汎神論 多神教は汎神論と混同されることがありますが、大衆信仰の対象としての多神教は汎神論とはいえません。多神教とは文字通り多くの神がいるという世界観です。神々の集うアニミズムの世界です。 しかし、多神教世界の一元多神思想になると汎神論と考えられています。そういう意味ではアリストテレスの思想も汎神論といえそうです。唯一絶対神教でも神秘思想となると汎神論といえるでしょう。 そもそも汎神論とは何でしょう。サイトでは「 pantheism (パンセイズム)は、ギリシア語の pan(全て)と theos(神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」で「神は全て」を意味する。」といいますが、キリスト教世界で作られた言葉で、汎神論でいう神とは唯一なる「神」を意味するようです。 汎神論が唯一絶対神教の神学と違うのは、すべては唯一なる神が作ったというのに対して、すべては唯一なる神の現れだと考えるところでしょう。それなら悪も神の一つの姿だという事になります。唯一絶対神教の信者なら、これは絶対に容認できない考え方でしょう。悪を神が作ったとするのなら、それは人間を試すためにだけです。 「汎神論論争」で有名なスピノザの思想はどうでしょうか。彼は「唯一なる神は自然である」と言います。彼の意味するところは、神は自然に内在する実在であり、原因であるということのようです。神は超越的な存在ではないのです。正直いって、非超越的な実在を「神」と呼ぶのには疑問を感じます。神の概念は本来超自然的・支配的なものを意味するのではないでしょうか。それゆえに実体であっても超越者ではない「スピノザの神」は唯物神と言い換えることも可能でしょう。それではなぜ彼は「神」という言葉を使ったのでしょう。それは「神への知的愛」という表現にあるのでしょう。理性は神の自己認識力の現れでもあるのですか。人間は神の自己認識における悦楽に参加するのです。しかし、ここには一個の自由な魂は存在しません。能力あるもの(神の意識・思考力の延長における優秀な部分)は能力あるものとして、能力の無いものは能力のないものとして、神の思考の部分に過ぎないのです。すなわちすべては神の行為なのです。異端であっても、魂に一度きりの人生しかない唯一絶対神思想には違いありません。一元多神思想の、神と個我を同一視する平等性とはかけ離れた、選良意識の産物といえます。 ゲーテの「ファウスト」は明らかにスピノザを下地にしていると思われます。「唯物論の心と魂」(未掲載です)の項で触れますが、アインシュタインが信奉した?のも頷けます。神だけの世界と物質的エネルギーだけの世界の決定的違いは、快楽など「心」の主体・魂の所在です。スペンサーの世界では神の「心」の延長ですが、全体者のいない唯物世界では個的なエネルギー場にあります。 |
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