、②光より早い、というより瞬間的情報伝達のエネルギーがある、③あるいは今ここで行われる行為は時間も空間も離れていても他の行為とつながっている。 のかもしれないとも考えられます。そして「宇宙全体が連結されたひとつの量子系だ」、「宇宙は量子的起源を持つビッグバンで始まった」「すべてが他のすべてにつながっている」などというとしたら、それでは個人の自由意志などないということになるのではないか、という抗議も当然出てくることでしょう。しかしこれらの結論も悪しき還元主義の結果に過ぎないのではないでしょうか。
僕は思う。それでは誰がビッグバンを見ていたのか。誰が見て今日の世界への成り行きを決定したのか。誰かが観察することによって決定したのではないのか。生物のいない世界を見ているのは神しかいないではないか。永遠の神だって生物のいない世界はむなしいはずだ。生物がいたって見慣れて分かり切った風景だから退屈だろう。誰も見ていない世界が延々と展開しているだけなんてむなしいではないか。だから神もいない。そして奇妙な考え方に取り付かれる。あるいは、もしかしたら『最初の魂の誕生から世界は始まった』のかもしれない。ビッグバンから始まる世界があって、そこに魂が生まれたのではない。魂が生まれて「ビッグバンから生まれた世界」を作り出したのだ。
さて、ここからまた正気に戻って、量子力学が奇妙でないわけを聞いてみましょう。
量子状態とは測定される前の素粒子の状態、例えば電子のスピンが「右向きでも左向きでもあり、どちらでもない」、あるいは「半分上向き、半分下向き」、あるいは「下向きでも上向きでもなく、部分的には両方」という状態のことでした。これをどのようにイメージするのでしょう。僕は夏の空の入道雲のようなイメージを受けます。それはどのように変化するかわからないが何かに変化しようとする可能性なのです。光の性質は観測方法によって違ってくる、粒子にもなれるし波にもなれる。このことをアインシュタインは、光には粒子の性質と波の性質とが元来与えられているものだと解釈するのでしょう。それに対してニールス・ボーアは、観測の仕方によって変わる性質を本質的な性質ということはできない。本質的な性質があるかどうかもいうことができないというわけです。つまり、アインシュタインは神が一そろいの手袋を二つの箱に分けて入れたとき、右手左手は決まっていたというのに対して、量子物理学者ニールス・ボーアは右手左手は決められていたなどと結論することはできないというのです。より正確に言えば、右手にも左手にもなる可能性として二つの手袋は存在すると考えるべきだというのです。(もちろんこの場合、箱の中の手袋は普通のように人間が入れたものではない、などと平凡な人間なら冗談を言いたいところだ。あるいはひょっとしたら手袋であるということ自体開けてみたときに決定されたのではないだろうか?とか・・・)
表層的な感想では「電子は方向を持っていない」でいいではないかと思いつくのですが、これは誤った認識でしょう。あらゆる可能性を持つとするのも正しくないかもしれません。正確には「不定の状態」というべきでしょうが、しかし、マクロの現実では電子は粒子であり波であるということになります。量子力学的には光子は存在するともしないともいえないが、物理学的には存在する考えられるのでしょう。
ここにはマクロの世界の確定性と、ミクロの世界の不確定性という断層があります。そこで持ち出されるのがコヒーレント(歩調のそろった、干渉しあう)という観測可能な量子状態です。
コヒーレント
物理学者は何とかして電子の量子状態を定義したいと思い「上向きでもあり下向きでもあるが、実は同時に上向きでも下向きでもない」とまるで禅問答のようなことをいいます。それはまた同時に左向きでもあり右向きであるし、そのどちらでもないだろうとぼくには思われるのです。いわば『無』、無差別、無分別の状態なのです。つまり、量子状態とは無数の方向性・状態など(つまり可能性)が重ね合わさってある状態だとぼくには思われます。それはともかく、磁石実験によって二つの方向に分かれる性質がもともとあるのは確かでしょう。量子力学的にはこの二つの対にして波動関数という数式にするようです。原子という空間において、電子など素粒子は量子状態にあるのでしょうが、もっと大きな空間、分子レベルではどうなるのでしょう。その辺のところは書かれていませんが、もっと多くの電子や光子原子でできている関係、場所では波動関数は使えるのでしょうか、問題の解決のために超伝導現象のコヒーレンス(歩調のそろった動き、状態)を引用します。