トランスパーソナル意識

  超常現象、超能力、超越的体験に対してどう考えるか?その答えはトランスパーソナル心理学の勉強から始めるのが有効かと思われます。

 普通の人でも人の心が読める、考えていることがわかるということを経験することがあります。表情、しぐさ、環境、来歴など、そして手相人相に現れる生活環境や性格というものがあります。そういうことに特に優れた洞察力を持った人がいます。なぜそのようなことが起こるのでしょう。精神論的世界観の時代においては天賦の力、神に与えられた力でしょう。唯物論的世界観では単なる偶然や欺瞞でしかないでしょう。あるいは様々な心理作用の結果でしょう。あるいは記憶が横滑りを起こしたりした錯覚のようのものということもあり得ます。しかし、心というものを考えるとき、人間というものは無意識のうちに多くの想像力を働かせていものですから、その積み重ねの上に直感が生まれ、霊感があるのではないかとも考えられます。身内や友人の死を夢で知るということも、自分自身では気づかない多くの日常的経験や想像による結果でもあるでしょう
 予知予言、あるいは透視など、日本にもありますが、インドや中国など古い大国にはもっと本格的な、さまざまな超越的経験・存在が今でも語られています。その裏には秘密結社的組織力が働いているのではないかと、疑わしい場合が多いようです。そういう集団に属するものたちが純粋な精神の持ち主を担ぎ上げて、あるいは催眠的手段を使って、宗教的象徴、聖なる存在とすることもあるようです。これは欧米の反キリスト的神秘結社においてもあることでしょう。
 これらの現象の裏にあるのはこの世界を神秘化しようとする人間の奇妙な情熱かもしれません。UFO物語を作り、ネス湖の恐竜伝説を語り継ぎ、ミステリー・サークルを仕立てるなど、変人奇人は数知れません。その他世界には奇妙な情熱を持った大小の秘密結社があります。それはこの世界という牢獄から抜け出すためのゆがんだ情熱から生まれるもののように思われます。面白いことに、いや、恐ろしいことに、というよりこれこそが人間の人間たるゆえんでしょうが、そのほとんどが無意識からだと思われることです。無意識故に、こういう人間、そういう組織の多くが慈善家の顔をし、自分の作為を容易に忘却してしまうように見えるのです。

 平凡な日常を営むわれわれの足下には、実は、土の下にうごめく昆虫やモグラ、植物の根のような闇の組織がうごめいているのです。しかし、彼らはわれわれの日常の無意識の闇を耕し、異化し続けることによってこの世界を活性化させている存在です。それを疑う人は、このインターネット世界のハッカーたちを思い出すといいでしょう。ネット世界を進化させているのは実に彼ら闇の住人なのです。もちろんマフィヤや戦争を作り出す武器商人など犯罪組織もそのひとつでしょう。
 
 テレパスなどというものが本当にあると仮定します。そうすると人間は光や電気信号、音によらず意思疎通ができるわけです。誰でもテレパス能力が生まれつき、潜在的にはあるといいます。つまり超能力を語るときの常套語ですが、もし釈迦にその力があったらすべての人に悟りを開かせているでしょうが、彼にはそんな力はなかったし、むしろそういうことを否定していました。超能力と精神的能力は別なものだということでしょう。
 物質的エネルギーを介さない伝達エネルギーがあるとすると、それを持った人間がいれば世界を支配するのはたやすいでしょう。そういう野心のあるものには超能力は現れないと設定したとして、それはすなわち、そうした知的精神的人格にとって超能力など無意味で、第一そういう能力は魂の自由と独立に反するということでしょう。
 超能力など存在しないとしても何の問題もないのです。そういう現象はすべては量子力学的「偶然≒確率」(これを僕は「永遠」の魂の不可思議な法則と考える)の問題、と簡単に片付けるには気が引けますが、異能者が社会的存在になることはあっても、せいぜい見せ物、現代でいえばテレビの出し物になるくらいのものです。
 動物や植物は種としての魂が通じ合っているかもしれないですが、それでも個々の個体の間においては、物質的エネルギーの伝達なしで通じ合うわけではないと思われます。それができるなら彼らはさえずりもしないし、求愛ダンスも必要ないでしょう。よく植物には心が通じるといいますが、それは愛の心を持つものから放出される身体的エネルギーの波動ようなものがいい影響を与えるからと考えられます。

     『永遠』の『心』

 トランスパーソナル世界を理解するには華厳思想を参照するのがもっとも有意義でしょう。華厳の根底にある思想は「事事無碍法界」といわれるものです。トランスパーソナル意識とは「トランスパーソナル帯域」、すなわち『無意識』問題です。唯識思想でいえば「阿頼耶識」「阿摩羅識」です。気をつけなければいけないのは、この考え方は、けっきょく唯心論的で、心が主体なのですから心の可能性を過大視する傾向があるということです。時間や空間を超えて心の伝達が可能かのように思ってしまうのです。昔の人は雨乞いの祈祷によって天候を左右できると信じていました。現代でも、宗教的祈りで世界平和が可能かのように信じる人もいます。あるいは人はいうでしょう、念力による物体移動や歪曲などができる超能力者がいるではないかと。そういう科学的検証があるということで、一応それを信用しておきましょう。
 しかし、彼らはそこに何ら電磁的力の伝達はなかったと主張しているのですが、正直言って疑わしいことです。観測されなかっただけかもしれないし、計測されない(できない波長の)電磁波の力と考えることもできるのです、何しろ人間も電子・原子でできていて常に電磁波を発生させているのですから。 世界のことは一個の「心」の中のように、何一つ独立して起こっているのではなく、『永遠の心』すなわち『心』の総体的働きの中ですべてが連動しているのですから、その一環としてこういうことが起こると考えることができます。希望や夢をもたらす、『永遠』の、魂の劇、その演出による一コマです。しかし、その場合でも、電磁波の場合と同じように、その力の及ぶ範囲はごく限られているでしょう。「気功」の力で病気を治したりしますが、それが広範囲な影響力を持ったら「世界」というドラマの本質、陰陽、苦楽、喜怒哀楽という筋書きは破綻するでしょう。一個の魂は己の身体に意識を伝え、身体の状態を変えることは多くの例があります。ある程度の、ある種のガンは心の持ちようによって治癒できます。しかしそれは物質を変質させたのではなく自己治癒力を上げたのです。その力もきわめて限られたもので万能とは行きません。釈迦のいうように「怪奇乱神」は信じるに足るものではありません。とはいっても、超常現象や超能力現象も、それが存在すると思わせるのも『心』の仕組みというものです。そういう能力者となる運命を持った人間を仕立てるのも『永遠』の『心』の仕組み・働きです。それ故、『永遠』がこれからどんなドラマを見せるのか、人間がそれをどんなドラマだと思うのか楽しみだともいえます。