二大宗派化

 仏教の大衆化に呼応したバラモンのヒンズー化は、宗教改革として早く紀元前2世紀以前に始まり、ヒンズー教の聖典である二大叙事詩、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の成立とともに、拡大速度を早めたようです。
 六派哲学以降、パーシュバタ派とバーカヴァタ(バカヴァッド・ギーターを聖典とする)派を基点として、ヒンズー教はシヴァ系とヴィシュヌ系に二大宗派化していきました。
六派哲学の頃のヒンズー教は、ヴェーダ中心で、バラモン階級の宗教儀式や階級差別を正当化をはかる傾向が強かったようです。しかし仏教より徹底した大衆化によりヒンズー化が進むに従ってヴェーダの影は薄れていって、創造神ブラフマン先住民系の神シヴァアーリア系の神ヴィシュヌへと分身・変身していったのです。

 
 
ヴィシュヌ系

 穏和慈愛の神ヴィシュヌ系で個我は最高神の従僕であるという考え方が強いのようでバカバッド・ギーター「神への信愛」を根本精神にしているようです。バカバッド・ギーターは大叙事詩マハー・バーラタの中の一篇を為すものです。この大叙事詩にちなんで、インド人は自分たちの国をバーラトと呼ぶそうです。ヨーガは心理的行法である古典ヨーガといわれるヨーガ・スートラに則っています。

  
ラーマーヌジャ
 ブラフマンの権威の曖昧な、というより無いというべきシャンカラの不二一元論を批判して、ウパニシャッドの世界観に近づけ、制限不二一元論といわれる説を唱えたのが、11世紀から12世紀にかけて120年生きたといわれる(もちろん宗教的偽説でしょう)ラーマーヌジャです 。彼の説において個我も物質世界と同じブラフマンの様相・身体に過ぎないとされます。キリスト教などの一神教との違いは物質世界を神の様相・身体と考えるところでしょう。スピノザの神と同類です。
 制限不二一元論では不二一元論でいう
「無明」は「無始以来の業」の集積に過ぎないものになり虚妄を作り出す業の発生原因たる資格を剥奪されます。ラーマーヌジャは魂の識別作用のようなものは存在しないと考えているのでしょう。無始以来というのですから「業」はブラフマンの属性であり、虚妄を作り出す原理としての資格を得ました。「業」は仏教でいう「潜在的印象」の勘案に過ぎないような感じです輪廻流転は「業」にまつわられて神への信仰を失っているからだともいいます。ちなみにブラフマンとは次のようなものであると書かれています。
 「最高主宰神には」次のような性質が存する。すなわち、経験主体と経験される事物の内省者たるものとして存在すること、無限の知と、自在力と、威力と、能力と、高貴などもろもろの優越性・無数の善き美徳の集合であること
自己の思惟のはたらきによって現れ出た、自己とは異なる、一切の精神的・非精神的な実体の総括であること、自分で考えて望み、自分にふさわしい唯一相であり、神聖な相を有し、無上の種々なる飾りを備えていることなどである。
 
そして自己と異なる精神的実体であるアートマンについては次のように書かれています。
「思」を本質としているもろもろの個我は、収縮することなく、制限されることのない、無垢なる知よりなり、無始以来の業よりなる無明にまつわられているものであるが、それぞれの業に順応した知の収縮と拡大とがあり、さらに経験される対象である非精神的事物との接触、それに準ずる快感と苦痛という二つの相よりなる経験享受主体であること、聖神の体得、聖神の境地への到達などの本性が存する。