超伝導体の中では電子はコヒーレントな(歩調のそろった)動きをするといいます。コヒーレントとは光の干渉波のように電子が歩調をそろえて何かの模様を作るようなことをいうようです。日本では見たことも聞いたこともないですが、アメリカや球場では、観衆だか群衆だかが、ウエーブを行うようで、そのウエーブのような動きをいうということです。立ったり座ったりという動きが「重ね合わさって」、一人一人が全体の動きに「歩調をあわせ」て球場を一周する波を作るのでしょう。「群衆の中にある座席の人が立ち上がっているときに、球場の反対側の座席の人は座りつつある」という組み合わせ、それを波動関数で記述できるということです。そのように、より大きな系、生物状態も量子力学的に数式化できるのではないかということで量子猫、「シュレーディンガーの猫」の登場となります。この猫は活きた状態と死んだ状態の重ね合わせ状態だというのです。じつにばかばかしい論理ですが、あくまで量子力学という言語空間でのことと了解しましょう。
それではこの量子猫の波動関数はどうなるでしょう。時間がたつと生きた状態の波動関数と死んだ状態の波動関数は別々に進展しコヒーレントでなくなり(、コヒーレンスの喪失、脱コヒーレンス)、ランダムな多くの量子状態の波動関数がお互いを打ち消しあって、重ねあわせが消え、「死んでいるか生きているかのどちらか」という状態に分かれてしまうということですす。つまりある確率の「生きた状態」とある確率の「死んだ状態」が残るということです。このように、マクロの世界においても波動関数を当てはめることによって、数学的に解決できた。宇宙の創生も量子的事象として記述できるのであって、何の不思議もないというわけでしょう。
これに対する疑問は当然提出できるでしょう。脱コヒーレンスは本当に必然なのでしょうか?脱コヒーレンスを証明することは、重ね合わせを証明できないのと同じように不可能です。重ね合わせは重ね合わせであり続けるのではないか?というのがジョン・ベルのとらえた考え方だということです。アインシュタインは観測の結果から還元して相対性理論を組み立てました。そこには観測を確かなものとする信念がなければなりません。しかし量子力学は、その観測の不確定性を示しました。実在の復権に対する情熱はまだまだ続くようですが、しかし、ともあれかくもあれ、一応脱コヒーレンスという道具立てによって量子力学の世界支配ゲームは成功している(という顔をして)ようです。
科学者にとって問題なのは『永遠』(それが宗教的であれ唯物的であれ)が『魂』(認識者、それが死すべきものであれ不滅のものであれ)に送ってよこす信号・記号が、果たして決定論的であるのか、解釈の可能性に幅を持った不確定的なものなのか、なのでしょう。本当はシュテルン-ゲルラハ磁石と電子のスピンの関係はそうなるものと決まっているのかもしれない。しかしそれはいかなる実験によっても明かすことができない地平のかなたのことなのです。シュテルン-ゲルラハ磁石によって電子は上向きと下向きの二方向に分かれるのであって、あちこち無方向に散乱するわけではないのですから、これには何らかの法則があるはずです。それは個々の要素、電子など素粒子の性質に依存した機械論的・決定論的法則ではなく、全体論的、有機的・複雑系的な、それこそ生命的な法則があるに違いないとぼくには思われます。
理解とは欲望による想像力の問題であって大脳の性能の問題ではない、という台詞が思い浮かびます。理論物理学は世界を数学的に理解します。彼らにとって数式や座標図形が詩であり物語であり芸術なのでしょう。「無」も彼らにかかると「真空エネルギー」なるものを使って数式化され、イメージ化されます。想像力によって概念化され、イメージ化される世界、それはそれなりの真実があると言っていいでしょう。
「量子」をエネルギーの固まり、あるいは波や粒子のようなもののような印象を最初は受けます。しかし量子とは観測されたデータを数値化し、重ね合わせた数理概念・数式(波動関数)だったようです。量子論は実在を否定しているわけではないようです。ただ実在は認識不可能であるといっているのです。認識不可能の『無』があるのです。あらゆる思想の根底には現実に対する認識があります。それは観測という言い方もできるでしょう。その認識の確実性が否定されたのです。それ故に世界は幾通りも可能性があるともいえます。しかしまた、現在ある世界は、幾通りものあり方を捨てた結果であるともいえないでしょう。
「神はさいころを振らない」「神は老かいではあるが、意地悪ではない」と言うアインシュタインに対して「神様にあれこれ指図するのはやめなさい」とボーアが言ったという「量子力学の奇妙なところが、思ったほど奇妙でないわけ」の最後の引用は印象的です。
