密教 | コメント | |
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密教を仏教の一つと考えるかどうか、仏教界でも否定派が少なくないようです。真言宗では、大乗でも小乗でもなく真言乗と言うようです。 仏教的密教のインドでの実体はよく分からないようです。最後にはヒンズー密教とほとんど同じになり消滅したようです。中国でも唐の時代に一時繁栄してすぐ衰退してしまったようです。おそらく道教との競合に負けたのでしょう。宗教が原始的で未発達であったチベットや日本において大きな成果を上げたと言っていいかもしれません。 インド仏教の消滅を前に成立した密教経典、両部経典のうち特に金剛頂経では『如来』がブラフマン化しているようです。「如」は大日如来そのものであり、世界はすべて大日如来の意志によって展開されるもののようです。特徴はバラモン教由来のマントラ(真言)を重要視するところでしょうか。 日本密教、真言宗における真言とは、言葉は仏の象徴、言葉によって仏と一体化するという思想、いわば古代における言霊信仰との同一化とも言えるような気がします。それによって急速に日本の民衆に受け入れられたようです。それが民衆の魂に合っていたということでしょう。大衆化というより民衆化といえるでしょう。大衆というとまだ知的要素が感じられますが、民衆というと盲目的な情念、行動を感じさせます。 密教のもう一つの経典大日経(だいにちきょう、大毘盧遮那仏神変加持経)は「菩提(目覚めることというのが原義)とは如実知自心のことである」といいますが、「自心」とは何でしょう。「いわゆる阿耨多羅三藐三菩提・涅槃という悟りの境地は、諸法と同じように虚空の相であり、無相であるから頭で理解することはもちろん、心で覚ることもできないもの」と言っているようですが、要するに涅槃の境地というものを否定しているのでしょう。おそらく涅槃の境地を求めるのが菩提心ではなく、現実のありのまま自分の心(すなわち自心)を知るのが菩提だと言っているのでしょう。煩悩即菩提ということでしょうか。そのように自身を見つめるのが大日如来であると知ることこそ菩提だというのでしょう。それによって如来と(一体化ではなく)接することができ、力を与えられるということのようです。それは密教の修行とか儀式とかによってのみ体験できるということなのでしょう。いわばシャーマニズムへの退行です。大日如来(ブラフマン)と人間を同一(アートマン)視しないところはヒンズー教顕教のラーマヌジャの制限不二一元論派に似ています。 「心の段階」に関して弘法大師空海に「十住心論」があります。各段階の説明を読むと、空海の考える順位はともかく、仏教のものの考え方がよく分かるという気がします。無宗教の俗世間の衆生の段階から始まっています。三段階までは俗世の経験や教育によって自然に到達するとしているようです。ヒンズー教や道教などを信じるのもこの段階としています。四段階からは仏縁による出家後のことで、修行によるものと思われます。第五段階に小乗仏教が当てられています。第六から第九が大乗仏教です。空海は大乗の修行で仏になるには「三阿僧祇劫という長い年月(無数の生まれ変わりにおける菩薩行ということでしょう)」が必要だと考えていたようです。「ならない」のではなく「なれない」というのが空海の大乗に対する考え方だったのでしょう。第十段階が「如来(の働き)」と一体の境地、仏の境地です。真言乗に乗れば速やかに仏になれる(即身成仏)といいます。それにふさわしい機根(信仰心と能力)があればのことのようですが、生身のままで仏になれるということでしょう。 |
機根の意味は「縁に合えば発動する可能性」(仏教学辞典・法蔵館より)ですが、「仏性」は万人共通にあるとしても機根のあり方は千差万別なのです。過去生における業・因縁の違いによるものでしょう。しかしこの考え方では、どんな魂も縁がなければ仏性は発動しないままに終わってしまうこともありそうです。「縁起」に依拠する仏教思想の欠陥といえるでしょう。 「秘密曼荼羅十住心論」に関するサイトはかなり多いようです。それぞれ解釈(身びいき、あるいは現代的な解釈が入っているかもしれませんが)に違いがありますが、空海の思想については「エンサイクロメディア空海」というサイトがかなり詳しいようです。 |
インドから中国へ 仏教者に仏教とは何であるかと問われるとき、基本的には仏教は「三法印」と答えるようです。「仏教学辞典」(宝蔵観)によると、最古層の経典、雑阿含経には「(仏教は)諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三を説く」とあるのがそれです。しかし、これは小乗仏教の考え方といわれるようです。 インドの大乗思想は般若心経にあるように「空の思想」によって「諸法空相」といいます。世界をいわば空間的関係でとらえる考え方で、これは「如来」から見た世界像だといわれます。すなわち般若心経を語った人、そして「空の思想」を龍寿に伝えたのは「如来」だということでしょう。また、「如来」のみが実体であり、この世界は実体ではないといいます。「如来」だけが真に存在するということでしょう。この「如来」は無知な大衆に対しては、方便上、釈迦という存在であり、仏像や仏画に表現される存在ですが、悟りを開いたものにとっては「仏性」と同じように形のない心性、「如来性」でしょう。無常も無我も涅槃も否定するわけではありませんが、それは関係性の中で生じるだけのもの、「空」であり、重要なことではないということでしょう。しかし、「唯識思想」においてはあらゆる心性に対して根源的実在を認めているようです。「空の思想」は「如来心」から見た世界と言われるのに対して、「唯識思想」は人間(仏教者は凡夫という)から見た世界と言われるようですが、この思想は凡愚大衆には無縁ですから、さしづめ「理性心」から見た世界ということで理解できるでしょう。 以上がインドにおける仏教です。 中国仏教では「諸法実相」ということになります。「法華経玄義」では「諸法実相」というのが仏教であるというそうです。「現実すべてがそのまま真実の姿」ということでしょうか。実体ではないが実相であるということ、つまり、真実がどんなものであってもすべて現実に現れているのであるから、生きる現実において真実在の力を得ようという考え方でしょう。原典では現実態として様々な現れ方をする如来(現象の背後にある真実在)を「諸法実相」の一言で片付けたといえるかもしれません。それによって諸法の実相が諸法は実相であると、意味を転じてしまった感があるのです。インド原典の空想的な如来重視から諸法(つまり現実)重視に転じた感があります。言語は違っていても、けっきょく中国仏教は道教的に理解するほうが良さそうです。 ところで中国人はなぜ「ありのままの真理」に「如」という文字を当てたのでしょう。如の語源は「神に祈って従順になる」であり、それが「真実に従う」から「真実のごとし」、そして「似ている、同じ、等しい」という意味に転じたと考えられているようです。そして『如』とは『常の如し(すなわちありのままであり続けるもの)』という意味だと言います。しかし如という文字にはもっと深い意味があるような気がしてなりません。 |