 「思」とは様々な思いに悩む「心」と言うことでしょう。実体を精神的原理(個我と主宰神)と非精神的原理(時間と未開展者)など、仕組みを複雑にしています。非精神的原理にも実体性を認めるなど非常に現実感覚の強い思想だといえます。現実を楽しむ、ブラフマンが遊ぶ、という姿勢が不二一元論よりヒンズー的になっています。そして全知全能のブラフマンの偉大さや信仰の効用が強調されています様々な他宗教の神々を吸収していく、その仕組みはブラフマンに様々な分身を用意してあります。神像になるのが「形象身」、ウパニシャットに現れる英雄ラーマなどになるのが「威力身」「現相身」というのは、ラーマーヌジャの属するヴィシュヌ系の聖者ヴァースデーヴァ、サンカルシャナ、プラヂュナム、ニルッダとなって現れたものということです。アートマンに住む「微細身」が最高ブラフマンであるとされます。そしてアートマンを支配統制する超自我のようなものが「内制身」といわれるものです。また身体的アートマンもいるようです。つまり個我は純粋なアートマンでも純粋なブラフマンでもないようです。外的世界と同じように、ブラフマンもアートマンも雑多で、入り交じって一個の身体に住んでいます。個我を経験享受主体というのですから、経験享受アートマンということで、結局これが思であり人間であるということでしょう。解脱は最高のブラフマンが、「現相身」である聖神を崇拝信仰する信者を愛して、「不壊なる歓喜、もはやこの迷いの世界に還帰することのない、自らの住居を授ける」というわけです。けっきょく、哲学というより宗教団体の教義という感じです。この考え方を使うとあらゆる宗教の神をブラフマンの分身にすることが可能になりますそのようにして仏教を吸収するに至った、じつに典型的なヒンズー教義だといえます。
 ただ、強烈な宗教臭を除くとき、この制限不二一元的世界観には特筆すべきところがあります。それはそれまでの絶対的精神原理としてのブラフマンからの一方的創造、あるいは展開であった
「世界」を、ブラフマン(すなわち永遠者)の身体・肉体と見なした(原始的な巨大原人説の尾を引いている)ところです。それは生命論的世界観という印象を受けます。そしてブラフマン・アートマン(すなわち『心を本質とする魂』)の多次元・多様性を表現したことです。
 
不二一元論はインド哲学の主流ヴェーダンタ学派の中心思想ですが、ヒンズー教全体の姿を良く表現しているのは制限不二一元論だといえます。それはその本質において生命論的な印象を受けます。

  
マドヴァ
 12世紀に現れたマドヴァという人の思想は多元的実在論といわれます。個我は原子の大きさを持つものである、聖典ヴェーダは人が作ったものではないし、他の何かによって証明される必要のないものである、現象界は多元的であるということなどラーマーヌジャの考え方と共通する点が多いといいます。違いは「実在者は独立なものと非独立なもの、との区別ががある」という考えです。彼によれば最高神も個我も物質世界もすべて実在であり永遠であるが、それぞれまったく別なものであるという、これがラーマーヌジャの一元論と違う多元論なのです。聖典にある「ブラフマンを知るものはブラフマンとなる」という言葉は誇張に過ぎないというわけです。こういう多元論的考え方をする人は一般的には非常に多いと思います。彼が変わっているのは魂を三種類に分けて、必ず解脱可能のもの、永遠に流転輪廻のもの、地獄行きに決まっているものとしたということです。恐るべき差別主義者のようです。つまり悪や愚鈍に対する憎悪に素直な庶民的な思想といえるでしょう。 

 主宰神と最高神あるいは最高主宰神という言葉の使いかたが気になるところですが、おそらくブラフマンが多くの神に変身したり分身するということから来るのでしょう。アートマンと個我の使い分けは個我のほうが世界内存在としての霊魂なのでしょう。

 このようにヴィシュヌ教はヴィシュヌ(穏和と慈愛の太陽神)へのバクティ(信愛)を説くのですが、苦行や道徳の説法より、社会的地位に従った世俗の義務を重要視して、上流階級に受け入れられやすいもののようです。恵まれた人々が愛するにふさわし平和の神です。有名なガンジーやタゴールものこの派の人ということです。彼らの愛した、「マハーバーラタ」の宗教的哲学詩「バカヴァッド・ギーター」は上流階級に知的満足を与えるものだったといえます。
 それに対してシヴァは雷鳴とどろく暴風雨の神です。破壊と再生、恩寵、吉兆の神です。変化をもたらす神です。シヴァの原型はアーリア系の雷神ルドラと原住民のリンガ(男性器)崇拝だと考えられます。この派の信徒が下層階級に多いというのも頷けます。超能力志向であり、セックスを通じて「永遠」と一体となるというタントリズムも盛んで、まもなくシヴァ神像は男性のシンボルに置き換えられていったということです。ヴィシュヌ教を仏教の顕教とすれば、こちらは密教です。