このようにして、量子力学によって世界には絶対的に観測不能な地平線、『無』があることは確立されたと言っていいでしょう。
再び『無』
現実感、実体的観念は観測によって左右されるものであり、実在ではないというのが量子力学の結論でした。それ故に現実を理解するには先に理念ありでは間違いなのです。最善の道は変化を注意深く観察し、確率的に理解することでしょう。
量子論の登場する前の科学的世界観として「この世界は基本的な物質的法則、秩序の下にある実体である」のでした。機械論的世界観といわれるものでした。機械論においては、世界は差異・差別であり善悪の戦いの場であり、プラスマイナス、陰陽、美醜、貧富、不平等である。その落差のエネルギーによって世界は動くものでした。
それに対して量子力学以降の唯物論は「無」から現象する多様性、共振や打ち消しなど相互作用であり、そこに自然な進歩や秩序が生まれるという感じです。
さて、唯物的世界観の限界は明らかになり、問題は観測、すなわち「見ること」にあったのです。量子力学は物質科学ですから、「見る」観察者である人間も観測機械の一部でしょう。しかし、観察主体である認識者、魂も機械の部品に過ぎないでしょうか。それとも物質とは別のものでしょうか。いずれにしても「認識者・魂」こそ究極的な問題でしょう。
ここで唯物論的に魂を論じてみます。もちろん、魂が物質的現象なら、やはり変化するはずです。分解して分子から原子、電磁波になるともいえます。この僕、今窓の外の風に揺らぐ木々や、さえずり翔る小鳥たちを見ている「私」・意識者・魂、その精神・心は電磁波になるのでしょうか。量子論を入れれば「物質は物質としてあるのではなく、クオークのような素粒子たちも量子的場所のようなものだから、精神も素粒子と同じように量子が形成する場所に過ぎない」というようなことになるでしょうか。場所が解体するとき精神も解体するのでしょうか。「私」意識の現象する場所なら、それはそれでよいとしても、その意識自体は何であり、何に変化するのでしょう。科学的空想的回答をいえば「まだ発見されていない精神を形成する純粋なエネルギー体」ということなのでしょうか。そうなると物質以外に別の精神的主体が存在するということになるのではないでしょうか。宇宙も生命も意識も「光」の生成進化昇華のプロセス(ヘーゲル的世界精神の焼き直しみたいですが)だと考える科学者もいるようですが、どう見ても物質的とはいえない意識を物質エネルギーと同一視できる論理は見つかりません。この世界が存在するということのただ独りの証人「意識者」が消滅するべき存在だという唯物的思想の、なんという非論理、なんという矛盾だ!と言うしかありません。心と物質的エネルギーと同一視するのに違和感を持たないとは、けっきょく唯物論者は自分の存在価値をそれくらいにしか見ていないということでしょう。いわば心のない人です。
心ある科学者にとって科学はもはや実在追求の場ではありません。「包括的に世界を受け入れること、世界を関係性において理解していく」(パラダイム・ブック C+Fコミュニケーションズ 日本実業出版社)と心ある科学者は考えます。D・ボームの言うように、関係性の裏に隠された、見えない動的な内在秩序があるという、ホロムーブメントという考え方はうなずけますが、それは見えない世界なのですから、物質性だとする根拠は何もないのです。それは永遠に実体として認識されることはないもの、すなわち『無』からの出現でしょう。あるいはH・ハーケンのシナジェティックスでいう秩序の自己形成も『無』に根を持つ自然の本性としてあることでしょう。機械論的還元主義は感心しませんが、真の実在を感じ取るには還元的想像力が欠かせないものだと思います。
唯物的科学者から根源的物質と考えられ、期待されているクオークなど素粒子は、いわば『無』から点滅している信号のようなものに過ぎないということになるでしょう。クオークは無から生まれ無へ帰るのです。つまり物質は『無』から生まれるのです。それが量子力学がもたらした結論です。
『意識』もまた『無』から点滅するものです。しかし意識をクオークと同一視することはできません。心は量子的ですが見る対象ではありません。これから先は『無』の登場、科学を超えた形而上学的問題に踏み込むことになるでしょう。結論的にいって量子は結局『無』からの信号に過ぎないし、『意識者』はその受信者であり、その受信主体は『無意識』にあるのです。すなわち、「無こそ実在なのだ」といえるでしょう。