儒教     日本的霊魂思想のまとめ
 日本における儒教はの伝来の時期は仏教と同じ頃のようですが、公家や僧侶の教養学問として始められたようです。しかし「禅譲放伐」という帝王、君主の徳を問う易姓の革命的思想性は、日本的祖霊信仰としては受容できなかったようです。なぜなら中国の皇帝は天帝によって選ばれたものですが、天皇は天帝の直系子孫なのですから。また日本人は元来人間の精神性道徳性を問うということをしないようです。過ちは憑きものによるものという考え方からでしょう。それ故に日本人には罪の意識はほとんどなく恥の意識が強いのです。道徳そのものよりも人間関係におけるあり方に興味があったといえるでしょう。それ故に孝行という個人的道徳よりも忠という社会的徳の方が重んじられたのでしょう。社会的秩序が大事なのです。仏教者が儒教を学ぶ姿勢もそこにあったでしょう。
 武家政治の時代になってからは特に臨済宗の僧侶による研究が大きかったようです。武家政治の時代になってからは特に臨済宗の僧侶による研究が大きかったようです。座禅を悟りの道とする曹洞宗は人間の個的・内的なあり方に重きを置きますが、臨済宗は師匠と弟子のやりとりによる悟りの伝達、すなわち他者との関わりに重きを置くようです。戦国時代には荒廃した都を逃れた公家や僧侶によって儒教は諸国に広がったようです。
 徳川幕府になって封建支配の文治思想として朱子学派の林羅山が採用され、儒学として独立した学者が現れました。社会体制的な朱子学に対して個人主義的で時に反体制的な陽明学も盛んになったようです。
 朱子学から尊皇倒幕思想の走りとなる垂加神道の山崎闇斎が現れました。闇斎の思想は神道を朱子学的に解釈し直して儒家神道といわれます。陽明学派から出た中江藤樹は近江聖人といわれました。市井に住んで民に親しみ、人間の心のあり方を説いたようです。しかし儒教が日本人の思想として意味を持ち始めたのは江戸中期、山鹿素行を走りとする古学の登場からでしょう。志知

 日本的仏教の特徴は現実重視ということ、現実世界は仏法の現れということですが、むしろ仏法が仏法として意味があるのは現実あってこそだといえるでしょう。こうした精神は日本的儒学にも共通だったようで、朱子学や陽明学を唱えるものでも、人間の本性を天理に求める中国流の理気二元論に対して唯気論であると中村元はいっています。「格物致知」ということばが儒教にありますが、古義学伊東仁齊(1627〜1705)「活物死物」を唱えます。「天地の間は生の一理によって成り立っている。動はあっても静はなく、善はあっても悪はない。なぜなら静とは動の停止であり、悪とは善の変化であり、善とは生と同類であり、悪とは死の同類であり、これら両方が同時に並び立って生まれのではなく、すべて『生』より生まれるものだからである。」といいます。古文辞学荻生徂徠(おぎゅうそらい 1666〜1728)は「天地も活物、人も活物」といいました。これらの表現は唯気論というよりはむしろ生気論というべきかという気がします。(この項ももっぱら中村元選集「日本人の思惟方法」を参照しています。)

 祖霊信仰の日本人には物事の裏にある見えない力、真理を求めるという考え方はありませんでした。「物事」と霊的な「ものこと」は表裏一体なのです。これは唯気論というよりはむしろ唯生気論というべきかと思われます。あるいは生命論的世界観の萌芽といえるかもしれません。しかし彼らは「生命」のなんたるかは知りません。あくまで霊的な「イノチ」の「生」なのです。日本的祖霊信仰において死は生の変化の一現象に過ぎません。あの世とこの世の間の分岐点に過ぎません。すべては「祖霊」の「イノチ」の現象なのです。
垂加神道とは伊勢神道と吉田神道を儒教の理論で総合したものといわれますが、儒教(朱子学は老荘思想の影響を強く受けている)と神道の統合ではなく、それぞれ別の「道」の現れと捉えて、神道の独自性を解明しようとしたと考えられているようです。(世界大百科事典・平凡社参照)

忠臣蔵の大石内蔵助の師として有名な山鹿素行も尊皇思想の持ち主であったようです。
古学は理念的なものを排除するための手段としての復古主義といえるでしょう。鎖国封建体制による太平と抑圧が復古的な学姿勢を呼んだのでしょう。