  
シヴァ系 

 
破壊再生の神シバ系は(特に南方では)個我を最高神の家畜と見なす傾向にあるようです。なぜ個我を従僕と認めないのか、その理由は従僕という言葉で言い表される依存性は苦しみの元であり、苦しみの終滅など、人々の希求しているもののよりどころではない」からです。ここにヴィシュヌ派との根本的な違いがあります。シヴァ派の考えでは「個我は最高神の支配するこの世界という囲い・獣舎に閉じこめられ、意のままに扱われる家畜のようなもの」なのでしょう。だから個我の本質は従僕のように主の恩恵にすがる奴隷的依存性ではなく、自分の意に反してとらわれている獣の、自由への飽くなき渇望であるということでしょう。目的は現世における自由、ですからシヴァを主宰神とする宗派は個性的で、たくさんあるようです。本質的には最高神のかちなどを認めていないのではないでしょうか。ヒンズー教の修道方はヨーガと言われます。古典ヨーガ系はヴィシュヌはでも行われるようですが、シヴァ派の代表的ヨーガは現在世界的に流行している肉体的・生理的(生命的)行法の元となるハタ・ヨーガです。

  
パーシュバタ派(獣主派)

 ナクリーシャという人は個我(霊魂)は主宰神の家畜だといった最初の人でしょう。主宰神は世界原因だが、何ものにも依存しない独立した自由な存在であり、知識によっても体験によっても認識することはできないものであり、自由、解脱は霊魂が神のそばに行くことであるといいます。そして家畜の苦しみから解放され自由になるためには、世間という呪縛、他人の目や評判は一切無視して、体中に灰を塗って、奇声を発したり笑ったり踊ったりすることだと考えます。現代ではそういうパフォーマンスをする人たちは芸術家です。ギリシャ時代にもソクラテスの弟子アンチステネスを創始者とする犬儒派というのがあって、同じように奇声を発し踊り狂い、乞食同然の暮らし方を生きがいとする、路上生活者のような思想家がたちがいました。彼らの言い分は「神、真理以外の何者にも依存しない」ということでしょう。行動は奇矯ですがきわめて精神論的です。

  
シヴァ教(シヴァ聖典派)
 南方のシヴァ派にはシヴァ教を名乗るものが多いということです。その代表的な思想なのでしょう。この派は獣主派の主宰神定義はすべての個我に対して不公平で無慈悲だと批判し、「最高神は各個我の業などを顧慮して果報を授けるのであり、それが世界原因である」と主張します。しかし実在には「主と家畜(生きもの)と束縛(世界)がある」と三つの実在原理を考えます。束縛(世界)は覆障(個我の働き、行動を覆う不浄な汚れ)、(善行と悪行よりなる無始の)マーヤー(世界を開展、帰滅する力)、そして(シヴァから来る個我の可能力)という四種類の力からできているといいます。サーンキャ哲学的ですが個我はシヴァの神性はあるが、主宰神に従属するから(世界原因となるような)自主性はないといっていますから、不二一元論的神我一序とは違います。知識を学び儀礼を重んじ、ヨーガやマントラ(歌、踊り、呪文などに励んだようです。

 再認識派
 カシミール地方に現れたこの派
は、シヴァ派の「業が世界を作る(一つの)原因」とする考え方に反対し、
「この世界は最高主宰神の欲望によって作られた」と主張します。この派はアートマンと主宰神は同一であると考える不二一元論的な考え可たですが、特徴はアートマンの存在証明はは第一に「われ有り」という自覚にあるといいます。そしてアートマンは最高主宰神の目のようなものでり、従僕のようなものでもあるといっています。師の言葉に接し、神像に直面し、崇拝礼拝することによって、自己をシヴァ神として想起、再認識するのが解脱であるといいます。

 
水銀派
 
「生きているものだけが解脱しうる」のだから、生き身で解脱するために肉体強壮が必要だとして、シヴァ神から流れ出たという水銀の魔力による不老不死を狙う一派です。こうした大衆願望の実践者、魔術性もシヴァ派の特徴でしょう。解脱より現世快楽のための超能力、神通力を求めるのです。

 その他タントラ系
  シヴァの妃シャクティをを祀るシャークタ派はタントラ(シヴァとシャクティの性的合一による宇宙創生)を聖典とします。ハタ・ヨーガはこの派と関係が深いといわれるゴーラクナート派によるものといわれます。

