道家、儒家、仏家 コメント
道家思想
 道家思想においては「タオ」が「一なるものです。の動的スタイルは「気」です。「「気」とは「霊力」のことだといってもいいでしょう。「気」は万物を生成します。道教思想的には物質も神々も霊も「気」の様態です。「タオ」の体系と「盤古」以来の「神々と霊」の世界が混交して考えられているのです。「タオ」とは始原神「盤古」です。古代中国においては、人間の身体には三万六千もの神々が住んでいると考えられていたようです。人間の身体には「盤古」以来のあらゆる神々が宿っていると考えられていたのでしょう。つまり人間は「小盤古」ともいえます。「万物照応」という神秘思想共通の宇宙観です。しかしヒンズー教の「ブラフマン」と「アートマン」の関係とは違います。「盤古」は「混沌」ともいわれます。つまり無形、無分離の状態です。人間の本性は「盤古」が分離した神霊たちの集合体「自然(すなわち生命と言っていいでしょう)」です。とはいえ、道家にとって「魂」は死後において混沌の無に帰するということなのかもしれません。仏教思想のまねをして輪廻転生をいう宗派もあるようですが、本来は輪廻転生する「魂」ではないようです。
「気」は万物の生成だけではなく万物の中を流れて精気・生気・正気・元気・邪気などを与えてもいると考えられます。「気」には悪い「気」もあるわけですが、自然の流れ、あるいは何らかの人為的原因で「気」の流れが損なわれると邪気となるのでしょう。
 「気」には天の理法が備わっていると考えられ、神々はその「気」の働きを助けるものとも考えられます。神々は「神霊(という)気」ということでしょう。人体には「気」の様々な様態・神々が住んでいるとともに、「気」の流れも通っているのです。そして、人間は「気」を意識的に変化させることができると考えられていますから、精妙神秘な働きをする霊気的存在、「精神」が考えられたのでしょう。
儒家思想
 儒家思想を儒教として国家宗教的に信じ、忠実にその経典(けいてん)を学んでいたのが文人官僚でした。そのために訓詁学の様相が強かったようです。儒教は官僚の学問であり、官僚は独創性に乏しく(あまり独創的では組織で動くものである官僚は務まらないでしょう)、字句の解釈にこだわるものです。しかし、中国社会に大きな変動をもたらした三百年近い唐の時代を経て、宋の時代(九百六十年〜千百二十七年)に大きく変貌したようです。道教化したのです。それまでは「気」という概念はほとんど使われていなかったようですが、「理」と結びつけて「気」が使われ始めました。しかし、道家思想ではほとんど興味をもたれなかった人間の心・精神についての考察も生まれました。
 「法」を重んじる仏教理論に対抗して朱子学陽明学が天の「理」を強調し、「気」を事物を形作り、生命を与えるものとし、万物生成の理論が作りました。そして人間の本性には天から与えられた心的原理「性」があり、「性」のうちにある「理」に人間の本質を見ました。朱子学では「性」の本質は「静」であり「理」であるといわれます。「性」が動くと情になり、激しく動くと欲になるといいます。
 しかし、「性」が動くものである以上、その本質を「静」とする理由がありません。そこで「静」「動」合わせて「性」であり「理」であるとしたのが陽明学といえます。
 「性」とは中国的な「魂」のことであるといっていいでしょう。「天命」によるもの、与えられたものといえます。それが「気」の道教と違う儒教的なところですが、与えられたということは、人間はすべて与えられたものによって成立しているということでしょう。自由意志を持った個的な魂ではないようです。
 朱子学では「性」すなわち「魂」の本性である「理」を把握し「静」を保つのを人の道としたといえます。寂静を目指す仏教に近いといえます。陽明学は「魂」は生まれつき「性すなわち理」によって働いていると見るようです。動的でより道教に近いといえます。もちろん儒教には不老長寿などという考え方はないようで、あくまで倫理的です。
仏家思想
 中国仏教は宋代以降念仏禅となっていったといわれますが、それはとりもなおさず道教かということでしょう。
 「道教」も「儒教」も「仏教」も同一であるとする「三教一致説」が唱えられ、「天」、「タオ」、「仏」は同一視されるようになったのです。インド仏教の持っていた個的魂の「輪廻転生」という考え方は、先祖崇拝(祖霊信仰ではありません)の中国ですから、家族・血族単位において受け入れられたようです。結局中国の宗教思想は道教と言っていいでしょう。
 中国の思想は、道家においても儒家においても、また鬼神の裁きをいう墨家においても、死後の魂にはほとんど興味がないように思われます。「天命思想」のもとにあったからでしょう。人は人としての天命を与えられて存在するということでしょう。様々な意味で人間の一生は「天命」次第ということでしょう。それゆえ、「人間にとって大事なのは、今現在の、この生をいかに生きるか、その心のあり方である」ということになるでしょう。
「空」と「無」は似て非なるものです。「空」は関係性による実相のない物事の生起をいいますが、「無」は意識では捉えられない、無形無量の実在を言います。この実在は物事の実相を内包していると考えられます。

家族や血族単位で縁起する輪廻あるいは転生もありそうです。
 中国人の世界観をひとまとめにして「道教」ということができます。違いは日本における家元の違いのようなものだといえるでしょう。
いわゆる道教
の始まりは後漢末(2世紀末)に起こった宗教教団太平道五斗米道にあるといわれますが、古代王朝時代に源流を持つ呪術、医術、学問などを基盤として、儒教や仏教を取り込んで、道家思想によってまとめられた民間信仰の全体を指しています。民間発ですから、その時々の流行、宗派によって信仰する最上位の神が違ってしまうのでしょう。精神的な面もありますが、それも神仙思想による不老長生を主たる目的としているようです。

道教が描いた天地開闢のスタイルには興味深いものがあります。原子真人{盤古」の「盤」という文字には「大きな器」「大きな岩」「曲がりくねる、とぐろを巻く」などの意味があります。混沌は卵の中身のような状態と言います。
盤古が卵(という生臭いもの、生命的なもの)から生まれたという説がない(消えてしまったのかも)のが道教的といえるかもしれません。いや、あらゆる宗教において、精神主義時代には卵生型神話は消滅したようです。
   
文人・貴族の(公の)信仰対象が儒教といってもいいでしょう。孔孟思想はなぜ儒家と呼ばれたのでしょうか。儒教の儒という字にはコビトとか弱いという意味がありますが、おそらく武家からの蔑称でしょう。儒の起源については葬祭儀礼の専門家だったという説が有力だそうです。伝説的には孔子の祖先は王族であったとか、父親は強い武人であったとかいう説がありますが、本当はは葬祭儀礼を扱う一族に属していたのかもしれません。