 日本的霊魂観のまとめ

 親鸞は、如来の回向を法然を通して伝えられたといいます。道元も如浄から法を受けついたといっています。日蓮においても、法力は菩薩の生まれ変わりである人としての日蓮に現れるのです。すなわち日本的仏教思想家にとって覚りとは、天啓を受けて起こるのではなく、人から人へ伝えられるものであり、生活の中にあるものなのです。
 インド人は仏になろうとします。中国人は仏の力を得ようとします。しかし即身成仏は「同行二人」、仏と共に生きる道なのです。悩み苦しむ汚れそのままで成仏という穢れ無き身にもなるのです。仏の国は現実生活と裏表の、すぐ側にあるのです。むしろ現実の中にこそ仏国土もあるのです。それが祖霊信仰の特徴といえるでしょう。
 日本的思想家においては、中国におけるような天道や仏法・天理を獲得し、活用するというような姿勢はありません。仏法・天理を体得し、それを振りかざすより、その現れである現実社会の活動を重視するのが日本的精神といえます。仏法・天理を体得し、生かすのが人間ではなく、仏法に生きているのが人間なのです。むしろ仏法に生かされているのが人間であると、そのように悟ることを覚りというのが日本的思想といえるでしょう。いかに生きるのではなく、そのように生かされていることを自覚し、ありのままの日常を生きるのが人間だということです。
 自らを神の創造物と考える欧米世界では創造ということを大切にしますが、日本人にはもともと創造などという観念はないのです。彫刻家なら、彫刻とは素材を生かすこと、素材の魂を生かすこと、素材が自らを現すのを待つことというでしょう。それは自分の魂を現すことでもあるのです。ここには魂に自由意思があるかないかという問題はありません。魂の生まれ変わりがあるかないかも問題ではありません。それがあろうが無かろうが、いってみれば、すべては縁なのです。仏教でいう縁起の縁ではなく、人と人とをつなぐ縁なのです。霊力も人から人へと縁によって伝えられるものなのです。霊的な「もの・こと」と現実の物事が表裏一体というアニミズム的な感覚が生きているのです。その霊威を特定の人から人へと伝えられるものと考えるようになったのはシャーマンの力が強くなった弥生時代からでしょう。それが今日までの日本的ということです。江戸時代の大名家のように、血のつながりよりも家名、おイエの存続を大事にする、すなわち家をイエという霊威のつながりと同一視するのが日本的祖霊信仰だったといえるでしょう。それが天孫天皇制千五百年であるし、仏教の本山末寺組織、芸能の家元制度という系列化につながっているのでしょう。島国の故に外敵に破壊されることなくつながってきた、祖霊信仰の血脈ということを感じざるを得ません。
 日本の山岳信仰は山を神の身体と見なしました。また、物事と霊的な「もの・こと」を表裏一体のものと見なしました。この思想を突き詰めれば当然、宇宙は究極的な神霊の身体、森羅万象はその息吹のようなものになります。道元は「詠法華教」と題して「渓の響き 峰に鳴猿絶え絶えに ただこの経を説くとこそきけ この経の心を得れば世の中の 売り買う声も法を説くかに 峰の色渓の響きもみなながら我が釈迦牟尼の声と姿と」と詠いました。彼にとって釈迦牟尼仏とは究極的な祖霊、『祖霊』といえるでしょう。
 森羅万象を究極的な祖霊神の身体と見なすことは、すなわち、記紀のいう「天地の発(ひら)ける」まえの混沌状態こそ『祖霊』の本質といえるでしょう。けっきょく『森羅万象』は『祖霊』の生命現象なのです。神道では死者は神となり、男なら命(みこと)、女性なら刀自命(とじのみこと)あるいは姫命(ひめのみこと)と呼ばれます。霊に命という文字を当てはめたところに日本人の霊魂観があるのです。『祖霊』とはすべての生命の源(『命(イノチ)』と呼ぶことにします)に他なりません。そして個々の『霊』とは祖霊の分霊であり、、『命(イノチ)』の分枝に他ならないといえるでしょう。
 祖霊が多くの顔を持ち、分身を持つように、祖霊への道もたくさんあります。日本人にとって「道」とは天が与える道ではなく『祖霊』への道なのです。祖霊と一体化する道なのです。道の違いは方法論の違いにすぎません。仏道を行いながら神道を行ってもいいのです。日本人はあらゆることにこの道をみます。武道や芸道においても、究極的には祖霊を目指したといえるでしょう。
 日本的祖霊信仰的世界観において、すべては『イノチ』が連関し浸透し合っている全体なのです。これが日本的思想の在り方だったと言っていいでしょう。

江戸時代に神道が盛んなったのは、檀家制度で思想性を封じ込められた仏教の葬式屋化も一因でしょう。
死と隣り合わせの戦国時代が終わって、人々は生の方向に目を向けるようになったことでしょう。そこに生の儀式を行う神道が存在したのです。

倒幕の理念にして靖国神社の元になった平田神道はキリスト教的世界観を加味した思想で、日本的祖霊信仰といささか乖離したもの、カルト教といってもいいでしょう。それが日本人に戦争の悲劇をもたらしたと言っていいでしょう。


 日本的祖霊信仰的世界観において、すべては『イノチ』が連関し浸透し合っている全体なのです。これが日本的思想の在り方だったと言っていいでしょう。それを現代のパラダイム思想へと発展させれば、有機生命的世界観・有機システム論的生命体思想になるでしょう。しかし、未だ記紀による祖霊の系統に呪縛されているようでは未来はないといえます。