   近代から現代そして未来

 さて、中世ヒンズー教史のあらましはこのようなものですが、その最盛期は12、3世紀頃、イスラムが北インドを支配した頃でしょう。現代先進国でもてはやされているヨーガシヴァ系のハタ・ヨーガですが、その頃完成した形で成立したものです。それは行き詰まり沈滞腐敗した社会からの脱出意思の現れでもあるかもしれません。インドの思想史を概括するとき、原始から古代、中世までの波は、原始的生命主義から古代創造神の時代、中世の精神的原理主義の時代を経て、また古代的創造神の復権から、原始的生命力賛歌の時代へと回帰した感がなきにしもあらずです。とはいえ表面的な印象とは違ってそこには確実な進歩があるはずです。それはイスラム教やキリスト教の影響を受けた平等主義の台頭でしょう。
 19世紀には知識人による平等化、民主化へ向けて様々な宗教改革運動がありました。中でもラーマクリシュナヴィヴェーカナンダ「万教同根」を主張し、とキリスト教的「博愛精神」をヴェーダの根本精神と主張して欧米にヒンズー教を知らしめ、名声を博したということです。現在、知的ヒンズー教徒はキリスト教の教義を吸収して新しい宗派を作る傾向があるようです。
   より詳しいラーマクリシュナについて    ヴィヴェーカナンダ
 
 20世紀にはいる先進諸国でもとヨーガによる超越精神を目指す動きが活発になってきました。特に第二次大戦後、科学的唯物精神の拡大とともに、ハタヨーガの持つ心身統一力や、能力開発力が注目されるようになってきました。
 
21世紀に入り、密教的超常世界への情熱はますます盛んになる傾向が見えています。それは先進諸国において、科学的唯物世界と自由資本主義が行き詰まりを見せ始め、閉塞感が高まってきたからでしょう。いまや世界の経済の担い手はインドと中国になっていますが、その結果は大規模な環境破壊とエネルギー枯渇に結びついています。人類の勢力拡大の終焉は時間の問題です。必然的に、否応なく人類は内面に向かわなければならなくなるでしょう。心の時代が来るのです。今はその入り口に立ったところですが、インドの魂の思想はその時代、ニュー・エイジに向けて重要な役割を果たしつつあるといえるでしょう。
 しかし、このニュー・エイジ運動の世界観は中世までの世界観の継続であり、呪術、オカルトなど、霊的世界観から唯神論、唯物論的世界観まで百家争鳴の状態です。この状態を包括する見方はヒンズー的万教同根的に唯神論的立場から行われているようですが、唯物論的世界観や、唯心論的世界観まで包括し切れているとはいえません。唯物論的立場から知の統合の試みも行われていますが、何かに欠けているようです。仏教の登場以来インドの心を支配していたのは唯心論ではないでしょうか。本当は、洋の東西を訪わず、人類の問題(宗教、哲学、思想、文学、芸術など非科学的問題)とはそのにあるのではないでしょうか。 ヒンズー教も、その基盤がシャンカラの不二一元論であるように、仏教的唯心論の延長に位置づけることができるでしょう。サーンキャ哲学は確かに真我を立てているように見えますが、よく見てみれば、本質は自性(明らかに心の働きことです)にあります。「心」の問題があるから「私」も問題になるのです。心がなければ我も問題にはなりません。新しい「唯心論的思考」こそ今まさに必要とされているのではないでしょうか。それはヒンズー教の根底にある生命論的世界観ではないでしょうか。
 ともあれインド人にとっても人類にとっても、「永遠」と「個別」、全体と個の関係を生命的・有機的に包括つする理解、それがこれからの問題でしょう。

 近代までの世界観、イデア教にしてもキリスト教にしても仏教にしても、超越的神秘的力の存在を歌い、そこに近づこうとする魂の運行・運動だった思いえます。その終わりを告げたのはヒューマニズムの成立だといえると思います。ヒューマニズムとは神などの超越的存在の力を否定するもので、そこから必然的に、人間的実存と思想を一致させようということになるのです。近代言文一致運動もそこから起こったのでしょう。近代西洋哲学は宗教的思想を現実に近づけようとする努力から始まったといえるかもしれません。近現代哲学が、実存主義的に宗教思想家を厳しく批判し、宗教思想を完全に否定しようとしたのは、その運動の力の行くへとして当然のことだったのでしょう。しかし、否定の後には肯定が来る、それも魂の運動でしょう。その肯定、パラダイムの変換がどのような様相を呈するか、きわめて興味深いことです。